2007年7月28日更新(2007年8月5日ページ移動。2011年5月4日一部写真削除)
週末なので新潟に戻ると、すぐ実家に来て欲しいとのこと。実家裏の斜面が崩れそうなので、雨が地面に入り込むのを防ぐためにシートをかけたいというのです。
実家に到着すると、作業はすでに始まっていました。
写真奥は築100年以上と思われる土蔵。その左手、壁の漆喰(しっくい)がかなり落ちているし、右側(中央人物の奥)は壁そのものが崩れ落ちています。
センセイの実家は丘の端を切り開いたところに建てられており、一部は崖になっています。
これまでも崖は颱風や集中豪雨などで何回も崩れました。
今回はどうも、地震でひび割れが入ったところに先日の大雨で水が染み込んために、土砂崩れを起こし始めたようです。
柏崎地方は今晩、雨の予報なので、その前にシートをかけようというわけです。この部分は実家の前の家──親戚でもある──の所有なので、両家合わせて5人での作業。
センセイが到着した時は障害になる低木や雑草が刈り取られ、ちょうどシートを張る作業にかかったところでした。(地震で被災したことのある方を除いて)都会の方はお分かりになりにくいと思いますが、このシートは10畳以上もある大きなもの。
それを雨水が入らないように、下の方から広げて杭や切り株にロープで結び、順に上の方へ登ります。最終的には6枚くらいを使って、ひとまず今日の作業を終了。メンバーの中ではセンセイが一番若く、80歳くらいの老人まで動員しての作業でしたが、やはり少なくとも現段階は地域の力が残っていることを示しました。
これが10年後、20年後となると、心許(こころもと)ないのですが......。また、本格的に復旧するとなると、かなりの工事になると思うのですが、資金の負担を含めてこちらの目処は立ちません。それより家屋や田畑の復旧が先なのです。
ただのシート張りといえばそれまでなのですが、地域の現状や、今後の展望(のなさ)を示すような今日の仕事でした。
■7月27日(金) 学生が10歳以上も若返った?! ──サマー・サイエンス・スクールが開かれました──
被災地との「時差ボケ」に悩まされながら出勤した昨日のお昼、お昼を食べようと外出して一瞬、とても不思議な感じがしました。変な場所で構内の一般道路を渡らないように、赤い簡易ガードレールが張り巡らされています。
ナシテ?何より、とにかく小さな子供達とその保護者が多い。
地震関連の仕事と大学の残務で頭が一杯ですっかり忘れていたのですが、昨日と今日、金沢工大夢考房主催の「サマー・サイエンス・スクール」が開催されていたのです。
今年で13回目だそうな。開催の趣旨は、子供達に科学の面白さを知ってもらおうというもの。
詳細についてはホームページをご覧いただきたいのですが、主な対象は小学生です。ちょっと授業中の教室を見学させていただいたのですが、ご覧のように子供達が身を乗り出して授業に参加しています。
手前の少年はちょっと......という感じだけど。先生は一生懸命話していらっしゃるのですが、でも小学校の教員免許を持っている──というか、実は小学校の免許が基本で、中・高(理科・社会1級)はオマケ──センセイからすると、う〜ん、もうちょっと子供の視線に立つとずっとわかりやすくなるんだけどなぁー。
印象的だったのが、学生が製作した──たぶん──AIBOに似た犬型ロボットに接する子供達。
廊下に置いてあり、学生がパソコンを使って制御しているのですが、真ん中の男子児童の眼と精神は、すでに彼の身体を離れて、ロボットと一体化しています!!先日も高校の先生に「物理を使って自然現象を説明できる驚きを体験することが大切なのでは」とお話ししたばかり。
一部の先生は無意識のうちにウンウンと頷(うなづ)いていらしたのですが、正直なところ他の方は「何の話をしてるのー?」という感じ。
そうだろうなぁー。センター試験の関係で高校の物理の履修者が減って大問題となっています。
でも西村センセイ、本当はもっと深い理由で理科離れ、物理嫌いが進行しているんだろうと考えています。その意味で、このサマー・サイエンス・スクールはとても良い企画だと思うのですが、どうでしょう。
■7月26日(木) 「時差ボケ」の原因が、よく分からない ──金沢へ移動しました──
大学の仕事を放っておくわけにもいかないので、金沢へ移動しました。
JR信越線は相変わらず不通ですが、徐行区間は残るものの柿崎以西は復旧していますし、柏崎−柿崎間には代行バスが走り始めました。(この地域で初めてJRグループの青いバスを見ました。)
