2010年1月30日更新(2010年1月31日ページ移動。2014年3月16日写真削除)
■1月30日(土) 開通した椎谷岬トンネルを通ってみました ──中越沖地震復旧工事は、すべて終了──
週末なので新潟へ戻りました。
他ならぬ我が家なのに、先週末は沖縄にいたし、その前の週末は大雪の影響で自宅に数時間滞在しただけだったので、正直なところ、ずいぶん久しぶり、という感じがします。
所用がいくつも溜まっているので、午前は市内をあちこち回り、午後は新潟市へ移動。今日の新潟県内は天気がとても不安定。
晴れ間が見えてホッとした途端、急に霙(みぞれ)が降ったりします。暦の上ではもうすぐ季節の変わり目、節分(「季節の分け目」の意)と立春なので、落ち着いてほしいところ。新潟市内での用を済ませてから、実家と伯母の家を経由して自宅に戻ることにしたのですが、今日は海岸線沿いの国道352号線を走ることにします。
今月の7日に、「椎谷岬トンネル」が開通したのです。良寛和尚が生まれたことで知られる出雲崎と柏崎市の境に、椎谷岬があります。
地形を考えると、どうもここは地震の「巣」の一つらしい。実際、2年半前の新潟県中越沖地震はまさに、この椎谷岬の真正面を震源地として発生しています。
もちろん当地は被害甚大。岬を通る道路(写真中央奥:現在は通行止)は地震によって斜面が数カ所で激しく崩壊してしまいました。それでなくてもここは、雨が降ると被害が発生しがちな場所。
1944年には、予防接種のために学校へ向かっていた医師が、梅雨の大雨による土砂崩れに遭遇して殉職するという悲劇も発生しています。西村センセイ、今回もこれまで通りに崖の斜面を補強するのかなと思っていました。
でも時間をかけて精査した後に、新潟県が至ったのは、この岬の下を通るトンネルを掘削するという結論。
地震から約1年後にトンネル工事に着工し、そして今月の開通へこぎ着けました。センセイは中学生時代からこの場所を通っています。
当時は自動車やバスが現在ほど普及していなかったので、中学校間の対抗試合などは、皆が自分の自転車に乗って移動していました。
この椎谷岬、屈強な男子生徒でも途中で降りて自転車を押すしかないほど、険しい。でもその代わり、ご褒美もありました。灯台のある岬先端から見る日本海の美しさです。
気のせいかもしれませんが、ここからだと水平線が曲がって見えるような、つまり地球が球であることがわかるような気がしました。もちろん地域の方にとっては安全で安心できる道路の方が重要。往来する車は、まるで何事もなかったかのようにトンネルを抜けていきます。
初めて走る椎谷岬トンネルは、予想外にカーブがきつい。素人としては、入口も出口もほぼ決まっているので、まっすぐ掘ればいいのに、と考えてしまいます。
実はこの椎谷岬、戦前に掘削を試みて、あまりの地盤の悪さに断念したのだそうです。最新技術を駆使して、その地質の悪い場所を迂回しているのかもしれませんね。さて、この椎谷岬トンネルの開通により、新潟県管轄の地震復旧工事はすべて終了。
人々の心の中に残っているものはともかく、少なくとも見える部分に関しては、これで大きな区切りがついたことになります。
■1月29日(金) 沖縄は、美味しい ──食べ物もビールも、「めんそーれ!!」──
旅の楽しみの一つが、各地の美味しい食べ物。でもこれが、なかなか難しい。
ガイドブックに載っているようなお店はいつも混んでいる――そもそも、センセイはこういうお店をほとんど利用しない――し、地元の人が利用しそうなお店を......と考えても、一見の客には見分けがつきません。
もちろん、「混んでいるお店に入る」という鉄則は有効ですが。それに一晩ならともかく、数日以上滞在するとなると、その地方の食事が口に合うか合わないかという問題が出てきます。日本国内なら最悪の場合、コンビニでお弁当を買って済ますことができますが。
