2025年9月17日更新
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■9月17日(水) 人々の想いが込められた二つの記念碑 ──西村センセイ、越後広田駅に降り立つ──
「鉄分補給の旅」も最終回。今日は鉄道ネタです。
お伝えしたように今回は柏崎駅を起点にして、まず上り列車で笠島駅へ。周囲をグルッと一周して駅に戻り、やや後ろ髪を引かれつつも今度は下り列車に乗車。乗客の下車はなく乗車も、センセイのみ。
そもそもここ10年くらいの間、利用客を見たのは一昨年、「ぎおん柏崎まつり 海の大花火大会」のために乗車してきた男性高齢者だけだと思う。ただし次の「青海(おうみ)川」駅(こちら、こちら、こちらやこちら)では僅かに乗降が。青海川駅は「日本一海に近い駅」(の一つ。候補は数駅存在する)として有名。そもそも景色が良く、観光列車「シュクラ」も長時間停車します。
なお鉄道ファン以外は、主に自動車で訪れます。
いつもなら柏崎駅に戻ったら下車するのですが、今回は座ったまま。4駅先の「越後広田駅」(写真)を訪れようというのです。もちろん数え切れないほど通過しています。
でも降りるのは初めて。当地域は古い歴史を有する、かなりの規模の拠点でした。それなり当然、通勤通学等で駅を利用する人も多かったのです。でも過疎化および少子化と、モータリゼーションの同時進行で利用客は激減。
もちろん朝晩は高校生他が利用しますが、今回はセンセイが降りただけ。駅前に出ると、おぉ、目の前に「越後廣田駅開設記念碑」(2枚目の写真)が。他の駅ではあまり目にすることがありません。てっきり当地の信越本線開通(1898年)時のものだろうと思い込んでいたのです。
ところが帰宅後に調べてみると、越後広田駅の開業は1921年。かつて鉄道を新規敷設する際に問題になったのは、当時の蒸気機関車が吐き出した火の粉──火災の可能性がある──と、同業である先行運輸業の反対活動。
前者については当時の鉄道が勾配に弱いこともあり、たいてい「町の外れ」に線路と駅を開設。これは割と世界共通で、ロンドン市が典型。
後者については、信濃川(「飯山線」)や磐越西線(「阿賀野川」)に見られるように、それまで主力だった水上輸送会社からの反対が強かったとされています。
当地域の信越本線は概ね、「鯖石(さばいし)川」に沿って敷設。当然、ある程度の水上輸送はあったのでしょうが大河川ではないので、反対運動はそれほどでもなかったと想像されます。たぶん地域全体としては「様子見」。
ところが、いざ信越本線が動き始める──この時点で、越後広田駅は未開設──と人と物の流れは一変。劇的な変化を目の当たりにした地域住民は駅の設置を...ということなのでは、と推測しています。その想いと駅開業の歓びの結実が、この記念碑。(たぶん)
記念碑は望外(ぼうがい)の収穫でした。ただし今回、そのために越後広田駅を訪れたわけではありません。駅に戻り、上り1番線のホームへ。そこで撮影したのが3枚目の写真。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
「複線五千粁(キロ)」記念碑です。
昨日お伝えした柏崎駅西方区間を含めて国鉄は1960年代、増加する輸送量対応すべく、幹線区間の複線化を進めていました。1972年、西隣の「北条(きたじょう)」駅と当駅の間が複線化。
これに伴い、国鉄の複線区間が5,000kmを達成した、その記念碑です。これだけを見ると、2017年に訪れた「国鉄2万キロ記念碑」と同じようなもの。ただし、少なくとも個人的には「ちょっと違う」と考えています。
以下、個人的あるいは地域的な事情が入り込んでおり、完全には客観的になることができません。悪しからず。それを踏まえた上での、しかも「現在を基準に考える」という歴史学的には掟(おきて)破りでの評価です(講義では絶対に用いない)。路線延伸および複線化に励んでいた当時の国鉄は満身創痍(そうい)。
仮に地方選出の国会議員による「我田引鉄(がでんいんてつ)」の鉄道延伸要請に応えたとしても、採算面は絶望的。他方、(実は旅客ではなく、貨物を中心とする)輸送量も増大中。政治的には第二次世界大戦の引き揚げ者対策としての鉄道マン採用は財政を破綻寸前に。
この点は、労働組合(国労・動労)潰しという面も。他方、すでに東海道新幹線は大成功し、山陽新幹線も間もなく...という時代。そこで選択されたのが国鉄分割民営化と、赤字路線の廃止。個人的にはいろいろ意見がありますが、同時に、ここに到る事情をわからないではない。
以上の個人的な事情を抜きにして、センセイが問題だと考えているのは、「長期的な展望の欠落」。前日の笠島も、この日の越後広田も利用客は僅少。でも同時に、実はこの区間を含む信越本線は物流の大動脈。お伝えしたように、直江津以西は第三セクターの運営。(かなり無理やり)話を簡略化すると、「地域の鉄道なんだから、そっちでどうにかしてよ」という発想。
問題の本質を見誤るように設定されています。お気づきの方がいらっしゃると思いますが、「複線五千粁」記念碑をご紹介するのは2回目(結果的に、撮影アングルも似ていた。トホホ)。変化があった場合等を除き、同じ話題を避けるようにしています。
実はこの記念碑、意識さえすれば信越本線を走行する列車内から良く見えるのです。前回は普通列車内から、窓を開けての撮影。でも「それでいいのか...」と、ずっと心残りだったのです。そこで今回、本当に駅に初めて降り立ち撮影したという次第。ただし「越後廣田駅開設記念碑」は完全に想定外。
実際に現場を訪れただけの甲斐がありました。
「自己満足」と言われれば、それまでですが。
■9月16日(火) このトンネルの向こうに... ──西村センセイ、52年ぶりに笠島駅を訪れる(2)──
笠島駅を訪れた理由は、主に二つ。
まず、ご紹介した「もく」を確かめること。続いて写真の鉄道トンネルに接近すること。他にも笠島地域の変化や、海水浴場および漁港の様子を見る目的もありますが...。
トンネルへのアクセスには手順が。笠島駅の階段を降りると右折(=西側)。すぐに「もく」前に到るのですが、ここはもう少し歩きます。歩行者専用の細い通路で線路の下を通り抜けると、目の前に笠島海水浴場が。
右手(東側)には笠島漁港。海水浴シーズンではありませんが、「海の家」──新潟ではしばしば「浜茶屋」と呼ぶ──の一つで10名弱のオトナがパーティーの真っ最中。その他には、観光に訪れたアベックが数名。年齢的には高齢者が多かった。
他方、センセイは海岸を左折。(=西方向)約100m歩いたところで撮影したのが写真。コンパクトデジカメでの撮影なので画の力がイマイチですが、悪しからず。海岸に近く波飛沫(なみしぶき)が舞っているため、ミラーレスのレンズを交換できないのです。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
