2011年7月9日更新(2011年7月17日ページ移動。2015年2月11日一部写真削除)
■7月9日(土) 新潟はいきなり、猛暑日 ──北陸地方は平年より15日も早く梅雨明けしました──
早朝、寝苦しさで目が覚めました。雲は多少あるものの、青空が広がっています。南寄りの風が吹いるらしく、その雲がかなりのスピードで移動していきます。
午前中に所用で新潟市へ車で出かけたのですが、車外気温計の表示はどんどん上昇。帰りの車中、お昼のニュースを聞いていて、新潟、富山、石川の北陸地方が梅雨明けしたことを知りました。
平均は24日ですから2週間以上も早いことになります。この地域では記憶にないほどの事象。報道によると、今日の新潟県内の最高気温は胎内市で記録した36℃以上。つまり猛暑日です。新潟市も33.3℃、柏崎市も32.0℃。暑いわけだ。
もっとも、体感値はそれよりずっと高かったのですが。文字通りの炎天下を帰宅すると、何と、書斎のエアコンが故障!?
センセイの書斎は2階。断熱材は十分入れてあるのですが、それでも屋根裏からの輻射熱を受けるので、室温はどうしても高め。
しかもセンセイがいる時はいろいろな機器が動いているので、排熱はかなりの量になります。
つまりエアコンの故障は致命的。先週、ちょっと動かした時は何ともなかったのに......。土曜日だったのでメーカーのサービスセンターは休業。
週明けに修理を依頼することになりますが、帰宅する週末までに直っているだろうか。写真は自宅脇、工場跡地を分譲住宅地として売り出そうという場所です。
すでに整地はもちろん、上下水道、ガス、電気関係の工事を終えています。まだ現地事務所は建っていませんでしたが、間もなく販売が始まるようです。
まさに今朝の新聞折り込みチラシに情報が載っていました。写真中央奥は、この地域のシンボル、米山(よねやま:993m)。
ごく近い将来、この暑さをものともしない若夫婦が、小さな子供を抱えてこの地に集まってくることになるのでしょう。
■7月8日(金) 金沢工大を活用し尽くした学生、学舎(まなびや)に戻る ──OBの講演会に参加しました──
金沢工大では、昨年度から入学試験およびその後をフォローするシステムとして「特別奨学生(リーダーシップアワード生)制度」を導入しました。
優秀な受験生を増やしたいという俗っぽい側面は否定できないのですが、基本的にはセンセイ自身を含めて、これまで中位〜低位の学生の指導に忙殺されて、将来リーダーとなる上位の学生の指導が手薄であったという反省から生まれたものです。
先日、その特別奨学生のための講演会兼説明会が開かれたので、教授会での説明を終えてから講演会会場へ。今日の講師は財津賢一郎さん。
本学を卒業後、九州工業大学大学院へ進学し、現在26歳。誰でも知っている大手メーカーで開発に携わっていらっしゃいます。
後輩に向けた講演が始まると、もう、とにかく、凄い。そもそも財津氏、金沢工大での夢工房プロジェクト活動に惹かれて受験、入学したとのこと。
詳細については在学中のインタビューをご参照いただきたいのですが、要するに、スタートから違う。誰でもそうであるように、入学後は熱い想いと現実のギャップに悩まされたそうですが、きちんと情勢を分析し、対策を立て、実行して問題点を解決するところが素晴らしい。
大学2年生の時に「筋電義手」というプロジェクトを立ち上げて、ずっと牽引してきました。財津氏が利用したのは夢工房だけではありません。本学が提供する、そのエッセンスをことごとく活用し尽くした、という感じ。
現在は頻繁に海外に出張してプロジェクトを進めているそうですがお察しの通り、彼にとって、金沢工大のキャンパスはずいぶん小さくなっています。
でももちろん、それが彼にとって大切なものであることには変わりないからこそ、お忙しい中、今回の講演会を引き受けてくださったのです。
学生諸君は文字通り食い入るように聴き入っていました。講演終了後も、活発に質疑応答が行われました。こういう学生だけを教えているんだったら、ずいぶん楽だろうなぁー。でも、とても素晴らしい経験だったけど、でも、センセイ個人としてはどうなんだろう。
いろいろ考えたのですが、センセイの仕事としては、彼のようなタイプの人よりも、大小いろんなことに躓いて立ち止まっている人の話を聴くことの方が相応しいんじゃないかと思っています。
決して、優劣云々の問題ではなく。
■7月7日(木) その、新型特急681/683系「はくたか」と旧型485系「北越」、乗り心地が良いのは...
