2000年12月2日更新
11月29日(出席者数不明)
以下は11月29日に西村、矢嶋先生、石川先生(以上、講義担当順。司会は山田先生)が担当したシンポジウムで西村へ寄せられた質問とそれに対するお答えです。授業中にお答えしたものを含めて、改めてできるだけお答えします。これ以上の質問については適当な折に当方に尋ねてください。順序はある程度整理しました。
明らかな誤字については訂正しましたが、言葉遣いを含めて、できるだけできるだけ忠実に皆さんの記述を再現するように努めました。なお、技術的な理由で完全には再現できない場合があります。
質問文中の[ ]は西村の補足です。
以上、ご了承ください。
まだ少し、科学とキリスト教のつながりがわかりません。キリスト教とも深いつながりがあって、成り立っているということは、具体的にはどういうことなのか。
キリスト教は、科学に何をしてアクセルとブレーキの役割をはたしたのですか。
どうしてキリスト教が、そんな役割をはたしたのですか。もしキリスト教がなかったら、どうなっていたのだろう。「科学者かいがく」とはどういう文字ですか。 [「科学社会学」です。]
「科学はキリスト教が深く関わっている」とおっしゃっていましたが、ではキリスト教がもしもなかったら科学は発展しなかったのでしょうか? それとも、遅かれ早かれ現在のような展開になるのでしょうか。アラビア文化圏は何故発展しなかったのか、その理由を知りたい。
また、その文化は完全に姿を消してしまったのか、それとも何らかの形(他の文化圏に影響を与える等)で残ったのか知りたい。現代の、それも日本に生きている皆さんなら、科学と宗教の関係について訊ねられると「科学と宗教は無関係」だとか、進化論の議論を受けて「科学と宗教は対立する」などとお答えになると思います。しかし、科学と宗教(特にキリスト教)の関係はそのような表面的なものではありません。すみませんが説明には時間がかかりますので、ぜひ来年度、当方の「科学史1・2」、「科学思想史」を受講してください。
キリスト教がなかったら科学はどうなっていたのでしょうか。専門家の間、あるいは特に科学者とそれ以外の人(科学史、科学哲学、科学社会学、哲学)で意見が別れると思いますが、実際の歴史を見ていると、個人的には「このようには発展しなかった」と思います。
キリスト教文化圏と比較した場合、アラビア文化圏、中国、そして日本などでは、科学的な営為を進める動機に形而上学的な要素が弱いと考えています。すなわちキリスト教の「神がこの世界を無から創造した。だからこの世界には神の考え(「神の意志」)が隠されているはずだ。特別な被造物(「神の似姿」)である人間は、完全ではないにせよその秘密を解き明かすことができる。そしてそれは神を賛美することになる。」という発想は、同じセムに属するイスラム教では弱いと思います。またインド−ヨーロッパの系統に属する他の文化圏ではさらに弱くなります。
なお、アラビア文化圏は東方の思想の影響もあり、ギリシア・ローマには見られない実践的な学問の重視(「実験」に近い発想)という特徴があります。この発想は中世西ヨーロッパに大きな影響を与えます。
アラビア文化は、もちろん力強く残っています。ただし、中世以降は宗教的要素が強くなっていると思います。同じセムの系統でも、イスラム教はキリスト教よりも「若い」のでとても勢いがあり、宗教を前面に出しながら勢力を拡大しています。
先ほど西村先生の車の例を挙げて現在は過[去]にあったキリスト教などの宗教のようにブレーキになるものがないという話がありましたが、この先、新しくブレーキになりえるようなものが出てくるということは考えられないでしょうか? もし、あるとすればそれはどんなところからでてくるのでしょうか?
車の例は大変わかりやすかったです。先生はさきほどブレーキがないといいましたけと。そのブレーキにあたるものは何ですか? また今までブレーキになっていたのは何ですか?
これまでは宗教が「ブレーキ」の役目を果たすことが多かったと思います。
これからの見通しについては、日本に限定してお答えします。たぶん、これまでのような既存の基準は弱まり、「ブレーキ」を自分自身で見つける時代に入ると思います。このように書くとネガティブに感じられるかもしれませんが、必ずしもそうでなく、新しい自分自身を発見し、作りやすい時代ともいえますから。
ビザンツ帝国はなぜほろびたのですか?
人間がしてはいけないこととはどういうことか?
環境問題に対する人間の考えのなさ。どうしたらよいのだろう?最初の問にのみお答えします。1453年、オスマン−トルコの攻撃を受けて滅亡したのです。ビザンツ(東ローマ)帝国は中世の西ヨーロッパにとってイスラム勢力やトルコからの防波堤の役目を果たしていました。しかし最後の100年くらいは国力も落ち、多くの学者が貴重な本[=学問]を携えて北イタリアに渡ってきていたのです。これが16〜17世紀の近代科学の成立(「科学革命」)の直接のきっかけとなります。
キリスト教のブレーキとなるものは、やっぱり理性だと思う。でも、人間の理性を失わせるのも宗教ではないだろうか。宗教とはあくまでも心を安定させる一つの方法でしかなく、ドップリとつかってしまっては、本当の宗教の意味からそれてしまうのではないだろうか。
なぜキリスト教だけがこんなにさかえたのだろうか。世界中にはイスラム教や仏教もあるはずなのにキリスト教だけがここまで注目される理由はなぜか。宗教をどのように考えるかは人によって(=地域や時代によって)大きく異なりますから、現在の私たちの「常識」をそのまま当てはめることはとても危険です。本を読んだり他人の話を聞いたりして、違う時代、違う地域の人の考えを聞いてみましょう。
当方の説明は「科学を発展させたものは何か」という視点でお話ししたので、どうしても(1)キリスト教の発想を根底に持つ西ヨーロッパ中心、および(2)近・現代中心のお話になってしまいます。
しかし、上の方でもお答えしたのですが、宗教だけを考えた場合、現在イスラム教が勢力を拡大しつつあり、キリスト教はむしろ勢力を縮小させていると思います。
西村先生の授業は、本当に楽しい。(こんなに親しみやすい先生はいないと思う。)キリスト教の中で育った学問というのは、科学だけではないと思う。科学以外に成長した学問のことも知りたいと思う。「哲学」とは、一体何のことを哲学というのですか? "哲"というのは何を表しているのですか?