でも外国だと事情はかなり深刻。
これまでの狭く、個人的な経験から、という大前提に立ってですが、ヨーロッパはともかく、センセイにとってアメリカは非常に厳しく、何を食べていいのか本当にわからなくなります。
自由に選択できる時は結局、スーパーで総菜とビールを買っていました。
沖縄に話を戻すと、最初の晩はホテルのフロントの人に近くのお店を勧めていただいたのですが、これが大正解。比較的薄味で、しつこくありません。
同行の3人で沖縄料理を何皿も頼んでしまいました。沖縄料理といえば、写真の「ゴーヤのチャンプルー」。チャンプルーは「炒め物」という意味だと教えていただきました。
要するに野菜炒めなんですね。だからゴーヤ以外にも豆腐やソーミン(素麺:そうめん)のチャンプルーなど、たくさんの種類ののものが普通にメニューに載っています。
またゴーヤのチャンプルーを頼んでも、もやしや豚肉など、身の回りの食材がふんだんに入っています。ところで西村センセイ、沖縄へ行ったら絶対に確かめたいことがありました。
果たしてゴーヤは苦いのか、そうではないのかという、センセイにとってはかなり深刻な問題です。センセイの母親は、お米や野菜類を育てるのがとにかく上手。
その彼女が何故かゴーヤに興味――ゴーヤは一時期ブームだったので、それに影響されたのかもしれません――を持って、その栽培を始めたのです。
西村センセイ、こんな寒い新潟で育つはずが......と思ったのが、意外にもすくすくと成長!!(実話)ところが、母親自慢のその新潟県産ゴーヤ、とにかく苦い。センセイはゴーヤを避けて──かつ、母親の視線も避けて──一緒に炒められた豆腐だけを食べていました。
果たして沖縄の人は本当にこんなに苦いゴーヤを毎日食べているんだろうか。それとも母親のゴーヤだけが苦いんだろうか。1軒だけでは断定できないと思ったので、滞在期間中にゴーヤのチャンプルーを2回食べてみました。いずれもさほど苦くはありません。ほろ苦さの中に、微かな甘みも。
やっぱりなぁ、気候が違う新潟で育てたからなぁ......と結論を出しかけていた時に、名桜大学の教職員の方々と会食する機会に恵まれました。
すると地元の方からは「最近のゴーヤは根性がない」(実話)とか「この時期のものは...」、挙げ句の果てには「あの苦さがいいんですよね」などという発言が続出。西村センセイ、前言撤回。やはりゴーヤは苦い食べ物のようです。母親は偉かった。残念ながらその才能、彼女の倅(せがれ)には引き継がれなかったようですが。
でも、沖縄に到着して、いきなりゴーヤを食べたわけではありません。
朝早くに金沢(小松空港)を出発したので那覇空港に降り立ったのはちょうどお昼時。本来の業務との関係で、空港内でとにかく何かを食べることにしたのですが、3人とも目が止まったのは「沖縄そば」と「ソーキそば」。
どこがどう違うのかわからないのでお店の人に尋ねると、前者は普通の肉(厚切りの三枚肉)が、後者は軟骨が付いた肉が載っているとのこと。
相談したわけではないのに、全員が沖縄そばを選択しました。何だかんだ言っても、博多のとんこつラーメンみたいなものだろうと高をくくっていたのですが......届いたものは、印象がずいぶん違います。
トッピングは厚切りの三枚肉──焼酎も使うんだそうです──と沖縄かまぼこ。スープはいわゆるとんこつラーメンと違って薄目でかなり澄んでいます。一口含むと、う〜ん、よくわからない薄味。
少なくとも、本土のいかにも「とんこつ」という、あのしつこい味ではありません。味の構成は何だろうと考えていたのですが、塩味が基本で、その上に魚のスープ+ごく薄味のとんこつ(?)のようです。
とにかく薄味なので、毎日でも飲めそうです。次は麺ですが、こちらも独特。本土のそうめんや一般的な博多ラーメンより太めのストレート麺。
