2008年3月14日更新(2008年3月23日ページ移動。2012年9月20日一部写真削除)
■3月14日(金) 割と居心地のいい場所 ――ツアー最後の研究会に参加しました――
実質的には3月2日(日)午後から始まった西村センセイの春のツアーもいよいよ大詰め。この間、ざっと2週間、東京―柏崎―金沢―京都(+α)を行ったり来たりしていたことになります。
さすがにちょっと疲れました。この間に頂戴したメールのお返事が遅れていますが、明日朝から順次お返事しますので、関係者の皆様、もう少々お待ちください。
さて今日は朝から夜まで、工学に関する初年次教育の研究会に参加していました。大学や企業からの参加者をお迎えしての、一種の「異業種交流会」。
要するに「何でもあり」のごった煮――関係者の皆様、ゴメンナサイ――なのですが、この感覚がとても面白い。先日開催された初年次教育学会設立総会で、ある方が、「学会はアカデミックでならねばならない」と発言されていました。
それ自体を否定するつもりはありません。単なる同好者の集まりなら、それは学問ではありませんからね。でも、声高(こわだか)に「アカデミック」を主張する人は時として、実は自分がすでに存在するある基盤を前提として発言している/発言できるということを見事に見落としています。
これは、大学教員、特に「自分は優秀だ」と自負している教員によく見られる盲点です。その前提そのものにある種の疑問を持ち、新しい「問い」を立てる――この能力育成は教養教育の目的そのもの――ことができるのは間違いなく、時代遅れの彼/彼女ではなく、ごった煮に何か新しい意味を見出している人です。
もちろん、ごった煮さえあれば、新しい何かが生まれるとは限りません。
でもセンセイが関係する学会の中では、たとえば大学教育学会(旧「一般教育学会」)や科学技術社会論学会などはその設立当初、大学等の事務職員を含めて多種多様な参加者を迎えていたものの、すぐに論文審査等、大学人にだけ有利な条件によって、異業種な人々は潮が引くように姿を消してしまいました。
初年次教育学会と今回参加した研究会のあり方は、とても対照的。一見、ほとんど無関係なように見えますが、見かけに反して両者の相違は意外と少ない。
要するに社会と大学の境界領域を、どちら(企業人/大学人)から見るか、という違いでしかないのです。異父/母兄弟のような、二つの集まりが、今後どう展開するか、あるいは発展しないか。
それは(センセイ自身を含めて)参加者の「相手の立場を尊重する」という基本的な態度をどれだけ尊重するかにかかっているように思えます。
なぜなら、学者の多くはその発言に相違して、自分が理解できない人間の立場を無視します――だって、理解できないから――し、社会人は大学人の発言に「何だ、現場のことを何も知らないんだな」と考えてしまいがちだからなんです。
ホントに、どうなるんでしょう。
■3月13日(木) 地震で壊れた基礎部分の修理は、注射器で?!
今日からツアー再開。
でも今日は移動が主なので、しばらく自宅にいていろいろ片付けものをしていました。一家の主にはいろいろと仕事があるのです(もちろん主婦や子供達にも為すべき仕事はあります)。
先日、センセイが金沢にいる時に、家の基礎の修理に入ったとの連絡がありました。昨年の新潟県中越沖地震で鉄筋コンクリートの基礎が破断してしまった、その修理です。
被災地区の建築業者は全壊・大規模半壊家屋の再建など、急を要する仕事が多くて、センセイの家のような比較的被害の軽い家は修繕が後回しになってしまっていたのです。
昨年末の床下の修繕に続く工事となります。何回かお伝えしましたが、田圃を埋め立てたこの地に家を建てることになった時センセイは、「地震はいつか来る(だろう)」という前提の下に建築しました。
白状すると、ホントに来るとは思っていなかったし、来るとしても数百年先だと思っていたのですが。遠い親戚でもある工務店に地震への対処方法を相談したところ、宮大工も務めた棟梁(とうりょう)曰く、「パイルを打つのが良い」とのこと。
構造上重要な箇所、具体的には基本は長方形の建物の四隅と長辺の中点、計6箇所に長さ数mのパイル(電柱のようなコンクリート製の柱)を立て、その支えの上に基礎を形成するというのです。実際にはパイルを2本重ねているので、計12本が埋まっているのですが、結果的にこのパイルはきわめて有効でした。基礎も、その上に乗っている家屋もほとんど歪むことなく地震を乗り切ることができました。
でも、パイルそのものは丈夫でも、パイルとパイルの間は、支えるものが何もないようなもの。
