2007年10月13日更新(2007年10月21日ページ移動。2012年9月19日一部写真削除)

──2007年10月第2週のニュース──

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10月13日(土) よぉーく見ると、微妙に......。 ──新潟県中越沖地震から3ヶ月(1)──

 週末なので新潟県柏崎市の自宅にいます。

 西村センセイ、土砂降りでもなければ、通常はJR柏崎駅から自宅まで歩いて帰ります。

 15分くらいの距離なのですが、その間に、新潟県中越沖地震の仮設住宅3カ所の脇を通ります。
 駐車場には車が止まっているし、窓に洗濯物が掛けてあったり、もちろん夜には灯りも点くのですが、なかなか生活している方々を感じられない。
 被害を受けた人々の姿がなかなか見えてこないのです。(直接には知らない人ばっかりだし。)

 一方、センセイを含めて被害が少なかった人々の生活は、少なくとも表面的には、何事もなかったかのように平常に近づいています。
 今日は娘の学校行事に参加したのですが、行事の時も、それを終えてからの外食の時も、地震の直接的な影響を感じることはありませんでした。
 実際には、仮設住宅から通学している生徒だっているはずなのですけど。

 新潟県中越沖地震から約3ヶ月。これを一つの区切りに、近所の様子を再確認してみることにしました。 

 柏崎市内では、まるで地上げ屋がやって来た──バブル絶頂期の東京で経験した──かのように、虫食い状態の空き地がどんどん広がっています。
 全壊した家屋を撤去した跡です。

 右の写真は、今回の地震で最初に老夫婦の死亡が確認された場所ですが、こちらはあの時のまま。
 確か跡継ぎがいらっしゃらなかったはずで、土地の相続などが確定していないためにそのままに残されているのでしょう。

 しかし全体としては、全壊家屋の多くは撤去されており、壊れたままの石垣などを除けば、こういう瓦礫はもうあまり見かけなくなっています。

 さて右の写真は柏崎駅前の様子。

 角に建っている白っぽいビルは、この地にラーメンを初めて伝えられたと伝えられる「盛来軒(せいらいけん)」。
 戦前に中国人が経営していたお店が母体なのだそうです。

 お店に入ると、まずレジで昔の国鉄の乗車券(硬券)のような食券を求め(!!)、テーブルで半券を持って、看板商品である昔ながらの「中華そば」(醤油味)を待ちます。
 当地では知らない人はいないほどの、有名なお店で、被災後約1ヶ月くらいで営業を再開しています。

 この辺りでは最初の3階建てビルで、センセイは微かに建て替えを覚えている──記憶が混乱しているかもしれないけど──ような気がします。
 築後約40年くらいでしょうか。右端のイトーヨーカドーを含む周囲のビルはずっと後に建てられています。

 で、写真をご覧になって、何か奇妙な点にお気づきになりませんか?

 そう、次の写真だともうちょっと良くわかってもらえるかもしれませんが、隣のビルと接近し過ぎているのです。
 拡大(右上)してみると、隣のビルの雨水排水管が折れ曲がってしまっています。

 これだけではどちらの(あるいは両方の)ビルが傾いたのかわかりませんが、周囲の状況からするとどうも、盛来軒のビルが右側に傾いたような......。

 新潟県中越沖での地震被害の特徴に、地盤の問題があります。一つは有名になった地盤の液状化、そしてもう一つが砂丘の崩壊です。
 この場所は地面のすぐ下に砂丘が隠れているのですが、その砂丘が激しい揺れで崩れてしまっているのです。

 地面の砂の移動だけならともかく、隣の刈羽村などでは、場所によっては地下10mくらいまで、砂丘が崩壊し砂地の地盤が一挙に崩れてしまっています。
 こうなるともう、拙宅のパイル打ちを含めて、地表近くの問題に対処する通常の地盤改良は意味がなくなってしまうんですね。

 写真の盛来軒のビルは昔の建築で、現在の基準からすると基礎が十分に形成されておらず、砂丘の崩壊に伴ってビル全体が傾いてしまったのだと思います。
 そして市内にはこのように「建物は何ともない(/被害は少ない)けど、建物全体が地盤ごと傾いてしまった」ビルがたくさんあるのです。

 表面的には傷が目立たなくなっている柏崎市内ですが、実はこのビルように、なかなか表面には出にくい場所で物理的、心理的に深刻な問題が進行しつつあるように感じられます。
 でもその一方で、問題に正面から取り組んでいらっしゃる方も確実に存在します。

 続きは、明晩。



10月12日(金) 「チャンカレ」、初の東京進出へ!!

