2023年8月12日更新(2023年8月20日ページ移動)
■8月12日(土) ここが当時の、都会と田舎の境界(京都側) ──「上口(かみぐち)の松門」跡──
旧北国街道に関する考察の続き。
念のために確認しておきますが、実際のセンセイは、金沢市中心部から見て南西に位置する金沢工大あるいはアパートから、ホテルのある中心部を目指して歩いています。つまり北国街道を逆方向から遡っています。
もう少し正確に言うと、有松交差点付近の泉3丁目から北上。後日ご紹介できると思いますが付近、つまり南側は同じ古い町屋であっても建物の間口は広く、割とおおらかな造り。言い換えると、どこか田舎っぽさが。しかし北上するにつれて間口は徐々に狭くなり、建物も洗練されてきます。
最初は泉2丁目交差点が境界なのかなぁと思ったのですが、どうも違うらしい。何度か行き来しているうちに、昨日ご紹介した「杉本氷店」付近がそのポイントらしいということに気づきました。そこにあるのが写真の表示。ごく普通の民家の車庫脇に掲示されています。
そこには「上口(かみぐち)の松門跡」。基本的には説明文をお読みいただいた通りです。ただし先日ご紹介した泉1丁目交差点の表示にはもう少し詳しい説明が記されています。
それによると泉1丁目交差点付近には、1604年(慶長9年)、幕府の名により一里塚が築かれたとのこと。1876年(明治9年)に撤去されますが。そしてこの地には、町地(まちち)と郡方(こおりがた)の境界を示す松の木「上口の松門」が街道の両側に植えられたそうな。要するに、都会と田舎の境界ですね。
確かに、この付近を境に、雰囲気がかなり変わります。泉1丁目交差点の表示には、一里塚と「上口の松門」を1枚の絵に収めたものが紹介されています。実際には、両者は500mほど離れており、1枚に収めることはできないのですが。
なお「上口」と「下(しも)口」(金沢の北に位置する森本・津幡経由)の相違は要するに、京都に対しての位置関係のようです。金沢ネイティブの方にとって「金沢」とは、浅野川と犀川に挟まれたごく狭い地域。それを取り巻くように、先日ご紹介した忍者寺(「妙立寺」)などの寺院群が広がっています。ここはそのさらに外側。
昨日ご紹介した資料によると江戸時代初期、ここから先(=南側)は家屋がない「郡地」だったとのこと。ヨーロッパなどでは外敵から都市を守るため「城郭都市」という、文字通り周囲を城郭で囲まれた都市が発達します。かつての金沢は城郭こそないものの、機能面を考えると似たような構成になっていた、と解することが可能かも。
さて、ここから先の郡地(=南側)に入ると...。(たぶん、続く)
■8月11日(金:祝日) まるでタイムスリップしたかのよう... ──ここはかつて「駅前商店街」だった──
泉1丁目交差点を右折した瞬間、風景が一変します。
ただしその変化を皮膚感覚で感じ取れるかどうかは、やはり経験や想像力によるのではないかと思います。なぜなら建物の大半は近年建て替えられたものなので。中には鉄筋コンクリート姓の建物も。
歴史性に目を瞑(つむ)った建物は、保育園や病院など。しかし良く見ると──実際はそんなに注意しなくても──古い家や、かつて存在した町屋を強く意識して建て替えられた建物がとても多いことに気づきます。
例えば写真の建物。3軒連続していますが、おそらく右側2軒は一体。棟続きではあるものの、左端のやや低い建物(一部3階建)は別のお宅。中央(および右?)は「新田酒店」。
こちら(の最下部)で紹介されている通り、現役のお店のようです。左奥のお宅は日用生活雑貨を取り扱う「山上商店」。写真の建物は間口がかなり広い方で、もっと狭いお店(だった建物)が、ところどころ更地を挟みながら連続しています。
ちなみに、写真右端にはこの場に不似合いな黄色と緑の看板が。これは「石川県立保育専門学園」および「附属いずみこども園」の案内。この旧北国街道から入った隣の道路には、今風の建物が並んでいます。
両者のコントラストが際立ちます。さらに南西に200mほど歩き、泉2丁目交差点を越えたところにあるのが写真の「杉本氷店」(リストの最下部)。こちらも現役のお店のようです。
写真はご紹介しませんが、腰を90°くらいに曲げた高齢の女性が左側の玄関から出入りしていらっしゃいました。その左隣、棟続きのお店は「山科理容店」。