昨日、北陸新幹線全通後は在来線特急「はくたか」(681/683系:上の写真)が廃止される見込みであること、新潟と金沢を結んでいる「北越」(485系:下の写真)も存続は危ういことをお伝えしました。
それはそれとして、西村センセイ、この新旧両車両についてこのごろ感じ、考えていたことがあります。乗り心地が、ずいぶん違うのです。
681/683系は旧型の485系の後継と位置づけられ、JR西日本は北陸、山陰地方などを中心に、本系統および派生系統による置き換えを急ピッチで進めています。
春にお伝えしたように、北陸・湖西線ではこの春、485系は完全に引退してしまいました。センセイは新潟との往復には485系や旧型普通車両、金沢から関東、関西方面への出張には681系を利用します。
誰だって古いボロボロの車両に乗るより新しい車両の方が嬉しいはず...だったのが、いつの間にか違和感を持つようになっていました。
681/683系に乗っていると、何だか落ち着かないのです。最初は座席のせいかなぁー――古い485系は座席が厚い――などと思っていたのですが、どうやらそんな問題ではない。
車両の揺れ方が、違うのです。485系は線路の上にドカンと土台が座っていて、その上に車両が載っている感じ。
でも681/683系は、ただブカブカしているだけ。喩えて言うなら485系は使い古したBMWで、681系はクッションが良く効いた国産高級車。
ただし後者はBMWと違って、ハンドルを握っていても路面の情報が入ってこない感じ。その違いがどこから来るのか、最初は車体の重量の違い――例えば683系は軽量のアルミ車体――かなとも思ったのですが、どうも違う......。
鋼鉄製の681系とアルミ製の683系の差は僅少です。たどり着いたのが、黄色い円で囲った部分。車輪などが装着された「台車」と車体を繋いでいる部分です。
下の、485系など古い車両は、台車の上に「ボルスタ」と呼ばれる梁のようなものがあり、その上に車体が載っています。しかし上の981系では、それが省略されており、空気バネを挟んで直接車体が載せられています。
最近流行の「ボルスタレス」というタイプです。(681/683系はヨーダンパ付)省エネその他のためと、車両全体の重量を減らすためらしいのですが、少なくともがセンセイが乗った限りではボルスタレスの車両――新幹線を含む(!!)――は揺れ方が不安定。
数少なくなった寝台車や、それを転用し、最近引退した419系などもバネは柔らかくできており、ふんわりとした乗り心地がします。
でもそれらは、きちんとした基準(ボルスタ付台車)の上の柔らかさであって、単にブカブカしているのとは全然違います。最近の鉄道事故の発生原因に関して、このボルスタレス台車が関係していると主張している人もいます。もちろん素人のセンセイにはそうかどうかはわかりませんが。
ただし少なくとも乗り心地に関する限り、技術はホントに進歩しているのかなぁと思ってしまうのです。
■7月6日(水) 北陸新幹線開業後は、富山・新潟地域のJR西日本の特急はほぼ全廃へ
報道によると、JR西日本金沢支社は昨5日、2014年度の北陸新幹線開業後、金沢以東の同社管内では特急を運行しない方針を発表したそうです。
まだ正式なプレスリリースは出ていないようですが、金沢では昨晩のニュースでも報道されていました。((c)新潟日報社)予想通り、そして覚悟していた通りの内容ではありますが、センセイにとっては「いよいよ来たか」、という感じ。
北陸新幹線が現在の長野から金沢まで延伸されると、北陸地方の交通体系は大きく変わります。たとえば同地域と首都圏を結ぶ航空機の利用客は激減──特に富山空港──すると予想されます。
鉄道は、現在の姿を一変させます。北陸3県および長野県は、平行する在来線(北陸本線および信越本線)について、各県ごとに第三セクター会社を設立し、運営することになります。
しかし、いずれも大赤字は必至。その赤字は、最終的には県民の税金で負担することになるのですが、メリットとデメリットは県によってもことなります。
石川県の場合、東京方面へは便利になります。マイナス面は富山方面との日常の移動がちょっと不便になる程度。赤字路線もそれほど長くはありません。