表面はプリプリで、食べてみるとコシがあって、歯で噛み切る時の感触は、微かにプリリンという歯ごたえ。
うどんとも、ラーメンとも違います。敢えて「どちらか」と求められれば、前者が近いと答えますが、でもやはりここは「沖縄そば」と主張したい。
いくらラーメン大好きな西村センセイだとしても、それを毎日食べるわけにはいきませんが、確かに地元の人ならこの沖縄そばを食べられそう。きっと本土のうどんやそばに近い感覚なんでしょうね。
お土産に買って帰るべきだったかな。夜のセンセイはといえば、もちろんビール。しかもここは沖縄ですから、県内でしか販売してないオリオンビールに挑戦します。
白状すると、沖縄行きの飛行機の中でオリオンの缶ビールを販売していたのですが、ここは我慢。楽しみは沖縄に着いてからと思っていたし、それに何より、仕事中だし。
沖縄での最初の晩にオリオンの生ビールを飲んでみると......美味しい!!ご存知のようにセンセイは、まずドイツビールに近いサッポロビール――沖縄では見つからなかった――を探し、それがお店にない時は、ほぼ反対のキャラクターを持つアサヒのスーパードライを求めます。
これはこれできちんとした純日本風の味で、ちゃんと飲めるからです。沖縄のオリオンビール、技術協力は別な会社なんだそうですが、ミュンヘンのビールに似た「フカフカ」した感じがします。
独特の苦味が特徴だと思います。あくまで個人的な見解ですが、「サッポロの次かな...」と思っていたら、これが甘かった。
お伝えしたように西村センセイ、3日目に名護市を訪問したのですが、市内で飲んだ生のオリオンビールが那覇市のものと一味も二味も違うのです!!
甘みがあって、味が奥深い。ナシテ?!理由を尋ねると、このオリオンビール、名護市内の工場で生産しているため、市内のお店には鮮度の高い商品を供給できるからではないか、とのこと。
なるほど。仕事をすべて終えた帰りの飛行機の中で、オリオンビールを売っていたので、飲んでみた――関係者の皆様、お許しを――のですが、やはり名護で飲んだものより、明らかに硬い。
いつの日か、また沖縄に、そして名護市へ行ってみたい!!よくよく考えてみると、早朝にホテルを出発する必要がある時などを除くと、センセイは毎日毎晩沖縄料理を食べ、オリオンビールを飲んでいたことになります。
出発前の心配は杞憂で、センセイには意外と沖縄が似合っていたんでしょうね。でも、もしかすると、実はこの件も沖縄が主役で、センセイの味覚まで「めんそーれ(いらっしゃい)」してくれたのかもしれない。
そう考えると沖縄はつくづく、奥が深い。
■1月28日(木) 琉球(沖縄)はシーサーと石敢富が守る!! ──脈々と続く、古くからの伝統──
今回の沖縄出張は大学の仕事の一環なので、仕事中は会場に缶詰になります。
気を使う業務なので、西村センセイちょっと疲れてしまい、休憩時間に会場内の自動販売機へ。コーヒーを飲みながら外をぼんやりと見ていると、ご覧の、緑に囲まれた立派なお宅が目に入りました。
この地域は繁華街に近い幹線道路沿いの一等地。
ビルやマンションが建て並んでいるのですが、広く敷地のこのお宅は、静かに昔ながらの風情(ふぜい)を保っているように思えます。
何より、屋根が沖縄独特。地域や家によって異なるのですが、茶系統の屋根瓦──ただし、オレンジに近い明るい色から、写真のお宅や首里城のように、かなり濃く、暗い色まで存在する──を白い漆喰(しっくい)(?)で止めたような構造になっています。
家によっては、屋根瓦より白い部分の方がずっと目立つ場合もあります。このお宅では良くわかりません──加齢に伴い視力が落ちているので、はっきりとは視認できなかった──が、沖縄の家の屋根には通常、「シーサー」と呼ばれる獣の形をした魔除けの神様の像が乗っています。