実は今回、この付近の旧北国街道について調べている中で、2017年度(平成29年度)に制作された興味深い資料に出くわしました。
『旧北国街道商売屋地図 昭和40年頃のいずみ界隈』です。
冊子は泉2丁目交差点から先(南側)の、今から60年くらい前の町屋についてまとめたもの。これまでの写真からも類推できるように、商売屋が軒を連ねていたことがわかります。
書店やパン屋も会ったようですから、かつては、何でも揃う駅前商店街のような存在だったようです。資料には先ほどの「山科理容店」もしっかり登場します。ただし隣の「杉本氷店」の場所には別なお店の名前が。ということは、後から「杉本氷店」が入られたのでしょうか。
現在、街道沿いの建物の大半は住宅に。(そのことについて口を挟むつもりはありません)お店を続けるか住宅にするかはともかく、この地域にお住まいの方々の多くが歴史の重要性を深く理解し、それぞれの事情に応じながら、それをできるだけ尊重しようという姿勢を強く感じます。
ただしこの辺を行き来していると、この辺りを境に、南北で雰囲気が少し変わっていることに気づきます。なぜだろうと思ったら...。(たぶん、続く)
■8月10日(木) 旧北国街道は、現在の金沢市泉1丁目交差点付近で国道157号線と分岐していた
人間の定義についてはいくつか知られていますが、その一つに「人間はなにごとにも慣れる存在だ※」というものが。
当地は9日連続で熱中症警戒アラート発令中。特にここ数日は酷い。ところが不思議なもので身体の方も徐々に慣れてきて、冷気の行き渡らない2階の一部が33℃でも特に何とも感じなくなっています。(実話)
加齢に伴い、センセイが温度変化に鈍くなっているだけかもしれませんが。今日も徒歩で外出したのですが、昨日のような事態には陥らずに無事帰宅。今日の最低気温が36.7℃で、昨日より1.3℃低かったからかもしれません。
それはともかく、遅れていた旧北国街道のお話を。写真は泉1丁目交差点。先日ご紹介した「森紙店」は写真奥の、見えるか見えないかという場所にあります。
センセイは金沢に住んでいた間に、金沢工大あるいはお借りしていたアパートから金沢市中心部(写真奥)まで、たぶん20回くらい歩いているはず。
大半は、最短となる1本西側(左側。写真には入っていない)のルートを選択。つまりここは通りません。左奥から右手前に流れる片側2車線の道路が国道157号線。かつては国道8号線だったはず。そして、旧北国街道は概ねこの国道と一致するはずなのです。
国道沿いに歩いていた5月、写真右側の表示に初めて気づきました。センセイが乗車するバスは、この道路を走りますが、ご覧のように、表示は歩道側を向いています。
だからバス車内からだと表示内容はおろか、その存在すら認識することが難しい。記されている内容を読んで、これまでの疑問が一気に氷解しました。
旧北国街道は、ここから分岐し、約1km先で再び国道に合流するのです。正確な表現ではありませんね。長い目で見たら、国道はごくごく最近造られたもの。古代に「北陸(ほくろく)道」と呼ばれた旧北国街道を拡幅して、現在の国道にしているのですから。
奥から続く旧北国街道は、この交差点を左側(=西側)に右折。旧北国街道に入った途端に、街並みが一変します。正直なところ、ここまで劇的だとは予想だにしていませんでした。
750mほど歩いたところにあるのが、写真の「國造神社」。その前(写真の左側)に、「旧北国街道」と記された石碑が建てられています。
交差点からここに至るまで、そしてここから先も視るべきものがたくさん存在します。というわけで、これまであまり感じていなかった金沢の街の魅力を、数回に分けてご紹介したいと思います。もしかすると不連続になるかもしれませんが、その際は悪しからず。
金沢を離れてから...というのは、ちょっと不思議な感じがしますが。
※V. E. フランクル, 『夜と霧』(Nacht und Nebel)。ただし、直接にはドストエフスキー『死の家の記録』からの引用。また著書名(原題)はEin Psychologe erlebt das Konzentrationslagerで、直訳すれば「ある心理学者が、強制収容所を経験する」という意。
■8月9日(水) 38.0℃の炎天下を歩いていたら足が徐々に重くなり、やがて身の危険を感じる事態に...