左側は現行の「米山第二トンネル」。複線です。今回のお目当ては右側の、旧「米山第五トンネル」。信越本線「米山(旧「鉢崎(はっさき)」─「柏崎」間は、増大する輸送力強化のため1960年代後半に順次複線化。当地域は1968年9月、新線に切り替えられました。
本来の用途を失った旧線、米山─笠島間はトンネルを含めて歩道として整備。
昨日少しだけ触れましたが1973年7月下旬、高校1年生だったセンセイは、ここを2回歩いています。観光等ではなく、必修科目「地学」の地質実習。
しかも任意ではなく全員参加。(どうしてそんなことが可能だったのだろう...)担当教員の引率で米山駅を起点に、まず「聖(ひじり)が鼻」で大きな露頭(ろとう≒崖)を観察。その後は、主に旧線跡のトンネル等を抜けて、1日がかりで笠島駅へ。
直線距離は4km弱ですから、簡単な行事に思われるかもしれません。でも途中で山を登って柱状節理を観察したかと思えば、今度はほぼ崖のような場所を下るという次第。実際の歩行距離はたぶん8km程度。
その「崖のような場所」を下った先にあるのが地質実習の最終目的地、「牛が首層内褶曲(しゅうきょく)」。この旧「米山第五トンネル」を約150m歩いた、その先にあります。柏崎市や「にいがた観光ナビ」(一部誤字がある)のサイトをご覧いただければある程度イメージできるかと思います。
実際のイメージに最も近いのは、ドローンで撮影された写真。基本的には単なる露頭なのです。でも、よぉーく観察すると、実に不可思議。
上下は、ありふれた「砂泥互層(さでいごそう)」が主。ところが中間部分だけが異様に褶曲しています。もちろんこの地層だけが褶曲するわけがありません。これが形成されたのは陸地から一定程度離れた、割と静かな海。
陸地の隆起/沈降に伴い、それぞれ砂/泥が堆積して砂泥互層を形成します。ところが稀に、能登半島地震のような異変をきっかけとして、海底地滑りが発生することが。中間部分はその名残なのです。それが落ち着くと再び、上部に砂泥互層が形成されます。能登半島地震では極めて良く似た事態が発生し、白海老やズワイガニの不漁が続きました。
言い換えると、今後富山湾でも「層内褶曲」が形成される可能性があります。もちろん何千、何万年も先のことですから、センセイがそれを目にすることはありませんが。
それはともかく高校入学後、地学に興味を持った西村センセイ、実習には積極的に参加しました。そこで出くわした「牛が首層内褶曲」。強い印象を受けたので担当教員の了解を得た上で、他クラスの実習にも参加。
この勢いは何と、大学入学後まで続きます。断片的にご紹介したことがあるのですが、教養部──現在は死語──所属1年生の時に自然科学分野──こちらも同様──の科目として、地質学を選択。たぶん高校でのこの経験が影響しているんだろうと思います。
だたし正確に言うと、こちらは古生物学。それでも非常に興味深かったので、担当教授に誘われて理学部地質学科の「順検(じゅんけん)」こと地質調査に何度も参加。研究の面白さに目覚めた瞬間です。(他方、その厳しさについては、まだまったく考えが及んでいない。トホホ)
残念ながらその後、センセイの興味関心は別な分野へ移りますが。数年後、新潟大学第一食堂でたまたまその教授と再会。
開口一番、「君は研究者になると思っていた」(実話)。誤解なきように申しますが、決して嫌味な口調ではありませんでした。申し訳ないと心の中で詫びつつも、その後はセンセイなりに努力したつもり。
結果的に、ちゃんと(他分野の)研究者になりましたので、ご寛恕(かんじょ)のほどを...。高校の地質実習は層内褶曲を観察後、旧「米山第五トンネル」を手前に抜け、笠島駅で完了。いわば、このトンネルの向こうにセンセイの「原点」の一つが存在しているのです。残された時間が少なくなってきた身としては当然、訪れてみたい。
でも無情にも、「関係者以外立ち入り禁止」。海が荒れているからではありません。2005年の豪雨で旧線区間で地滑りが発生。追い打ちをかけるように、2007年の新潟県中越沖地震他で崩落箇所が続出。旧「米山第五トンネル」もその影響で現在、通行止めに。
「牛が首層内褶曲」付近も接近が難しくなっています。でも、(センセイの体力面を含めて)現場に接近できなくなっていても、「原点」がちゃんとそこに存在することには十分意味があります。母校をはじめとして、その後、節々でお世話になった人々や場所、そして事柄など。
...と、ここまでは「学ぶ(/学んだ)側」の視点。(引退気味の)職業人つまり「若い世代の学びを提供する」側に立つと、本件は負の面を含めて、次の世代にこれほどまでに影響を与える可能性があるということを再認識する必要があることを示唆しています。
あまりに長すぎた酷暑も、ようやく先が見えてきました。明日の午前中はまだ暑そうですが、午後からは大陸育ちの乾いた移動性高気圧に置換される見込み。
教訓を肝に銘じつつ、来週から再開される前任校での講義に臨みます。
■9月15日(月:祝日) 神戸から訪れるだけの価値があるお店 ──西村センセイ、52年ぶりに笠島駅を訪れる(1)──
写真はいずれも撮影撮影したもの。
久しぶりにほぼ新潟県内の普通列車が乗り放題になるJRの企画乗車券を譲り受けました。昨年まで期間限定ながら、JR東日本カード会員用の格安バージョンも発売されていたのですが、今年はアナウンスなし。
JR東日本は現在、フリーきっぷ類を大幅整理中。おそらくその一環として、高齢者用バージョンはアナウンスなしで静かに廃止されたのだろうと考えています。もちろん利益を優先するため。公共性を有しながらも、一民間企業ですから理解できなくはない。
されど個人的には、要望したい点が。今日交通機関としての役割──特に、「鉄道ファンなど、次の世代の能動的、積極的鉄道利用者をどう育成するか」──という認識が弱い。未来の鉄道事業のあるべき姿への、理念的な先行投資が不足しています。
またご存じのように近年、同社では事故やトラブルが多発。
何よりも最優先すべき安全にも疑問が投げかけられています。とても「積極的に...」あ、すでに述べたか(ペコリ)。本題へ戻ります。
企画乗車券の有効期限は1日。拙宅の位置の関係で利用できるのは主に、新潟県中部(「中越」)から西部(「上越」)。早起きすればかなりの場所まで移動しても、「門限」の夕方までに帰宅可能。
ただし今回は暑さ疲れが抜けていないので、遠くへ行く気にはなれない。(だから前回も割と近くへ)加えて一昨日は雨がちの天気。路面が濡れ、一部に水たまりがあるのはそのためです。そこで昨日は、他の用に目途をつけてから近隣を行ったり来たりすることに。
以前から地域内の駅への配慮が不足していると気になっていたのです。11時前の上り列車で最初に訪れたのは、以前ご紹介したことがあるJR信越本線「笠島」駅(1枚目)。柏崎駅から西に3駅目、2枚目の写真のように海に面した駅です。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
2枚目の写真は駅舎から100m弱離れた場所から、西南西方向を撮影しています。
写真左端に銀色の駅舎屋根。相対式2面2線の非常に狭いホームを挟んで、右側奥には日本海が広がります。その手前、写真中央部分が笠島海水浴場。