 今日の話題は「チャンカレ」の専門家、同僚のT先生に教えていただきました。(深謝、深謝)

 報道によると、「金沢カレー」を代表する「チャンカレ」こと「カレーのチャンピオン」が11月、北陸以外では初めてのお店を東京の高田馬場に開店させるそうです。
 詳細については上記誌面をお読みください。
((c))北國新聞社

 そういえば最近、全国誌で「L」ないしは「Lカツ」こと「Lカツカレー」に代表される、濃厚なルーと薄いカツ、キャベツの千切りとソース(好みによってマヨネーズをかける)という「金沢カレー」をよく見かけるようになりました。

 知らなかったのですが、ゴーゴーカレーはすでに、東京や沖縄、さらにはニューヨーク(!!)にまで進出しているのだそうで、満を持しての本家「チャンカレ」出陣というわけです。

 今日、そんな東京進出の話を聞いたら、体力を使う午後の講義の前にチャンカレを食べたくなりました。

 体力が落ちているので半分くらいしか食べられなかったのですが、う〜ん、やっぱり本家チャンカレだ。

 ただし、今日はお米が新米に切り替わっていて、水加減を誤ってご飯が柔らかすぎましたし、そもそも新米の瑞々(みずみず)しさとカレーとの関係は難しいものがあるなぁーと思いました。

 Lカツを待っている間に店内を見ていたら、最近、新人のウェイター/ウェイトレスが多いことに気づきました。
 考えてみると、新店舗に移転した頃から新人が目立ちます。

 松任(まっとう)にも、羽咋(はくい)にも新店舗を出すようですし、そして何より初の東京進出ですからそれに備えて新人を育成してきた(/している)んですね。

 他県から金沢に来ると、本当に驚かされる味なので、金沢カレーの今後の展開がホントに楽しみです。

 県外の皆さんも、チャンスがあったらぜひ一度試してみてください。



10月11日(木) 「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」 ──越後平野の不思議な土盛り(2)──

 大正11年にひとまず通水した大河津分水ですが、自然の力は実に偉大で、程なくその一部が壊れてしまいました。

 洪水で押し寄せる大量の水が、堰そのものを破壊してしまったのです。
 また昨日の写真からもわかるように、大河津分水分水は海岸に近いところで山を越えるため、川幅が狭くなり、また傾斜も急になるため河口付近では流速が増加してしまいます。
 川の流れが速くなると、周囲の土砂を削る力も、また土砂を運ぶ力が急に大きくなるため、川底がどんどん削られてしまいます。

 この困難に際して、改修工事の責任者として当時の内務省から現地に派遣されたのが、青山士(あおやま あきら:1878-1963)という人物。

 青山は荒川放水路などの難工事を指揮しただけでなく、日本で初めての倫理綱領制定に尽力するなど、センセイらの専門分野では有名な方です。
 関係者の皆様、大河津分水の件はご存じでしたか?

 信濃川と人間との壮絶な戦いについては、信濃川大河津分水資料館などで、その様子を見ることができます。

 分水に面した資料館の脇には現在、大小いくつかの記念碑が建っていますが、その中の一つが右の写真のもの。

 昭和6年に建てられた高さ4m以上、幅6m以上ある立派なもので、青山士による改修工事完了を記念したものです。
 頭頂部のギリシア様式を模した部分などに異国を感じます。

 この記念碑の陸地側中央部には右の写真のように旧字で「人類ノ為メ国ノ為」と書かれています。
 まぁ、これはわからないではない。

 緑青(ろくしょう:銅の酸化物)が歴史の重みを伝えています。

 日本語の下にセンセイの知らない欧米語で何か書いてありますが、これはまず間違いなく、エスペラント語の翻訳でしょう。

 分水(堤防)側には 「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」と書かれていますが、これだけでは何だかよくわかりませんね。
 実際、10年以上前にNHK新潟放送局がこの大河津分水分水の特集番組を放送した際にこの記念碑を取り上げたのですが、この時もこの文章の意味は良くわからないというように伝えていたように記憶しています。