形は本土の狛犬に似ていて、屋根の天辺や斜面になっている屋根の中央に位置してます。
センセイが見た限りでは、後者の方が普通。意外に思われるかもしれませんが、ごく最近建設されたモダンなマンションでも、各部屋のベランダの手すりや建物全体の入口に、シーサーがちょこんと(?)座っていたりします。
右の写真は県庁前交番のシーサー。ずいぶんスマートですし、しっかりと着色されています。
たぶん、相当由緒正しいものなのでしょう。普通はもっとずんぐりむっくりした無塗装の像です。そして家の入り口付近の基礎に、何故か「石敢富(「いしがんどう」ないしは「いしかんとう」。なお「富」の字は旧字体)」と書かれた石のプレートを目にします。
最初はたまたまかな、と思ったのですが、注意してみているとシーサー同様、形はともかく、ほとんどの民家でこの石敢富を確認することができました。調べてみるとこちらも魔除けのようで、本来は本土の庚申塚(こうしんづか)のように、主に、地域の入口の石碑として使われていたものらしい。
それが明治期以降、各戸でも用いられるようになったようです。シーサーと石敢富、時代とともに見かけや形態が変化しているようですが、「古い伝統はきちんと伝えなければならない」という先人の想いと智慧が形になったもののように思えます。
やっぱり沖縄、好きだなぁー。
■1月27日(水) 「お客さん、○○まで200円でどう?」 ──なぜ沖縄でタクシー文化(!!)が発達したのか──
沖縄に着いた最初の印象は、「暖か〜い。でも、寒そう」。
センセイらが滞在した期間、那覇市の日中の気温は16℃〜21℃でした。西村センセイ、仕事の時はもちろん背広姿にネクタイですが、散策する時のために長袖シャツとジーパンを持参。
その格好だと、歩くと暑くなるので腕まくりをして、日陰なんかだと何か羽織るものが欲しいなぁ、という感じです。ところがその軽装のセンセイの隣を歩く沖縄の方は皆、厚手の防寒具を着ているのです!!(実話) タクシーの運転手さんと話しても「今日は寒い」とのこと。
寒い国から着たセンセイらと気温の感覚が違うんでしょうね。他にも気づいたことがあります。
ホテルのすぐ近くに那覇バスターミナルがあるのですが、目と鼻の先なのに、ご覧のように横断歩道がないので、大きな歩道橋を二つ渡らなくてはなりません。
感覚的にはものすごく遠回り。たくさんの車が走る幹線道路だということもあるのですが、そもそも沖縄は車社会。
国際通りなどの一部を除けば、歩いている人はまばらで、人間よりも車の数の方が圧倒的に多い。タクシーにもびっくりしました。とにかく街中がタクシーだらけ──実話──です。
初乗り運賃は500円!!しかも歩道を歩いていると横にタクシーが止まって、後部のドアを開けて乗車を促します。
一度や二度ではありません。車社会のアメリカの田舎に似て、「歩行者がいる」というのは珍しいことなんですね。し停まるだけではありません。南部のバス停に立っていたら、タクシーが乗車を促すだけでなく「○○まで200円。どう?」値段交渉です。
名護でも那覇までの値引きに出くわしました。信じられない!!一方、路線バスは劣勢で、たくさんの本数が走っているのに、乗客はまばら。その乗客の大半は地域の老女で、食料品などのを買って、ちょっと離れた自宅へ戻るところのようです。
その他には高校生がごく少数。「こんな状況で採算はどうするんだろう」と訝っていると、南部のバスの中で「このバスは地域自治体の支援を受けています」とのアナウンス。
タクシーの運転手によると、どの自治体、あるいは地域を指してかはわかりませんが「あいつら(=バス会社)、年間2億円ももらっているんですよ」との恨みがましいご説明。そのタクシーにもいろいろあって、仕事帰りに関係者で乗車したタクシーが......怪しい。バックする時も発進する際も隣のタクシーに衝突しそうになります(実話)。
