2014年6月14日更新(2014年6月22日ページ移動。2017年3月13日一部写真削除)
■6月14日(土) 西村センセイ、福井県の高校で「先生」になる ──保護者向けの講演をしました──
2ヶ月ほど前のこと。大学の広報の方がわざわざ研究室へお越しになって「。お話があるんですが......」。高校で進学に関する講演をして欲しいというのです。
ふだんからお世話になっていることもあって了解しました。そもそもこの種の仕事は断らない主義だし。けれどもしばらくして、「先方が講演要旨を欲しいそうです」という連絡をもらって、厳しい現実に引き戻されました。
何をお話ししよう。そもそも依頼内容はかなり漠然としています。しかも良く読むと、どうやら先方と本学広報の要望がちょっとずれているらしい。えーい、こうなったら、困った時の“Keynote”頼み。
毎夏、全1年生のために行っている短い講義に、保護者と高校の先生方へのメッセージを入れてスライドを作成しました。その講演が今日。お昼を食べてから大学の車の後部座席に乗せていただき、大学を出発。ドアの開け閉めもしていただくのですから、気分は会社の重役。
なったことはないし、どう考えてもセンセイには似合わないけど。1時間ほどで会場の福井県立三国高等学校(坂井市)へ到着。芦原温泉と東尋坊のすぐ近くです。
学校は旧三国町の中心部の小高い丘の上にありました。Macのセッテイングを終えると、すぐに講演開始。
依頼を読んでいて感じたのですが、先方および本学関係者をが求めているのはどうやら、進学や受験に特化した事項。
でもそうじゃないのでは、というのがセンセイのメッセージです。つまり、今、何が起きていて、それに対処するためにはどのような選択肢──受験、進学やそのテクニックを含む──があって、これからを生き抜く子供たちのために、保護者や教師、つまり前の世代は何をしなければならないのか。
『星の王子さま』の美しい絵を中心に置き、スライドの枚数は最低限に絞って45分ほどお話ししました。原稿やスライドの印刷は存在しないので、女性を中心とした保護者の表情に合わせて語りかけたのですが、甘めに採点すれば、講演という場をかなり楽しんでいただいたようです。
少なくとも、「大学の先生が進学の話をする」というイメージと違っていたことだけは確か。『星の王子さま』と“Keynote”にはやはり、聴衆に訴える、他にはない力があります。
■6月13日(金) 大学裏の教職員用駐車場が住宅地になり、現在、新築ラッシュを迎えています
今日は見たままのお話。
昨日は講義があったのですが、それを終えると立場上のかなりヘビーな会議が続けて二つ。しかも最後の会議にはいわば「延長戦」があって、金沢市内で夜遅くまでお客様のご接待。
学生の皆さんにはちょっとわかりにくいと思いますが、オトナになると、誰かがこういう仕事をしなくてはならないのです。昨日の講義の記録はひとまずアップロードしたのですが、コメントは今晩になりました。このように、オトナの事情によるものなので、悪しからずご了承ください。
というわけで、今日はかなりゆっくり目に起床。実は今晩も別なお客様の相手をする──もちろんお酒を飲む──ので、徒歩で出勤します。
自転車の時とも、車を利用する時とも少し違う経路。やがて大学のすぐ手前で、ご覧の光景が。もちろん住宅を新築しているのです。いわば新築ラッシュ。
OB・OGの方は良くご存じだと思いますが、この場所は教職員のための駐車場として使用されてきました。去年の後半、少し離れた場所を舗装して駐車場にしたので変だなぁーと思っていたら、そちらを利用して欲しいとのこと。
たまたま担当者に話を聞く機会があったのですが、ここは借地で、その借用期限が切れるんだそうです。貸主にも事情があるようで、結局この土地はお返しすることになったんだそうです。返却後はすぐに整地作業と上下水道の配管工事が始まりました。
そして、あれよあれよという間に、写真のような状況に。開発業者は土地を売るだけでなく、住宅の工事を請け負うのが普通。工事の負担を考えて、一度にではなく段階を踏んで土地を売り、住宅を建築します。
だからこの近辺はこれから2年くらい、住宅の新築が続くはず。OB・OGの皆さんが古巣に戻ってくる時には、ずいぶん雰囲気が違っているんじゃないかと思います。
■6月12日(木) さよなら485系K-2編成 ──センセイはどこでも鉄分補給(3)──
6月9日(月)、新潟支社に3編成だけ残っていた旧国鉄色485系特急用車両の1本、K-2編成が新潟車両センターから長野総合車両センターに向けて回送されていきました。廃車のためです。
センセイがその情報に接したのは回送の数日前。回送当日の9日、センセイは大宮から上越新幹線と北越急行線を乗り継いで直江津駅へ移動しました。調べてみると、K-2編成はその1時間前に直江津駅から長野に向けて出発しています。
