2007年1月6日更新(2007年1月14日ページ移動。2011年5月3日一部写真削除)

──2007年1月第1週のニュース──

バックナンバーはこちら


1月6日(土) 冬靴、初出動!!

 西村センセイ、今回の金沢は一晩だけで、お昼過ぎの電車に乗って新潟に戻りました。

 日本海側はこの冬、12月初めと下旬にちょっと雪が降っただけで、少なくとも今のところ暖冬少雪(というより無雪)が続いています。

 で、西村センセイ、これまでは少しくらい雪があってもずっと普通の革靴で新潟−金沢を往復してきたのですが、天気予報によるとこの週末は大荒れとのこと。
 現在太平洋側で発達中の低気圧が日本の東に抜けた後は西高東低の冬型となり、しかも上空にはこの冬一番の寒気が入り込むそうです。

 こういう「山雪型」の場合、強い北風は吹いても、平野部の雪は大したことないのが普通なのですが、さすがにもう革靴というわけにはいきません。
 現在はまだ、雨が少し降っているだけなのですが、今回は北国専用の冬靴──金沢のアパートと自宅に同じ物を置いている──を履いて新潟に戻りました。

 雪の降らない地域では存在を知られていないこの冬靴、踵(かかと)の所には収納式のピン(?)がついていて、凍って滑りやすくなった道路ではそれを引き出して使います。
 カッコつけて革靴で歩いたら、たちまち転んでしまいます。

 また防寒・防水加工してあるので、とても暖かく、濡れても平気なのでとても便利。
 しかしその反面、足首まで固定されるような格好になるので歩きにくいし、湿気も籠もりがちです。(だから通勤、通学時にだけ使い、室内では上履きを利用する。)

 女性のブーツなんかを見ていると、暖かいんだろうなぁーと思いつつも、もっとずっと歩きにくいんだろうし、しかも......などと考えてしまうのでした。
 本当のところは知りませんが。

 予想気圧配置を見る限り、明日は大荒れになりそうです。ホントに大雪になったら、この程度の靴では対応できないので、雪が中に入り込まないような構造になったゴム長靴の出番となります。

 雪が降らない/少ない地域の人には、ちょっと想像が難しいかもしれませんね。



1月5日(金) 西村センセイ、蟹を食べながら考える。 ──お正月料理で改めて確かめる東西文化──

 明日から大学の業務が再開されるので、西村センセイ、金沢へ移動しました。

 いつもの夕方の電車に乗ったのですが、日脚(ひあし)が少しずつ伸びているので、日没には間に合わなかったものの、日本海の夕焼けを堪能することができました。(写真は柏崎市笠島漁港)
 今日は本当に天気が良かったのです。

 去年が激務だったということもあって、センセイの年末年始は、家族サービス以外はほとんど何もしない1週間となりました。
 関係者の皆様、従って年初からすでに仕事が遅れております。すみません。

 元日は実家で過ごしたのですが、母も年老いたので、今や御節(おせち)料理(?)のほとんどはスーパーのオードブル。
 正直なところ、季節感も何もあったものではありません。

 そのうち、弟が「蟹を食いたい」と言い始めました。

 次期ご当主であるセンセイは、菩提寺に行かなくてはなりませんし、また年老いた伯母を見舞う必要もあったので弟にはかまわずに外出したのですが、しばらくして実家に戻ると、あれ、まぁ、茹でたズワイガニが。
 それもたくさん!!

 子供たちはほとんど食べないので、大人だけでずいぶんな量をいただいたのですが、みんな、上手(うま)く食べていないし、何よりも、あまり美味しくない......。

 以前お伝えしたことがありますが、新潟は佐渡や県の最西部(旧越中藩だった地域)などを除くと、あまり蟹を食べる習慣がありません。ごちそうだということはわかるのですが、せいぜい刺身に茹でた足が少々添えられるくらいです。

 あまり蟹を食べる習慣がない新潟。
 どうも「美味しい蟹」、あるいは「蟹の美味しい茹で方」も知らないようで、県内で流通している蟹の多くは茹ですぎです。今回も、図体は大きかったのですが、ほとんどの蟹が茹ですぎで、肝心の身は小さく固くなっていました。

