2008年8月9日更新(2008年8月17日ページ移動。2012年9月20日、12月23日一部写真削除)
■8月9日(土) 出張も大詰め。センセイは新潟での学会に参加しています(ツアー8日目)
西村センセイのツアーもいよいよ大詰め。今日は新潟大学工学部で開かれている物理教育の学会に参加しています。
8月の初めからずっと出張しているのですが、今回は結局、新潟県内をあちこち移動しているだけ。何だか奇妙な雰囲気です。
この学会の新潟支部大会には毎年1、2回参加させていただいているものの、全国大会へは初めての参加となります。
全国各地から当初予定を大きく上回る参加者がお越しになり、開催する側は嬉しい悲鳴。
実際、会場はかなり感じられます。新潟大学は市の中心部から離れたところにあるのですが、かなりの方が市内中心部での懇親会──バスで移動した──に参加されました。
センセイも懇親会場から戻ったばかりなのですが、白状すると、明朝の発表用スライドをこれから作成しなければならない......。
しかもその前に、酔っぱらった頭で明日締切の仕事を片づけなくてはならないのです。......冗談抜きで、間に合うのかなぁ。
というわけで、この続きはまた明晩。
■8月8日(金) 新発田市のスーパーマーケットは、どう考えても過当競争状態(ツアー7日目)
西村センセイ、出張先では基本的に、静かに夜を過ごします。
グループで出かけた時などはもちろん飲みに出かけますが、単独の時、特に今回の新発田(しばた)出張のように同じ場所にとどまる時はとてもおとなしくしています。ホテルの近くにスーパーがあればそこで、なければコンビニでビールとおつまみを買って戻り、風呂上がりに一杯やりながら仕事を片付け、酔っぱらって仕事にならなくなったら、この日記──“In vino est veritas.”──を打ちます。
コンビニは全国どこでも同じようなものですが、スーパーは地域の特性やお店の特徴がよく表れるので、探検がとても楽しみ。
今回もホテルの近くに、地元資本の大きなスーパーが2軒あったので、あまり遅くならない時間に期待して出かけたのですが......え"!?
総菜コーナーにほとんど商品がない!!お刺身コーナーはほとんど空っぽです。このお店はその名前が示すように、市内の魚屋さんから始まったのに。
そもそも品揃えが悪いし、値段もたかく、きちんと管理されていないという印象を受けます。
最初のお店だけかな、と思ったのですが、隣のお店も似たようなものでした。
同じ県内でも、柏崎市周辺では、これほど「荒れている」という印象を受けることはありません。新発田市は新潟県北部(通称「阿賀北」)の中核都市。
センセイが金沢に移ったころから、田圃を埋め立てて幹線国道沿いに次々と大きなスーパーが建設され、今や旧市街地の四方をスーパーが取り囲んでいるという格好です。センセイが訪れた場所は最初に建設された方で、以前はもっと賑やかでした。
でも開店して数年しか経っていないのにお客は少なく、広い店舗が余計に広く感じられてしまいます。注意してみると建物のあちこちに、テナントが抜けた跡があります。
お客を確保できないんですね。もともと新潟県はスーパーの激戦区で、限られたパイをめぐる地元資本間の競争に加えて、県外資本のお店が入ってくると過剰に反応するので、地域によっては過当競争に陥ってしまっています。
センセイが気になったのは社員の表情。パートさんやアルバイトにどこまで求められるかという問題はあるのですが、正社員もどこかのんびりしています。
額に「昨日までやってこれたから......。それに自分がクビになるわけじゃないし......」と書いてあるかのよう。その一方で新規出店は続きます。
昨日ご紹介したホテルのお客はそちらの関係なので、決して悪いことばかりじゃないのでしょう。
でも長期化すると考えられる石油価格の高騰などを考えると、こんなに管理が行き届いていないようじゃ、あまり遠くない将来に局所的にバブルが......などと、冗談抜きでちょっと心配になってしまいます。
■8月7日(木) 駅前旅館から、新発田の今を考える(ツアー6日目)
今回の集中講義では、大学の近くのホテルにずっと宿泊しています。幹線国道沿いに、知らない間に新しいホテルが建っていたのです。
