2013年4月6日更新(2013年4月14日ページ移動。2016年8月12日写真削除)
■4月6日(土) 久しぶりに訪れた天領・出雲崎では、浜焼きのお店が激減していました
真夜中に無事自宅にたどり着いたもののの、目覚めても相変わらず睡眠不足気味。疲れが取れていません。その分、気をつけて車を走らせ、午前中に新潟市へ。
連日の走行となる318iはすっかり上機嫌。訪問先のご主人とそのお母さんと話していて、出雲崎のことが話題になりました。ご主人が最近、オートバイのツーリングで訪れたというのです。
出雲崎を考えるためには、その歴史を考える必要があります。新潟県中央部の海に位置する出雲崎町は、いくつかの町村が合併して形成されたもので、歴史的に見た場合、その中核は海岸部のいわゆる「出雲崎」。
江戸時代、ここは江戸幕府の直轄地「天領」でした。海の向こうには金を産出し、しかも流人の島でもある佐渡島が。出雲崎はその出入りを管理する重要な役目を持っていたのです。現在の佐渡と新潟市のような関係。
それだけではありません。江戸時代には「新潟」という概念はなく、現在の新潟に相当する地域は北の村上藩から始まり、新発田(しばた)藩、村松藩、長岡藩──「米百俵」で有名な三根山(みねやま)藩などの支藩を含む──、椎谷藩、高田藩などが分割して統治していました。
幕府としては諸藩の動向を把握しておく必要があります。その根拠地が、ここ、出雲崎。その意味でも、出雲崎は当時の県庁所在地のような役目を果たしていたのです。当然、地元民のトップである「名主(なぬし)」が必要になります。
良寛はその家に次期当主として生まれましたが、立場上求められた獄門(出雲崎南部の尼瀬(あまぜ)町内)での処刑立ち会いをきっかけの一つとして出家したと言われています。
明治の世になると政治体制は一新されますが、出雲崎はこの地で産出される石油で栄えます。しかしその後に残ったのは漁業基地としての役割のみ。
センセイの実家はここから約10km離れたところにあるのですが、子供の頃はスーパー等が整備されていなかったため、出雲崎の鮮魚店が車で移動販売をしていました。
いわゆる行商です。現在も老舗割烹などがあり、お刺身が美味しいのですが、お勧めしたいのが「浜焼き」。遠火で焼くので、余計な雑味や脂分が飛んで、ホント、絶品。
当然、ご主人らとの会話は浜焼きへ移ります。用を済ませてからよく考えてみると、西村センセイ、久しく出雲崎へは行っていないはず。現在は海岸沿いに町内を迂回する形で道路が建設されており、そちらはよく利用するのです。
でもその中心部は何と、12年ほどご無沙汰しているようです。「妻入りの街並み」で知られる中心部。
写真は北部を南に向かって撮影したものですが、左側(東側)には断崖絶壁が迫り、右側には日本海が位置する南北に狭い場所にあります。道路は狭く、自動車のすれ違いがやっと。
でもこの道路を現在も、南側から営業所まで路線バスが走っているんですよ。以前から過疎化が進んでいた出雲崎ですが、状況は極めて厳しいものでした。妻入りのはずが、櫛の歯が欠けるように空き地(写真左)が目立ちます。
その奥の家屋のように、管理する人もおらず、朽ち果てた家も数軒。それだけではありません。一見すると住民が居住するように見えても、よぉーく見ると、実際には住んでいない家が多数。
正直なところ、人が暮らしている家は半分くらいでしょうか。しかもそのかなりの部分が独居老人の居宅のはず。
いつものお店で浜焼きを買おうかな、と思ったのです。でもそれはかないませんでした。営業を止めていたからです。