センセイら3人は誰が指示したわけでもないのに、後部座席を含めてシートベルトをしっかり締めました。身の危険を感じたのです(こちらも実話)。こう書くと皆さん、「沖縄って...」という印象を持たれるかもしれませんが、実はセンセイが疑問に感じたのは、ちょっと別なこと。なぜこうなったのか、です。
沖縄の各都市はコンパクトにまとまっており、本来ならば公共交通機関でかなりの部分をカバーできるはずです。しかし実際には、特に路線バスは支援を受けてやっとで経営しているという状態。
もちろん気候も関係しているでしょう。夏は暑すぎるので、ちょっと移動するだけでもクーラーの効いたタクシーを使うのだそうです。そうそう、「時差」も存在します。
時計は本土──沖縄の人の表現──と同じなのですが、朝の7時はまだ暗いし、夕方6時は「さあ、これから」という明るさ。
飲み屋も朝まで営業しています。スペインの「シエスタ(午睡:ごすい。昼寝のこと)」の文化に似て、暑すぎる時は休憩し、涼しくなってから夜通し活動するとのこと。それはそれでわかるのですが、でもこの「車社会」という文化は、戦前にはなかったはず。
第二次世界大戦後、この亜熱帯の気候の中で米軍が占領を続ける過程で形成されたに違いありません。アメリカの田舎、特に南部に似ているのは当然なのです。
単に車社会だから、と片づけられるのではなく、タクシーにも車にも公共バスにも前の戦争が、色濃く反映されているんですね。でも沖縄で、最も強く感じたのは、車でも、タクシーでも、時差でもありません。(ただし、公共バスの件はかなりショックだった。)
人々の暖かさです。
ご縁があって本土から移り住んだ人の何名かからお話を聞くことができたのですが、センセイの印象と同じでした。お客はみんな「めんそーれ(ウェルカム)」なんだそうです。
島嶼(とうしょ)を中心に、沖縄へ移り住む人が続く秘密を垣間見たような気がします。
■1月26日(火) 「ゆんたく」の旅 ──もう一カ所、沖縄で行かなくてはならなかった場所──
昨日はサイトを更新できず、申し訳ありませんでした。
日中の仕事を終わらせてから、離れた場所で遅くまで飲んでいたいのです。(関係者の皆様、ちゃんと日付が変わる前に那覇市内のホテルに戻り、翌日の仕事はきちんとこなしましたので、念のため。)
昨日の那覇は寒冷前線が通過したため、とても不安定な天気。曇っていたかと思うと急に強風が吹いて激しい雨になったりします。
仕事を終えてホテルに戻る途中に、那覇バスターミナルで降ろしてもらいます。一昨日の沖縄南部の探訪でバスの効率的な利用方法がかなりわかってきたのです。
目的地は沖縄県北部の名護市。普天間基地代替施設の受け入れをめぐる市長選挙で、反対派が劇的な勝利を収めた、あの名護。奇(く)しくも、その選挙翌日の訪問ということになります。(なお、選挙に関係して訪問したのではありません。)
バスターミナルで少し待っていると、名護行きのバスが2台続けて到着しました。
ずっと迷っていたのですが、最初に着いた各駅停車に乗ります。「いかにも沖縄の女性」という感じの若い運転手が「高速バスを利用する方は後ろに続くバスに乗ってください」と案内しています。
日本地図では良くわかりませんが、実は那覇市と名護市はとても離れている──約60Km(!!)──のです。
両市を結ぶ道路は、以前は海岸沿いのものしかなかったようですが、現在は高速道路「沖縄自動車道」があります。各駅停車は古い道を約2時間半かけて走るのですが、高速バスなら、所要時間はざっと半分。
普通なら、後者を選択するはずなのです。各駅停車は県庁、国際通り、泊港と、一つひとつ丁寧に停車していきます。やがて普天間(ふてんま)、嘉手納(かでな)など、広大な米軍基地の脇を通ります。