 オマケに今回は、買い手の足下を見られた──現場は確認していないけど──ようで、どうも身の詰まっていないものをつかまされたようです。(わざわざ寺泊まで出かけた弟には内緒だけど。)

 やはりこの問題の根底には東西の食文化の違いがあるように思えます。
 東日本に属する新潟(ただし佐渡は西日本の文化)の人々に、金沢の、小さな
香箱(こうばこ)の洗練された味覚や、それを季節の節目として悦ぶというあの感覚を説明するのは至難です。

 物理的な距離は200kmくらいでしかないのですが、実は心の距離(?)は、ずいぶん離れているですね。

P.S.
 蟹の話を楽しみにして下さっているSさん。今回はがっかりするような話ですみません。(ペコリ)




1月4日(木) 「角榮トンネル」再訪 ──開通した「地蔵トンネル」を通ってみました──

 何回かお伝えしたことがありますが、センセイが生まれ育った実家(新潟県柏崎市西山町)は、海岸部と、ちょっと内陸に入った信濃川流域の、その間にあります。
 この地域は高さ300〜350mくらいの山が壁のように連なっています。

 したがって柏崎市や出雲崎町などの海岸部と長岡方面を結ぶ道路や鉄道は、必ず峠を越えなければならず、現在は頂上部のほとんどすべてがトンネル化されています。
 その一つに「地蔵トンネル(地蔵隧道)」(地図:ただし旧隧道)があります。

 地図をご覧いただくとわかるように、このトンネルは西山町と長岡市を結ぶ幹線道路ですが、新潟県の資料によると、もともとは何もない場所で、難工事の末、昭和35(1960)年にやっと(旧)地蔵隧道を開通させているそうです。
 現在はすぐ隣を北陸自動車道新地蔵トンネルが通っていますし、他にいくつもの道路が整備されているので、かつての姿を想像するのはかなり難しくなっています。

 さらにそのずっとずっと前、人々は実家前の北国街道を利用していたはずなのですが......こちらはもっと想像が難しい。

 しかしこの地蔵隧道、建設後40年近くもたったのと、地滑り地帯で地盤が弱いため、路盤が膨張し、トンネル断面が変化(!!)して、一時交通止めになるなどの大きな問題が発生するようになりました。(交通止め期間中は、迂回道路となった実家前を大型バスやダンプが通っていました。)

 その結果、新潟県は数年前から(新)地蔵トンネルの開削工事を進め、昨年度末に開通にこぎ着けたのです。

 そこで所用もあったので、この休みを利用して新旧の地蔵トンネルに行ってみました。

 右の写真は長岡側の出口ですが、(新)地蔵トンネルは意外にも(旧)地蔵隧道(新トンネルの左上)のすぐ近くに建設されていました。
 鉄道では、複線電化などのためによく旧トンネルの脇に新トンネルを掘るのですが、道路では珍しいと思います。

 また先ほどから(新)(旧)を使い続けていますが、多くの場合新しい方には「新」などを付して別なトンネルとして扱います。

 不思議に思って西山町側の出口(右の写真、左奥)へ行ってみると、バリケードで完全に封鎖されていました。
 危険なのと、別なトンネルを掘ったのではなく、トンネルをつけ替えただけ──だから名称はそのまま引き継がれた(「隧道」=トンネル)──ということなのでしょう。

 ところで、この(旧)地蔵隧道の上に誇らしげに掲げられている──今では誰も気にする人はいないけど──銘板、特徴のある「地蔵隧道」の文字の脇に「田中角榮」と記されています。
 のみならず、トンネル手前の薬師堂(赤い尖った屋根)のそばに、買収で有名になった北越製紙(長岡工場)の林があったことを示す記念碑があって、再び「田中角榮」の字が......。

 この地は(センセイが生まれただけでなく)、元総理大臣田中角榮氏の出身地(実家地図、記念館はこちら)でもあり、地元紙の報道にもあるように、(旧)地蔵隧道を開削するにあたっては、角榮氏が大きな影響力を及ぼしたといわれています。

 いわばこの場所は、「角榮道路」「角榮トンネル」の原点なのです。もっとも、田中角榮氏が影響力を発揮するのは、この生誕の地ではなく、過疎が進む中越地方山間部なのですが。
 センセイは西山町立二田
(ふただ)中学3年生の時の修学旅行で目白の田中邸を訪問して一緒に記念写真に収まっていますし、総理就任の際は授業中にもかかわらず「恩義がある」という理由で体育館に集められて、実家の方角に向かって万歳三唱させられました。
 遥拝
(ようはい)のようなものですね。

