2023年7月29日更新(2023年8月6日ページ移動)

──2023年7月第5週のニュース──

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7月29日(土) こちらは、来年以降の宿題に... ──海の大花火大会を、初めてちゃんと観ました──

 「ちゃんと」の意味は、後ほど。

 異変を感じたのは26日(水)、最後の列車乗り換えのために直江津駅に到着した時のこと。隣のホーム──跨線橋を渡る必要がある──にJR信越本線の列車が入線しているのですが...おかしい。
 JR東日本のE129系の代わりに、トキ鉄のET127系(元JR東日本E127系)。

 しかも、いつもの2両ではなく6両という、当地としては長大編成。(ただし40年くらい前は。これが当たり前だった)

 列車の遅延等で発着番線を臨時に変更したのか──時々起こる──と思ったのです。でもそのような表示はありません。しかもホームに入線している列車には確かに、「長岡(行)」の表示。間違いなく乗車すべき列車です。
 トキ鉄の車両を今日だけ借用しているのです。

 26日は「2023ぎおん柏崎まつり」の最終日。夜に「ぎおん柏崎まつり 海の大花火大会県内民放県内紙地元紙が開かれます。「ぎおん柏崎まつり」そのものは地域のイベント ですが、最終日の花火大会は全国的に有名。
 「(信濃)川の長岡、山の片貝
(かたがい、小千谷市)」とともに、越後三大花火に数えられています。衛星放送の全国生中継も。

 市の発表によると、今年の観客は約17万人。平成の大合併後の)市の人口は7.7万人ですから、2倍以上の人が集まることになります。当地は「えんま市」も有名で、こちらは3日間で20万人以上参加。
 地域の人口を考えれば、いずれも、とんでもない数字ですが。

 これだけの観客の一部をJRが運ぶことになります。臨時特急および快速、各駅停車も運行。それでも輸送力が足りないので、トキ鉄の車両を借りたのでしょう。センセイが乗車した下り列車は、意外に空いていました。
 と言うか、まだ時間が早いのでガラガラなのは当然。

 長編成にしたのは、終着の長岡駅から折り返し運行をする際、たくさんの観客を運ぶためです。実際、短編成の上り列車は相当混雑していました。
 やれやれと思ったら、ふだんは誰も利用しない途中の笠島駅から、袋を手にした男性の高齢者が乗車。

 袋の中身はおそらく、座る場所を確保するためのシートでしょう。改めて車内を良く見ると、他の乗客は皆アベック(高齢者を含む)。
 どうやらセンセイが考えていた以上に、(少し広い)地域の方に愛されているらしい。

 昨日お伝えしたような事情で、センセイは柏崎まつりそのものにあまり積極的に参加してきませんでした。最終日の花火大会も同様。
 少し離れた場所から観たことはありますが、たいていは自宅で「うるさいなぁ...」。

 ...反省せねば。

 というわけで初日の「民謡街頭流し」同様、帰宅後花火大会に出かけてみました。開始時刻に間に合わせるつもりだったのですが、ちょっと技術的なトラブルがあり、暗くなってから現地到着。
 会場に近づくにつれ、人、人、人...。

 会場は旧市街地の海岸部。自然に形成された砂丘の上から観覧席の様子を撮影したのが1枚目の写真。4秒ほど露出しています。
 ところどころ薄い影のようなものが見えるのは、移動している人間。

 海岸までびっしり人で埋め尽くされているのかと思ったのですが、意外に余裕があります。それだけ会場が広いということなのでしょう。
 もう一つ気づいたことが。

 会場へ歩きながら気づいたのですが、地域の方は自宅の前に椅子を出したりして、それぞれのスタイルで花火を楽しいんでいらっしゃいます。
 会場付近も同様。

 たとえ花火の全体が見えなくても、過ごしやすいグラウンドなどにシートを敷き、ご自分たちに似合ったスタイルでゆっくりと観覧している方が多い。
 こちらも認識不足でした。

 反省しながら撮影したのが写真。拡大写真(1280×960、137KB))