そこで本当はJRを利用するつもりで乗車券類を確保していたのですが、昨日から今日にかけて大雨が降ることがわかったのと、非常勤の授業のためにもう少し荷物を運ばなければならないことに気づき、今回は結局、車で移動しました。車を走らせながら、被災地で感じていた「違和感」についてぼんやりと考えていました。(あ"、センセイはいつも、ぼんやりとしか考えませんけど。)
お伝えしているように、被災地の状況は惨憺たるもので、特に社会的弱者には極めて厳しい状況です。
でも、例えばマスコミが求めるのは悲劇と美談ばかり。もちろん、それはそれで間違いではないのですが、被災者をじわーっと侵してくる、あの黒いものを伝えていません。
気づかない──この場合は無能──か、気づかないふりをしている──こちらは非倫理的──かの、どちらかです。地震直後はともかく、普通の人は今や、自分たちが置かれている現状と、マスコミが伝えようとしていることの乖離(かいり)に気づいています。
もう一つ被災者がほぼ共通に再認識していることがあります。
地震で被害を受けた東京電力柏崎刈羽原子力発電所の態度、つまり東京電力の態度です。今から30年以上前、東京から遠く離れたこの地に原子力発電所の建設が計画されました。
利権もからんで地元は賛否両論、親族の間ですら憎しみあう関係が生まれ、地域はズタズタに引き裂かれました。
原発建設に賛成するにせよ反対するにせよ、地元民ならこの点は賛同してもらえると思います。東京電力の主張をそのまま信じて建設に賛成した人はたぶんごく少数で、半分疑いながらも利益誘導で口を噤(つぐ)んでしまった人が大多数だと思います。
あるいは反対派だって内実は似たようなもの──御利益に与れなかったから──かもしれません。数年前の不祥事隠し、そして今回の地震での不手際と、(賛成/反対にかかわらず)地域の人々が溜め込んでいたモヤモヤしはもう、爆発寸前という感じ。
でも、マスコミの質問に答える東電の社長は、どこか他人事のような口調。政府の対応だって、表面的にはともかく、内実は似たようなものかもしれません。
地域住民はますます苛(いら)立ってきます。何故だろう。何故そう感じるんだろう。単に「感情的」な問題なのだろうか......。
被災地を高速道路で抜け、上越地域に入ると、まるで何事もなかったのよう。実際、ごく一部の地域で被害が発生しているだけです。
さらに200km走って金沢に到着すると、センセイはまるで異邦人。
遠くの地域への海外旅行を経験した方はお分かりいただける時差ボケの、あの感じによく似ています。(センセイは被災者の中では最も恵まれている方だけど)水やガスに苦労しているのに、ホントに何も変わっていない。(責めているわけではないので、念のため。)
知らない人が出会って、どちらかの知的想像力が欠如していたために相手の立場を理解できず、誤解に陥ることはよくありますが、この場合、決して金沢の人は想像力が不足だというわけではない......。
右の写真は被災した伯母の家。
一見する限り、家はちゃんと建っているし、そのまま入れそうな感じなのですが、玄関右には危険を示す赤い紙が張られています。
近寄ると建物が大きくねじれていて、とても住めないことがわかります。それにそもそも、まっすぐ見える階段の、その最も手前の段は、コンクリートが手前側に大きく張り出しているのです(わかるかな)。つまりこの敷地全体が手前に押し出していて、階段が崩れそうになっているのです。
土台が崩れた家がまともなわけはありません。上の車は見た通りぺっちゃんこですが、伯母の家のように、大切なものが壊れたり失われたりしたことを伝えるのはとても難しい......。単に、センセイにその能力がないだけだ、と言われればその通りなのですが。
マスコミの件にせよ、東電という企業と幹部の件──センセイが直接接している東電社員は優秀──にせよ、そして金沢での「違和感」にせよ、自分が感じていること、モヤモヤとしていることをうまく言葉にできずに悶々(もんもん)としている、ちょっと情けない最近の西村センセイなのです。
ちなみに、伯母の家の階段最上段にある白い物体は、伯母が飼っている猫7匹です。伯母はずっと避難所にいて餌を与えていないので、ひどく痩せこけていました。
特に子猫の具合が心配です。
■7月25日(水) 報道されるのは、なぜ柏崎小学校ばかりなんだろう...