すみません。あまりの暑さのため脳みそが疲れ果てており、予告していた金沢のお話は今日も無理です。
当地の今朝の最低気温は25.0℃。アメダスの観測地点はかなり近いし、高度差も僅か。だから実際にそのくらいの気温のはず。でも今朝、目覚めた時の拙宅2階の気温は昨日に続き30℃台。
昨晩もエアコンを稼働させたまま就寝したのですが寝室の引き戸を開けた瞬間、蒸し暑い空気が塊で迫ってきます。午前中は母親からの依頼に応えて、自動車で実家へ。他の用に加えて、本人の同意を得ないまま父親の寝室の窓に網戸を嵌めます。10時半頃自宅に戻ったのですが、もう、エアコンなしに過ごすことは不可能。
ただしセンセイは所用があるので、徒歩で再び外へ。風は、多少の方向の揺れはあるものの一貫して南風。特に南東の風が多く、しかも昨日より強くなっています。画に描いたようなフェーン現象。自転車に乗っている人は少し見かけましたが、歩いている人はほとんどいません。
もちろんこの酷暑ゆえ。陽射しも厳しいので、露出している部分の腕がヒリヒリしてきます。写真は途中で撮影したもの。
駅裏で住宅の新築工事が進んでいるのですが、今日は基礎のコンクリート充填。ミキサー車から受けた生コンクリートを、写真の圧走車が作業箇所に注入していきます。
問題は、作業に従事される方々。全身黒っぽい服装の方もいらっしゃるのですが例外なく、空冷ファンを用いた「空調服」を着用していらっしゃいます。長袖の方も多い。
そうでなければ、この気温での作業はできない。(これでも非常に厳しいと思う)用を済ませ、後は帰宅するだけと思って歩いていたら、足の運びが悪くなっていることに気づきました。何だかひどく疲れた感じで、足が異常に重い。(実話)
...マズい。退職後はそれなりに身体を動かすようにしているので、100点満点とは言えないにせよ、ある程度の体力は維持しているはず。
つまり問題は体力など身体そのものよりも、それを調整する機能の側に。墓地清掃の時ほどではないのですが、あまりの暑さで身体のバランスを調整する機能が崩れつつあるのです。
帰宅後に確かめたところ、この時の気温は38.0℃。今日の最高気温です。センセイのような高齢者には危険な暑さ。ただし近くのテニスコートでは、近県の高校生を招いた試合が行われていました。みんな真っ黒。そしてもちろん、酷暑対策は適切に行われているんでしょうが。
問題が深刻になる前に、かろうじて無事帰宅。一息ついてから血圧を測定すると、「上」(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)が94mmHg、「下」(同様)は54mmHg。何と、昨日の記録をあっさりと更新してしまいました。低い数値の主要因はたぶん、この暑さなんだろうなぁ...。
他方、暑さでオツムはさっぱり回りません。(トホホ)果たして、今週中に金沢の北国街道に辿り着けるのか。
■8月8日(火) 金沢は、遠かった ──当地初の猛暑日に、故人用のお菓子を買って帰宅したら...