 でもこれ、意味ははっきりしているのです。

 話がものすごく変わるようですが、キリスト教は基本的に、「神がこの世界を創造した」“creatio ex nihilo”と考えます。
 「太古」とか「未来永劫」などという東洋的、あるいはヘレニズム的な世界観とはまったく異なります。
 でも「創造」といっても、神様はデタラメに世界を創ったのではなく、「神の意志」“voluntas Dei”──まぁ、設計図のようなものです──に基づいて創造したと考えます。

 現在、その「設計図」そのものは失われています。
 でも山だとか川だとか猫だとか植物だとか、要するに「神が創造したもの」は、その「設計図」に基づいて創造されているわけですから、目の前にある「自然」(「萬象」)をよぉーく観察すれば、そこに神の意志を識る(「天意を覚える」)ことができ、そのようなことができる人物は「幸いなり」という意味なのですね。

 実は青山士は、有名なキリスト教徒であり、自然と科学・技術についてこのように考えた内村鑑三の影響を強く受けているのです。

 戦争の足音が近づいている時代に、文化の中心である東京から遠く離れた新潟のこの地で、目の前に直面する大問題を処理しつつ、而して目に見えるものの向こうのものを観ていた人が、確かに存在していたんですね。

 え"、わからない言葉があるって。それならぜひ、自分で調べてみてください。

 それこそが、「最初の一歩」でしょう。



10月10日(水) どうしてもっと早く気づかなかったのだろう...。 ──越後平野の不思議な土盛り(1)──

 先週末もそうだったのですが、西村センセイ、新潟にいる時はいろいろな用で自宅と新潟市を行ったり来たりします。平均すると2週間に1回くらいでしょうか。

 急いでいなければ一般道を利用するのですが、最短経路の国道は信号が多くて不便なので、分水−新潟間はたいてい、越後平野のど真ん中を走る高規格の農道を走ります。

 その農道に入ったばかりの所で、道路の西側に突然、写真のような大きな土盛りが見えてきます。
 土盛りというより「小さな丘」と言った方が適切かもしれません。だって高さ10m弱もあるものが2kmくらい続くのですから。

 現在は全体が畑として使われています。

 ちなみに写真奥の山は有名な良寛和尚が住んだ「五合庵」を含む国上(こくじょう)寺のある国上(くがみ)山です。
 五合庵は写真の中央奥に位置します。

 昔からここを通るたび、「こんな平らな場所に、不思議だなぁー」と思っていたのですが、ある時突然、あ"......。

 この土盛り、何だか分かりますか?

 右の写真はこの場所を衛星写真で見たもので、黄色の細線で囲った部分が高くなっている場所です。

 明らかに人工的ですし、その北西側にはさらに直線的な人工の構造があります。以下、2枚とも((c))Google & TerraMetrics

 さらに上空から見たのが右の写真。(写真中央部の黄色で囲った部分が2枚目の範囲)

 もうお分かりですね。

 越後平野の中央部を左下から右上(新潟市方向)に向かって信濃川が流れています。

 越後平野のかなりの部分は実は水面下で、かつては深刻な洪水をたびたび引き起こしていました。
 そこで1870(明治3)年に、信濃川を流れる水の一部を日本海にバイパスする工事に着手し、紆余曲折を経て1922(大正11)年にひとまず通水したのが 「大河津分水」です。

 新潟市など、現在の越後平野にある都市の繁栄とコシヒカリなどのお米や野菜は、この大河津分水のおかげなのです。

 この大河津分水は平野部を掘削するだけでなく、海岸近くでは山も削るために大量の土砂が出ました。土盛りはその時排出された土砂の一部、北西側の直線的な構造はたぶんトロッコ等を引き込んだ跡なんですね。

 分かってしまえば何ということはないんだけど、何でもっと早く気づかなかったのだろう......。

 突然ですが、ここで問題です。

 この大河津分水、センセイらが共同で担当している科目と深く関係しています。それは何でしょう?(この続きと解答は、明晩!!)