残念ながら、すれ違い。確かに年老いてはいましたが、それでも完成度の高い優美な姿。それを見ることはかないませんでした。
写真は約3週間前の5月18日(日)、金沢へ移動する際に、柏崎駅の3番線に入線した時に撮影したもの。虫の知らせがあったのです。「もう見られないかも」と思ってから1年4ヶ月。よく頑張ったと思います。
金沢駅でK-1編成とホームを挟んで並んだ姿は、とても貴重だったんだろうなぁ。本題に戻りましょう。お察しの通り、今回の土崎駅への旅は弔問(ちょうもん)。つまり弔(とむら)いの旅。
土崎工場で、新潟支社で活躍していた485系T-11編成とT-14編成が廃車解体中であり、奥羽本線の車内からその姿を見ることができるという情報を得たのです。
せっかくの秋田行き。天はセンセイに自分の目で確かめろ、という命を与えたのです。これはもう、行くしかない。
土崎駅から徒歩で南下し、線路脇(西側)の歩行者専用道路を進むと、奥羽本線を挟んだ反対側(東側)に懐かしい485系新潟色(上沼垂色)の先頭車両が2両、そして中間車両が1両見えてきました。
この他にも、構内の離れた場所に3000番台R編成およびT編成の中間車両が1両ずつ置かれています。写真左側はT-11編成、そして中央はT-14編成の6号車ですが、これはまさにあの日、センセイが乗車し、そして見送った車両です。
これらの車両はすでに、現役列車の証拠である「車籍」を失っただけでなく、ただの鉄の塊に還りつつあります。写真は縮小しているため、ちょっと分かりにくいのですが、いずれの車両も車体下部の各種機器が完全に取り外されています。
意外なことに、座席はそのまま残されています。最初に取り外しそうなものなのですが。「葬式鉄」という言葉があります。廃止当日あるいは廃車が迫った列車を撮影したり見送る鉄道ファンを指す言葉です。その基準を準用するのなら、今回のツアーは「49日鉄」くらいかもしれませんね。
各車両とも長い間、本当にご苦労様でした。合掌。
■6月11日(水) 秋田駅の北隣「土崎」駅まで行ってみました ──センセイはどこでも鉄分補給(2)──
保護者会が開かれる日の午前中、突然出現した大魔神像にちょっとびっくりしながらも、センセイは予定通りに秋田駅へ。
自動販売機で200円の切符を買って、ホームに入線していた大館行きの各駅停車に乗車しました。
お客さんは完全に地元の方ばかり。所定の時刻に出発したのですが、東北地方の都市は、仙台を除けばあまり大きくないので、すぐに落ち着いた田園風景になります。
今回は秋田の北隣、JR東日本土崎(つちざき)駅まで乗車します。隣といっても7.1kmも離れていますから、かなり乗車します。駅の手前にある本当の目的地を右側の車窓に確かめながら下車。
ホームに降りて北へ向かう電車を見送ると、右に緩く曲がる奥羽本線とは別に、海のある左側(西側)にも線路が延びていることに気づきます。
秋田港まで続く貨物線(「秋田港線」)です。駅舎は1926年(大正15年)に造られたものなのですが、ごく最近、ご覧のようにリニューアル工事されました
繰り返しになりますが、今回の本当の目的地は土崎駅そのものではありません。スイミングスクール以外何もない駅前から、秋田方向へ徒歩で戻ります。
経路は車窓から確認済。この日、仙台以南は大雨だったのですが、秋田はご覧のように晴れ。気温もぐんぐん上昇します。
湿度が低く、じめつかないのが救い。5分ほど歩くと、奥羽本線の東側に大きな構造物が見えてきました。JR東日本の「秋田総合車両センター」です。
国鉄時代の名称をそのまま使って「土崎工場」とも呼ばれます。ここでは各種車両の製造、改造、検査・整備や廃車解体を行っています。意外なところでは、JR東日本の駅ホームにおかれているゴミ箱もここで製造しています。
建物の上にはそれぞれ「車体検修場」、「旅客車塗装場」、「技能教習所」などと書かれています。日曜日だからか、土木工事を除けば人影はありませんでした。
さてこの一角に、今回目指す場所──というより目指すもの──があります。やがて「それ」が視界に入ってきました。(続く)
■6月10日(火) これがリニューアルされた「つばさ」です ──センセイはどこでも鉄分補給(1)──
何度もお伝えしているように、今回は割と「緩い」出張。もちろんセンセイはこの貴重な機会を利用して鉄分を補給しました。
保護者会の2日目の会場は、お伝えしたように山形。会の終了後、お土産を買って新幹線ホームに出ると、隣のホームに東京発新庄行きの「つばさ」が入線してきました。
それが何と、塗装が全面リニューアルされたE3系車両。実物を見たのは初めてですが、センセイが撮影した写真は割と渋い感じで、こちらの方が実物に近いです。
実はこの塗装変更、かなりのいわくつき。グレーに緑のラインの入った塗装は、基本的には1999年の山形新幹線開業から続いています。