──
申し訳ありませんが、今日も予定を変更してお伝えします。
もともと梅雨明け後は暑い日が続いている上に、最近は颱風6号の影響で、当地は気温がさらに上昇しています。センセイは可能な限りエアコンを使用しません。でもここ1週間くらいは、正午前後から就寝時まで稼働。
ついに、昨晩は終日エアコンを入れたままに。寝室のある2階は熱せられた空気が上昇するため、もっと暑い。金沢撤収の関係で拙宅内のあちこちに温度計──大半は温度計のついた電波時計──を置いてあるのですが、各数値は非常に安定し、信頼性は高い。
当地の今朝の最低気温は24.9℃(アメダス)と、かろうじて熱帯夜を免れたのですが、2階に設置された温度計は3台とも30℃台を表示したままでした。西村センセイ、実は冷房が苦手。賛否はあろうかと思いますが、エアコンを使用しても室温をかなり高めに設定しています。それもあってか、このところ、なかなかゆっくり休むことができません。
「だから、今朝は高いかもなぁ...」と、覚悟の上で臨んだ血圧(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)測定の結果は、115mmHg。今日の当地は、異常な高温との予報。
内陸部と違って、海に面しているため日中は海風が入り込み、温度上昇が比較的抑えられるのですが、今日はもう、そんなことはどうでも...と、羽目が外れた感じ。
9時過ぎにはエアコンのスイッチを入れざるを得なくなりました。アメダスの記録によると、今日の当地の最高気温は37.7℃。今シーズン初めての猛暑日です。
先日もお伝えしたように、今週末に迫った旧暦のお盆は田舎の人間にとっては大イベント。それを楽しむ側だけでなく、楽しませる側にとっても、です。
何を言いたいのかというと、お菓子屋さんは早めにお盆休みに入る可能性が。そこで炎天下、お昼を兼ねて外出し、評判の良い菓子店を訪れて同級生(故人)用のお菓子を確保しました。予想通り、今週後半はお盆休みとのこと。
やれやれ。今日は他にもいくつかの用があったので、あちこち歩いて──暑すぎるので自転車は不使用──約2時間後に帰宅。その際に計測した血圧が1枚目の写真(平均値)。
初回はいきなり101mmHg(「収縮期血圧」)と、そもそもかなり低かったのですが2回目は何と、90mmHg(!!)。その後も2ケタ台が続出し、最終的には写真の96mmHg(3回移動平均の最低)。センセイの場合、朝の方が低く、時々このような数値が出るのですが、日中は初めて。
このところ血圧は低い値でしかも非常に安定。具体的な数値は伏していましたが実は、金沢工大大学院の講義を終えてから日中に98mmHg、次いで99mmHg(いずれも「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)を記録しています。
今回はそれをさらに更新。血圧を測り始めてからのデータをグラフ化したのが右図。右端、つまり最近の様子を拡大しているので、直感的には理解しにくいかも。
原図(別ウィンドウ、1224×878)の方が簡潔で、わかりやすいはず。高血圧に悩まされている方々には厳しい──というより、過度な羨(うらや)みが懸念されるほど──データです。いわゆる「最高」、「最低」ともに急激に低下し、しかも安定。しかも、これまでの「朝より日中が高い」傾向が逆転しています。
正直なところ、直接の原因は不明。この状態がいつまで続くのか、そして、いつか「悪い」データが記録された場合、果たしてお伝えできるのかどうかはわかりません。でも、ここに至るまでの生データには意味があるものと考え、敢えて公開する次第。
申し訳ありませんが、続きがどうなるのか、まったく不明です。
う〜ん、金沢は、遠い。(明日には何とか...)