あのおばあちゃん、どうしたんだろう。他にも看板だけのお店が数店舗。今日、営業を確認できたのは1軒だけ。
道路では男子小学生3人がボール遊びをしていました。要するに車が走らないからです。他に見かけた子供は、自転車に乗った小学校上級生のみ。
彼ら彼女らは文字通り、この地域の宝なんでしょうね。
■4月5日(金) 「もっと走ろうよ」と訴えているような... ──318i、エンジン音の不思議──
写真はありません。話題は「音」だけだし、実際問題、周囲は真っ暗で何も撮影できなかったし......。
仕事が溜まってしまって、いよいよ首が回らない。しかたないので今朝は、正面玄関が開く時間よりも早くご出勤。ところがセンセイは睡眠不足でもあるので、なかなか作業の効率が上がりません。
1年生のガイダンスを手伝ってから研究室へ戻り、あちこちにメール──その数、延べ約1,000通!! ──を送ってから、別な二つの仕事に取り組みます。
それをやっと片付けて、夕方の会議に臨もうとしたら、おぉ、まったく予想外、飛び込みの仕事が入りました。立場上、選択の余地は与えられていません。関係書類を持ったまま会議に参加します。終了は6時過ぎ。研究室へ戻ると、今度は昼に送ったメールに関して、やんわりとミスを指摘する連絡が......。
関係者の皆様、ゴメンなさい。ひとまず応急処置をしてから、「週明けにきちんと対処します」というお詫びのメールを100通送信。終わったのは夜7時。アパートに戻って荷造りし、忙しくてできなかった給油を行い、新潟の自宅へ向かいます。
明日、どうしても外せない用があるのです。どうしようかと思ったのですが、富山県境まで(あまり好きでない)高速道路を利用することにしました。行動が予定より遅れています。また県境までの距離は100km弱。
ETCの通勤割引が適用されて料金が半額になることもあります。西村センセイ、高速道路での走行速度はきっちり100km/h。もちろんバンバン飛ばす商用車や、若者が運転する軽自動車に軽く追い抜かれます。
でも西村センセイ、スピードを上げるようなことはしません。朝日I.C.で高速道路を降りてから、親不知子不知を一般道(国道8号線)で越えることだけは決めていました。運転が楽しいからです。でもその先は未定。
糸魚川I.C.で再び高速に乗るか、そのまま8号線で走るか、折衷案にするか......。その県境の一般道を走っていて、ふと、音の変化に気づきました。以前も経験したのですが、エンジン音が軽くなっているのです。
センセイは通常、高速用のギアを使って、できるだけエンジンの回転を抑えた状態で運転します。40km/hくらいで5速──318i(MT)ではエンジン直結──にしてしまいます。
この時の回転数は約1,000回転/分。しかしこの状態、エンジンは必ずしも本意ではないらしい。
5速で100km/hを走行する時の回転数は3,000回転弱/分。その状態で100kmを走ったエンジンはどうやら“Freude am Fahren”(「駆け抜ける喜び」)に目覚めたようなのです。
「もっと走ろうよ......」。でも何度もご紹介しているように、センセイは高速道路があまり好きではないので、結局、「カーブのエンジンコントロールも面白いよね」とエンジンに言い聞かせて、残りの120kmくらいを一般道で走りました。
で、318iはというと、それはそれで結構満足そう。無事に自宅へ到着し、318iを車庫にしまうと、再び、「もっと...」。(もちろん中毒の類〔たぐい〕ではありませんよ。)
こんなとんでもないものを造る人たちには、やはり、かなわないと思う。
■4月4日(木) 彼女は、桜の下のこの鉄棒を覚えているだろうか...