移動にも便利だし、ネット環境なども整備されています。初めてのホテルなので、どういう人が宿泊しているんだろうと様子を見ていると、今の新発田(しばた)市の状況がよく見えてきます。
最初は夏休みだし観光客や子供連れなどが......と思ったのですが、大外れ。
まず目立つのは営業の人々。まぁ、これは当然ですね。
駐車場にはたくさんの県外ナンバーの商用車が。今どきの駅前旅館というわけです。でも予想外に、一番多かったのは工事関係者なのです。みんなおそろいの作業着を着ています。
建築系というより例えば水回りの工事とかメンテナンスとか、そんな感じ。彼らは夕方、割と早くホテルに戻り、レストランで揃って食事をし、朝早くにどこかへワンボックスカーで出かけます。
写真は7時を過ぎたばかりの朝食会場なのですが、もうみんな出発してしまっていて、残っているのは営業系の人たちばかり。新発田市は大規模店舗などの出店ラッシュで、その関係者がこのホテルに宿泊していらっしゃるのですね。
でも新発田市はそんなに大きな街ではありません。あちこちにお店がたくさんできて、ちゃんとやっていけるのかどうかというと......続きは、明晩。(たぶん)
■8月6日(水) 15年ぶりに、同じ会場でピアノを弾いてみました。(ツアー5日目)
今回の集中講義は、約10人の中国人留学生を含めて、30くらいの学生さんが受講していらっしゃいます。みんな素直だし、講義にとても良く反応してくれるので、講義は順調に進んでいます。
奇(く)しくも今日8月6日、原爆開発の話をすることに。講義をするだけでなく、貴重な映像も見ていただいたのですが、皆さん、神妙な顔つきになっていました。1回の講義は90分。10分間の休憩(および昼休み)を挟んで4時間続くので、講義をする側も聴く側も気力、体力を使います。正直なところ、昨日と一昨日はホテルに戻るとバタンキューという感じ。
1ヶ月くらい講義がなかったせいもあるのでしょうが。それでも3日目になると体も慣れて(?)きて、少しは余裕が出てきます。
あちこち探検してみると、食堂(アネックス)の隅にアップライトピアノがあることに気づきました。
1993年4月、新入生歓迎コンサートをこの場所で開いて、恥ずかしながらセンセイもピアノを弾きました。
その時の演奏記録は最近購入したDATデッキで救出されています。迷惑になるような状況ではなかったので15年前ぶりに弾いて──「触った」の方が正確? ──みました。不思議なもので、あの日がまるで昨日の出来事のように感じられます。
慣れ親しんだ教職員に再会したからかもしれませんが。しかし一方、それだけの時間が確かに経過したことも事実。
お風呂にお湯を張る時、蛇口から出るお湯が、熱い部分と水の冷たい部分がまだうまく混ざっていない時のような、ちょっと奇妙な感覚に襲われました。
■8月5日(火) 敬和といえば「ニュートンのリンゴの木」。その最近の様子は?!(ツアー4日目)
敬和学園大学といえば「ニュートンのりんごの木」(う〜ん、やや強引な感じもしますが)。
敬和学園大学に開学記念式典の日に植樹されたニュートンのリンゴの木は、その後ずっとキャンパスのロータリーで大学と学生を見守っています。
センセイの集中講義は昨日から始まったのですが、大学に入る時には否が応でもリンゴの木が目に入ります。
さらに今日の講義の中でニュートンの紹介と彼の業績の意義をお話しする予定。そこで改めて昼休みにご挨拶(?)にうかがいました。
もうすっかり立派に成長して、文字通りこの地に根をおろして──センセイらには、結局かなわなかったけれど──います。実が熟すと、それをしっかり観察している鳥が食べに来るので、数年前まで網で囲ってもらっていました。
でも最近は、ご覧のように鉄パイプや網が撤去されて、すっきりしてます。ただしその分、りんごの実の多くは鳥に食べられてしまっていて、やっとのことで無事な実を発見しました。
今日はニュートンについて講義しながら、頭の中のどこかで、この大学の設立やその後の運営に尽力された人のことを考えていました。
もう連絡が取れない方、引退された/される方々、そして残念ながら鬼籍に入られた方々もいらっしゃるいます。
改めて、そんな彼ら彼女らの努力が現在のこの大学の存在に繋がっているのだと思うと、りんごの木を見る目も変わってきます。