正確には初代400系(現在は廃車)の塗装は緑のラインが細く、途中で塗装が変更されていますが。確かに地味ですが、個人的にはメカニックなそして未来を感じるデザインなので、悪い印象は持っていません。
ところが山形県知事はそう思わなかったらしい。『朝日新聞』(現在は削除)および『河北新報』によると、「塗装変更は吉村美栄子知事から再三要望された」とのこと。
確かに強いインパクトを受けます。でも正直なところ個人的には、あのE7系以上に「勘弁して......」。ネット上の評判もかなり厳しい。
しかも未確認情報によると、山形県知事は山形産米の新主力品種「つや姫」にちなんで、新幹線の改名を求めたらしいのです。秋田新幹線が「こまち」という名称を使っているので、それになぞらえてということのようです。
ただし山形県のホームページでは「臨時列車名称への『つや姫』の使用」と、限定されていますが。さすがに県民の反応は否定的。
山形県内では知事自らが出演して、地元県産のお酒やお米を積極的にPRしています。それはそれで高く評価できるのでしょうが、いみじくも県民が指摘しているように、歴史や経緯、物事をごちゃまぜにして考えるのは......どうでしょう。
この件、表面的な問題ではなく、知事の基本的な思考方法に繋がるように思えてならないのです。新幹線「つや姫」号ねぇ......。
■6月9日(月) 佐藤錦、確かに見事でしたが、高価なのでとても買うことはできませんでした
金曜日からの出張も最終日。今日は金沢へ移動するだけです。朝、比較的遅めの時間に大宮から新幹線に乗り、越後湯沢で金沢行きの特急「はくたか」に乗車。
途中の直江津駅で一行にご挨拶してセンセイだけ下車します。自宅へ戻るのです。お土産は2種類。いずれも山形駅で買いました。日持ちのする茄子漬けと、山形特産品を使って小分けされたパイ。
前者は実家や伯母、近所などへの使い物。今回、金沢に車を残してきたので、センセイは「足」がありません。来週末には実家へ行くことができると思うのですが、日持ちを考える必要があります。
後者は居残り、つまり出張をバックアップしてくださった職員の方へのもの。高いものは御法度です。でも山形駅で、同行した誰もが惹かれたものがあります。今が旬の山形特産のサクランボ。
佐藤錦が有名です。業務を終えて山形駅に着いた時、ご覧のように並べられていたのです。ホントに見事。
そして次に感じたのが、(生産者の方には申し訳ないけれど)「何て高いんだ」。左から右へ並んでいるのはいずれも佐藤錦。すぐに気づくことがあります。右へ行くほど色が濃い。
どうやら品質を見分ける指標の一つらしい。一番右のものは、その左隣のものを2パックを1箱に収めたもの。30個ぐらい入っているですが、これで5,500円。
その左は1パック(300g)3,300円。これが一番高い。確かに色艶も、頭抜けています。そのさらに左に、1パックだけ残っているものは2,800円、その左は1,300円とどんどん値段が下がります。写真左端のものは900円。もちろん買えないわけではないのですが、お土産はまず何より相手が大事。
今回は購入を見送りました。でも余裕がある時にゆっくりと食べる佐藤錦、きっと美味しいんだろうなぁ。
■6月8日(日) こちらは西村センセイが山形で出くわした、別な意味で「大きな人」
結果的に昨日の続きとなりました。悪しからず。
センセイらは今朝、冷たい雨が降る仙台を出発し、今日の会場である山形駅前へ移動しました。
ご参加下さった保護者のおかげで、会は無事に終了。片づけを終えてから金沢へ向けて出発したのですが、2本の新幹線と最終の特急を無理やり乗り継ぐと、日付が変わってからの金沢到着。
そこで今晩は東北・上越新幹線の乗り継ぎ駅、大宮で宿泊します。保護者会の準備をほぼ終えたのが11時半。最初のお客様はあと1時間ほどでお越しになるので、その前に、お昼を食べておく必要があります。
会場となるホテルを出て、適当なお店を見つけるべく左右を......あれっ?!目の前に、写真の銅像が。
ただし昨日と違って、仮設ではありません。像の高さそのものはたいしたことなく、本体は80〜90cmくらいでしょうか。
銅像下のプレートにはまず、「山形城の開祖 斯波(しば)兼頼(かねより)公」。続いて、南北朝時代の「武延文元年(1356年)足利幕府の命により、羽州探題(現在の山形県・秋田県に亘(わた)る広い地域を統治)として山形に入部、翌二年には山形城を築城し、徳政を以(も)って山形の基礎をつくった」との説明。
最上(もがみ)兼頼とも呼ばれている方です。昨日とは違った意味で、(ずっと)大きな方。
なお、銅像脇のペットボトルはセンセイが置いたものではありません。センセイは歴史家なので、事実をそのまま後世に伝えるべく、手を加えずに撮影しました。