2008年7月12日更新(2008年7月20日ページ移動。2012年9月20日一部写真削除)
■7月12日(土) 西村センセイ、自宅近くに開店したコンビニで現代社会を考える
自宅近くで新築工事が進んでいたコンビニが昨日の朝オープンしたというので、今日行ってみました。センセイは基本的に、新しい物好きなのです。
ここは昔、パチンコ屋の駐車場だったところで、新潟県中越沖地震の際は自宅前のボランティアセンターへ来たバスや車の駐車場として使われたほど広い敷地です。
工事している時は感じなかったのですが、改めてみてみると店舗はかなり大きい。
特に出入り口の左側、窓のない部分がかなり広く取られています。新聞の折り込みチラシからすると、ここに厨房があって、パンを焼いたりお弁当を作ったりしているはずなのです。ガラス張りのその厨房を確かめながら店内へ。かなりお客さんが入っています。
昨日は相当混雑したのだそうな。基本的にはコンビニですから、よそと大きな違いはありません。でもよく見ると陳列棚は低めで、通路は広く取ってあります。
スーパーやホームセンターなのでもそうなのですが、これがどうも最近の流行のようです。
高齢のお客を取り込もうということなのでしょうか。センセイのお目当て、総菜・お弁当コーナーへ。
意外にも、並んでいるのは大きな工場で作られたごく普通の弁当類。焼き魚なども並んでいます。
県内工場の製品もありますが、東京など他県の工場の製品もあります。輸送費がかかるだろうなぁー。どこにチラシの「店内厨房で手づくり」の「ズラリ揃った手づくり弁当」があるんだろうフラフラしていると、レジ前の平台でやっとそのお弁当類を発見。
確かに作ったばかりだということはわかるのですが、レジ奥の狭い厨房で調理するので大工場製のものとは違ます。ちょうどスーパーのお弁当コーナーに並んでいる感じのものです。数量も限られています。特に面白いものもなかったのでひとまず自宅へ戻り、別な所用のために車で外出し、赤信号で止まると、右手に別なコンビニが。
昔の標準サイズのセブン・イレブンなので店舗は小さめ。駐車場が狭いので、大型車は入れませんし、普通車だってどうしても入る気が失(う)せてしまいがち。
それでいて住宅街からちょっと離れているので増えている老人層の顧客も利用しづらい。実際、車は止まっておらず、お客も少ないようです。ご存じのようにコンビニ業界はマーケットの縮小が進んでいて、少しでも利用しにくいお店はどんどん淘汰されています。
自動車での来客への対応改善、高齢化への対応、スーパー対策の強化(商品価格の見直しや生鮮食品の取り扱い、店内調理他)など課題は山積しています。
まるで現代日本社会の縮図。その対策が、結果的に大工場製だけでなく、店内で調理したものを置くのなら、まるで昔の「よろずや」──知らない人は調べてね──そのもの。
要するに、先祖帰りってことです。そういえば店内に、明らかにヤマザキデイリーからの応援とわかる社員が数人いました。
今まので経験だと、本社に入社したばかりの若手を中心に元気に応援しているケースばかりだったのですが、何故か今日は高齢者が多い(実話)。それでも動きが良ければ全然問題ないのですが......西村センセイ、最初は老人のお客だと思ったほど。だいじょうぶかなぁ。
新潟県内では経験的に、最初にヤマザキが出店して新規マーケットを開拓すると、程なくそのすぐ隣に他店、特にセブン・イレブンがお店を開いて客を奪うという形が多い。
さて、今回はどうなるのでしょう。
■7月11日(金) 人間と日本刀。どちらが主役? ──正伝長尾流躰術部は夏合宿中──
学内の簡易郵便局で学会費を納めて外に出ようとして、叫ぶような男子学生の声が聞こえてきました。
いつもはあまり通らない中庭の方へ出てみると、日本刀を用いて武道の稽古をしています。
加賀藩(前田家)の武術学校で教えられていた武術を受け継いだ、金沢工大の正伝長尾流躰術(ながおりゅうたいじゅつ)部が、夏の合宿中なのです。
「後方に敵!!」などとリーダーが声を出すと、部員は大きな声で返事をして指示に従って動きます。
その掛け声だったんですね。こう書くと時代劇のチャンバラをイメージすかもしれませんが、意外にも、実際の動きはゆっくり。
そしてとても落ち着いてしっかりとしています。人間が力を込めて自分の意志で刀を振り回すのではなく、むしろ逆に人間は力を抜き、刀こそが、刀本来の動きを探しているように思えます。
刀を使うはずの人間は主役ではなく、脇役というわけ。
センセイは農家の長男ですから重い鍬(くわ)を自在に使うことができるのですが、その使い方と通じるものがあるように思えるのです。
ドラマなんかで都会育ちの女性の俳優さんが農婦の演技をしていても、「あ、この人、経験したことないんだな」──だって、腰が入っていないんだもん──と即座にわかるのに似ています。さて、部員の皆さん、どうでしょう。的はずれな解釈でしょうか?
