2010年7月24日更新(2010年8月1日ページ移動。2014年5月25日一部写真削除)
■7月24日(土) 田圃の中に小舟が?! ──「米百俵」の地、再び──
週末なので自宅に戻った西村センセイ、今日は午前中から新潟市、長岡市、実家とまわって所用を片付けます。その途中のこと、車を走らせていると、あれ?!
田圃の中に小さな舟が......。しかも人間──動かないのですぐにマネキンだとわかりました──が乗っています。左手、畦(あぜ)の上には女性のマネキンが立っています。
女性の足元にある機具は水を汲み入れたり排水したりするもので、機具の上で、人が歩くような格好で羽根を踏んで回転させます。
実はこれら、いずれも50年くらい前まではごく普通に新潟平野で使用されていたものなのです。写真を撮影したのは新潟市西蒲区峰岡。「米百俵」で有名になった──知らない人は調べてね──三根山藩のあったところです。
写真中央奥はこの地域のシンボル、弥彦山。この舟の説明はなかったのですが、近くには写真の看板が立っています。
絵の中央には用水路が描かれており、舟でいろいろなもの──この絵では米俵──を運んでいたことがわかります。
水路の向こうに田圃が広がっているのですが、水路と田圃の区別が明確でないことがわかります。以前にお伝えしましたが、現在でこそ穀倉地帯として美田が広がる新潟平野はかつて、一面の沼地だったのです。
人々はその中の少し高いところに集落を作って暮らしていたんですね。主たる交通機関は舟。農作業は胸まで水に浸かっての作業でした。
沼地なので大きな木は生育できず、炊飯等のために「木を燃やす」ことはなかったんだそうです。
どうするかというと、稲藁を燃やしてすべての作業をしていたんだそうな。そもそもきれいな水道水はないので、用水の水を藁で濾して飲んでいたんだそうです。
第二次世界大戦終了後、排水路を建設し、電力で沼地の水を常に排水することによって「新潟平野」は保たれています。
実はむしろ、現在の方が仮の姿なのかもしれません。センセイはたまたまこの地にご縁があり、いろんなことを直接教えていただきました。
でもそうでなければ、ただの小舟とマネキンだったのかもしれません。
■7月23日(金) この暑さの中での作業、本当にご苦労様です ──新厚生棟と講義棟は一体で再開発──
今日もまた、見たままのお話。
このところの暑さはもちろん金沢も例外ではなく、とにかく建物の外へ出る気になりません。実際、日中は外を歩く人が、特に老人が減っています。
暑さに比較的強いセンセイだって、可能ならば、出勤したり、お金を振り込んだり、あるいは書類を届けたりするために外に出るのは午前中にしたい。それも早い時間に。でも今日は午後、受け持ちの学生の件で、一番気温の高い時間に少し離れた建物へ行く必要が出てきました。
覚悟を決めて(?)外へ出ると、陽射しが痛いくらい。以前お伝えしたように、講義棟(8号館)前では、この酷暑の中、ご覧のように工事がかなり進んでいます。
木々の周りで学生諸君が休めるようになるんですね。写真中央奥には、こちらも以前ご紹介した「スロープ」。
ただし予想とちょっと違って、基本的には階段で、その右脇に車椅子用のスロープが併設されるという構成のようです。
確かに以前の写真をよく見ると、そういう構成になっていますねぇ。教職員に配布された新厚生棟に関する資料を詳細に読み直してみると、写真左側の講義棟との一体運用が強く意識されていることがわかります。
写真の工事はその一環なんですね。早く新厚生棟に入ってみたいなぁー。
■7月22日(木) 西村センセイ、留学生の作品に感心していて、ポカをする
一昨日のこと。センセイらの研究室がある1号館という建物の中を歩いていると、館内がいつもとちょっと違った感じ。
ふだんなら学生諸君が勉強したり休んだりしている中央ロビーに、ザワザワと動きがあるのです。何だろうと近づいてみると、ご覧のパネルを設置中。組み立てているのは全員が外国人。