 デジカメに切り替えてから初めて撮影しました──つまり約50年ぶり(!!)の花火撮影──が、これがなかなか難しい。とても報道写真やポスターのようにはいきません。

 でも、まぁ、これは来年以降の宿題ということでお許しを。 



7月28日(金) 夏祭りは観るものではなく、踊るもの ──「ぎおん柏崎まつり」が開かれました──

 最後の金沢「出張」でお伝えするタイミングを逸した話題。でもご紹介しないわけにもいかないので。

 以前お伝えした「2023ぎおん柏崎まつり」が今週24日(月)から26日(水)にかけて開かれました。

 ...白状するとそもそも、センセイ個人としては「ぎおん柏崎まつり」には「えんま市」ほどのご縁を感じてこなかったのが本当のところ。これには事情が。西村センセイ、現在は柏崎市市街地に居を構えているものの、もともと育ったのは隣の町。
 平成の大合併で柏崎市に吸収されてしまいましたが。

 6月の「えんま市」と7月末の「ぎおん柏崎まつり」が地域の二大イベント。それは良くわかるのですが、前者が昼と夜に開かれるのに対して、後者は夜が中心。子供が自分たちだけで参加できるのは昼間、つまり「えんま市」だけ。
 というわけで、それまで住んでいた新潟市から転入するまで、「ぎおん柏崎まつり」にはあまりご縁がなかったのです。

 まつりのハイライトは初日の「民謡街頭流し」(柏崎市県内紙地元紙)、2日目のたる仁和賀(にわか)」そして最終日の「海の大花火大会」。
 27年前の転入後、センセイは町内会青年部──「青年」は65歳(!!)まで──に所属。

 端役でしたが、「たる仁和賀」で使う山車(だし)のの組み立てから、当日の運行までお付き合いしました。幼稚園児あるいは小学生だった娘は、山車の上で樽を演奏するという立場。
 でも(娘が出演する初日のマーチングパレードを除き)、他の日はほとんどまつりに参加しなかったのです。

 退職したこともあり、今回は気持ちを切り替えて──というほどの覚悟はない──初日の「民謡街頭流し」を観に行きました。写真はその際撮影したもの。
 町内や職場単位による、地元の三階
(さんがい)節などを踊り。飛び込み参加用のブロックも用意されています。

 写真中央は柏崎駅裏の幸町町内会チーム。左側、背中が見えているのは株式会社コロナ柏崎工場の方々です。この他にも、多くの方が参加。
 暑かったこともあるのでしょうが、かなり休憩しながら踊っていらっしゃいました。

 センセイにとってはほぼ初めての「民謡街頭流し」。まず、つくづく実感したのは、夏祭りは観るものではなく踊るものだということ。当たり前ですが。ただし今回、センセイは大きく重いカメラを手にしています。
 さすがに、この状態で踊るわけにはいかない。

 そしてもう一つ。まつり、つまり踊りのエリアは思ったより小さい。報道によれば約1,800名もの踊り手が参加。そしてそれと同じか、それ以上の観客が集まっていらっしゃいます。でもエリア的には、「えんま市」より一回り小さい。
 しかもエリアを一歩でも外れた途端、いつもの静かな夜の街が広がっています。

 2日目のたる仁和賀」はもっとたくさんの人が集まっていたように記憶しています。どうなるんだろうと思ったのですが、センセイは金沢へ移動したので様子を観ていません。こちらについては来年の宿題とさせて下さい。
 良く考えてみると地元に根ざした夏祭りはせいぜい、この程度の規模のはず。

 しかし最終日、「ぎおん柏崎まつり」の表情は一変します。(続く)



7月27日(木) こちらは、もう少し親(?)が... ──母校のりんごが、順調に生長しています──

 金沢工大の「ニュートンのりんごの木」をご紹介したからには当然、母校植えたりんごの木の様子も。

 今年は例年になくたくさんの実を結んだと先月お伝えしました。約1ヶ月半経過した現在の様子が、写真。一瞥(いちべつ)しただけだと、「何だ、前と同じじゃん...」かも。確かに第一印象はそうかもしれません。拡大写真(1280×960、127KB))
 でも良く見ると、実はずいぶん異なる点が。