富山県は影響が大きくて、関西・名古屋方面へ行く時は、新幹線で金沢へ出てそこから在来特急に乗り換えることになります。
新たに抱える第三セクターもかなりの距離。また、いわゆる「枝線」となる城端線、氷見線の取り扱いも問題です。東西に長い新潟県は、悲惨。
北陸と関東を上越新幹線とのコンビで結ぶ現行の特急「はくたか」(681/683系)は廃止される見込みです。
北陸と新潟の間を走行し、長岡で新幹線に乗り換えることができる特急「北越」も、新潟県西部での利用客の少なさや、現在運行されている485系の老朽化を考えると、全線で廃止される可能性が高いと思います。その結果、上越新幹線が走る新潟(下越)や長岡(中越)はさほど影響を受けないものの、上越市や糸魚川市など上越地方が、まるで新潟県から切り離されるような格好になるのです。
センセイは、というと、どこに行くにも不便になります。たぶん日中の特急が全廃されるので、東京へ行く時も各駅停車で長岡まで出ることになるでしょう。
金沢へ行く時は、信越線の各駅停車で直江津まで出て第三セクターに乗り換え、新設される新幹線上越駅(仮称)で北陸新幹線に乗り換えることになります。
計算してみると、新幹線を使っているにもかかわらず、所要時間は現在と同じか長くなる見込み。新潟−富山−金沢を結ぶ第三セクターを乗り継ぐことも可能なのですが、料金が大幅に高くなるので、たぶん新幹線を利用する時と同じくらいの値段になるんじゃないかと思います。
う〜ん毎週、車で移動することになるのかなぁー。新幹線の影の部分について、新潟県ではある程度知られているのですが、石川や富山ではまだリアリティのある議論にはなっていません。
正直なところ、だいじょうぶかなぁーと思ってしまうのです。
■7月5日(火) 本番は見られなかったけど ──NHKのラジオ番組がキャンパス内から生放送されました──
昨日、メールが送られてきて、教職員は校舎前の駐車場を使わないで欲しいとのこと。
人が集まる行事などでは良くあることなのですが、その理由が、ちょっと特別。キャンパス内でNHKが生放送をするので、お客さんが利用するから、というのです。
平日の午後0時30分〜55分の間、NHKラジオ(第一放送およびFM)で全国放送している「ここはふるさと旅するラジオ」の中継です。実は西村センセイ、車を運転する時に割とよく聴いている番組。写真はその現場です。お昼前、食堂で早めに食事を取った時に撮影しました。
中継車「80(はちまる)ちゃん号」がそのまま舞台になっていて、「旅するアナウンサー」(左側)が全国を行脚し、放送を続けています。
今週は石川県内を縦断するんだそうです。右側に立っているのは金沢放送局の片山千恵子アナウンサー。
放送開始まで1時間ほどあるのですが、ディレクターの指示に従って、進行の手順を確認しています。
二人の目の前、平机の上で模擬の瓦礫に挑戦しようとしているは、本学夢考房プロジェクトのロボット。今回のテーマはズバリ、この夢考房の活動だったんだそうです。
過去形で、しかも伝聞表現になっているのは、残念ながら西村センセイ、放送を聴いたり本番の様子を見たりすることができなかった──だって、講義の真っ最中!! ──からです。
ところで西村センセイ、前の大学ではしばしば放送関係の仕事をしたのですが、男女とも、実際にお目にかかるキャスターの多くはとても華奢。
特に女性は、ちょっと触るだけで折れてしまうんじゃないかと思うほどです。それが、テレビだと普通に見えるんですね。でも今日の片山アナウンサーは割と、目の前の本人と、放送の時のイメージが一致する感じ。なぜそうなるのか、理由はよくわからないのですが。
■7月4日(月) 一週間の始まりは騒々しくて、寝苦しくて... ──金沢では今朝、31.3℃を記録しました──
西村センセイ、今学期の月曜日は授業がありません。
だからいつもは、少なくとも気分は割とのんびりできるのですが、今日は別。原稿の締切が迫っているし、他の先生の授業を代講しなければなりません。
というわけで、昨日は早めに就寝。きちんと眠ってスッキリと起き......られない。騒々しいし、とにかく暑くて目が覚めてしまうのです。時間を確かめるとまだ朝の3時過ぎ。
水分を補給してまた眠ったのですが......暑苦しい。窓の外を確かめると、空気がムワッ!!