短期間ですが本学に滞在し、あの七夕飾りを書いてくれた留学生諸君です。忙しかったのでその時は通り過ぎただけだったのですが、今日はちょっと見せていただきました。もうすぐ帰国するので、留学していた間に感じたことを一種のポスターにしているようです。
上段は主に写真。まずはゲームの街秋葉原とか、京都の舞妓、広島の原爆ドームなど、「いかにも日本」という感じのもの。数人ずつに分かれて旅行したんですね。
でもそれだけではありません。高田馬場のカプセルホテル、普通の民家の庭、自動販売機──確かにアメリカでは種類も数も少ない──、折り紙、地元野々市町の老人や子供どなど、一般庶民の生活ぶりを学生の視点で捉えています。
説明文は立派なもので、かなり難しい漢字も使っており、七夕の時よりも日本語がさらに上達しています。
肝心の内容はというと、やはり日本の普通の人々と接することによって、理解が相当進んだことがわかります。アメリカ人の学生に接していると、あまり偏見を持たずに新しいものに積極的に取り組む態度に驚かされます。
へそ曲がりのセンセイなんかよりずっと......などとフラフラしていたら、あ"。会議があることを忘れていた。う〜ん、失敗。
■7月21日(水) あぁ、今日から夏休みなんだぁ──ただし、子供たちだけですが──と、実感する日
今朝も暗いうちに目覚めていた──歳を取ると朝が早い──のですが、昨晩は深酒気味のまま衛星放送で「スターウォーズ」を観てしまったので、どうも起きる気になれない。
ずっとウダウダしていると、センセイの部屋に面した道路を聞き慣れない音が通過してきます。
手持ちの鐘の音です。しばらくすると子供用の自転車のブレーキ音。もう間違いありません。
でも、まぁ、もうちょっとこのまま......などと考えていると、予告なしに「ピシッ!!」。それも複数回。
地震(6時19分)です。起きろ、ということなのでしょう。支度はしてあったので外へ出ると、斜向かいの公園にたくさんの親子が集まっています。
朝のラジオ体操です。昨日の夜のニュースで知ったのですが、金沢市内の小中学校は今日から夏休みなんですね。
初日ということもあってか、みんな表情が生き生きしています。まだそんなに暑くないからかもしれません。昔と違って夏期休暇期間中ずっと体操をするわけではないらしい──たぶん2週間くらい──のですが、やっぱり「夏休みなんだなぁー」と感じます。
ところで今日の放送では女性が体操を指導していたように聞こえたのですが、センセイの聴き間違えだったのでしょうか。
■7月20日(火) すっきり。さっぱり。 ──照りつける陽射しの下で庭を手入れしていただきました──
今日は見たままのお話。写真が、いかにも暑そう。
夏日だった昨日、自宅庭の手入れをしていただきました。あらかじめ日は決めてあったのですが、予想外に梅雨明けが早まったので、照りつける陽射しの下での作業となりました。
センセイの自宅、建物はセンセイ名義なのですが、土地は父親のもの。まぁ、いずれはセンセイが相続するのですが。庭については庭園師──だったかな──の資格を持つ母が、実家の庭を触らせてもらえなかったため、息子の自宅で思いっきり趣味の世界に走って造ったもの。
枯山水に松や梅......センセイには良くわからないけれど。こういう事情なので、草取りくらいは家人がするものの、庭について一番偉いのは母親で、彼女が今回の日程を決めたという次第。
造園する時は大工事なのでプロの業者が入りましたが、今回の剪定は「シルバーさん」ことシルバー人材センターにお願いしたそうです。2人の方が熱心に働いてくださったのですが、うち1人は実家のすぐそばの方で、国鉄・JRで大きな駅の助役まで務め上げた後に、この仕事を覚えたとのこと。
いや、もう、手慣れたものです。おかげさまで、午前中ですっかり綺麗になりました。
田圃を埋め立てた場所で栄養があるのか、木々はぐんぐん育ちます。
垣根なんかは隣の敷地も自分のものだと言わんがばかりに張り出していた──使われていない工場なので実害はない──のですが、それも、これならまぁ、許してもらえるかなというところに落ち着きました。庭がすっきりした西村センセイ、今度は自分の髪の毛がさっぱりしていないことに気づいたのでした。今週末に床屋さんへ行けるかなぁ。