新学期に入っただけでなく、学会の仕事もピークを迎えているので、今日も早朝からのご出勤。
コーヒーを飲みながらWeb上のニュースを読み始めた西村センセイここで、今日の未明に、金沢で最大震度4の地震があったことを初めて知りました。
例によって酔っぱらっていたこともあり、センセイはまったく気づきませんでした。夜、アパートに戻ってから再確認しましたが個人的には被害はまったくありません。ご安心ください。
話は早朝に戻ります。1限の開始までの約2時間に仕事に目途をつけてから、ガイダンスに臨みます。受け持ちの、ちょっと沈みがちな学生を励まして終了。
午後には別な学年の、しかも参加人数の多い特別な説明会が控えています。気力と体力を消耗することが明らかなので、早めに昼食を取らなければなりません。郵便局へ行く用もあったので、例によってほっかほっか亭へ。
その郵便局へ入ろうとした時、道路の反対側にある公園で、いつもとは違う動きがあることに気づきました。
幼稚園児たちが3人の保母さんに誘導されてジャングルジム(写真中央)や鉄棒で遊んでいるのです。
園児は、左側の、長髪を束ねた痩身の保母さんから離れようとしません。どうやら人気者らしい。
その真偽は措くとして、子供たちの動きはとても活発。特に女児はきびきびと動きます。中央左、青色の服の女の子は鉄棒を上手に使ってスルスルと降りています。
横に伸びた鉄パイプ、センセイは最初、手すりだと思っていたのです。でも左右の女の子はそれを使って、くるりくるりと体を回転させています。
さすがに逆上がりはしていませんでしたが。彼ら彼女らを見守るのは、三分咲きの桜。
鉄棒で遊んでいる彼女たちは、大きくなった時にこの桜を覚えているのでしょうか。
■4月3日(水) ジャンカレーのマークは、2種類存在する!?
お伝えしたように、新入生にとっては実質的に、昨日が大学生活初日。
彼ら彼女らはそれを、右も左もわからない状態で迎えることになります。隣に座る新入生だって同じだということに気づきさえすれば、視界は一変するはず。
でもまだ、そんな余裕なんて全然ありません。昨日はオリエンテーションやクラス分けのテストがあったので、新入生は一日中キャンパスに留まっていました。1,900名以上もの学生が、まだ右も左も良くわからない状態で一斉に行動するんですよ。
お察しの通り、最初の問題は昼食。食堂は激しい混雑が予想されます。学生諸君の誘導も重要なのですが、今回は職員に委ねます。午後は別な、そしてこちらも大切な仕事を抱えていたため、とにかく自分のお昼を食べる必要があるのです。
当然、大学食堂は外して、ほっかほっか亭へ。途中、最近全国的に知名度が上がってきた「金沢カレー」の一つ、ジャンカレーの前を通り過ぎます。この場所を通る時、センセイはしばしば妙な、違和感のようなものを持つことがありました。
お店の名誉のために急いで付け加えると、「嫌な感じ」ではなく、どことなく漂う不統一感のようなもの。それを意識して歩いていると......あ"。
通りに面した窓に3枚のマークが貼られているのですが、道路から見た左側のもの(入口上にも同じもの)だけでなく、その右側に2枚、別な絵柄のもの(右)が掲出されているのです。
たぶん古いものなのでしょう。現在とは違って、「ジャンカリー」と読ませています。知らなかった......。ところで大学食堂の混雑はというと、これが意外な結果。
事前の、「混雑が予想されるのでお弁当を持参して欲しい」という指導が効き過ぎてたようなのです。
実際、センセイはたくさんの男子学生が自作と思われる弁当を食べているのを確認しています。センセイ個人に限って言えば、一時期コックで生計を立てていたくらいですから、自分で料理することに抵抗感はありません。
毎日自炊しているし。でも18歳くらいの新入男子学生が、それも決して少なくない数の学生が談笑しながら、青いプラスチック容器に入った手作り弁当を、無理も背伸びもすることなく食べています。
時代は、確実に変わっているんだろうなぁー。
■4月2日(火) 学部学科ごとに、対面式と最初のオリエンテーションが行われました