埠(ふ)頭を挟んで、さらに右手前は笠島漁港。金沢工大時代はほぼ毎週のように通過していた笠島駅。ただし駅に降りるのは52年ぶり。高校1年生の夏、「地学」の実習で訪れ、た時以来です。
今回の訪問目的は二つ。一つは「地学」実習に関することですが、もう一つは付近の現在の街並みをこの目で確認すること。センセイが最初に笠島地区──「笠島駅」ではない──を訪れたのは小学校低学年の時。
詳細な経緯は不明ですが父親の仕事の関係で、数家族でこの地の民宿を訪れたです。周辺の他地域もそうですが、1965年(昭和40年)頃の海岸部には「浜茶屋」と称する海の家(仮設建築)や民宿が多数存在し、皆が列車で訪れてました。
その時は自動車だっただろうと思うのですが、関係者は当地の民宿で大宴会。(黄色いジュースを飲んだことを覚えている)
民宿の目の前、すぐ下を列車が走る様子が目に焼き付いています。当地を通過するたびにその場所を確認するのですが、何十年前から民宿は廃業。
しかもやがて更地に。今回改めて笠島を訪れると認識していた通りですが、半数以上の家屋が無人。その中で唯一、異彩を放っていたのが、写真の「海辺のキッチン倶楽部 もく」。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960)。右端に駅のホームが見える)
妻面(建物の右側)上部をご覧いただくとわかりますが実は、築118年(!!)の土蔵。柏崎市および柏崎観光協会のサイトなどで紹介されているだけでなく、しばしばメディアで紹介されているお店です(紹介記事例)。だからずっと気になっていたのです。
何より、列車からその後ろ姿は丸見えだし。笠島駅からは記憶だけを頼りに歩いたのですが15歳という若さ故か、概ね記憶通り。30秒も歩かずに「もく」到着。右脇はお店の駐車場ですが、おぉ、神戸ナンバー。
「もく」だけが目的ではないのでしょうが、少なくとも意識してお店を訪れたらしい。お店のインスタグラムをご覧いただくとわかりますが、お店が物理的に狭いこともあり、繁忙期は予約した方が良いようです。実際、昨日は3組のカップルと写真の男性1名が出入りしていました。
いずれも決して、「フラッと...」という感じではない。おそらく、ビビッと来た方には「神戸からでも訪れるだけの価値があるお店」。個人的には共感できる部分が多いのですが、センセイは予約していません。
それより何より、次の列車の時刻が迫っています。
ここは心を鬼にして、その先にある線路下の通路──これも概ね記憶通りだった──を抜け、次の目的地を目指します。(続く)
■9月14日(日) ここはひとまず「負けるが勝ち」 ──予想通り、実家のエアコン導入は見送りに──
1日遅れで、実家初となるエアコン導入の件を。
結果はサブタイトルにあるように(そしておそらく皆さんの予想通り)、今回は最終段階で却下。
一昨日は実家へ12:30に集合することに。お昼時なのでお店の方には申し訳ないのですが、全体の円滑な進行を考えると選択の余地なし。この点、お店には繰り返しお詫びをしてあります。
もちろん詫びさえすれば何でも許されるというわけではないのですが。センセイとしては前回同様、早めに実家へ移動して最低限の片づけや整理を済ませておくつもりだったのです。でも「寄り道」の影響で現地到着は12:20頃に。というか、実家から少し離れた駐車場にはすでに電器店の車が。
今回お願いしたのは、通称「共栄電器」こと「でんきと住まいのキョウエイ」。いわゆる「町の電器屋さん」です。車を並べて止め、お店の方にご挨拶。かつては旧西山町(まち)内に何店かあった電器店も、現在、柏崎市西山町(ちょう)内には共栄さんと、もう1店しかないとのこと。
ある意味、寡占(かせん)状態。ただしマーケット全体は確実に縮小傾向。並んで歩きながら「経営路線の見極めが難しいのでは...」などとやり取りします。続いて「お話の仕方を含めて、年寄りの相手がお上手ですねぇ」。これはホンネ。
同級生の甥御(おいご)さんだからと、ゴマを擂(す)っているわけではありません。
さて彼の返答は...の前に実家到着。受け入れ態勢がまったくできていなかったので、電源の延長コードを含めて扇風機を用意。座布団も敷きます。
ただし、この段階で父親の反応は鈍い。こちらから声を掛け、お店の方からも「できればご一緒にご説明を...」と力添えを頂いたところで、父親がゆっくりと移動開始。父親はプライドが高く、外見を気にするのです。
まず母親が希望するガステーブルおよびレンジフードから見積内容の説明を受けます。。母親の過多かつ暴走気味の説明をセンセイがしばしば遮りながらも、こちらはあっさりと終了。
続いて3ヶ月前から父親が訴えていた一部BS放送局の受信不具合の件へ。この件については前回の訪問で新たに確認できた事実を基に、センセイがトラブルの原因をほぼ同定済。
見積説明の前に少し追加の確認をしたのですが、完全に予想通り。必要な機器の発注をお願いして、こちらもすぐに完了。最後に、鬼門のエアコン導入。ここまではある程度合理的──歴史的に見ると、「合理」の概念は相当変化している──に進んできたのです。
でもエアコンの件はほぼ、イデオロギー闘争。(死語か...)もちろんそんな言葉は使いませんが、あらかじめお店の方には十分お断りを入れています。
実家1階でエアコン導入の可能性があるのは4室。夏場は2階がはるかに高温になるのですが、高齢の両親はもう2階に上ることができないので、カウント外。ちなみに構造上、2階へのエアコン導入は比較的容易。
でも現実問題として2階へのエアコン導入可能性は低いので現在、センセイはお盆の一晩を除き、夏場は実家に泊まりません。(つまり、両親はここでチャンスを逃している)1階の4室の中で、寝室2室は父母ともに「いらない」とのこと。母親が希望した「茶の間」こと客間への導入は父親が絶対に認めない(物理的にも難しい)。設置可能性が残るのは、実質的な居間。
...って、完全に最初の想定通りじゃん。この見通しはあらかじめ、お店の方にも十分説明しています。一昨日頂戴したエアコンの見積も、この部屋だけ。お店の方はかなり賢明な方なので、説明が必ずしも十分でない状況下、こちらの意図をほぼ完全に理解していただけたようです。
見積金額は他のものも含めてやや高めながらも、十分納得がいくもの。で、その内容を父親に説明すると、「俺は、いらん」。
名残惜しそうな母親とは対照的です。ただし意外に思われるかもしれませんが、徒労感──それを他者であるお店の方に強いたことは申し訳ない──と同時に、実は明るい材料も。
ひとまず結論が出たので冷たい麦茶を注ぎ直し、水ようかんを皆でいただきます。お店の方は父親と母親に話題を振ります。その途端、両親ともに急に表情が明るくなり「俺は..」あるいは「私が...」と、滔々(とうとう)と語り始めます。
夫婦のはずなのに、「この件を相手から見たら..」という視点は、見事なまでに欠如。当然、その周囲にいる方々への配慮なんて言葉は、彼と彼女の辞書に載っていません。父親に限定すると、この点は昨年末、皆に惜しまれながら99歳6ヶ月の天寿を全うした逝去した姉(センセイにとって伯母)とは対照的。