「沖縄に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」という言葉を実感させられます。恩納村(おんなそん)からは西部の海岸沿いの曲がりくねった細い道をゆっくり走行。
もともと乗客は少ないのに、それが次々と降りてしまって、今ではほとんどセンセイと運転手だけ。車内放送をオフにして「どこへ行くのか」とか「高速バスと間違えたんじゃないのか」などと、訊いてきます。
もちろん正直に答えます。運転手がとても良い方だというのはわかっているので。車内放送を再開したので訝(いぶか)っていると、途中から小中学生が乗ってきました。通学バスとしても利用されているんですね。
風雨がひどかったので写真を撮影していないのですが、恩納村付近の海岸は本当に絶景が続きます。
1枚1枚が、すべて絵ハガキになりそう。名護市街に入ると、細い路地が続きます。
閉じられてた店が多く、経済的に疲弊している──選挙の争点の一つになった──ことが良くわかります。一瞬のことだったのですが、車窓から事務所を片づけているような場面に出くわしました。
間違いなく選挙事務所の撤収作業です。どちらの陣営のものなのかはわかりませんが、市を二分しての選挙だったということが、ひしひしと伝わってきます。
運転手さんにお礼を言って、終点の名護バスターミナルで下車。いわば「駅」ですから、記念撮影。
アメリカ南部の田舎町が、ちょうどこんな感じです。さて、昨日の目的地は市内にある明桜大学。
バスターミナル近くから出ている学バスに乗ってみたかった──学生さんや関係職員の雰囲気がわかるから──のですが、西海岸を贅沢に回り道してしまったので、もう間に合いません。
辻褄をあわせるべくタクシーに乗って、ほぼ定刻にキャンパスに到着。先生方に暖かく迎えていただきます。
沖縄の言葉で「めんそーれ」(「いらっしゃい」)と言うらしいのですが、「うちなーんちゅー」(「沖縄の人」)が心からそう思ってくださることがわかります。授業が終わった頃を見計らって、場所を変えます。学生さんの自主的な活動の様子を見学させていただくためです。
本来の数学力の相互研鑽に関する勉強会の隣で、こちらも学生さんが自主的に議論しています。
あまりの迫力に、断ってからちょっと撮影させていただいたものが右の写真。これでもおとなしい場面です。後でお話を聞くと、卒業式関連のイベントの相談とのこと。
女性の司会──やはり沖縄では女性が強いと思う──が仕切っていたのですが、男子学生を含めた皆がきちんと意見を述べています。
少なくとも自主性という点に関しては、金沢工大の学生諸君もかなわないかもしれない。
マンガに良く出てくる、目のキラキラ具合が凄いのです。コミュニケーションの基盤にあるのは、お互いの信頼関係です。
で、センセイらはというと、隣の円卓で、教員、職員、学生ボランティアが「ゆんたく」。「談話」くらいの意味なんだそうです。
西村センセイ、気を使う仕事を終えた後だったためか、沖縄中部西海岸の美しさに惑わされたせいか、女性運転手の魅力に惹かれたのか、そしてバスを利用する小中学生に(センセイが)励まされたせいか、アルコールが入っていないにもかかわらず、ずいぶん「ゆんたく」してしまいました。
さらに場所を飲食店内に移して、沖縄だけのオリオンビールと焼酎──舐めただけだけど──と美味しい料理とで......。後は、ご想像にお任せします。連日連夜の、忘れられない沖縄です。
■1月24日(日) 沖縄を訪問する機会に恵まれたら、行かねばならない場所
昨日に引き続き、今日も見たままのお話。
今回は数人での公務出張――たとえバラバレでも、任務についてはお伝えできません――なのですが、センセイらの那覇チームは、諸般の事情により、今日は完全な自由行動。