■7月10日(木) 自分で精米した無洗米を初めて炊いてみました
センセイは農家の長男ですから、お米の味にはちょっとうるさい。金沢のアパートにいる時も夕食はほぼ例外なく、自分で炊いたご飯を食べます。
と言っても、毎日少量(0.7合)ずつ炊飯するのは無理なので、炊飯器いっぱいの量を炊いて、残った分をラップで包(くる)んで小分けし、冷凍保存します。
忙しい時や疲れている時も、電子レンジで戻すだけなのでとても簡単だし、十分美味しい。今までは柏崎市の山間部(旧高柳町)で収穫、加工された白米(精米済のもの)を食べていたのですが、それがなくなったので、自分で精米した「無洗米」を初めて研(と)いでみました。
収穫して乾燥させたお米は籾殻(もみがら)に包まれています。
籾殻を除去したものが玄米で、このままでも食べられる──しかも栄養価が高い──のですが、食べにくいので、たいてい精米機を外周で削り、白米にします。
でも通常の精米方法だと白米のまわりに糠(ぬか)が残るので、炊飯時によく研いで糠を落とします。「無洗米」というのは、精米時に特別な仕掛けで糠の大半を除去してしまい、ほとんど研がずに炊くことができるようにしたもの。数年前から流通するようになりました。
外食産業ではかなり使っているようです。以前お伝えしたことがあるのですが、最近ではコイン式の精米機──都市部の人はわからないかも──の中に、無洗米にできるものが増えています。
新潟の自宅でも現在は、この精米機で擦った無洗米を食べています。さて、金沢で初めての無洗米。とにかく水を入れてみたのが右の写真。
普通のお米だと上部にある水が、やや黄色がかった不透明な白色になるのですが、それよりは透き通っています。
でもさすがに、無色透明というわけにはいきません。説明では一度洗うだけで良いとのことだったのですが、少なくとも今回はそういうわけには行かず、もうちょっと研ぎました。
普通のお米の半分くらいの回数でしょうか。業務用のものはものはきっと、精米の精度が違うのでしょう。無洗米は糠が除去されている分、計量時の密度(?)が高いため、水の量(ちょっと水の量を多くする)に注意する必要があるんだそうです。
そこでお米の量も水の量も注意して(+水に浸す時間にも注意して)、いざスイッチ・オン!!所定の時間に炊き上がり、しっかり蒸らしてからサワラとマグロのお刺身で頂戴したのですが......特に軟らかくもなく、硬くもなく。水の量はあまり神経質にならなくても良いようです。
さて肝心のお味ですがこちらも特別な印象はありません(普通よりはずっと美味しい)。夏になってきて、ちょっと平板な味になっている点も同じ。
それでも今回のお米は平野部のコシヒカリ(親戚が育てたもの)なので、今まで食べていた山間部──寒暖の差が大きい──のお米とは少し違います。
センセイの好みは後者ですね。何だかんだいいましたが、無洗米、確かに使いやすいとは思います。
■7月9日(水) (センセイ曰く)これも、新潟県中越沖地震の影響なのです
大学院の集中講義も昨日でやっと終了。毎日忙しい金沢工大ですが、とにかくこれでやっと一区切り、という感じです。
昨日は疲れ果てて何もせずに帰ったので、今日は気合を入れて研究室の整理に取り組みました。
机やテーブルの上に書類がいくつもいくつも重なって、大変なことになっていたのです。学期中は授業があるのでどうしても書類が溜まってしまいがち。
そこで各学期末、特に夏休みの最初に一挙に整理していたので、これまではあまり問題にならなかった──ただし乱雑さに慣れているセンセイの基準では──のです。ところがちょうど1年前の新潟県中越沖地震が発生。
自宅その他が被災してしばらく金沢に来なかったため、研究室を片づけられないまま秋学期に突入。
さらにその上に次の書類が......となってしまったのです。それなりに気合を入れて片づけた結果がこちら(別ウィンドウ)。【写真削除】
う〜ん、あんまり変わってないような気もするけど、ま、いっかー。
■7月8日(火) スコア(総譜)はどこにある? ── 「18人の音楽家のための音楽」を初めて「見」ました──
先週の金曜日、例の「ダビング10」問題で機器のファームウェア更新を点検していて、同日のNHK教育テレビの番組欄に予想外の名前を見つけました。
スティーヴ・ライヒ。
大きなCD販売店へ行くと、クラッシック音楽コーナーの片隅に、「運動会の音楽」などに並んで「現代音楽」というひっそりとしたコーナーを見かける時があります。
もしそうならば、ほぼ間違いなくスティーヴ・ライヒ(1936-)の名前を見つけることができます。「ミニマル・ミュージック」の創始者と言ったら......無理かなぁ。じゃあ、元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノ──Windowsパソコンの起動音を作曲した人でもある──に多大な影響......やっぱり無理かなぁ。
え〜い、それじゃぁ、Y.M.O.にまで引き継がれた音楽だと思ってください(ずいぶん乱暴な紹介だ)。そのライヒの傑作“Music for 18 Musicians”(「18人の音楽家のための音楽」:1976)を、4日深夜に放送するというのです!!