客観的には姉弟の中で伯母は、最も優秀な方だったんだろうと思います。倖せもありましたが、それ以上に辛いことが多すぎた伯母の長い人生。
実の娘(=センセイの従姉)にも弱音を吐かない。でも実家の「跡取り」だったからか、弟(=センセイの父親)以上に父親(=センセイの父方の祖父)似だったからか、そんな伯母もセンセイには時々愚痴を。
もちろん内容は伏せますが、中には衝撃的な内容が。父方は伯母が6人──それまでに8名生まれたものの、女児2名が生後間もなく死去──続き、7人目で父親が誕生。当時の社会ではもちろん、めでたいこと。姉たち(=センセイの伯母)は適齢期になると次々と近所に嫁入りします。
その後、2名夫婦は都会へ出て経済的に大成功。他方、残された田畑を何とかする必要が。祖父は日露戦争で受傷したので働くことができない。父親の弟を含む男児2名も幼く、労働力にはなりません。そこで伯母は、本当に暗いうちから暗くなるまで農作業に従事させられたのだそうです。
尋常小学校から帰宅すると、「山(=田圃)へ来ヒ」と書かれた母親の紙が。その後、男児2名つまり父親と弟も成長し、伯母も近くに嫁ぎます。(お相手は非常に良い人物)
後になり、残念ながら姉弟が次々と鬼籍(きせき)に入ると、父親は頻繁に姉宅を訪問するように。父親にしてみれば「お姉ちゃんの家」なので。そこで伯母はたいてい、求めに応じて父親が好きな日本酒を振る舞ったとのこと。
日中にもかかわらず。そんなある時、まず間違いなく酔っぱらっていたのでしょう、父親は学歴を自慢し始めたのだそうです。伯母の尋常高等小学校卒をけなし、自身の新制高等学校卒を自慢した上で、「おれは優等生だったんだぜ」。
その場面を思い出した伯母は、「さすがに嫌だったの...」。視点を変えると残念ながら、センセイ以外に愚痴ることができる相手がいなかったことを示唆しています。
で、中長期的に見た今後の展開。ここは潔く、負け戦を認めるしかありません。
ただし今回は、完全に想定内。その母親を含めた近い血縁にある人物を考えると父親は、今後在宅看護に至る可能性が高い。(これはセンセイを含めてなのですが)下半身の筋肉が弱く、最近は崩れるように転ぶことが多い。
ベッドあるいは布団の上で在宅介護となると当然、ヘルパーさんその他の助けが必要。そうなるとさすがに、冷暖房が必要。
口実はもちろん、「爺さんは何にも感じていない──実際、その通り──だろうけれど、看護師やヘルパーさんが困るでしょ」。今までの経緯からして、(居間ではなく)彼の寝室へのエアコン導入を受け入れる可能性は高い。
ただしこの件、問題の本質は別なところに。父親(および母親)は、「ヘルパーさんその他が困る」ことそのものは理解可能かも。ただしこれは、二人のこれまでの人生の縮図。本人の努力と他者への貢献は評価して感謝するものの同時に、他者から助けていただいたことに気づくことができるのかどうか。
個人的な予想は、かなりネガティブ。あれだけ「俺が...」と主張し、「...認めない」と断言するほどなので。もちろん本件、センセイは両親の子供なので、まさに「天に唾(つば)する」内容。
気を取り直して、さて、(実家および)共栄電器さんのためにできることは何なんだろう...。
■9月13日(土) 信越本線亀田駅付近の踏切で昨日衝突事故に遭った特急電車と今日、遭遇しました
予定を変更して、タイトルのお話を。
昨日は午後、(まだお伝えしていない事情で)かなり消耗して実家を後に。夕方のニュースは、びっくりする内容から始まりました。昨日の午後1時過ぎ、JR信越本線で特急「しらゆき6号」と軽自動車が衝突する事故があったというのです。(報道例)
場所は新潟駅から2駅の、亀田駅近く。正確には亀田駅の北北西、約400mの場所にある「第一北山踏切」。衝突により軽自動車は大破しましたが、倖いにも運転していた70代女性は衝突前に脱出していて無事。特急側も、乗客乗員ともに負傷者等なし。
ただし特急列車の損傷については触れられていません。でも約2時間後に運転を再開したとのことなので、運行に大きな支障を及ぼすような損傷ではなかったはず。そもそも「しらゆき」の質量は編成全体で約133tありますが、軽自動車はせいぜい1t。
結果は明らか。しかも列車、特に高速走行する列車──衝突を想定していない日本の新幹線を除く──は大型ダンプなど質量のある物体を想定して、車端部の構造が非常に頑強。それでも衝突により廃車になる例が多々発生しますが。
このニュース、昨日ご紹介することは可能だったのです。ただし昨晩の時点では事故後の情報が入ってこなかったため控えておりました。で、今日、ちょっと理由があって、お昼はいつもとは違うコースへ。すると遠くを、「しらゆき」(H202編成)が通過。
「しらゆき」(および一部「いなほ」)用のE653系1100番台は、H201からH204の4編成のみ。ただしH204編成は何らかの理由で長期離脱しているらしく、長らくその姿を確認できていません。残る3編成中、H202編成のみが「上沼垂色」(2枚目)。H201/H203編成は標準塗装(1枚目)で、昨日衝突したのはこのどちらか。
スーパーに立ち寄り線路脇の道(ほぼ同位置)を歩いていると、踏切の警報音が鳴動して各駅停車が通過。列車に大幅な遅れがなければ、間もなく特急「しらゆき」(H201/H203)が後を追いかけて来るはず。
「しらゆき」は目の前を時速約100kmで通過します。今日はミラーレス一眼とコンパクトデジカメを持参。ただし前者の連写速度では対応できません(経験済(2枚目の写真))。コンパクトデジカメを高速連写モードに切り替えて撮影したのが1枚目の写真。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
お分かりでしょうか...。
撮影しながら観察していたのですが、一瞬、列車先頭部に数ヶ所、少なくとも塗装に不自然な部分があったような...。帰宅後に確認すると、確かに。
ご参考までに、損傷箇所を示したものもご紹介します。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))さらに調べてみると、すでにSNSにはいくつか投稿(昨日および本日)が。この目でも確認しましたが昨日事故に遭遇し、今日のセンセイの前を通過したのはH201編成。
事故の状況を再確認します。これまでに伝えられている情報を総合すると軽自動車を運転していた女性は、遅くとも遮断棒が降りていない段階で踏切に進入。(その前段階となる警報音が鳴動していたかどうかは不明)
ところが進入後、踏切内に歩行者を発見して身動きが取れない状況に。実はこの「第一北山踏切」、非常に狭い。前後の道路は車のすれ違いが可能なのですが、踏切内は不可。そもとも普通車の通行は認められておらず、「軽[自動車]・少特・二輪を除く」という、かなり変則的な運用。
