2000年9月6日作成(2002年6月13日および2004年5月3日写真削除)

西村センセイ、旅の途中に長野でいろいろ考える

−−最近のニュース(番外編)−−

9月5日(火)

 すでにお伝えしたように(こちら)会議に出席するため、西村センセイは9月5日に信越線と中央本線を乗り継いで京都へ移動しました。

 その途中、長野で途中下車していろいろ考えさせられたので、今回は番外編を組んでみました。

 西村センセイは柏崎市近くの出身です。新潟県の上越地方や中越地方西部の人間にとって、野尻湖や善光寺、志賀高原など、長野県北部はとても身近な存在です。
 そして長野県北部の人たちにとって、新潟県、特に上越地方は親しい存在です。彼らにとって「海」というのは直江津の海岸を意味します。つまり、双方にとって精神的にも物質的にも昔から深い交流がずっと続いてきたのです。

 センセイも小学生のころは毎年秋になると自家用車でやってきて、りんご狩りや善光寺に参拝しました。高校生になると仲良しグループで夏や冬に志賀高原方面に出かけました。


 数年前、久しぶりに長野市訪れて新築されたばかりのホテルに宿泊しました。大学を高校に紹介する「高校訪問」のためです。その当時、長野オリンピックの開催が迫っていたので、街中が新築・改築ラッシュにわき返っていました。でも、本当は古くて由緒のある、落ちついた街なんだろうな、と思いました。

 で、最初に降り立ったのがJR長野駅(右上の写真)。
 昔は善光寺風の大きな和風建築だったように記憶していますが、長野行き新幹線の開業にあわせてすっかりきれいに生まれ変わっていました。
 駅前もきれいに整備されており、最初、ちょっと戸惑ったほどです。もともとは長野電鉄の駅が旧国鉄駅の脇にあって雑然とした雰囲気だったんですよ。電鉄の駅はもうずいぶん前に地下化されましたが。


 長野といえば「牛に引かれて」の善光寺。というわけで、ちょうどの時間があったので約30年ぶりに参拝してきました(2・3枚目の写真)。
 門前は参拝客や観光客で溢れていました。団体旅行客が大多数でしたが、年輩のカップルもかなり見受けられました。若いカップルや外国人観光客もいましたが、こちらは少なかったです。で、センセイのような存在はまったく浮いているのでした。

 みやげ物屋の案内の看板には「歓迎 佐渡ヶ島と湯田中温泉の旅ご一行様」などというものもありました。大都市から2泊のツアーなのでしょうか。

 今回はセンセイも謙虚にちゃんと参拝しました。何をお願いしたかは、内緒。


 長野駅から善光寺への参拝路はきれいに整備されており、古いお店の佇まいも素敵でしたし、新しいお店も外観にかなり気を使っていました。

 3枚目の写真はそんなお店の一部ですが、手前(左)は和紙のお店、その右隣はガラス細工のお店です。とてもそうは見えないでしょ?
 で、こういったお店のいくつかは「街角美術館」と名乗っていました(お店の看板の脇に緑色の表示がある)。
 街並みをよくよく見ると、この街角美術館の看板をいくつも見つけることができました。


 けれど善光寺から少しでも離れると、状況は一変します。急に人出が少なくなるのです。4枚目の写真は繁華街のものなのですが、平日とはいえお昼になっても僅かの人影しかありません。右手の建物はダイエーなのですが......。

 そしてこの斜向かいには長野そごうがあります(最後の写真、およびこのページ冒頭の写真)。
 新潟県民にはあまりなじみがないためご存じないかもしれませんが、そごうグループの整理によって、多摩・木更津そごうとともに倒産してしまったのです。前回長野を訪れた時はたくさんの人で溢れかえっていたのですが、今ではお店の前を通る人もまばらです。


 実はこれは長野そごう近辺だけの問題ではないのです。
 長野駅構内はともかく市街にとても人が少なく、シャッターを降ろしたまま閉店したお店もかなり見られます。開いているお店も、見えるのは留守番の方と、近所の方ばかり。人がいるのは残念ながら善光寺境内だけなのです。

 長野県は長野オリンピックを開催するにあたり、地元財界に多大な負担を要請しました。オリンピック終了後、長野の経済状況は急激に悪化しましたが、県当局は財政難からなんらの救済策もとろうとしません。
 そのため地元財界の一部には県当局への強い不満があるとされています。秋の知事選挙に県内で暮らしたことのある田中康夫氏を担ぎ出したのはこの勢力だといわれています。ことの真相はともかく、長野市の経済状況は極端に悪くなっていることは間違いありません。

 山麓を走る高速道路から長野オリンピックの建物をいくつも見ることができます。そのかなりの部分が活用されずに負の遺産となっているといわれています。
 オリンピックの開催がそのままいけない、というわけではありませんが、見通しが甘すぎた、と言うしかないでしょう。そして同じようなことはこの国のあちこちで見られるのです。後始末をする人のことも考えずに。

 最後に希望を。それでも、バブルではじけたビルの陰に、昔からの街並みがひっそりと、しかしちゃんと生きています。身の丈にあわせた生き方をする人にとって、バブルは無縁だった、というわけです。この街の良さがこれからも受け継がれますように。

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