 しかしそれも今は昔。

 旧隧道手前の地蔵温泉に客足はなく、正直なところ、いつまで持つかなぁーという感じです。旧隧道の存在も次第に忘れられていくのでしょう。

 そして最初の写真の中、今回はそこまで行ってみなかったのですが、出口付近に旧隧道の犠牲者の慰霊碑があります。今でもトンネル工事は危険なのですが、40年以上も前のことですから、この旧隧道工事でも犠牲者が出てしまったのです。

 かつて旧隧道を通る時は「このトンネルを掘る時に...」と何回も、しかもいろんな人から聞かされたのですが、もう今ではそんなことはありません。皆が忘れてしまっているというのが最も実情に近いでしょう。

 けれど、この社会を支えてきた(/犠牲になった)人々に、成功/失敗にかかわらず、そして自分の立場にかかわらず、「だから今の自分はこうなんだ」ってちゃんと説明できるかどうかは、とても大切なことだと思うのですが......どうでしょう?



1月3日(水) 初売りの日の「オウエン」さん

 新年も3日目になり、人々にも少しづつ動きが出てきました。初詣の元日、そして「何もしないぞっ!!」という2日とはちょっと違って、生活の匂いを感じさせる動きです。

 午後、元日を休業したスーパーへ行ったのですが、駐車場に県外ナンバーはごく少なく、老夫婦が軽自動車で買い出しに来ている姿が目立ちます。(実際、老人の車にぶつけられそうになった。)
 初売りの昨日は正月関連商品が大きな面積を占めていたのですが、今日はもうぐっと減ってしまっています。

 でも、まだ市場が開いていないので、魚や野菜など新鮮な食材はなく、何だか正月と平日の間の宙ぶらりんな日、という感じ。

 夜のおつまみに解凍ものの刺身を買い、支払を済ませてお店の外に出ると、抽選会が開かれていました。
 そういえば12月中旬あたりから、レジの女性が、いつもと違うピンクのレシートで「抽選が...」とか言ってたっけ。
 よく聞き取れなかったけれど。

 受け取ったレシートを改めてよく見ると、レジ担当者の氏名は「オウエン1」。

 何のことだろうとしばらく考えていたのですが、たぶん、本社で経理などを担当している内勤組が初売りに駆り出されているんでしょうね。
 せめて正月くらいは休暇を、というパートさんに代わってなのでしょう。

 「見慣れない人だな」と思った今日のレジの女性。
 張り切っているんだけど、動きに微妙なぎこちなさを感じたことにも納得がいきます。

 抽選会の若手職員もおそらく内勤組なのですが、レジのお嬢さんと違って、こちらはなかなか仕事がスムースに進みません。それでも彼らの表情がとても良いのと、やる気はよく伝わってくるので、お客さんもそれなりに満足そうでした。

 この年末年始、新潟県内では2日に長岡(旧栃尾)市内のスーパー駐車場で人心事故があったことを除けば、幸いにも大きな事故や災害もなく、天気にも恵まれました。

 明日から仕事始めの人も多いでしょうし、娘の学校も自主登校という形で再開されます。

 正月という節目はもちろん大切です。でも少しずつですが、もう一つ大切な「ふだんの生活」が始まろうとしている新潟です。



1月2日(火) 当地は穏やかな新年を迎えています

 実家で一晩過ごして、今朝、柏崎市の自宅に戻りました。

 昨日は実家に、最大で15人が集まったので、最初の、そして最も重要な仕事は15人分の食料の買い出し。

 子供たちが小さかった時と違って、大学生を頭に8名の孫がずいぶん大きくなっているので、全員が集まった時の食料消費量は、それはもう想像を絶するものがあります。
 そもそも、全員が揃って一部屋に座ることすら難しくなっているのです。(ただし、田舎の家なので部屋をいくつか繋げれば問題なく可能。)