センセイはLPレコードもCDも持っていますが、テレビではありますが演奏を見るのは初めて。センセイの初めてのダビング10録画は、意外にも「18人の音楽家のための音楽」と相成ったのでした。「18人の音楽家」とは、まったく文字通りで、一部楽器の持ち替えはあるものの、ステージ(左側が客席)上、ヴァイオリン、チェロ(中央奥)、(バス)クラリネット(2本:手前)、それを囲むように女性ボーカル4人、中央に「メタロフォン」(モーターの回転を止めたヴィブラフォン)、その右にシロフォン2台を囲んでマリンバ──手前の1台のマリンバは3人で演奏している!! ──3台、そしてステージの最奥にピアノが4台。
ふう。これを18人で演奏するので、「18人の...」というわけです。(3枚とも(c)NHK。一部加工)
これだけの人数ですから当然、指揮者は......ということになるのですが、実は存在しません。
指揮者なしに比較的単調なメロディーとそのヴァリエーションを繰り返しながらいつの間にか音楽が始まり、いつの間にか1時間近い演奏が終わるという不思議な音楽なのです。でも、ジャズなどに見られる「アド・リブ」(即興)ではありません。
この日の演奏ではゲストに作曲者スティーヴ・ライヒ(Pf)自身を迎えて18+1人で演奏を行っています。(CDでもピアノとマリンバを演奏している。)
その手許にはしっかりとパート譜が......。でもこのパート譜、写真では良くわかりませんが、よぉーく見ると、メロディーの繰り返しが書いてあるだけ。
演奏者は楽譜のメロディーを、決められた回数演奏します。
すると、各パート譜に書いてある内容が少しずつずれたいるため、まるで音のモアレ現象のように各パートだけでは見えない不思議な音楽がその姿を現します。
こればかりは実際に聴いてみるしかないので、チャンスがあったらぜひご自分で体験してください。ある規模以上の西洋音楽の演奏で、指揮者がいないというのは信じられないことです。
どうするかというと、18(+1)人の各演奏者は身体や目で合図しながらリズムと場面の変換を確認しています。映像からその様子が手に取るように伝わってきます。ステージ上にスコア(総譜)はないのかというと、確かにステージ上には存在しません。
しかし客席に音響装置(PA/SR)があり、帽子をかぶったミキサー──間違いなく音響監督のノーベルト・オマー──が、踊りながらデジタル・コンソールを操っています。
そして彼の左手がめくるのは、まさしくスコア!!「18人の...」は、人間の声も楽器として扱うので拡声装置が必要なのですが、実はスコア、こんなところにあるのでした。
CDで聴いている時は電子的に加工しているのかな、と思う部分もあったのですが、今回の貴重な映像を何度も確認する限りでは加工はしていないようです。
基本的には生演奏なんですね。20世紀の初頭、西洋の伝統に反してフロイトが「無意識」を発見し、音楽の分野ではシェーンベルクが「12音技法」を提唱します。
その次の世代、心理学や精神分析の分野ではユンクが西洋的な個人概念そのものを問い直し、音楽でも同じようなことが起きます。ライヒの音楽は、ジョン・ケージを挟んでそのさらに次の世代──一枚岩じゃないけど──に位置しています。映像を見ていてちょっと気がかりだったのは、完全主義者のライヒが制作した「完璧な」CDと比べてちょっとリズムが悪いこと(特に前半)。
そして最も気になったのは、意外にも客席の反応。「18人の...」はリズムを中心とした音楽なのですが、お客さんのかなりの部分は自分の耳で音楽を聴くのではなく、「あの有名なライヒの...」と思い込んで聞こうとしていることが手に取るように伝わってきます。
救いは会場の東京オペラシティー コンサートホールの天井桟敷の若者達でした。
とても高い場所にある座席で、手すりから身を乗り出して音楽に入り込んでいます(やっぱり動きは止まっているけど)。音楽大学の学生達なんでしょうか。何だかんだ言いながらも、こういう若者達がいる限り、次の世代に期待すべきなんだろうなぁと思えてきます。
■7月7日(月) ボーナスが入ったら、夏用タイヤを交換しようと思っていたのですが...