■7月19日(月:祝日) 世の中は、本格的な夏休み突入直前、という感じです
暑い。とにかく、暑い。
新潟は一昨日に梅雨明けしたのですが、それ以降、とにかく暑苦しい日が続いており、ぐっすり眠ることができません。我が家では寝る時にはエアコンを使わないのです。
今日も午前中に車で外出したのですが、すでにこの段階で車外気温計は32.5℃を指していました。それでも金沢へ移動する際に通過した、富山の今日の最高気温35.0℃に比べれば、まだまだなのですが。
市内を走っていると海岸部ほどひどい渋滞になっています。
子供たちはまだ夏休みになっていません──新潟は関東圏より夏休み入りが数日遅い──が、連休中なので海水浴場はどこも混雑したようです。
今日は午後、電車で金沢へ移動したのですが、夕方だというのに鯨波海水浴場にはまだお客さんが残っています。
お昼ころは凄かったんだろうなぁー。そうそう鯨波駅では、センセイも以前利用し、その後も何度か見かけた(こちらやこちら)臨時快速「マリンブルー くじらなみ」号とすれ違いました。
関東方面からのお客さんはみんなこれで帰ったのかな。直江津駅で電車を乗り換えます。
金沢方面の下り列車はそうでもなかったものの、東京方面の上り特急「はくたか」の自由席は、通路までたくさんの人が立つほどの混雑。やはりこの連休に、帰省したり移動した人が多かったんでしょうね。
■7月18日(日) 数百年前、この道路の奥で発生したトラブルが、ありありと目の前に...
最初の写真は、誰がどう見ても普通の道路。
先日、金沢から自宅へ戻る際に、JR信越線米山駅を出発した直後の車窓から撮影したものです。
ただし、よく見ると、新しく建設されたばかり。ここ柏崎市米山(よねやま)町は、柏崎から西に向けて険しい山道を越えて、頸城(くびき)平野(現在の上越市に相当)の端に至った場所にあります。
かつては「鉢崎(はつさき)」──八つの岬を越えることに由来──と呼ばれて、ここを通る北国街道に越後三関所一つ「鉢崎関所」が置かれていたのです。
自宅から割と近くなのですが、今まで訪れる機会がなかったので、今回、初めて道路の突き当たりの部分へ行ってみました。
最初の写真、中央奥にある民家の左側(北側)に「芭蕉の細道紀行 たわら屋跡」という石碑が建てられています。
もちろん『奥の細道』の松尾芭蕉。曽良とともに、この地にあった旅籠「たわら屋」に宿泊したんですね。1689(元禄2)年6月4日に出雲崎に投宿し、「荒海や佐渡に横たふ天の河」を詠んだ芭蕉一行は、翌5日に紹介状を書いてもらってその日の目的地、柏崎へ。
ところが紹介された家の当主が不在だったため宿泊できず、この鉢崎まで歩いたのです。柏崎−米山(鉢崎)間は、距離こそたいしたことはないものの、険しく、上り下りの激しい山道が続きます。
かなり疲れていたのでしょう、翌朝は珍しくお昼近くになってから次の目的地直江津へ向かいます。当時の様子を想像しながら、最初の写真の奥を、さらに左へ(北側)へ向かって歩くと、最後の写真の場所へ。
立派なお宅の手前に、小さな石碑があります。ここに「鉢崎関所」があったのです。
鉢崎関所は正確な日本地図を初めて作成した伊能忠敬も2回通過していますが、最初に通過した1821(文政4)年には、関所でトラブルとなります。
幕府からの連絡がこの関所を管轄していた高田藩を通じて関所に届いていなかったためです。関所を守る役人にしてみれば、見たことも聞いたことも、そして想像することすら難しい観測機器類を抱えた一行が連絡なしにやってきたのですからねぇ。
信越本線の開通で鉢崎の宿場としての役目は終わります。
1897(明治30)年、現在の米山駅が「鉢崎(はっさき)」駅として開業した様子を、JTBの時刻表1000号のオマケ、昭和21年当時の「全国鉄道線路図」で見ることができます。
現在の米山町は、芭蕉や忠敬の時代を想像するのが難しいほど、静かな町になっています。そうそう、最初の道路の件については、地元紙の報道で初めて知りました。そこでこの機会に、以前から知っていた芭蕉と忠敬の件を確かめてみようと思ったのです。