騒音の原因は風の音と、強風で揺れる木々が擦れ合う音でした。目が覚めてしまったので、今朝は眠気を抱えたまま早朝に出勤。
天気予報は朝から雨とのことだったのですが、速く動く雲の切れ間から暑苦しい太陽が顔をのぞかせています。
出勤後に気象庁のアメダスで確かめてみると、今朝の金沢は30℃台。寝苦しいわけだ。((c)気象庁)しかも、午前6時の気温は31.3℃!!
金沢だけ周囲よりも高かったので、日本海に位置する低気圧に向かって南からの暖かい風が吹き込み、しかもそれが白山山麓を越えることでフェーン現象──か、それに近い状態──が起きたようです。
もちろんこんな状態が長く続くわけはありません。前線の通過に伴って今日は何回か猛烈な雨に襲われました。能登半島では床下浸水の被害も。
前線は南下し、空気が入れ替わったことで、気温はかなり低下しました。それに合わせるかのように、なぜか睡眠不足も徐々に解消。不満足ではありますが原稿も提出し、いくつかの講義を乗り切りました。
今晩こそは、ゆっくり眠ろう。気温も下がったし。
■7月3日(日) 戦争終結後4年を過ぎてからの「戦争」 ──名立機雷爆発事件──
「忘れずにアレをしなくちゃ」と思うと、それに追い出されるかのように何かを忘れてしまうこの頃の西村センセイ。老化は確実に進行しているようです。
お伝えしたように先日、車で金沢へ来た時も、大事なお米の購入を忘れてしまいました。でもその際、ちゃんと覚えていてやっと実行したこともあります。
ある地蔵尊(上の写真)の訪問です。場所は上越市名立区(旧名立町)小泊地区。写真左奥は道の駅「うみてらす名立」。飲食と観光案内、物産販売、宿泊を兼ねた観光施設です。
ご覧のように名立漁港の岸壁中央に、何故か地蔵尊と石碑が建てられています。実は第二次世界大戦終了後の1949年3月30日の夕方、この場所に漂着した機雷──対艦船用の爆弾の類だと思ってください──が爆発。
集まっていた59人の子供たちを含む63人が死亡、100軒以上の家屋が被災する大事件が起きたのです。戦争が終結してから4年経っての惨事です。地蔵尊と石碑は犠牲者を供養するために建立されたもの。
下の写真右側にあるように、堂の内部には犠牲者の氏名に続いて年齢が記されています。
犠牲者の多くが子供たちであったことがわかります。兄弟なのでしょう、近寄った年齢の同じ名字が並んでいます。中には2歳あるいは3歳など、幼児の名前も。
上の子供におぶってもらった状態で事件に遭遇したのでしょう。爆発後の現場は凄惨そのもので、生き残った人の証言によると、合同葬にせざるを得なかった──状況を察してね──そうです。
西村センセイ、この事件そのものはかなり前から知っていた、「行かねばならない」と思っていたのです。
でもどこがその現場なのか、詳しいことはわからないまま。この春に機雷爆発事件を報道するテレビ番組があったのですが、車を運転していて、その時に映し出された堂と思しきものが見えました。
そこでこの機会に寄ってみたのです。合掌してセンセイなりに犠牲者を弔ったのですが、何とも言えないものが残りました。
この場所は国道8号線と北陸自動車道名立谷浜ICへの接続道路がぶつかる場所。センセイは金沢から戻る際、この先の上越市内の混雑を避けるためにここからICに入ることも多いのですが、いつも落ち着かない、妙な気分に襲われていました。
神戸市長田地区で出くわした違和感に似ています。ICに入るためは急な崖を、S字形のカーブで登る必要があるので、そのせいかなと思っていたのです。
でも、よく調べてみるとこの崖は1751年5月21日(旧暦4月26日)、高田地震で発生し、多数の犠牲者を出した巨大な崖崩れ「名立崩れ」の、まさに現場。
防災科学技術研究所防災システム研究センターにその立体映像が掲載されています。違和感の原因がその時のものなのか、あるいはこの時のものなのか、それはわかりませんが、個人的には得心がいったのでした。
やはり、今を生きている人間には、犠牲者をきちんと弔うことが必要なようです。