一方、家屋の質量はパイルの有無にかかわらず基礎に均等にかかってきます。その結果、パイルの部分は無事なのに、そのすぐ脇で基礎が家屋の重さに耐えきれずに割れてしまうということになりました。(繰り返しますが、それでも被害は軽い方です。)
どうやって修理するのかと思って家に戻ると、右の写真のように、割れた部分に注射器(?)が刺さっています。
左の注射器だと良く分かるのですが、注射液(?)をゆっくりとゴムの力で割れた部分に薄茶色の液体を注入しています。(写真の左外の下にパイルがあって、パイルの右隣数カ所で基礎が割れています。)昨日家に戻った時は暗くてよく分からなかったのですが、最初の工事から1週間後くらいにまた担当の方がいらして、注射器(?)を外し、それなりに仕上げてから帰られたとのこと。
次の写真は上の写真の中央部をクローズアップで撮影したものですが、ちょっと見ただけでは気づかないほどです。
もちろん大切なのは見かけではなく構造上の強度。
シリコンを注入するそうなのですが、きちんと工事すると以前とまったく変わらない強度を保持できるのだそうです。
めでたし、めでたし。......と終わりたいのですが、今回の地震で改めて確認したことがあります。
あらかじめリスクをそれなりに予測して対処していれば被害も、その後の対処も割と順調に進みます。
でもそうでないと被害は甚大で、そこからの回復も極めて難しくなります。
しかもそれは当人達にとどまらず、彼ら彼女らの子供達が、ますますその状況から脱出することが困難になるでしょう。
しかしその困難さを適切に訴える言葉も、勉強するチャンスすら失ってしまうだろうと強く予想されるのです。今後、持てる者と持たざる者の二極分化が想像以上に──かつて少なくとも近代においてこの国が経験したことのない程まで──広がるように思われます。
「民営化」の御旗の下に、この新自由主義的な動きを押し進めたのは当時の為政者であり経済界のリーダーであり、一部の完了と御用学者です。
しかしその本質を見極められず、場合によっては熱狂的に支持したのは、他ならぬ私たち有権者です(まだあまり気づいてないようだけど)。そのツケの一部が、例えば「格差」という形で表れていても、自分が為したことに対する本能的な恐れからなのでしょうか、私たちは本当に見えないか、暗黙知の次元で見えていても見えない(/見えない)ふりをします。
たぶん、しばらくはこのまま続くのでしょうが、今回のような地震という一種の不条理は、その不条理の底の見えない「暗さ」を、例外的に見える形で目の前に突きつけたように思われてならないのです。正直なところ、拙宅の被害など取るに足らないもの。
でも、全壊した家屋の跡地で、神戸の長田の更地──最近は行っていないけど──で、ふと、不条理が目の前に立っていることに気づくことがあります。
普通の生活の場の、普通の生活の時間に。気づかない/わからないのは、それはそれである意味「倖せ」なのかもしれません。
でも大切なことは、不条理が問うているのは貴方/貴女であり、またセンセイ自身だ、ということです。これは誰にも逃れられない宿命なのです。
■3月12日(水) 数学のエレガントな解法と、列車の旅の関係
先週水曜日に始まった今回の春のツアー。
柏崎の自宅を起点にこれまでの行程を整理すると、都内の会合に参加した翌朝、自宅をかすめながら金沢に戻って会議をいくつかこなし、週末に金沢の会議に出席して、そのついで(?)に九州西北部を旅した後、京都での学会に参加して金沢での会議に出席して......という具合。
で、西村センセイが現在、どこに存在するかというと、実は新潟の自宅。金沢の大学に滞在したのは5時間弱で、勤務を終えてから自宅に移動したのです。
しかしツアーはこれで終わりではなく、明日から再び都内出張となります。つまり東京と京都、九州を、日本海側を通りながら行ったり来たりしているわけです。写真は今回使用した京都、九州旅行への切符の一部。
「周遊きっぷ」といって、往復の乗車券と、目的地(ゾーン)の乗り放題の乗車券(特急自由席等も乗車可)からなっている、その帰路の切符です。山陽・東海道新幹線と北陸・信越本線を使うという、複雑な経路を好むセンセイとしては珍しく単純明快なルートです。
あちこちでの車内検札や、京都と金沢での途中下車の印があるので改札で申し出て、記念にもらってきました。多くの場合、使用済の切符を「下さい」と申し出れば、不正乗車に利用する可能性がない限り、そのまま返してもらえるか「無効」と小さく押印してからもらうことができます。今回の「乗車記念」という印は初めて見ました。
いくつもの印で、何だか凄みすら感じさせますねぇ。さて今回のツアー。