 まず、実の大きさ。

 ずいぶん生長しています。そして形状。以前は小振りで締まっていたのです。また縦方向に長く、かなり角張った形をしていたのですが、現在はご覧のように、ずいぶんふくよかになり、丸みを帯びています。
 今や誰がどう見ても、りんご。

 お気づきでしょうか。実の「向き」にも変化が。以前は雌しべの一部だった名残で、横方向を向いている実が多い。でも今は、大半が下向きに。
 枝も、実の重さに必死で耐えています。

 実は色にも変化が。光線の具合を含めて撮影条件が違うため一概には言えないのですが、青々した色から、それとは独立した、りんごの色に。
 写真左上端など、一部は赤くなり始めています。

 ここで残念な情報もお伝えしなければなりません。これくらい生長すると、なぜか落果してしてしまう実が出始めます。昨日の写真でも落果をかなりの数、確認できます。
 落果を乗り越えても、次なる試練が。

 写真でおわかりかと思いますが、現在は病気(?)によるものを除き、りんごの実に異変は認められません。でももう少し熟すと、まるでそれを待っていたかのように鳥が果実を狙い始めます。
 最後まできちんと食べてくれるのなら、こちらの気持ちも、ある程度収まるかも。

 しかし、鳥は嘴(くちばし)で美味しそうな部分を一部をつついてお終い。ホントに。りんごの実の被害は甚大で、ほぼ落果するしかない...。されど、これも自然界の掟。

 センセイがいつ金沢工大のりんごの木に再会する機会に恵まれる──そもそも、もう二度とないかも──のか、まったく不明です。その意味で、「親」はない。他方、地元の「りんごの木」に関しては、もう少しセンセイの出番がありそう。
 少なくとも、こちらが様子を観察するチャンスは残ります。

 ただし遅かれ早かれ、「親」は物理的に存在しなくなります。そうなっても、「育ってね、しっかり」。

 何だ、昨日の繰り返しじゃん。



7月26日(水) 親は無くとも、子(?)は育ってね ──金沢工大での全講義を終えました──

 実は今日もいろいろあったのですが、やはりお伝えすべき情報から。

 お伝えしたように金沢工大大学院工学研究科で担当してきた講義も、今日が最終回。昨日のうちに金沢入り...というか大学にサービス出勤。さすがに最後となると、あちこちにご挨拶する必要が。
 最後は2時間半かけて、お暇
(いとま)のご拝謁(はいえつ)

 昨晩のホテル入りが遅くなったので、今朝は早起きして講義の最終準備。大急ぎで最後の朝食──指定のホテルは...だけど、朝食は美味しい──を済ませてバスに乗車。
 講義の準備を終えると、「ニュートンのりんごの木」に最後かもしれないお別れを。
拡大写真(1280×960、368KB))

 木々の緑色が重なっており、良い構図ではないのですが、この時間帯しか撮影できなかったので。拡大写真ではりんごを何個か確認できます。
 親(?)は無くとも、しっかり育ってね。

 倖い、講義開始までもう少し時間があったので、道路を挟んだ別棟の関係者にご挨拶。大急ぎで教室に戻り、今学期実施した14回の講義を振り返ります。
 受講生はたぶん、これが金沢工大最後の授業だと気づいていないと思う。もちろん意図的に、ですが。

 荷物を大急ぎでまとめて控え室に戻り、建物の4階へ。もうお一方だけ、ご挨拶し損ねた方がいらっしゃるのです。ホントにお忙しそうで、昨日はご不在。
 これまでの不義理を詫びます。

 これで一区切り。親(?)がいなくなった後には「子供たち」(“Les enfants du paradis”)。でも、ここ数週の感触からすると、きっとだいじょうぶ。