そして怠惰な西村センセイも、為すべきことを為さねばならない、と再確認させられるのです。
■8月4日(月) 小学校3年生の時からの宿題。42年ぶりにやっと一区切りつけることができました。(ツアー3日目)
ツアー3日目。
今日はさすがに自宅ではなく、同じ県内ででも北部の新発田(しばた)市に滞在しています。大学の特別な許可をもらって、前任校の敬和学園大学で集中講義をしているのです。
でも今日は、もうちょっと直江津のお話を。実は昨日、もう一箇所訪れた場所があるのです。それが右の写真。市内にある安寿と厨子王丸の供養塔です。
「安寿と厨子王(丸)」については、森鴎外の「山椒大夫」でご存じだと思います。
改めて調べてみると平安時代の実話がもとになっているようです。福島県磐城地方(現在のいわき市)の高級官吏が九州に左遷され、それを追いかけて妻と子供たち(安寿と厨子王)らが越後(現在の新潟県)の小さな港町にたどり着きます。
彼らはこの地で悪人に騙され、母親は佐渡へ(乳母は死亡)、子供たちは京都府北部の流されて強制労働に従事させられます。
しかし姉の犠牲によって厨子王は脱出し、さらに出世して役人となり、父親の名誉を回復するだけでなく、悪人を処罰して母親と再会するというものです。もとの話は説経節として庶民に親しまれるようになり、江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎に採用されたようです。
その後は半ば忘れられていたのですが、前述の森鴎外の小説で再び広く知られるようになります。映画化もされ、国際的な賞も受賞しています。センセイが通った小学校は田舎の小さな学校だったのですが、センセイは図書館でよく本を読んでいたので、まず間違いなく低学年の時に児童向けの本でこの内容を知っていたはずです。
そして、小学校3年生の修学旅行で、バスに乗ってこの直江津の、関川の橋の上を通過するときに、バスガイドから安寿と厨子王の供養塔があることを聞いたのです(その時は近くを通るだけだった)。
安寿と厨子王らが人さらいに遭ったのは、この直江津なのです。その時かどうかはわかりませんが、ひどい話だなと思うと同時に、犯行を行ったのが同じ新潟県人──もちろん当時、「新潟県」なんて存在してないけど──であることにショックを受けたことを覚えています。
以来、約40年間、供養塔を訪問してみようとずっと思っていたのですが、なかなかその機会がありませんでいた。
それにそもそも、バスガイドさんからは川岸と聞いていたものの、供養塔の正確な場所がわかりません。改めて調べてみると、関川河口左岸の琴平神社内にあるようです。今回、実は時間的にちょっと厳しかったのですが、これを逃すと、という予感があったので、炎天下、気合を入れて歩き始めました。
現在でこそ合併して上越市と称していますが、城下町の高田と商人の町、直江津は、もともとまったく別の地域です。
直江津は鉄道の要衝、そして港町としても栄えたのですが、モータリゼーションに対応して大規模店舗が次々と郊外にできると、旧市街地は急速に衰退してしまいました。
かつての、人でごったかえしていた面影はまったくありません。地図の上での直線距離だと駅から1km程度なのですが、気温のせいか、かなりの距離を歩いて、ようやく到着。
供養塔そのものは小さなもので、神社の隅に、ひっそりと存在しています。近くで祭の山車を片づけている若者の活気や、海岸から風に乗って聞こえてくる海水浴客の声とのギャップが激しすぎます。
何だかここだけがタイムスリップしてしまったような感じ。センセイなりに弔って、40数年の肩の荷が、少し軽くなったように思えます。
今回、小学校の修学旅行を思い出して、いろいろ考えました。最初は何年生の時のことだったか、はっきりしなかったのです。
でも6年生の時は会津若松で、同級生が隣室から布団を奪取してきて全員が怒られたし、5年生の時は新潟市で、センセイともう一人がデパートで遊びすぎて出発の時間に遅れ、店内の呼び出しを食らってしまったし、4年生の時は弥彦山と弥彦山頂(神社もある)で、やはり遊びすぎてお土産を買えず顰蹙をかった──だって、お小遣いは100円だった(!!)んだもん──......となると、やはり小学校3年生の時の出来事と考えざるを得ない。