基本的な計画を立てて、しかも乗車券類を購入した後に最初の東京出張が飛び込んで変なことになったのですが、後で考えてみると、新潟の自宅を基準に考えるのではなく、最長ルートを確保できるように動線を考えるのが一番お得です。つまり今回の場合、まずとにかく東京まで出て、東京を起点に新潟、金沢、そして京都を経由して九州へ向かい、帰りはその逆を辿った後に、別途、東京から新潟へ移動する、と考えるのです。
JRの運賃は長距離になればなるほど割安(「長距離逓減制」)になり、しかも有効期間が長くなるのですね。少々補足すると、ポイントは金額ではありません。
センセイが旅する理由はいくつかあって、ホントにその場所に行って、評判──というか、評判なんか存在しない場所の方が圧倒的──はともかく、自分の目と耳と心でそこを体験したいというのが最大の理由。
でもその他に、何重もにからまった『時刻表』という現実の問題があって、それを「限られた日程で」とか「最も効率よく」とか「最短で」とか「割安にするには?」といった、ある特定の視点(/条件)からエレガントに解くのです。
つまり知的な楽しみなのです。数学の問題を解く時、虫食い算にして、とにかく数字を当てはめるのか、x,yなどの未知数を立てて方程式を解くのか、微積分を用いるのか、図形を使うのか......というように、いくつも解法が存在することがあります。
でも、自分が考えることができなかった解法に、エレガンスを感じる──「ま、負けた...」という感じ?──瞬間もありますよね。そんな感じなのです。
わかってもらえるかなぁー。
■3月11日(火) 西村センセイ、京都に再び出現!! ――「初年次教育学会」が設立されました――
西村センセイは現在、京都市内に滞在しています。今回のツアーの主目的、同志社大学で開催された「初年次教育学会」の設立総会に参加していたのです。
このホームページをご覧の方はよくご承知だと思いますが、日本の大学・短大等高等教育機関を取り巻く環境は大きく変化しています。
曖昧な表現で申し訳ありませんが、大学等は今日、18歳人口が激減して大学の経営が......などという目に見える問題だけでなく、たくさんの目に見えない/見えにくい問題――むしろこちらの方が本質的――など、多くの課題に直面しているのです。もちろんこれらの問題に即効薬はありません。
けれども問題の所在と本質をきちんと考え、可能性を論理的に検討して冷静に対応することは可能――浮き足立っている大学も多いけど――でしょうし、また理性的な存在としてそうすべきでしょう。大学人(教員・職員・経営者)の中には30年近く前(!!)からこの点に気づいた人がいて、例えば早くから大学教育学会(旧称「一般教育学会」)などが組織され、積極的に活動してきました。
センセイも、歴代の学会長2名がセンセイの師匠だったこともあって、大学教育学会には20年以上参加しています。ただし、たいしたことはしていませんが。今回設立された初年次教育学会は、その大学教育学会の流れを汲む学会で、特に、現在多くの大学が直面している、大学に入ったばかりの「切り替え」時期の学生の問題を考える学会です。
実は、このホームページの「授業のご連絡」って、まさにこの問題を軽減する方策の一つなんですよね。センセイのことはともかく、目を世界に転ずると、やはりこの分野でもアメリカの経験が先行しています。(何でもアメリカが良いと言ってるわけではありませんので、念のため。)
そこで今回はアメリカから専門家をお招きし、グループに分かれて活動し、そして学会の設立式典に臨みました。朝日新聞で報道された(らしい)こともあってか、予想をはるかに上回る参加者――やはり各大学はそれだけの必要性に迫られているということです――を迎えて会は盛り上がりました。
最後は懇親会だったのですが、総会を手伝ってくれた同志社の学生さんが、「今まで大学の教授は・・・(中略)・・・だと思っていましたが、今日の学会に立ちあわせていただくことができ、これから日本の大学はきっと良くなると確信しました」と語っていた姿がとても印象的でした。
西村センセイ、参加者の真剣な表情を見て、「そうだよね。まんざら捨てたもんじゃないよね。これだけ多くの人が地道に活動しているんだから」とホロリとしたのですが......さて皆さんはどうお考えでしょう。
■3月10日(月) 日の出も日の入りも、九州ではちょっと遅いようです
何だか出だしからコケていた今回のツアー。自由に使えるのは今日1日だけなのですが、やはりなかなか予定通りに進みません。
昨日もお伝えしたように、今回は九州北西部のJR線と松浦鉄道を1日で完乗しようというもの。