■8月7日(月) 菓子店の、かつての店主が新たに興したのは... ──同級生の予期せぬ訃報に接して──
まぁ、訃報はたいてい想定外なのですが...。というわけで予定を変更して、昨日の続き。
昨日のお墓掃除に集まったのは、センセイにとって初めての方々ばかり。毎週実家に通っていますが住んでいるわけではないので、割と大きな集落の、特に離れた場所の人はあまり存じ上げないのです。
ただし例外が一人だけ。顔を見合わせた瞬間、お互いに「おぉ」。約十年ぶりでの再会です。彼は小、中学校の同級生。センセイらが通っていた小学校(廃校)は5つの集落が学区。実家やお墓がある集落はその中で一番大きい。
学年25人(後に26人)中、男女4人ずつ計8人がこの集落という最大勢力。しかも共同墓地については、その中の4名(皆が西村姓)が各家の墓所を構えています。不参加の1名(男性)は闘病中のため、息子さんが代わりに参加。もう1名(女性)は遠く離れた場所に住んでいます。
というわけで掃除には例年通りに彼と、新参者のセンセイが参加したという次第。休憩に入った時、彼が不意に「○○が死んだでぁ」。方言丸出しなので通訳すると、「○○が亡くなったぞ」。完全に虚を突かれました。
「○○」とは他の集落の、小学校からの同級生の名前。コロナ禍でこのところ同級会が開かれていないのですが、それ以前の、つまり5、6年くらい前の同級会で会ったと思う。小さい時から割と仲が良かった人物です。
大腸癌で亡くなられたとのこと。その場ではそれ以上のやり取りはないまま帰宅。同級生ですから、没年は満65歳ないしは66歳のはず。それこそ、まだこれからだというのに...。
故人のご家族にお目にかかったことはありません。だから何もしないでおこうかとも考えたのですが、やはり一度だけご挨拶に...と考えるようになりました。新盆(にいぼん)なので、どなたか在宅される可能性が高い。
しかも今週はお盆および実家でのイベントの関係で、自動車で複数回実家を訪れるはずことになるだろうし。さすがに空手で、というわけにはいいきません。訪れる日は決まっていませんが、常識的に考えてご家族の負担にならないようなお菓子、それもある程度日持ちするものをご挨拶代わりに持参しようかと思います。
ただし西村センセイ、お菓子には詳しくありません。そこで、お昼に外出した際、寄ってみたのが写真の「最上屋」。1871年(明治4年)「藤月堂」として創業し、後に創業者の出身地にちなんで現在の店名に変更したそうです。以前は、母校の近くにお店を構えていました。
2階の喫茶店で...というのが高校生のデートコース。このお店には、ちょっとしたエピソードが。
多くの方は「ブルボン」という大衆向け菓子メーカーの名前を耳にされたことがあると思います。以前は「北日本食品」(創業時は「北日本製菓商会」)という名称だった「ブルボン」、実は、この「最上屋」から独立したのです。
1923年(大正12年)の関東大震災を契機に、当時の店主が「創業」したとのこと。地元では良く知られていることですし、「ブルボン」社の「沿革」および「設立のきっかけ」に明記されています。ケンカ別れではなく別会社を興したということのようで、両社の工場は隣接しています。
まぁ、親戚くらいのイメージでしょうか。今日は月曜日。当地では昔から商店の休業日。それは承知の上で、でも重要な行事があると月曜でも営業するので訪れてみたのですが、やはりお休み。お菓子そのものについては明日以降、どこかのお店で適当なものを入手できればかまわないのです。
問題なのは、センセイの気持ち。猛暑日に、僅か0.1℃届かないだけという炎天下、フラフラ歩くしか気持ちの持って行き場所がありません。どうやら訃報というものは本質的に、そのような要素を持つようです。
...金沢の話題に戻ることができるのか。
う〜ん。
■8月6日(日) 34℃近い実家の2階で眠り、熱中症になりかけながら、集団墓地の清掃を行いました
今日は金沢ではなく、約250km離れた実家でのお話。