小3って、8歳ですよ。(ちなみに、小1は柏崎市の水源池、小2は長岡市の悠久山公園だから、やっぱり辻褄があう。)偉そうなことを言っても、肩の荷が軽くなった最大の理由は、慰霊によるものではなく、実は(遅ればせながら)過去の宿題をやっと提出したからなのかも......。
■8月3日(日) ホームに背を向けた謎の石碑の正体は!?(ツアー2日目)
夏のツアー2日目。お伝えしたように、今日のお仕事は上越市(直江津)での保護者会参加。
会場は直江津駅前のホテルで、センセイの自宅からだと、駅までの徒歩と電車の乗車時間をあわせて1時間ちょっとでしかありません。しかも、会は午後からなので、余裕がありすぎるくらいです。
会場のホテルに昨晩入った他の先生方は、今日の午前中、何をしていらしたんでしょう。他の方はともかく西村センセイ、せっかくの機会に以前からちょっと気になっていた場所を探検してみることにしました。
今日の新潟は最高気温が35℃前後。
10時前の電車に乗るころには、汗がそのまま気化してしまうようなそんな気温になっていました。先日ご紹介した「頭文字D」の海水浴場はご覧のように、今日はうってかわっての大混雑となっています。
世の中、今日は夏休みの日曜日なのですねぇ。さて、今日の最初の訪問地は、直江津の一つ手前のJR信越本線黒井駅。
もともとは貨物駅として開業し、その後旅客も取り扱うようになった駅で、現在でも隣接するJR貨物駅の方が主です。この冬のある日、いつものように 金沢への電車に乗っていて、黒井駅わきの草むらの中に、背の低い記念碑あるいは見方によってはお墓のような物があることに気づきました。
注意して確かめてみると、その表面には、少なくともホームや電車から見える側には何も書かれていないのです!!何も書かれていないというメッセージは、それだけで妄想を逞(たくま)しくさせます!!
最もありそうなのは、反対側に何か書いてある、ということです。
でもそうすると、この碑(?)は列車やホーム、あるいは黒井駅に何かを伝えたいのではないとうことになります。(線路脇の看板のことを考えればわかるでしょ?)いろいろ調べて、かつ先日、偶然『新潟県の廃線を歩く』を読んで、それが何であるのかがほぼ判明しました。
でも、せっかくですから、やはり自分の目で確かめることに。
それにしても、とにかく暑い!!
しかもこちらは仕事用の背広姿なので、黒井駅が近づいた時、このまま冷房が効いた電車に...という雑念が頭をかすめたのですが、やはりここは初志を貫徹することにします。謎の碑は駅舎の反対にあるため、かなりの距離を歩いて、まず線路を越えます。
しばらく進むと身の丈よりも高い雑木と雑草が生い茂っています。
人家が途絶えてもなお進むと、やっと碑が見えてきました。(写真奥に黒井駅のホームと架線が少し見えています。)
それも、二つ!?車窓から見ていた時は背の低い物(右)しか見えなかったはずなのですが、ずいぶんと背の高い物(左)もあります。
そしてそこには「頸城鉄道線 新黒井駅跡」と彫られています。ここを起点とし、現在の上越市浦川原区を終点とした頸城鉄道自動車 頸城鉄道線(軽便)の、その記念碑なのです。
右脇の、センセイが車窓から気づいた碑には、1913年(大正13年)の会社設立から1971年(昭和46年)の全線廃止までの経緯が簡潔に述べられていました。センセイが住む地域は新潟県中越地方に属するので、正直なところ中越地方の軽便鉄道と違って、個人的にはほとんどまったく馴染みはありません。
でも、草むら──敷地は相当広かったはず──の中のこの碑を前にすると、この地でも、同じように地域の足や手、耳の一部になっていたんだろうなぁーと思えてならないのです。
「コッペル」の名で愛されたという、この路線を走った蒸気機関車の保存活動を聞くこともあります。それにしても、センセイが車窓から気づいたのは、背の低い右側のものだけ(のはず)。これが実話であることはお約束します。
左側の記念碑本体は、気づいていたのに見えなかったのか、雑草の関係で見えにくかったのか、見えていても見ていないことにしたのか......正直なところ、よくわかりません。
ホントに、何故なんでしょう。