2001年9月20日更新(2001年10月1日ページ移動。2003年2月1日、12月21日および2004年4月16日一部写真削除)
9月20日(木) 本当ぅ〜に、久しぶりに(!!)電車で出勤しました大学は来週から本格的に始まります。
で、今日、会議その他のために電車で出勤しました。夏休みの間は荷物があったりして車で出勤していたので、本当に久しぶりの電車通勤です。
新潟駅では1番線側に新設される「メディアステーション banana」の工事が進んでいました。bananaはJR東日本と地元TV局BSN他が共同で設立する一種のスタジオ......と聞いています。
それはそれで面白いのですが、その影響で1番線への階段が片方閉鎖されていました。一時的なものならいいのですが、もしかするとずっと閉鎖してしまうのかもしれません。......かなり困る人も出ると思うのですが。
9月19日(水) 巻地区・出雲崎を訪問しました。お土産は名物の浜焼!!今日は仕事で西蒲原郡巻地区へ行ってきました。行き帰りに、いろいろありました。
往路は滅多に使わない高速道路に乗ったのですが、黒いクラウン−−変な感じがしていた−−を追抜こうとして、それが覆面パトカーであることに気づきました。
その後も他の車が同じように続いたのですが、後ろから前の車をパッシングして退かしながら白い外車が130km/mくらいで追い抜いていきました。もちろんパトカーは追跡。トンネルの前後で制限速度が80km/mになる場所があるのですが、それを過ぎてからリア・ウィンドウに「スピード違反!!」の表示が......。あっという間に御用となりました。40km/mのスピードオーバーとなるわけです。
ちなみに20km/mまでのオーバーだと「スピード落とせ!!」の表示が出るだけでした。用の途中に、巻町の国道沿いにあるスーパーアイビスに寄ってみました。
実はこのアイビス、もともとは巻の旧市街の呉服店「ほんだん」が母体で、その後スーパーに手を広げたのですが、最近マイカルグループの傘下に入ったのです。
しかしご存じのようにマイカルは倒産。で、どうなったのかなぁーと思ったのです。
結論からすると、平常営業していました。ただし店の出入口には右の写真のように民事再生法による再生手続き中であることを知らせる掲示がありました。同じ倒産でも柏崎市のフォンジェの場合とは違います。
一カ所テナントが撤退していた場所がありましたが、マイカルの件とは無関係なようです。
午後には仕事を終えました。柏崎への帰路はいくつかの選択肢があるのですが、海辺を走って先日ご紹介した(こちら)出雲崎へ寄り、前回買えなかったカレイの浜焼を買いました。出雲崎は漁港なのですが、やはり地物だそうです。
浜焼といってもスーパーの入口の車で売っているようなものではなく、店の軒先で、炭火でじっくり焼いたものです。
センセイは35年位前の出雲崎の繁栄ぶりを知っているので、「浜焼のお店が少なくなったねぇー。○○のお店ももやめたしぃー」と魚をくるんでいるおばあさんに話してみました。「昔の半分だがね。何にせ跡継ぎがいねでねぇ(=いないのでねぇ)。うちだっていねがん(=いないですから)」とのこと。
でもお店の脇には発送前の宅配便がいくつかありました。先日TVや新聞で紹介されたのでやはり引き合いがあるようです。で、帰宅後30年ぶりくらいで食べてみました。遠火で焼いたせいか、皮がきれいに剥がれます。中の白身は油が程良く抜けたとてもあっさりした味でした。美味しかったです。......唯一の難点は車に少し匂いが残ったことでしょうか.....。出雲崎の浜焼、お勧めですよ。
9月18日(火) 脱穀(だっこく)をしました。もうすぐお米になります週末に実家に行った(こちら)最大の理由は脱穀を手伝うためです。
1週間ほど前に刈り取られたコシヒカリ(こちら)はちょうど良い具合まで乾燥しました。
で、右の写真のようにハサに掛けられた稲を外して束ね、作業所に運んで稲から籾(もみ)を外します。これが脱穀です。センセイの実家の場合、田圃やハサのある場所と作業所(実家の一角)は離れているので、荷車(「リヤカー」)か車で何往復して運びます。
作業所に運び込まれた稲は下の写真の作業所で脱穀されます。奥に積み上げられた稲を中央の脱穀機にかけます。
機械の内部では歯のようなものが高速で回転していて−−かなり危ない−−、稲から籾を引き剥がします。籾は空気の力で別な場所に運ばれます(センセイの家の場合は二階)。
籾を取られた稲、つまり「藁(わら)」は束ねられて手前に片づけられます。藁は利用価値が高いので業者が引き取り、藁縄などいろいろなものに再加工されます。この後、籾は機械で「臼(うす)引き」されて、玄米と籾殻−−籾殻も再利用される−−になります。臼引きの作業はセンセイの家の場合は今週末を予定しています。これでやっとお米を食べられるようになります。
と、ここまでいろいろ書いてきて、新たにセンセイの家のお米作りをまとめたコーナーを作りたいと思うようになりました。
新コーナは現在準備中です。ご期待ください。今日の新潟はこれまでの不安定な天気が嘘のようにきれいに晴れています。
さて今日、近くに用事があったので、そのついでに三島郡出雲崎町を訪ねてみました。
「出雲崎」といってもご存じない方も多いと思います。ちょっと歴史に詳しい方なら松尾芭蕉が奥の細道の途中で名句「荒海や佐渡に横たふ天河(あまのがわ)」を読んだ場所だとか、名僧良寛が生まれた場所だということをご存じかもしれません。良寛の生家跡には上の写真のように良寛堂が建てられています。
これだけなら他の名所旧跡とたいして違いないかもしれません。しかし実は、出雲崎はとても歴史のある町なのです。
もともと出雲崎やその周辺地域(和島、小木ノ城)は相当古くから現在の新潟県の行政の中心地だったのです。和島では遺跡がいくつも見つかっていますし、小木ノ城にはその名の通りに城が置かれていました。
で、時は江戸時代。越後をイメージすると北から新発田藩、長岡藩、高田藩といった三大名が浮かびますが、実はそれより大きな7万石の藩(?)があったのです。それがこの出雲崎を中心とした幕府の直轄領「天領」なのです。出雲崎には越後で初めての代官所が置かれ、その範囲は蒲原から頚城にまで及んでいました。今ではすっかり寂れた出雲崎ですが、当時は現在からは想像できないほど繁栄していました。
ここが天領になった理由の一つは佐渡の金山です。佐渡で採掘された金を船で出雲崎まで運び、ここから江戸へ陸送したのです。主要な行事がある時には出雲崎の名主も出席しました。ある時の名主が、実は出家前の良寛だったのです。上の写真の良寛堂の場所に「橘屋」を構えていました。
行事といってもいろいろあります。人が集まれば犯罪も起き、裁判の結果によっては処刑されます。その場面に立ち会わされて、良寛は出家を決意したと言われています。現在でも出雲崎の西の端に処刑地跡が残っています。数年前、「道の駅」として出雲崎に「天領出雲崎 時代館」がオープンしました。で、今回、初めて入ってみました。
このテの施設は期待はずれに終わる場合がほとんどなのですが、この施設の場合はやはり歴史の重みがものを言い、見学するだけの価値がありました......もう一度、といわれると????ですが。現在の出雲崎は漁業が中心で、美味しいお魚を食べることができます。
それと、意外なところでは全国で生産される紙風船の90%がここで作られています。「時代館」の中では製作の様子を間近に見ることができます。歴史(と味覚)の町、出雲崎に出かけてみませんか?
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