1週間後は旧暦のお盆。田舎の人間にとって、正月と並ぶ大イベントです。西村一族は20年近く前、集落内の不便な場所にあった墓地を実家近くの写真の場所へ集団移転させました。その関係で、お盆前に関係者全員で墓地全体を清掃しています。
それが8月最初の日曜日の早朝つまり、今朝。金沢で働いていた時のセンセイは日曜日の朝に移動を開始していたので、今までは87歳の母親が清掃に参加していました。でも今年からは「見習い」という立場でセンセイに交替。これとは別に、実家でのイベントが控えているため、その準備も兼ねて、センセイは昨日のうちに実家へ移動。
ここまでは問題ないのですが...実家にはエアコンがない。(実話)田舎の伝統的な家は、そもそも建物や各部屋が大きく、しかも風通しが良くなるように造られています。つまり部屋単位で冷房する日本式のエアコンには不向き。
それでも最近は、1部屋か2部屋くらいエアコンを導入しているお宅が多いのです。実家がエアコンを購入しない最大の理由は、93歳の父親がエアコンはおろか、扇風機すら「寒い」との理由で嫌うため。網戸を用意してあるのですが、それも嫌がるほど。
締め切った彼の寝室は夜間、まるで蒸し風呂のよう。(実話)それでも「俺は暑くない。自然の風で十分だ」と言い張ります。加齢が進んで暑さを認識にくくなっているため、本当にそう「感じて」いるのです。
正直なところ、長男のセンセイは毎夏ヒヤヒヤもの。今年は特に暑いし。昨晩、早い夕食を済ませるとセンセイは2階で就寝。家全体が暑いけど、2階は...お察しの通り。実家到着後、最初に行ったのは、寝室付近の窓を開けて、網戸を設置すること。
続いて扇風機を使って換気します。その時の室温は33.7℃。ビールの勢いを借りて9時に就寝した時点で33.6℃(実話)。早く寝た分、1時に目覚めたのですが、その時はまだ30℃台。暑すぎて、その後はちゃんと眠ることができないまま明け方を迎えました。
トホホ。ちなみに29.6℃の最低気温(室温)は日の出前に記録。
ちゃんと休息できていないから血圧は高いだろうなぁ...と覚悟しながら血圧計を腕にすると、確かに初回のみ高かったものの、すぐに低下して朝の「平均」(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)は113mmHg。
ちなみに、昼は同107mmHg。最近のセンセイは、本当にタフらしい。
清掃、というか草取りは7時からとのこと。でも田舎のことだから...と思って状況を確認。写真はその際にメモ用として撮影したもの。本当は皆さんの作業中の様子を撮影するつもりだったのですが、後述するように、とてもそんな状況ではありませんでした。
悪しからず。案の定、6時過ぎにはメンバーが集まり始めました。6時半過ぎに作業開始。これが予想外に辛かった。
センセイ以外のメンバーは西村一族を中心とする地元の方々。要するにこの種の仕事には慣れているので、ボトボトするセンセイを尻目に、テキパキと作業を進めます。慣れないセンセイの気持ちは焦るばかり。
しかもここは午前中、日当たりが良い。この種の仕事をする時は、安全を確保するために服装や装備に十分気をつける必要があります。刃物の類を扱うので。夏なのでセンセイは薄手のシャツを着ていましたが、それでも上から下までフル装備。
熱がどんどん籠もります。作業開始後30分くらいで、気持ちが悪くなってきました。以前、農作業中に1回だけ経験したことがある熱中症に陥りかけているのです。かといって1人だけ休むこともできず...というその時、やっと全体休憩。
冷たい飲み物が配給されました。休憩兼打合せの後に、作業再開。終了は8時30分、母親から事前に説明を受けていた作業時間の倍でした。(気がつかないうちに、広島原爆投下時刻を過ぎていた)
メンバーにお礼を言って実家に戻ったものの、体調不調は続いたまま(現在もまだ完全ではない)。全身汗びっしょりになっているので、すべて着替え、荷物をまとめて、運転に注意しながら帰宅しました。
でも、まぁ、これで「お砂場デビュー」──知らない人は調べてね──ならぬ「お墓掃除デビュー」。要領もある程度わかったので、来年からはもう少しちゃんと参加したいと思います。
そもそも、これでやっとお盆を迎えられるし。