軽自動車の進入そのものは合法。されど同時に「歩行者・自転車優先 軽自動車等は、安全確認した後通行してください」という表示が。残念ながら高齢女性ドライバーの踏切進入前の安全確認が不十分だったことは、ほぼ否めない事実。
他方、彼女は踏切内に閉じこめられた後、車から脱出して設置されている非常ボタンを押しています。(写真は今日撮影)
想定される最悪の事態を回避しようと務めたことは正しく評価されるべき。
今回の事故、「しらゆき」の運転士から見たらどうだったのでしょう。新潟駅を出発し、越後石山駅を通過してしばらくすると、緩やかに右にカーブ。
ここで初めて、事故が起きた踏切が視界に入ります。ただし現場までの距離は約1,400m。これ以降の、どこかのタイミングで視認あるいは非常ボタンによる警報音──現時点で、どれが先かは不明──で異変に気づき、非常ブレーキを掛けたはず。
周辺住民の証言によると、非常に長い警笛(けいてき:タイフォン)の後、爆発音のような衝突音がしたとのこと。運転士は乗客および周辺住民への警告とともに、何より軽自動車内からの乗員脱出を呼びかけているはず。「しらゆき」から軽自動車内の状況はわからないので、
「しらゆき」は最高速度の120km/h、つまり毎秒33.3mもの高速走行中。在来線の場合、非常ブレーキ作動後600m以内で停車できるはずですが、これはすべての要素が揃った場合のベストレコード。それでも非常ブレーキで急減速したため、衝突時の速度はそれほどでもなかったと考えられます。
無減速だったら、軽自動車は原形を留めなかったでしょう。なお、以上の記述は決して運転士の認識と判断そしてその後の対応を批判しているわけではありませんので、誤解なきよう。
残念ながら軽自動車を運転していた女性の責任は免れません(「明日は我が身」だし)。ただし、おそらくそれ以上に問題なのが、当該踏切の構造と運用方法。地域性などいろいろな理由があるのでしょうが「軽自動車通行可」という条件はやはり、ちょっと無理。
望ましい姿は、踏切の拡幅整備。ネガティブな対応ですが、予算面等でそれが無理なら「軽自動車通行不可」。
どうでしょう。
■9月12日(金) 個人的には、ご縁なさそうだけど... ──当地への「東横イン」進出は着々と進行中──
結果的に、3日続けてほぼ同じような場所に関する話題。(ただし内容的には、それほど深く関係しているわけではありません)
今日は金曜日なので、お昼過ぎに実家を訪れて高齢の両親の面倒を看る必要が。ただし今日は特別で、それに合わせてお客さんを迎えることにしています。先週、実家の状況を確認した地元電器店が、見積書を持ってきてくださるのです。
連絡があったのは今週初め。拙宅にお越しくださるとのことだったのですが、肝心の両親も同席すべき──実際、現場で協議した結果、ごく一部変更に──なので、今日のお昼過ぎにしていただいたという次第。現場の状況を再確認しなければならない場面があるかもしれないし。
お昼休みの時間であることだけは、先方に申し訳ないのですが。銀行へ行く必要もあるので、今日はいつもよりかなり早く徒歩で外出。いくつかの用を済ませ、お昼を頂いて帰ろうと思った時、ふと思いついて少し遠回りすることに。昨日、柏崎市役所(写真右)前の道路を歩いていて、大きな立て看板に気づいたのです。
タイトルは「建築計画のお知らせ」。いよいよ本決まりになったんだ...。
センセイが暮らす柏崎市は新潟県中部の「中越」の一部ですが、西部の「上越」と接しています(「上中下」は律令制度以来の「京都に近い」順)。人口はかなり減って現在、約75,000人。
周囲を囲むような格好になった刈羽(かりわ)村を入れても約80,000人。地理的な理由により、人の流れは周囲の地域からやや孤立したような格好になっています。北陸自動車道は地域内を走っていますが、上越・北陸新幹線は地域外。
前任校がある新発田市のように周辺地域、特に山間部から移住してくるというわけでもない。そのため人口減少が続いているのですが同時に、県内山間部のような地域全体で急速に過疎化が...という状況でもない。(実家のある地区を含めて、交通の便の悪い場所は別)
他方、現在は全機停止中ですが、地域内には世界最大の「柏崎刈羽原子力発電所」が。当然、それなりの人の出入りがありますから、人々を迎えるための各種施設が必要に。その一つが宿泊施設。すぐに思いつくのはホテルですが、実は、それ以外にも海水浴客向けの民宿等が多数。
後者については小中学校の同級生が、あるお店の権利を買い取って経営しています。娯楽の多様化に伴い、関東からのお客を中心とする当地の海水浴客は減少傾向。だから民宿の経営は厳しいだろう...と思ったら、案外そうでもないとのこと。現在は原発のメンテナンス関係者が主なんだそうです。
理由は簡単で、市内にホテルが不足しているから。なるほどねぇ...。
かように、何もかもが微妙な当地を立て続けに襲ったのが「新潟県中越地震」、「新潟県中越沖地震」そして「能登半島地震」。当地の風景は一変しました。宿泊施設に注目すると、能登半島地震で駅前のホテル3社(写真奥)が被災。
お伝えしたように1社は現在解体作業中。だから...というわけではない──他社も以前から進出を検討していたはず──のでしょうが今年に入ってから、柏崎駅(写真左端)近くの市有地に、大手の「東横イン」が進出(地元紙サイトリニューアルのため、本件記事はアーカイブへ)することに。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
ただし、その後の情報は途絶えていたのです。この状況で出くわした「建築計画のお知らせ」。
つまり詳細は不明ながら、必要な手続は着々と進行中のようです。建築物の名称は「(仮称)柏崎駅ビル新築工事」。名称にはちょっと無理があるかも。ホテルは11階建て。
帰宅後、改めて調べてみると「新潟日報」紙がその後の展開を報じていました(全文を読むためには登録が必要)。看板および報道によると、工事着工は来年3月1日、完了は2028年3月末、4月1日開業予定とのこと。
温浴施設、飲食店も併設されるそうな。ちなみに、ホテル本体が建設されるのは写真中央。周囲は駐車場になります。写真奥は、ご紹介した柏崎駅(左端)からホテル、ブルボン本社そして別のホテル。その手前、工事用のシートで覆われているのが解体工事中のホテル。右端が昨日ご紹介したばかりの市役所です。
なおホテル群前の低層の建物は、高齢者用の福祉施設。当たり前ですが地元なので、個人的にはご縁はなさそう。でも「東横イン」進出で、この辺の風景と雰囲気は一変するんだろうなぁ...。
寄り道をした分、かなり遅れてのご帰宅。打合せ時刻は迫っており、かなり焦った状態で日中の血圧を測定します。お察しの通り、今日の「平均」(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)血圧は133mmHgと、正常値をクリアできず。
でも、事実は事実。かなり強いストレスが掛かっている状況なので、しかたない。気持ちを切り替え、車で実家へ向かいます。
果たして実家初のエアコン導入他は、さて、どうなる?!