各路線はそれほど長くないのですが、長崎本線の未乗区間が他と離れているのと、路線が網の目状になっているので、効率よく乗るとはできません。
手間隙をかける必要があります。(学校や育児と同じですね。)それでも時刻表をよぉーく読んで、「これしかない」というプランを立てたのですが、ほんの僅かばかり時刻が変更されていていたために実現することができませんでした。
次善策として、今朝、6時前の始発で長崎駅を発って予定路線を完乗する案と、完全乗車は諦めるものの、もう少しゆっくり乗る案を考えて、どちらを選ぶかは今朝の気分次第ということにしました。4時前から起きてはいたのですが、あまり早朝に出発する気になれず、7時過ぎに駅に到着。
予定の列車に乗り込み、出発時刻が迫っていたにもかかわらず時刻表を再確認したら、その列車は目的の長崎本線未乗区間を走らないことが判明しました。
昨晩は酔っ払っていたので、勝手にそう思い込んでしまったのです。一瞬迷ったのですが、すぐに荷物をまとめて下車。乗るはずだった快速電車を見送ります。車掌と駅員が怪訝そうにこちらを見ています。すべてが仕切り直し。
西村センセイ、今回のようにあらかじめ案を立ててある場合は、厚い時刻表は持ってきません。必要な部分だけをコピーします。
でも今日のように予定が変更になると必要な部分が不足します。幸い、列車の運行パターンは決まっている――特に単線区間の場合――ので、運行ダイヤを推測し、最後はPHSで運行を確認しました。
というわけで、結果的には松浦鉄道は諦めたものの、JR線に関しては予定路線をすべて乗りました。
それも松浦鉄道に乗らなかった分、予定より3時間ほど早く終了しました。博多近郊を除けば、今日の路線は予想通りにシブイ路線ばかり。
特に筑肥線は四国の予土線や中国の木次(きすぎ)線に劣らぬ風情があります。この区間は往復したのですが、また乗ってもいいなぁーと思います。
ただし終点の伊万里を除けば人口も乗客も少なく、高校生が降りたら乗客はセンセイを含めても4人だけになってしまいました。花壇の手入れに余念がない駅員一人だけの西唐津駅から、筑肥線快速に乗ると時間と空間をねじって繋げるように1時間ちょっとで博多に到着。
今朝も感じたのですが、やはり九州は日の出も日没も新潟や金沢なんかより少し遅いようです。そういえば今日は(回った順に)有田、伊万里、唐津と、陶器の本場を巡ったことになります。時間がなかったし、それに高尚な趣味も持たないけれど、ちょっともったいない感じもします。
京都での会議を終えた西村センセイ、新幹線と特急「かもめ」を乗り継いで移動し、現在は長崎市内に滞在しています。明日、お休みをもらって、九州北部のJR線に乗ってみようと考えているのです。
ご存知のようにセンセイはちょっとでも時間があれば、JR線で全国あちこちを見るようにしています。
去年の夏休みは手薄だった東北北部から三陸を旅する予定で列車もホテルも全部手配していたのですが、7月の新潟県中越沖地震で吹っ飛んでしまいました。
秋から冬にかけても北海道を目指したものの、どうしても日程的に無理。2、3月も東北、北海道の旅を計画したのですが、やはり無理でした。というわけで行先変更。
ホントは渋い中国地方のローカル線を考えたのですが、とにかく本数が少なくて日程的に無理。次の候補は九州北部。
ただし福岡県内は炭鉱があった関係で鉄道が網の目のように張り巡らされていて――それでもずいぶん減ったのだけど――ちゃんと乗るにはかなり時間がかかります。というわけで今回は長崎を基点にして、大村線の未乗区間(早岐〔はいき〕―佐世保)、唐津線そして筑肥線を旅することにしました。(ずいぶんシブイでしょ?)
また、長崎本線のローカル線しか走らない別線区間も乗りますし、松浦鉄道(旧国鉄松浦線)にも乗ってみるつもりです。ホントはこれらの区間を1日で乗るために完璧なプランを立てたはずだったのですが......どうもダイヤが一部変更になっているようで、松浦鉄道をすべて乗るのは無理なようです。
とにもかくにも真っ暗な中を長崎到着。
数年前に娘と来たことがあるのですが、写真右側の駅舎そのものは変わらないものの、隣接してスーパーや若者向けの衣料品店などが入った立派な駅ビルが建っているので、まったく別な場所のようです。
長崎前市長が暴漢に銃撃された場所もわからなくなってしまいました。あ、タイトルは何だって? 場所にもよりますが、長崎を含めて西日本は夕方から雨になっているのです。
長崎での雨は初めてなのですが、センセイにはこの地の雨はどうしても追悼の雨に感じられてしまいます。(元歌は追悼ではなく追慕の歌ですので、念のため。)