今日はせっかくの七夕ですが、ロマンスとは無縁な、見たままのお話を。
昨日お伝えした実家のある集落は江戸時代、主要街道沿いの、現在の柏崎市と長岡市の中間にある小さな宿場。
センセイから数えて10代前の先祖は庄屋を隠居したので、偉い人が泊まる時は我が家が脇本陣になったんだそうな(ホントかなぁ、と思っているんだけど)。実家での用を終えると、峠の向こうの長岡市まで車を走らせました。市内にあるBMWのディーラーへ行ったのです。(新潟県内には3カ所しか店舗がないので、ここが最寄り。)
車を好きな人はディーラーやカー用品のお店へ良く通うのでしょうが、センセイはあまり行きません。特に318iに乗り換えてからは、定期点検やタイヤの交換などの用がない限り、ほとんど行かなくなりました。
年に2、3回というところでしょうか。基本的には手のかからない車だからです。ドイツ車はディーラーに足を運ばせないように造られているのだそうな。
安く売る代わりに点検などで利益を確保する国産車とは対照的です。ただし318iに乗るようになってから3年半、去年の秋あたりから足回りの印象が変わってきました。
BMWはもともと道路の情報を運転手に良く伝えるように造られています。特にハンドルから路面の状況が手に取るように伝わってきます。
ところが最近、ちょっと情報過多になってきて少し落ち着きが足りないような感じになってきたのです。現在の走行距離は約50,000km。
詳しい人によると、BMWのサスペンション類は消耗品なのだそうです。
10万kmを目安に交換すると、車体そのものはとても強固に造られているので新品同様の走りになるんだそうな。
けれども、センセイの318iは、まだその半分くらい......。残るはタイヤかなぁーと思って点検してもらうことにしたのです。要するにゴム製品で、製造後もう4年も使っていることになりますからね。
事前に少し調べてみると、BMWの解説書を書いている菰田氏は「3年で交換」とのこと。
でも、もっと大丈夫という人もいて、要するによくわからない。もちろんスリップサイン(写真中央の凸部)が表面に出たら交換する必要があることは知っていますが、まだ溝は結構深い......。
交換するとしたらざっと10万円くらいかかるようです。
原油価格が上昇してタイヤの値段も上がっており、間もなくに迫った今年二度目の値上げ前に、交換するというのも選択肢の一つ。というわけで、タイヤと空気圧はもちろん、サスペンションも点検していただいたのですが、特に異常はないとのこと。
タイヤはもう1〜2シーズン大丈夫だそうです。結局、やはりタイヤが少しずつ硬くなっているからだろう、とのことでした。
まぁ、路面の情報をごまかさずにきちんと伝えている真面目な車とタイヤ、ということなんでしょう。
■7月6日(日) 実家近くから、家が次々と消えていく... ──新潟県中越沖地震から来週で1年──
いくつかの所用があったので、自宅から10kmちょっと離れた実家へ行くと、あれ、まぁ。隣の家が更地になっています。
ちょっと離れた、旧西山町中心部に新築されたことは知っていたのですが、歴史のある茅葺きの立派な家をあっさりと壊してしまうとは。
よく見ると、中央左手には農作業小屋が、そして写真左端には離れが残されています。
ちなみにこの離れには、ラジオ体操第二を制作された方が、現役を引退した後に実家に戻って住んでいらっしゃいました。
だからセンセイらは小学生の時、普通は第一だけで終わる夏休みのラジオ体操を、ちゃんと第二までつき合ったのです。写真では良くわかりませんが、目の前の空き地の向こうに床屋さんがありました。
こちらも更地になっています。いずれも直接は地震が引き起こしたもの。
でも実家の周りを考えてみると、残された家も、老母と50歳代の息子だけの家、老夫婦とセンセイと同世代の夫婦──センセイの従姉妹。子供達はすでに独立している──だけの家という具合。
若い世代まで揃っている家はごく僅かで、子供の声は聞こえません。センセイ自身だってこの場所に戻ろうかと考えて、子供のあまりの少なさに断念したわけだし。
もう10年もすれば古い世代は鬼籍に入り、様子はさらに大きく変わるんだろうと思います。
これは過疎が進行中の田舎の話でありはするものの、都会だって実は同じようなもの。日々の移り変わりが大きすぎて目立たないだけなんですね。
もちろん、何も変わらないことこそが良いことだと言っているわけではないのですが。