■9月11日(木) 違いは素材だけ ──西村センセイ、健康保険資格確認書を発行してもらう──
タイトルから、ピンと来る人とそうでない方に峻別(しゅんべつ)されるはず。
お伝えしたようにセンセイは昨日、柏崎市役所を訪れました。目的は、センセイが現在加入している国民健康保険に関すること。この3月までは現役時代の健康保険に「任意継続」という形で加入していたのです。
ただしこれは退職後2年間が限度。そこで新年度から地元自治体が運営する国民健康保険加入したという次第。この切替自体は当然のことなので、何の不満も要望もありません。収入が激減したため、保険料もかなり下がりました。
問題は、その保険証。昨年度まではいわゆる「健康保険証」が。加入していた私学共済の場合はプラスチック製のカード。それで何の問題もありませんでしたが、私共済脱退に伴い返却。当然、新しい保険証あるいはそれに相当する機能を持つものが必要です。
そこでマイナンバーカードと健康保険を紐付け。
正確に言うと私共済時代、嫌々ながら「マイナポイント」手続期限ぎりぎりで紐付けしました。もちろん最大2万円分のポイントを「回収」──ポイントの原資は血税なので──するためです。
国保への切り替え直後はしょうがないし、その後も歯科医院や内科医院などへの通院が。不測の事態が発生しない限り、次の受診は約1ヶ月後の皮膚科。そこでこの機会に、マイナンバーカードとの紐付けを解消することにしました。
市役所にはいると国保のコーナーには先にお客さんが2名。でも待たされることもなく受付番号が呼び出されました。本人確認等に続き、必要書類にあれこれ記入。要点を絞っていたからでしょうか、手続は予想外にスイスイと進みます。
対応した市職員──正確には事務委託先の職員──は淡々と処理。この間、紐付け解除の理由を尋ねられるようなこともなし。察するに決して多数ではないものの、一定数の紐付け解消の申請があるはず。
そりゃ、そうでしょう。センセイの両親など高齢者が対応できるわけがない。そこで政府は高齢者や、そもそもマイナンバーカードを取得していない方等には申請なしで資格確認書を交付(!!)することに。つまり制度の、少なくともその一角が完全に破綻(はたん)していることを政府が認めたわけです。
この点に関して、なぜかマスコミはあまり報道していませんが。それはともかく、紐付け解除に伴って個人的に問題となるのは、保険証代わりの「国民健康保険資格確認書」発行までの時間。ある程度かかるだろうと予想しており、交付まではマイナカードで対応するつもりだったのです。
ところが手続をひとまず終えると、対応してくださった彼女は「今、資格確認書を作ってきますから」。え"っ...!?待つこと約30秒。
彼女が新しい確認書を持ってきました。今まで実物を見たことがなかったので、たとえばA4くらいの紙に必要事項が記入されているのかなぁ...と考えていたのです。この場合、持ち運びには不便であることは覚悟の上。
ところが彼女が「記載事項をご確認ください」と差し出したのはまさに、これまでの健康保険証そのもの。唯一の違いは、「確認書」が裏をコートされた厚手の紙だということだけ。有効期限が設定されているので紙であることにさほどの問題はありません。お礼を述べて市役所を退出し、解体中のホテルを撮影。(1棟が左端に見える)
「泰山鳴動(たいざんめいどう)」しても、鼠一匹すら出てこないという殺伐(さつばつ)たる光景。「昔がすべて良い」というつもりはない──若い世代の可能性を認めるべき──けれど、世の中の根幹を渋く支えてきた物事が静かに、しかし残念ながら確実に浸食されていることがわかります。
ま、この国だけで起きていることではありませんが。
■9月10日(水) 昨年の能登半島地震で被災した柏崎駅前のホテルの解体工事が、佳境を迎えています
今日は全国的に不安定な天気。
列島上空に停滞する秋雨前線上に低気圧が発生し、前線の活動が活発になっているためです。そのため明け方は九州地方で、午後は当地を含めた北陸地方および東日本で局地的に大荒れの天気に。
それでも現時点で、当地はまだ良い方。西南西から接近してきた強い雨雲が、当地域の寸前で急速に発達。初めて見ました。おそらく「米(よね)山」に行く手を遮られて上昇気流が発生したため──県境の山岳部に雪を集中的に降らせる「山雪型」と同じ原理──でしょう。
落雷が続いたため、一時的にシステムの電源を完全に切断したほど。倖い、拙宅を含めて当地および近辺には目立った被害は確認されていませんが、新潟駅付近などでは道路の冠水や店舗への水の侵入が伝えられています。この状態は明日午前中まで続く見込み。
大したことがなければいいのですが...。
お気づきと思いますが、2枚の写真は同一の建物を撮影したもの。本来は1枚だけ掲載するつもりだったのですが、今日になって別なことに気づいたため、敢えて2枚ご紹介します。
もちろん、昨年元日に発生した「能登半島地震」で被災した柏崎駅前のホテルです。
そもそも当地は地震の震源地から約110kmも離れています。されど震源地から約150km離れた新潟市同様、場所によっては甚大な被害が。新潟市の場合は低湿地で大規模な液状化現象が発生。
当地で大規模な液状化が起きたかどうかは不明です。(局地的な発生は自分で確かめた)繰り返しになりますが、ここは柏崎駅前。旧市街地は北側、日本海に面した砂丘の上にあります。鉄道は旧市街地に乗り入れることができずに、南側の低湿地に敷設。
実際、このホテルの奥を含めて、付近を何本かの川が流れています。当然、地盤は軟弱。地下にパイルを打ち込んでいるはずですが、能登半島地震は複数の断層が連続して割れたため、大きな揺れが長時間継続。
その結果、手前のホテル2棟(中央および右端)が傾いてしまいました。(こちらやこちら)
被災直後は復旧と営業再開を目指したようですが、ほどなく閉館を発表。今年に入ってから「災害廃棄物(ホテル)解体・撤去工事」として解体が始まりました。
当然、作業は工事用のフェンスおよびシートに覆われて行われます。すこしずつ、しかし着実に解体工事が進んでいることは知っていたのです...が、外からは見えない。でも1枚目の写真のように、最近になって現場の様子が見えるように。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
昨日撮影した1枚目の写真を良く見ると、解体中の中央の建物が左奥に向かって傾いていることがわかります。「ここまで傾いたら、営業は無理だ...」と思っていた時、あることに気づきました。ホテル全体が傾いているだけでなく、気のせいか上層階はさらに傾いているような...。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
斜向かいにある柏崎市市役所を訪れた今日、改めて近い場所から撮影したのが右の写真。現場に接近すると逆に、全体の傾き云々(うんぬん)はわからなくなります。他方、とんでもない迫力(騒音も凄い)。今日はほぼ同じ場所で20歳代の男性が、大きなカメラおよびスマートフォンで写真と動画と撮影していました。
それはともかく、改めて不思議に感じたことが。2枚の写真を比較していただくとわかりますが、わずか1日で解体工事はかなり進んでいます。センセイが不思議に思ったのは、建物の一番上。ホテルは7階建(+屋上のエレベータ機械室)という構造。