 育ってね、しっかり。



7月25日(火) 歴史は繰り返す(たぶん) ――これが小矢部市安楽寺の土砂崩れ現場の様子です――

 お伝えすべきお話がいくつもあるのですが、ここはやはり筋を通したいと思います。

 金沢工大での大学院講義も明日で最終回。事務手続きや関係者へのご挨拶など、今回はたくさんやるべきことが。でもいろいろ考えた結果、移動方法についてはいつも通りとすることにしました。
 つまり往路は在来線乗り継ぎ。

 当分の間――それも相当長い期間――乗車することはないだろうから...と思いながら車窓から外を見ていたのですが、昨晩の暑さでよく眠れなかったのか、黒部川を渡る頃から記憶が途切れ途切れ。
 それでも、大半の乗客が入れ替わったこともあり、富山駅からはいつものモードに。

 石動(いするぎ)駅出発後は、特に気合が入ります。列車が右に曲がり、かなり勾配のきつい区間を登った場所にあるのが安楽寺地区。このあたりは、廃止された旧北陸本線の土手が一部が残っています。
 かなりややこしい構造。

 その旧線の土手の隙間から、北側を撮影したのが写真。先週お伝えしたように大規模な土砂崩れが発生し、風景が一変しています。
 拡大写真だと、もう少しイメージしやすいかも。
拡大写真(1280×960、218KB))

 センセイも先週、圧倒されました。崩れてきた土砂が民家の庭先まで迫っており、思わず「奥のお宅は無事だったんだろうか」と心配になってしまいます。
 でも状況を冷静に観察すると、実態は描いていたイメージとかなり異なるようです。

 まず、民家と土砂崩れ現場との間にはかなりの距離があります。後から地形を確認したところ、両者の間には割と広い田圃が存在。
 住宅に直接の被害はないものと推測されます。(あくまで推測であり、未確認)

 もう一つ気づいたことがあります。この区間は2002年から数え切れいないほど通っているのですが、一部を除き、この現場は一面、緑で覆われていました。だからこそ被災後の痛ましい姿に驚かされたのです。
 でも現場をよく見ると、ここは、土砂崩れを繰り返している場所のように思われます。

 昨日の写真(特に拡大写真)をよくご覧いただくとわかるのですが、崖の断面に横の線が複数確認できます。並んでいる白い粒々は礫(れき)。つまりここは土砂が池などに比較的静かに流れ込んで形成された地形。
 地層面(層理面)は比較的平坦で、それが千曲川の激しい流れで一挙に削られて露頭(この場合は崖)になった。

 安楽寺はというと、土砂の性質は似ているものの、形成された地層が地殻変動で傾斜し、崩れやすい角度で地表に露出。その結果、何十年くらいのスパンで土砂崩れを繰り返している場所。
 流れ出した土砂が形成したものこそ、民家の先にある田圃。(おそらく)

 さらに言えば、地域住民はそれを経験的に見抜いていたからこそ、崖の真下には住居を建設しなかった。実はこのような地形、実家の近くにも複数個所存在。子供のころから見慣れた風景。
 この痛々しい場所が緑に覆われるまで、まぁ、20年から60年くらい。

 誤解されると困るのですが、「だから被害はなかった/少なかった」と申し上げたいのではありません。この地区のあちこちで土砂崩れが発生しており、交通にも大きな影響を与え続けています。
 現在は応急復旧工事中。

 長い目で見ると、人間だけでなく地質学的な歴史も繰り返すという、当たり前のことをお伝えしたいだけなのです。



7月24日(月) 「宿題」は予想以上にヘビーだった ──飯山線から千曲川を見ながら帰宅しました──

 「宿題」の内容はいくつかあるのですが、一番重要なのは飯山線の南側の席に座ること。

 「なぜそんな簡単なことが...」と訝(いぶか)る方も多いと思います。滅多に乗車できない遠方ならともかく、飯山線は自宅に比較的近い。そして実際、センセイは飯山線に20回くらい乗車しているはず...。
 申し訳ありませんが、しばらく時間軸上を行ったり来たりします。