ありがとうございます。
「哲学」というのはphilosophy(原語はギリシア語)という言葉の翻訳です。もともとは「智恵を愛する」、今風に翻訳すれば「自分で考えて、それに従って行動すること」という意味です。
この言葉が明治初期に日本に入ってきた時、「希哲学」(「希」は「求める」という意味)と適切に翻訳されたのですが、その後「希」の字が落ちてしまい、意味不明な言葉になってしまいました。そのため、皆さんの普通の感覚なら「自分には関係のない、何か難しいことばっかり言って、屁理屈をこねている学問」という印象ではないかと思います。
しかし、良く考えると誰もが「自分で考え、それに従って行動する」わけですから、実はみんなに関係した学問なのです。時間がありませんでしたので、少ししかお話しできませんでしたが、「科学」という言葉も同じような問題を抱えています。科学scienceという言葉は、授業でお話ししましたようにscientia(ラテン語)に由来します。この言葉は直接には「知る/知識」という意味ですが、「〜についての単なる知識」(現在の「科学」が引き継ぐ)という意味の他に、「智恵」(その知識に基づいて行動する)という意味も持っています。
つまり、「哲学」のsophiaという概念とscientiaという概念は、語源こそ異なるもののほぼぴったりと重なる概念なのです。本来の意味に立ち戻るならば、実は「哲学」≒「科学」なのです......今ではとても考えられませんが。そしておまけ。歴史historyという概念も同じような事情を抱えています。historyということばはhistoria(ラテン語)に由来しますが、この言葉は皆さんがイメージするであろう「年表のような歴史」という要素の他に、何と「物語」という意味があります(英語では残っていませんが、フランス語やドイツ語では残っています。辞書で調べてみましょう)。つまり、歴史を見る人の視点が問題になるということ、もっと翻訳して言うと、「歴史を何のために知るの? 知って、それでどうするの?」ということが問題になります。貴方/貴女自身が問われているわけです。
長くなってしまいましたが、「哲学」、「科学」、「歴史」という概念が、高校まで習ってきた−−というより「暗記させられてきた」という方が適切でしょうか−−とても視野の狭いものではないことがお分かりいただけたでしょうか。だから「科学史」という学問は皆さんがイメージするであろうものと、実は全然異なるのです。ホントかどうかは科学史を受講している隣の人に聞いてください。
科学的な考えと哲学的考え、両極が存在しているこの授業はとても興味深く、各回の授業ごとに自己の考えが一変してしまうため、先生たちの影響、そして両極の独特の考え方の大きさをはかり知れる。
基本的な科学の物の見方とはどのようなことなのでしょうか。実はとても難しい問題です。白衣を着た科学者が何やら器具を使って実験したり、難しい数式を前にして議論しているようなイメージがあるかもしれません。一番近いのは高校の理科の先生でしょうか(西村センセイは高校理科の1級免許状を持っています)。
でも、ホントにそうなのかはとても難しく、2年次以上で受講する「科学思想史」では半年(!!)かけてこの問題を考えます。
......というわけで、すみませんが来年まず「科学史1・2」を取ってから「科学思想史」を受講してください。損はさせません。
西村先生が、今の子供たちは何を基準に正しいのかまちがいか判断できずにかわいそうだといったが、たしかにそうだと思った。現代は少年犯罪が激増しているのがいい例だと思った。でも今はモノがあふれている。そうゆう面では今の方がいいと思う。
自分で考えなければいけないのはわかる。しかし、自分で考えて、[西鉄バス乗っ取り・殺人事件のように]手前勝手なルールを決めて、人を殺している少年(少年に限ったことではないが)が増えているとも感じる。
この件に関しては8日のコンパでじっくりお話ししましょう。
21世紀の世界はどうなるか? この質問については科学的、医学的には進歩するだろうが、人間の内面、環境というような意味では落ちていると思う。環境に関しては、ニュース等を見れば一目瞭然だし人間に関しても昔に比べたら質が落ちているような気がする。
この件に関しても8日に。
アイデンティティーの深い意味がしりたい。
(逆に)先生方のアイデンティティを聴いてみたいです。私のアイデンティティは「心の声に従う者」となるかも知れません。
アイデンティティーidentityというのは要するに「私は何者か」ということです。「私は西村秀雄です。」で答えきったと思う人もいれば、少し何か説明し残したように感じる人もいれば、何か不安になる人もいると思います。この件に関しても8日に議論しましょう。
質問ない。
感想 アクセルがこわれても車はこわれないがブレーキがこわれると車は必ずこわれるという例はスバラシイ、完全に自分の心に衝撃を与えた。ありがとうございます。でもこれは矢嶋先生のご指摘です。
西村が担当する授業の様子は、<http://www.page.sannet.ne.jp/h_nishi/>で公開しています。できるだけ、授業当日に更新するように心がけています。