昨日気づいたのですが、屋上の機械室は手つかず。昨日はそれほど不自然に感じなかったのですが、今日の作業でも相変わらず屋上の機械室を残したまま、手前の3階部分を先に解体しています。もちろん鉄骨構造ですから、そう簡単に崩壊するわけではありません。
おそらくこの撤去作業によって、残った部分が内側に向けて「凹む」ような格好になることを意図しているはず。素人からするとホテルを支えてきた頑丈なH型鋼が、大きなクラッシャーによって目の前で切断される──ただし、さすがに鋏で紙を切るようにはいかない──のは、即座には理解しがたい光景。ただしいずれにせよ、解体作業は佳境。
他方、センセイの当面の気がかりは今晩の天気。そして就寝時に窓を開けることができるか。偉そうなことを言っていても、実際にはこの程度です。
トホホ。
■9月9日(火) 開けるべきか、閉めるべきか ──日中は暑くても、「秋」は道路脇の花壇にまで... ──
予定を変更してお伝えします。
理由は今晩から数日、雨がちの天気が続く見込みなので。つまり先週(こちらおよびこちら)に続き、天気あるいは季節に関する話題です。状況をもっと具体的に説明すると、センセイの最近の悩み事は、「開けるか、閉めるか」。
何のことはなく、就寝時の寝室の窓の開閉です。そもそもセンセイはエアコンが苦手。田舎で育ち、エアコンのない生活を長く送ったからでしょう。特に就寝時は不得意。地方都市で敷地面積に余裕があることもあり、自宅は風通しに十分配慮して(Macで)設計しています。
他方、拙宅は高気密高断熱設計。(感覚的には10〜15年で投資額を回収できる)だから実家のように、「暑い夜はどこもかしこも網戸にして...」というわけにはいきません。そこで概ね、熱帯夜はエアコンを弱めに稼働。ただしエアコンの風はどうしても単調なので扇風機を併用し、首振りかつリズムモードにして、できるだけ寝室内の空気に揺らぎを与えます。
窓を開ける晩は扇風機を窓際に配置して、相対的に冷たい外気を取り入れ(+室内の揺らぎ)。
問題は、エアコン稼働/窓開放の判断。「概ね熱帯夜...」とご紹介したばかりですが、実際はもっと複雑。同じような気温でも、たとえば日曜日は窓を開放。
理由は明瞭で、移動性高気圧に覆われて湿度が低い空気に入れ替わったから。乾いた空気は気温が下がりやすい。また夜間ずっと晴れ続けることから、放射冷却も期待されます。実際、お伝えしたように翌朝の最低気温は、久しぶりに20℃以下に。
対照的に、たとえば昨晩は夏の湿った太平洋高気圧が残ったままだったので、エアコンを稼働させました。写真はお昼前、いくつかの用を済ませて郵便局へ向けて歩いた際に気づいて撮影しました。何度かお伝えした撮影地。JR信越本線を下りの特急「しらゆき」が駈け抜けていきます。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
...が、今日の主役は上空の雲。1週間前ほど明瞭ではありませんが、高層には秋の巻雲(/絹雲:けんうん)。右側に低層の雲があるためちょっとわかりにくいのですが、左側には夏の積乱雲が。この程度なら雨は降っていませんが。
当地域のシンボル「米(よね)山」(992m)は、山頂付近が隠れています。つまり今日の当地は、夏の空気と秋の空気が同居あるいは鬩(せめ)ぎ合っているということ。郵便局での用を済ませて旧市街地へ。日陰を伝いながら歩いている時、足元の音でびっくりしました。
歩道脇のプランターで、虫が鳴いていたのです。(ただし姿は確認できず)藪ならまだわからなくもないけれど、アスファルトに覆われて温度が高い場所で、ですよ。空の世界だけでなく、地上でも夏と秋が鬩ぎ合っているのです。
話を本題(?)に戻すと、さて、今晩はどうしよう。気圧配置および湿度からして現在、当地上空を支配しているのは夏の太平洋高気圧の残党。雲もかなりかかっており、放射冷却は期待できそうにありません。
というわけで、センセイの判断はエアコン稼働。でもテレビの天気予報によるとセンセイの予想にやや相違して、明日朝の最低気温は今朝より1〜2℃下がる見込みとのこと。言い訳が許されるなら、これには今晩の弱い秋雨前線通過に伴う降雨が織り込まれているはず。
ただしサイト更新時点で、降雨の兆候はありません。結論はというと、先ほど寝室の窓を開放しました。偉そうなことを言っていても、センセイは意外と「権威」に弱い?
さて、今晩はどうなる。
■9月8日(月) 気温が高いと血圧は低下する傾向が。されど今年のように酷暑だと、血圧は逆に上昇?!
予定を変更して、約1ヶ月ぶりに血圧のお話を。
前回の要旨は、少なくともセンセイの場合、高めの高血圧状態の原因は、まず塩分摂取過多。そして運動不足とストレスによるものと推測されること。摂取塩分(特にNa+)量については2016年末以降、「キンエン生活」へ。
最初からその効果が。しかも「キンエン」を食生活全般に適用するようになった2019年半ば頃からはその効果が顕著に。1枚目のグラフは、過去7年間の変化(拡大写真(別ウィンドウ、1280×911)。次に取り組んだのが適度な運動とストレスの軽減。
前者については現役時代、金沢および野々市市内での移動を徒歩だけに。(ビール購入時を除く)自転車は廃棄処分しました。同様に自宅がある柏崎市内も、市街地についてはすべて徒歩に。その効果はじんわりと出てきます。最後のストレス軽減については...現役時代はやはり難しい。(サラリーマンの皆様、ホントにご苦労様です)
それでも退職を念頭に置き、ある時から役職をすべて辞退。
劇的な変化が訪れたのは2023年度末の退職。
実質的な退職および金沢からの引き揚げ時は大変で、血圧も大幅に上昇しました。でもそれ以降は劇的に低下していることが前述したグラフからわかります。
ややこしいのが、それ以降も金沢工大および前任校(2023年度は実施せず)で講義を行っていること。2023年度は金沢工大だけ。しかもこの時は電車で行き来していたため、血圧への影響は限定的。でも講義を終えた途端、血圧は信じられないほど低下し、年度後半もこの状態を継続します。
身内の不幸による例外的な上昇はありましたが。2024年度からは金沢への移動方法を自動車に変更。しかも前任校での講義も再開。ただし同年度、後者は8月および翌年2月の集中講義形式でしたが。
当然、ストレスが掛かるので血圧も急上昇。でも、ま、これはしかたない。今年度は前任校も通常の講義形式に。もちろん金沢工大を含めて、いろいろ大変。でも行動パターンに慣れてくるとそれなりに落ち着きが。そもそも、どちらもセンセイのホームグラウンドだったんだし。
それを示すのが前回の2枚目のグラフ。(つまりここまでは長い長い前フリ。すみません)
見事なまでに1週間単位で上下動を繰り返しています(5月の連休および実家でのイベントを除く)。問題は講義および関連業務を終えた8月以降がどうなるかということ。
結論からすると、う〜ん、微妙。1枚目のグラフは、本年4月以降の血圧変化を示したもの(拡大写真(別ウィンドウ、1280×920))。左側4ヶ月分はすでにご紹介したものと同一です。問題は右側の8月〜9月の変化。
もちろん働いていた期間よりは低く、また当然ながら明瞭なパターンは認められません。でも、たとえば左端の4月中旬までと比較すると、特に「最高」(「収縮期血圧」)は高め。「仕事」──実家の世話を除く──は終えているにもかかわらず、です。