 先週金曜日、点検を終えて愛車を受け取ったセンセイは往路と違って、一般道のみで帰ることにしました。具体的にはひとまず長野市郊外に入り、千曲川(新潟県に入ると「信濃川」)を越えたところで右折。
 そこから先は国道18号線を走るというルート。

 少し走ると両側に、二重の意味で見慣れた風景が。まず一面に広がるのはりんご園。収穫はまだ先ですが、立派な実がなっているのがわかります。実はこの地域、子供の頃に毎年「りんご狩り」で訪れていた場所。
 西村家の、今となっては謎の慣習です。

 そして道路脇には、2019年秋に脇を走る北陸新幹線の中から見たホームセンター。今は、逆の位置関係から新幹線の高架を見上げています。
 お察しの通り、ここは同年10月の水害で千曲川が破堤して大規模な浸水が起きた場所。

 近くにある長野新幹線車両センターは水没。もう少し高い場所を走る旧信越本線(現しなの鉄道)も被害を受けました。もちろん想定外の降雨量が直接の原因。
 しかし少し触れたように、付近の地形にも理由が。

 長野県北部は、千曲川沿いに巨大な池を連ねたような地形になっています。「瓢箪(ひょうたん)を繋げた」と言うべきかも。最も大きいのは長野盆地。次いで飯山市。
 これらの場所では川幅が広く、千曲川はゆったりと流れています。

 でもそれ以外は川幅が狭く、意外と急峻。印象はまるで違います。飯山線は千曲川からかなり離れた高い場所を、時速20kmくらいで走ります。
 そうせざるを得ないのです。

 写真は新潟県との県境に近い栄村で撮影したもの拡大写真(1280×960、208KB))。川幅はかなり狭く、流れも急です。そして何より、見たことのない崖崩れが。記憶にはないし、Googleマップでも確認できません。
 もしかすると2019年の水害で崩れたのかも。(未確認)

 しかし千曲川が持つヤヌスの顔は新潟県内に入り、信濃川と名前を変えた途端、一変します。確かに時々洪水も起こすけれど、千曲川のあの荒々しい顔ではありません。飯山線は一貫して、千曲川の左岸を走ります。
 つまりヤヌスの二つの顔を確かめるためには、列車の南側に乗る必要があります。

 でも飯山線の運転本数や乗り換えの関係で、乗車できる列車は限られます。乗車時間も長い──今回の場合、3時間半弱──ので、どうしても陽射しを避けて北側(=左岸)の席を選びがちになります。
 今回は右後ろからの太陽光だったこともあり、意識して右側席に座りました。

 これにより、まったく想定外の事態に出くわすことに。新潟県内に入り、二つ目の「大根原(だいこんばら)踏切」に差し掛かった時、踏切脇の石碑前にテントが設置され、夏服姿のJR東日本職員約10人が立っていることに気づきました。
 想定外だったので、写真はありません。

 これは2011年2月1日、JR東日本のミスにより発生した、一般人の人身事故(運輸安全委員会の事故報告書はこちら)の慰霊。ローカルニュースでしか扱われなかったので、全国的にはほとんど知られていない事故だと思います。
 事故当日は毎年JR東日本幹部が出席して慰霊式が行われるのですが、それ以外の日にも慰霊が行われているとは知りませんでした。

 というか、おおよその場所は承知していたのですが、正確な位置はもちろん、慰霊碑の存在も初めて知りました。今回は若手職員の教育が目的なのでしょう。

 ひとまず最初の「宿題」を解いた(?)ものの、その内容は、予想以上にヘビーだった...。



7月23日(日) 「あ、モンキーだっ!!」 ──何と47年ぶりに、長野電鉄長野線に乗車しました──

 お気づきと思いますが、今回の点検は長距離ドライブであると同時に、鉄分補給の旅。

 退職後は毎週、金沢との在来線を主とした往復で鉄分を補給していますが、それも今週の大学院講義で終了。それを除けばコロナ禍以降、あまり列車に乗車していません。もちろん春には、熊本まで往復
 でもこの時は、(あまり好きではない)新幹線を利用せざるを得ませんでした。