西村センセイ、月曜から今日まで休暇をもらって新潟にとどまっていました。今日は再び、実家と親戚の様子を見に、震源地近くの柏崎市西山町(旧刈羽郡西山町)へ。
途中からいつも使う国道116号線ではなく、ほぼ平行する旧道を走りました。刈羽村、旧西山町と、柏崎市中心部以上に被害を受けているからです。
近くで見ると被害はすさまじく、友達の家も大きく壊れていますし、越後線のレールは刈羽駅近くで飴(あめ)細工のように曲がっています。
この地域は2年半前の新潟県中越地震でも大きな被害を受けているのですが、再び手酷いダメージを受けてしまいました。
前回、住宅の修理などに多額の費用がかかった方は、もう一度捻出できるかどうか......。旧道はやがて、センセイが卒業した中学校(現在は二田〔ふただ〕小学校として使用)に出ます。
そこで見たのが右の写真。もちろん自衛隊のテントですが、救援のために駐屯している陸上自衛隊が使っているのではなく、被災者が仮設住宅完成まで使っているのです。
プライバシーのない体育館ではなく、家族単位で過ごして欲しいという配慮からです。伯母に家に寄ってから、病院から避難所に戻った伯母を見舞いました。(写真は被災翌日の17日に撮影)
今日は平日なので、大人は出勤していて不在。老人と一部の子供だけが残っています。テレビに出てくる避難所はほとんど、市の中心部にある柏崎小学校。
そこにはクーラーがあり、食料や物資、ボランティアの炊き出しもたくさんあります。
でもこの暑い避難所を冷やしているのは、扇風機だけ。もちろん自衛隊と新潟市水道局による給水と、最低限の食事は確保されていますが。
この地域は被害が大きいので、被災直後から多くの人が避難しています。一人あたりの広さは一畳くらいでしょうか。
伯母と従姉妹に聞くと、やはりうるさかったり暑かったりして、ちゃんと眠れないそうです。
伯母の家は全壊したので仮設住宅を申し込んでいるのですが、家の近くのものに入れるかどうかはわからないとのこと。入れるとしてもあと3週間はかかりますから、被災後の約1ヶ月を避難所で過ごすことになります。
危険なので自宅の家財を持ち出すこともできず、また持ち出したとしても置き場もなく、さらには経済的に自宅再建の目処も立たない、云々。
もちろん、被災のショックで将来のことを考えにくくなっている時期なので、必要以上に悲観的になっている──例えば県および市からの補助金で家を取り壊すことはできるはず──のですが、少なくとも、被災者がそう感じて将来に希望を持てなくなっているのは事実。
今日は昔々の、嫁いだ時の話だとか、戦争の時の話だとか、1時間ほど話を聞くことになりました。もう少し時間がたち、また生活再建のための情報が適切に提供されれば意識もずいぶん変わってくると思うのですが、それでも老人にはきつい。
もう一つ。
すでに何人かの人が指摘していますし、センセイも被災直後から感じていたことですが、マスコミの取材姿勢はあまりに一面的。
その象徴が避難所の選択で、床が抜ける危険性があるために避難所が廃止される(!!)などの例外を除けば、マスコミによって報道されるのは、ほぼすべて柏崎小学校。
今回の地震は市中心部以外の被害も大きく、また郡部はどうしてもインフラの復旧が遅れがち──これは基幹施設が市中心部にあるので仕方ない──ですが、マスコミは全然来ない(物資も来ないけど)。
だから報道、特にテレビの報道を見ていると被災者としては、「違うよなぁー」という感じ。でもよく考えてみればこれは当然なのかもしれません。
マスコミは、視聴者が待ち望んでいる(はずの)ものを想定して「報道」しているのであって、現場を「そのまま」伝えているのではありません。
捏(ねつ)造はない──日テレ系でスレスレが1件あった──でしょうが、演出、脚色は避けることができません。被災直後は想像を絶する現場の惨状(+可能ならば涙の救出劇)、次は少しずつ「○○が復旧」、そして「こんな明るい話題が...」。
こう考えると、テレビで問題になった「ヤラセ」は簡単な問題ではなく、その根はとても深いことがわかります。
だって、問題の本質は(かなりの部分が)マスコミにではなく、私たち自身の中に存在するのですから。
■7月24日(火) 柏崎市では、仮設住宅の建設が始まりました。
昨晩は新潟県内の親戚にお風呂をもらいに行っていた(!!)ため、サイトの更新ができませんでした。PHSの電波が届かない地域だったのです。悪しからず。
往復ともに国道116号線を使ったのですが、地震直後よりもかえって車が止まる場面が見られました。片側交互通行にして、幹線道路の応急修理を急いでいるのです。
関係者の尽力で、主要道路の応急修理は終わりつつあります。平行する越後線も、JR吉田方面(新潟方面)から復旧工事が始まっていました。