10月9日(火) 「三位一体」への道は険しい ――柏崎のラーメン屋「幸楽苑」に入ってみました――

 柏崎市の国道沿いにラーメン屋「幸楽苑」が開店したので、先日初めて入ってみました。地震後にオープンしていたのですが、これまで行く機会がなかったのです。

 幸楽苑は福島県を根拠地とする低価格ラーメンのチェーン店。ホームページによると、そもそもは現社長(2代目:後述)のお父様、つまり初代社長が会津若松市内に開いた食堂が発祥なのだそうです。
 現在は東日本を中心に多数の店舗を展開しており、新潟県内では良く見かけます。

 1991年、センセイが新潟県新発田市の前任校に赴任した時にはすでに、市内に「会津っぽ」というお店を出していました。
 ただし、残念ながらこのお店はあまり流行らず、その後別な場所に移転、主力営業形態の「幸楽苑」を出店し、こちらは現在もそれなりに繁盛しています。

 柏崎にできた幸楽苑は、金沢工大の近くにこの春できたお店とまったく同じ造りです。ただし何故か鏡像のように左右が正反対ですが。

 今回は「海鮮野菜ラーメン(みそ味)」をお願いしました。税込み700円くらいで、このお店では一番高い部類に属します。
 700円で「高い」というのには訳があって、この幸楽苑は醤油味ラーメンを1杯290円(税別)という低価格で売り出すことによって、店舗を急拡大したのです。

 この290円の醤油味ラーメン、価格だけなら工大そばにある「びっくりラーメン」の180円(税別)には負けますが、品質を考えれば十分に納得できる内容と価格です。

 去年、経済系の雑誌(だったかな?)でたまたま幸楽苑の記事を読みました。

 ここ数年店舗をどんどん拡大したにもかかわらず経営は厳しく、ついに3代目社長が交代した、というか、実は先代(2代目)に戻ったのだそうです。

 復帰した新社長はまず、メニューの見直しから始めたそうな。

 メニューはそれまで、この看板商品の290円ラーメンを中心に構成されていました。お客さんの多くは当然、この290円ラーメンを注文するのですが、低価格だけに利益は少ない。
 他の商品は最低でもいきなり100円以上高くなります。もちろんその分、利幅も大きいのですが、お客さんはなかなか注文してくれない......。

 そこで新社長、290円ラーメンについては、もちろん引き続き掲載するもののメニューの一番下の目立たない所に置き、目立つ場所には中級〜高級品──他店と価格はほとんど変わらない──およびセット物を配置したのだそうです。
 これで売れ筋が変わって利益もかなり上がり、経営もようやく安定したとか。

 実際、お客さんのオーダーを見ていると、下校途中の女子高校生は290円のラーメンを注文しましたが、主たるターゲットであるはずの若い家族連れ、あるいは老人夫婦なんかは中級〜高級品、セット物を頼んでいます。

 「商売はこういう風にやるんだぁ」などと考えていたら、やっと注文品が到着。記念撮影後にさっそく頂戴します。

 まずスープを一口味わってから具へ。イカやホタテ、海老などはやわらかくて美味しいし、スープの上に散った桜海老も香ばしく、また独特の食感があります。
 特に不満はありません。次に麺をいただいたのですが、これもいつもの麺。安心して食べられます。

 スープと麺と具はそれぞれに合格点なので、じゃぁ大満足かというと、う〜ん、これがちょっと違う。麺とスープが、具に力負けしてしまっています。

 幸楽苑は、麺もスープも基本のものをそのまま高級品にも使っているのでしょう。その判断はよくわかるのですが、でもその結果、トッピングが力を持てば持つほど、麺とスープが負けてしまうんですね。

 B級グルメ、ラーメン道の「三位(さんみ)一体」は、やはり難しい。



10月8日(月) 西村センセイ、「新潟マラソン」に出場する

 報道によると昨日、新潟市中心部にある新潟市陸上競技場を起点・終点とし、日本海に沿って駆け抜ける第25回新潟マラソンが開催されたとのこと。(センセイは金沢にいたので見ていない。((c))新潟日報社