 お昼前に、実家近くの「プラント刈羽店──おぉ、お店の写真に世界最大の柏崎刈羽原子力発電所の鉄塔と電線が写っている!! ──へ行きました。

 帰省した人たちで大混雑しているだろうなと覚悟して駐車場に入ったのですが、確かにたくさんの車が止まっているものの、よく見るとほとんどは従業員の車ばかり。(駐車の仕方でわかる。)
 今日は、従業員総動員──こちらも当たり前か──のようです。

 従業員用の駐車スペースを過ぎると駐車場はガラガラで、便利な出入り口近くに車を止めることができました。

 田舎独特の「怒濤の新年」を終えて今日、自宅に戻り、ちょっといろいろ出かけてみたのですが、柏崎市内、やはりあまりお客は多くありません。
 昨日は元日だったので、新年の挨拶のために行き交う車があったのですが、今日はそれすらありません。

 今日の午後、センセイの自宅近くにある「お魚の三十三間堂」こと日本海鮮魚センター(こちらから。地図はこちら)へ行ってみたのですが、こちらも人出はわずか。(ちなみに、日本海鮮魚センターはネット上でのお店も開いています。)

 そもそも漁師さんは年末年始には漁を休んでいるので、それを知っている人はこういう場所に来ません。

 でもいつもなら、帰省客や事情を知らない観光客で混雑するのですが、そういう混雑もありません。
 どうも地方を出身して都会に定着した人々の世代交代が進んでいるようで、帰省客そのものが減っているし、その親の代も絶えつつあるようなのです。

 ちょっと考えることがあったので、帰路は318iで日本海鮮魚センターから山間(やまあい)の田舎道を新潟工科大学の近くまで走ったのですが、道路脇に続く棚田を改良した田圃のほとんどが、数年前から耕作放棄されていました。

 以前もお伝えしましたが、これまでこの国を支えてきた基本的な部分が、知的な崩壊地域崩壊という形で崩れつつあるんだろうと思います。

 穏やかな新年であることには間違いないのですけど。



2007年1月1日(月) 明けましておめでとうございます

 明けましておめでとうございます。

 右の写真は今朝、自宅から隣の工場の屋根越しに撮影した初日の出です。当地は珍しく良い天気となり、穏やかな新年を迎えています。
 最低気温が-7℃と予報されていたのですが、薄雲がかかったせいか、氷点下にはならなかったようです。

 昨年については、昨日すでにお礼を述べさせていただきましたので繰り返しませんが、改めて本年もよろしくお願いいたします。
 また皆様にとって今年が良い年となるように願っております。

 昨晩は自宅で過ごしましたので、お年玉用の千円札をたくさん用意して、これから実家へ向かいます。

 それでは、また。



2006年12月31日(日) 西村センセイ、自宅で初めての年越しとなりました。 ──今年もたいへんお世話になりました──

 下の写真は今日のお昼、柏崎市内にある新潟工科大学のキャンパスにお邪魔して撮影した、地域のシンボル「米(よね)山」(993m)です。数日前からの荒れた天気は昨日までにおさまり、今日は時々日も差したので、平野部の雪はほとんど消えてしまいました。
 当地としては珍しく静かな大晦日
(おおつごもり/おおみそか)となっています。


 西村センセイ、いつもの年なら実家で年を越すのですが、弟家族の都合で、急に、実家への集合が明日に変更になり、今晩は柏崎の自宅で過ごすことになりました。
 センセイは1996年8月、つまりちょうど10年前に自宅を新築したのですが、何と、自宅で新年を迎えるのは初めて。自宅は家族だけなので、とても静かな夜となっています。

 今年はとにかく忙しかった1年で、皆様にはさんざんお世話になっておきながら、しかし十分に礼を尽くすことでできなかったと反省しています。

 来年はどうも、さらに忙しい(!!)年になりそうです。また、このサイトも年明けから新しい試みに取り組みます。(ご覧になる側からすると、ほとんど変化はないはずなのですが。)

 新潟は明朝、よく晴れそうです。めったにないことです。その分、気温は下がって、最低気温は-7℃と予想されています。
 そもそも零下に下がることが珍しい当地。北海道や長野と違って、防寒対策が十分ではないので、古い水道管は凍り付いて破裂してしまうかもしれません。

 いずれにせよ、身も心も引き締まる朝になりそうです。

 今年1年、いろいろありがとうございました。そして来年もよろしくお願いいたします。



「最近のニュース」(最新版)へ
バックナンバーのトップページへ
トップページへ戻る