 そもそもかなり長い間、新潟県内や近県の鉄道に乗っていません。倖い、自宅と今回の目的地である長野県北部との間には複数の在来線ルートが存在します。しかも現在は夏休みが近いので、県内2日間乗り放題の乗車券を利用できます。
 これはもう、行くしかない。

 不二ガレージ社からは代車の申し出があったのですが、AT車だと運転できないし、よそ様の車を運転する自信もありません。お礼を伝えて辞退しました。点検は翌週(=今週)後半でも良かったのです。
 でも子供たちの夏休み期間と重なるので、早めに点検していただきました。

 お伝えしたように、不二ガレージ社は須坂駅のすぐ近く。直接の目的はJR長野駅への移動です。ここを走るのは長野電鉄長野線。実は西村センセイ、高校生(および浪人時代)に何度か乗車しています。
 終点湯田中
(ゆだなか)駅の先にある、志賀高原へ向かうためです。

 センセイが通っていた高校は、(少なくとも当時は)文武両道の進学校。よく学び、よく遊ぶ。修学旅行とは別に年に2、3回くらい、クラスあるいはクラブ活動で県内や近県で合宿していました。授業としてのスキー合宿も。
 今とは違って、のんびりしていたんだなぁ...。

 それはともかく複数回、長野電鉄と終点からのバスを利用して志賀高原でキャンプをしています。最後は47年前、つまり半世紀近く昔の夏の出来事。長野電鉄に関して覚えているのは僅かに、当時の電鉄長野駅が地上駅だった(1981年に地下化)ことくらい。
 そして、とにかく暑かった。

 不二ガレージ社のメカニックに「(運賃が)高いですよ」と教えられて、須坂駅へ。ご教示いただいた通り、高い。しかも実際に乗車してみると鉄道であるにもかかわらず、頻繁に停車します。
 まるで路線バスのよう。

 約25分乗車して、電鉄長野駅へ。途中から2歳半くらいの男の子と若いお母さんが乗車してきました。運転士席の後ろ、お母さんにだっこされて前を見ています。
 つまり、センセイも最前部に座っていたのですが。

 電鉄長野駅に到着すると、男の子は興奮して「あ、モンキーだっ!! モンキーっ!!」。何のことだろうと思って隣のホームを見ると、おぉ、見慣れた列車が。
 JR東日本の253系「成田エクスプレス」電車そのものです。

 そう言えば、E259系導入で不要になり、JR長野工場で廃車解体寸前だった253系の一部車両を長野電鉄が購入したという報道を思い出しました。
 海外出張で何度もお世話になった車両ですが、良く見ると、オリジナル塗装を踏まえているものの、いくつかの違いが。

 車両正面に“N'EX”と書かれていたのですが消失。運転席下の“JR”ロゴは“NER”に。おわかりですね、“Nagano Electric Railway”の略称です。運転席の反対側には、温泉と猿の絵。そして愛称の“SNOW MONKEY”。(その他、色の塗り分けも一部異なる)
 これは湯田中温泉の先にある「地獄谷野猿公苑」の「雪の中で温泉に入浴する猿」を指しているそうです。

 男の子が言う「モンキー」は、これだったんですね。

 数年ぶりの長野駅前。センセイは現在、年金生活者。経費削減のために旧ダイエー長野店跡のスーパーで簡便なお昼を済ませて駅へ戻り、早めにホームへ。階段を降りたところにある美味しかった蕎麦店は、「11月で閉店」とのこと。
 すでに閉店しており、しかもそれが何年前のことなのかすら不明。

 もちろん、コロナ禍が背中を最後に押したのでしょう。

 お伝えしたように、自宅へ戻るためには大きく二つのルート──さらに一つのルートは二つに分岐──があります。西村センセイ、どちらにも興味があるのですが今回は、数年来の「宿題」を片付けたいと考えています。
 お天気と相談の上で、です。

 「宿題」とは、そしてセンセイが選んだのは...。(続く)

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