......出張なのに。で、全国各地で同じ業務に従事していらっしゃる金沢工大関係者には本当に申し訳ない。でもせっかくの、そして初めての沖縄ですから、「行かなくてはならない」と思う場所を訪問することにしました。
行きたいところはいろいろあって、調べてみると割安で観光バスに乗ることもできることがわかったのですが......う〜ん、バッジを付けて、昼食を含めた団体行動。
ネジが外れたセンセイには似合わない。今日は公共交通機関にこだわって、移動することにします。
まず最初は、琉球王国首里(しゅり)城の通称「守礼門」。
沖縄の方が言う「本土」なら、大手門に相当するのでしょう。首里城は那覇北部、市街地を見渡す丘の上にあります。那覇市内からだとゆいレールの終点「首里駅」が便利なのですが、意外に駅から歩きます。
経路の表示も少ないので、西村センセイもちょっと戸惑いました。しかもこの守礼門、駅からのルートだと少し戻るような格好。
写真には写っていませんが、手前には修学旅行客と、バスツアーのお客さんがいらっしゃいます。この地域全体は公園になっていて、かなり険しい坂を登って、本丸その他に相当する「正殿」他に入ります。
ちなみにこちらは有料。もしかすると若い人の中にはご存知でない方もいらっしゃるかもしれないのですが、これらはいずれも何度か焼失しましたし、そして何より、第二次世界大戦末期、完膚なきまでに破壊されています。
これらはほとんど再建されたものなのです(現在も工事は継続中)。ちなみに写真の正殿は漆の塗り替え作業中。それにしてもやはり、中国と日本の文化の両方に影響を受けています。
正殿前のこの広場、センセイはつい最近BSハイビジョンでちょっとですが「ラスト・エンペラー」を観たばかりなので、イメージが紫禁城――知らない人は調べてね――と重なってしまいました。
一通り見学を終えて首里城公園の坂を下る途中、3人のグループに追いつくような格好になりました。
場所は沖縄県立芸術大学構内。かつては琉球大学も城内にあったようです。その中の男性が、「ここにはかつて、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校があって、その優秀な生徒さんが亡くなったんですね...。今は大学になりましたけど」とのこと。(実話)
ひめゆり学徒隊(ひめゆり部隊)のことに違いありません。というわけで――実は結構すったもんだあったのですが――センセイは県南部、糸満市内の「ひめゆりの塔」の前に立っていました。
正確には「ひめゆりの塔」は写真右手の小さな石塔。中央は慰霊碑(納骨堂)です。センセイは路線バスを利用してここまでたどり着いたのですが、この場所みならず、県南部は、バス停の名称などに戦争の記憶が形となって残っています。
65年前の悲惨な記憶と現在とが同居しているのです。路線バスを乗り継いで、県南端に程近い平和祈念公園「平和の礎(いしじ)」へ。沖縄戦で命を奪われた方の氏名が礎に県別、五十音別に記されています。
テレビでは何度か目にした場所ですが、現場ではよくわからない力にに圧倒的されます。
お化けがいるわけでもなく、誰かが何かを叫んでいるわけでもないのに。歩いていて気づいたのですがこの場所、日本人だけを載せているのではないんですね。
当時日本側に属していた現在の大韓民国、北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)、台湾(台湾民国)のみならず、敵国とされていた米国、英国その他の死亡者の名前も等しく刻まれています。小さな島嶼を除けば、日本で唯一、悲惨な地上戦となったこの沖縄。
しかもこれに深く関連した名護市長選が投票――現時点では結果は判明していない――された、まさにその日に、センセイはこの場所を訪問する機会に恵まれました。
広島や長崎と同じように、やはり「来なければならなかった」という思いを新たにするのです。