ただしこちらは柏崎市内で橋桁が傷んでいたりするので、開通までには相当時間がかかると思います。そして今日の柏崎市内。
駅前の市営駐車場を使って、仮設住宅の建築が始まっていました。写真ではちょっとわかりにくいですが、中央が料金所で、その奥にはもう外側が組み立てられた建物もあります。
隣接する工場跡地も使って数百軒の仮設住宅を建設するようです。テレビでも報道されていますが、水道は予想以上に被害が大きくて復旧が遅れています。
またガス管の中に水が入ってしまっているそうで、こちらは復旧のメドすら立ちません。センセイの家では電気ポットのお湯を集めて行水しているのですが、それがだんだんとうまくなってきて、以前の半分くらいのお湯で綺麗に体を洗うことができるようになりました。
もちろん洗髪を含めてです。というわけで、センセイ一家は何とかやっていますが、避難所にいた高齢の伯母が体調を崩して入院するなど、避難生活を続けている方々はますます厳しい環境に置かれているようです。
たいしたことができないのが、正直、心苦しい。
■7月22日(日) 全国からのご支援を受けて、柏崎ではインフラが復旧しつつあります
昨日は丸1日不在だったので、今日は自転車で自宅近辺の用をこなしました。車を使うと邪魔になるからです(一時に比べて混雑はかなり解消されています)。
自宅前の総合福祉センターでお昼に目にしたのは、本格的なカレーの炊き出し。
チキンカレーとチキン豆カレーがそれぞれ130食分用意されていました。センターには給水車も配置されているのですが、この地域は一昨日の夜から水道が回復しているので、お客(?)はなく、担当の自衛隊員は手持ちぶさたのご様子。
復旧したといっても、最初は水圧が低くてちょろちょろとしか出ないし、2階は出ないし......。
それに2日間ほどは濁ったままで、飲食には使えなかったのですが、今日は水圧も上がり、濁りもなくなりました。下水道が大丈夫なのか心配だったのですが、市の説明によると上水道が出る場所は下水道も問題ない──両者は基本的に別物だと思うのだけど──そうです。
実家を含め民復旧地域の人には申し訳ないのですが、普通に水道を使わせてもらっています。ガスはまだ来ていないのですが、大学でお茶を飲む時に使っていた電気ポットを持ってきたので、それでお湯を沸かして簡単な行水なら可能です。
市内ではインフラ復旧のためにたくさんの人が働いています。
昼間の柏崎市は、ふだんなら老人と子供しかいない──だから老人が犠牲になった面がある──のですが、人口が10倍くらいになった感じです。
右の写真は建物の危険度を判定しているところ。
問題がなければ緑の、注意が必要ならば黄色の、そして危険なら赤色の紙を貼ります。センセイの家は緑色だったのですが、このお宅は注意が必要と判定されたようです。
ぱっと見ただけでは全然問題ないように見えるのですが。こちらはガスの復旧工事現場。
今回の地震では、ガスは特にやられたそうで、復旧も遅れています。
ガスタンクは柏崎駅前にあります。
ここは線路を挟んだ反対側なのですが、大阪ガスの職員が復旧に当たっていらっしゃいました。ここに限らず全国から関係者が集まってくださっており、例えば水道は東京都、駅前の交通整理は静岡県警という具合。
本当に頭が下がります。こういう場面で大学の先生はほとんど何の役にも立たないということがよくわかりました。
センセイの家は信越線と越後線が分岐するところにあるのですが、昨日の夜から信越線がうるさくなりました。
復旧に向けて採石を積んだ工事用車両が走り始めたのです。右の写真は柏崎駅近くの信越線なのですが、線路工事用の車輪のついた重機が線路の路盤を直していました。
なお、工事しているのは信越線だけで、越後線は手つかずです。
北海道・東北と関西・中京を結ぶ物資の大動脈、日本海縦貫線を先に復旧させようということでしょう。ちなみに、写真奥は旧日本石油柏崎製油工場の煉瓦造りの建物で、保存運動が起きていたものです。
保存運動を受けて、会社は結論が出るまで取り壊さずにいたのですが、今回の地震で全壊してしまいました(左側3/4くらいが煉瓦造りだった)。糸魚川駅にも旧国鉄(現JR西日本)の煉瓦造りの車庫があり、北陸新幹線糸魚川駅の新築に伴って取り壊されることになっています。
こちらも保存運動が起きているのですが、今回の地震は、保存運動に大きな影響を与えることになるでしょう。撮影現場は柏崎市の中心部に近く、したがって最も復旧が進んでいる地域です。
被害の大きかった刈羽村や旧西山町(センセイの実家がある)などは復旧がはるかに遅れていますが、それでも全国の方のご支援で少しずつ普及しつつある、そんな柏崎市です。