その原因をいろいろ考えたのですが、う〜ん、主要因は今年の酷暑じゃないだろうか。少なくとも一つだけ強く実感していることが。夜の暑さでゆっくり眠れなかった翌朝は血圧が高い。何しろ身体が「休息できていない」と訴えかけてきます。
もちろん必要に応じてエアコンを稼働させたまま就寝。されどこの場合は、別な意味での「疲れ」が...。(ただし扇風機の併用である程度改善できる)
当地は昨日の朝、最低気温が久しぶりに20℃以下(19.6℃)を記録。窓を開けて就寝したのですが、湿度も低かったのでやっとゆっくり休むことができました。
やはり「(ある程度)ゆっくり...」の日は、朝の血圧が低いでも今朝は状況が一変し、高温かつ高湿度。それでもエアコンを稼働させたので、朝の血圧は正常値。なお、日中の血圧については話が別。
暑さがある程度和らいだ今月は割と歩いており──今月の総歩数は12,743歩──それなりの運動量は確保。今日は日中の血圧は低く、右の写真のように「平均」(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)は103mmHg(個別最低記録は100mmHg)。ただし「平均」が120mmHg程度の日も珍しくありません。
ここまで、実感した通りに記しましたが、実はセンセイにとって「不都合な真実」が。退職後の働いている期間については問題ないのです。でも講義を終えた「夏休み」に関する限り、今年度および2024年度は2023年度よりも高い。
しかも退職直後の2023年度は今年度同様、異常な酷暑で稲作に甚大な被害が。つまり夜間の異常高温によるストレス──ここまでは概ね了解していただけるはず──が翌日の高血圧をもたらすというセンセイの仮説が成り立つのか、実はちょっと微妙...。
何回かお伝えしていますが、血圧については良くわからない部分が残ったままなのです。
■9月7日(日) これが「皮膚病」悪化の原因かぁ... ──愛用の椅子が、再度破損してしまった──
異変が発覚したのは4月。
センセイは「尋常性乾癬(かんせん)」という、日本人には珍しい病気を患っています。発症した部分の皮膚の新陳代謝速度が異常に上昇──8〜10倍と言われている──し、皮膚が赤みを帯びるなどの症状が出ます。
だから、ひとまずは皮膚病。大学入学直後、頭部に発症。この病気のやっかいなところは、まず治療が難しい。根治は困難で症状の改善を図りつつ「おつきあい」するしかない。しかもある場所で治ったかと思うと、別な場所で発症するという具合。
センセイの場合、頭部は数年で収まったのですが患部が下肢、特にふくらはぎへ。尋常性乾癬とは50年近い「おつきあい」。この間、かなり効果的な治療薬も開発──ただしかなり高価──されており、現在はきちんと薬を塗っていれば、ほぼ問題ないレベルの状態を維持できています。
稀に、耳の下が赤くなったりしますが。(イメージと異なり、「酒飲みの赤ら顔」ではない)この安定した状態が15年くらい継続していた4月。かかりつけの皮膚科医院でいつも通りに受診。センセイは皮膚──およびオツム──が弱いので、別な病気で背中を診てもらったところ、ドクターがやや素っ頓狂な声を上げました。
何がどうした?背中の下部中央、背骨に沿うような格好で、赤変し皮膚の表面がざらついた縦長の部分があるというのです。まさに乾癬の初期症状。長さは縦方向に10cmくらいとのこと。(手鏡で患部を見せていただきました)
で、ドクター、「ずっと座ってるとかの仕事?」。その場ではそれ以上の展開はなかったのです。(というより、センセイの理解が追いつかなかった)
乾癬が「転移」したことには驚きましたが思い当たる節はないし、現在の全体の状況からして、治療薬をちゃんと塗れば大きな悪化は考えにくい。それ以降、入浴後に毎晩ちゃんと薬を塗っているのですが、大きな変化はなし。
昨日、ふと気づいたことが。背中の患部は書斎で使用している椅子(1枚目の写真)の、いわゆる「背もたれ」(業界的には「背板」)の、横に配置された「背貫(せぬき)」の位置と完全に一致するのです。愕然(がくぜん)とすると同時に、ほぼすべてを悟りました。
ひとまずお伝えしたように、乾癬は皮膚病。ただし本質的には、自己免疫疾患(だから超高価な飲み薬もある)。免疫に異常をきたしやすい体質の人に、「何か」がきっかけで発症します。その「何か」は、喫煙やストレスなどの外的因子だったり、肥満などの内的因子だったり。
外的因子の一つが、患部への物理的な刺激。ドクターが尋ねた「座ってる仕事?」はこれを指していたのです。適切な指摘だったのに、半年もその意味を理解できなかった...。残念ながら、最近はこの種の「気づかない」パターンが増えています。
トホホ。
椅子との関係、実はちょっとややこしい。「この」椅子は、センセイが1996年に自宅を新築する際、それまで住んでいた新潟市の「山下家具」で、デスク(左)とともに購入したものが「初代」。
下部は鉄およびプラスチック製ですが、上部の構造は木製。(現在はほぼ完全に樹脂製)お気に入りだったので数年後に金沢工大へ移籍する際、同一品を再度「山下家具」で購入した2代目(「2台目」か...)。爾来(じらい)、こちらは約20年間金沢のアパートで使用してきました。
この間、座板の一部(最後部)が折れたため、近所の内装関係のお店に依頼して修理していただきました。金沢から撤収する際にいろいろ考えたのですが、「初代」も同じ部分の底板が損傷したため、こちらの2代目を持ち帰ることに。「初代」は「のらくろ」に引き取っていただきました。
合掌。その後は平穏な日々を...と思ったのですが、購入後約四半世紀を過ぎた現在、他の部分の劣化も否めない。割と早く気づいたのはキャスター周りのスポンジのような部品の劣化。
周囲が油性の物質で汚れますが、基本性能とは無関係。
でも昨日、乾癬との関係を考えていた時、「背もたれ」のクッションがほぼ消失していることに気づきました。正確には、大半の部分はちゃんとそのまま残っているのです。
肝心要の、背板が背中に当たるのは右の写真の背貫の、それも中央(白っぽい場所)だけ。他の部分はともかく、背中と接触する中央部分のクッションは完全に劣化して「板」のようになっており、緩衝の役目を果たすことができていません。
だから、ずっと背中の対応する場所を刺激し続けていた...。乾癬が発症するわけだ。さて、どうしよう。
センセイの仕事はまさに「座り仕事」。少なくともあと2年半は講義を続ける必要がありますから、現状を放置するわけにはいきません。
最も簡単なのは、樹脂製の新品に買い替えること。価格は1万円以下で収まりますし、最初の赴任先から金沢工大までずっと、そのような椅子を使ってきたし。(しかも古い椅子は引き取って、処分してもらうことができるはず)
他方、「初代」を含めてこの椅子に思い入れがあることもまた事実。この点を尊重して使い続けるとしたら、まず背もたれのクッション等を購入すること。これならざっと2,000円から3,000円程度の出費。
もう一つの選択肢は、再度専門店で修理していただくこと。この場合、費用はおそらく2、3万円。ただし問題は、修理を引き受けていただけるような注文家具のお店を見つけられるかどうか。金沢のお店との出逢いは、冗談抜きで僥倖(ぎょうこう)だったのです。
で、現在は背もたれに大きなタオルを重ねて垂らし、何とか対応しています。本件、今後の展開はまったく不明です。
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