 実は西村センセイ、 24年前(1983年)に開かれた第1回新潟マラソンに参加したのです。
 現在と違って、新潟市の西の端にある新潟大学五十嵐キャンパスがスタート・ゴールで、これに伴い、ルートも現在よりさらに西側を使っていました。

 この年、西村センセイは大学(学部)の7年生。
 あ、留年したのではなく、学部に入り直したのですが......客観的には同じようなものですけどね。

 このころは新しい出会いと展開があった時期なのですが、同時に戸惑いもありました。
 また意外にも──実は、まったく予想だにしていなかった──肉体の衰え(!!)を自覚し始めていました。

 ヤバイ、と思って数人の同級生達と始めたのがジョギングとマラソンだったのです。

 皆さんよぉーくご存じの通り、センセイは運動が苦手ですが、実は、長距離走は得意なのです。
 「上手い」というより、ホントのところは体重が少なかった──身長173cmで52kgくらいだった──から、というのが最大の理由なのでしょうけど、高校時代は1,500mも3,000mも学校の最上位クラスでした。

 で、地域のマラソン大会なんかに同級生や大学の先生なんかと一緒に、その後の新潟マラソンに使うことになるコース(国道402号線)を走るようになりました。
 さすがにこの頃は体重が増えていたし、何より鍛えていなかったので、速いという程ではありませんでしたが、でも遅くもありません。

 そんな時上越新幹線の開通を記念して新潟マラソンを開催することになったので参加することにしたのです。「第1回」と銘打っていましたが、実は2回目以降があるかどうか、はっきりしていなかったのです(様子を知らせる新潟市市報)。

 昨日と同じように、24年前も快晴。

 センセイはハーフマラソンに出場したのですが、いつも走っているコースだから、と思ったらこれが甘かった。
 センセイはいつも未明の涼しい時間に走っていたのですが、本番のレースは日中。もちろん秋で気温は低いのですが、それでも晴れた日中はかなり気温が上昇します。

 苦しくて何度もリタイアしようかと思ったのですが、それでも何とか完走しました。
 スポンサーの一つが三国コカコーラで、ゴールした時にもらった「アクエリアス」の美味しかったこと。五臓六腑
(ごぞうろっぷ)にみるみる水分が行き渡る感じでした。

 その後も少しは走ったのですが、何だか走ることに満足感を覚えないようになりました(何故だろう)。
 不摂生な生活が続いているので、今走ったら逆に体を壊すんじゃないかと思います。アクエリアスもあの日以降は特に美味しいとは思わなくなり、現在はただの水道水を水筒に入れて飲んでいます。

 きっとあの日は、曲がり角の一つだったんだろうなぁー。



10月7日(日) 工大祭でいつも不思議に思うこと

 いよいよ今日から工大祭!!

 というわけでセンセイもちょっと工大祭の様子をのぞいてみました。少なくとも今日は天気予報がどんどん良い方に外れて、快晴となっています。(残念ながら、明日は天気が崩れそうなのです。)

 日差しのあるところはとても暑く、日差しは皮膚を刺すような感じがするのですが、でもちょっと日陰に入っただけでずいぶん涼しくなります。
 さすがに、もう10月ですからね。

 去年は関係する研究室をほとんどまわったのですが、今回は時間がなかったので大小のステージと屋台へ。
 学生に混じって、子供達や地域の人たち、学生のご両親と思われる方がお越しになっています。

 工大祭、特に屋台を見ていると毎回、「こんなに女子が多かったかなぁー」と驚かされます。

 工学系の大学はどこも女子学生が少なく、工大の場合はたぶん7%くらいのはず。
 ところが工大祭になるとその割合が数倍になります。

 「いかにも工大生」という女子学生もいるのですが、増加分(?)のほとんどは明らかに学外から。

 金沢の他大学などの事情はよく知りませんが、高校生じゃないし、勤め人でもないし、う〜ん、ホントにどこからやって来るんだろう。
 しかも夜になるとこの雰囲気が一変して......。

 まっ、いっかー。老人が出しゃばる場面じゃなし、後は若い人に任せよう。


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