いよいよ今日からセンセイらの出番。まだ暗いうちに大学へ一番乗りして、8時まで急ぎの仕事に取り組みます。
一区切りをつけると、校門付近へ。すでに担当の職員が手分けをして学生を誘導しています。
1限に新入生と先生方の対面式が学部学科ごとに行われるのですが、学生の多くは、どこにどの建物があるのかわからない。
案内を手にしながら戸惑っている学生に建物と、教室への順路を教えます。一つ気づいたことがあって、上手に質問する新入生と、(たぶん自分自身でも)何をどうすればいいのかわかっていない学生がいます。
もちろんこの他に、ちゃんと状況を理解していて、誰にも頼らずに会場へ行く新入生も多いのですが。センセイは普通のクラスは担当しておらず、今日は出番がないので、あるクラスのオリエンテーションをお手伝い。
だから直接指示を出すのではなく、教室の後ろでぼんやりとやりとりを見ていたのですが、「この子たちなら(ほとんどは)大丈夫だろうなぁ」という印象を受けました。
担任の先生──センセイのことではない──は優しくて、優秀な方だし。
■4月1日(月) 西村センセイ、やや戸惑いながらギヤをダウンさせる ──入学式が挙行されました──
昨晩、いつものスーパー──棚から在庫が劇的に減っているのだけど、大丈夫かなぁー──で食材を買い求めてレジに並んでいると、3人連れの親子が目に入ってきました。
明らかに金沢工大の新入生と、そのご両親。母親がテキパキと必要なものを買い求めて、これからアパートで調理するぞぉー、という雰囲気。ホテルを借りている気配もなかったので、昨晩は彼のアパートで川の字になって寝たのでしょうか。
ちなみに、割と良い雰囲気の親子だったので、学生部担当のセンセイの所へ来ることはないだろうと思います。今朝は冷え込んだものの良く晴れました。そのようにしてアパートで一晩を過ごした親子や、車におじいちゃんおばあちゃんまで乗せた一行が続々とキャンパスに集結。
入り口付近ではテレビカメラの取材も二つ入っていて、絵に描いたように緊張した新入生が、「大学ではどんな勉強を...」という質問に答えていました。
センセイらはつい2週間前に卒業生を送り出したばかり。猛者ども見送った直後にあどけない新入生に囲まれると、正直なところペースの調整に困ってしまいます。
AT車の運転しかしない人にはうまく伝わらないかもしれませんが、MT車で4速あたりに入れていたギヤを、急にシフトダウンさせた時のような状態。
困ったことにここ数年、その差がどんどん開いていきます。今年は318iの5速──エンジン直結──から、セカンドに落としたため、エンジン回転計(タコメーター)の針が1,500回転(/min)から6,000回転に跳ね上がったような感じ。
実はセンセイ、割とよく使うのです。確かにブレーキ板は減らないけど、回転を繋いだ時にクラッチ板からは火花が散っているに違いありません。
もうちょっと年相応の振る舞いが必要なようです。
■3月31日(日) 卒業後40年。ずいぶん変わったけど、全然変わっていなかったりする...
木曜の夜遅く自宅に戻ると、写真の往復葉書が届いていました。ご覧の通り、同級会の案内。1学年2クラスしかなかった中学校の同級会を開くというのです。
新潟の自宅にいる時は忙しかったので、そのまま金沢へ持ってきました。2月に開かれることが多かったのですが、去年は帰省を当て込んでお盆に開催されました。
ところが、残念ながらこれがちょっと不評。帰省客を世話する側が忙しくて、参加者が少なかったのです。
その後どんな相談があったのか承知していませんが、今回の幹事が出した結論は5月下旬に、近くの温泉での泊まり込み。
個人的には蓬平(よもぎひら)温泉、行ってみたい。帰省していた当時90歳(現在94歳)の伯母を連れて山古志へ行く途中、この山間の温泉に立ち寄ったことがあるだけ。
湯に入ったことはありません。センセイらが中学校を卒業したのは昭和48年(1973年)3月。つまりちょうど40年前。
返送先の幹事(女性)はバツイチ。40年も経てば、お互いいろいろ変わるよなぁー、と思って読んでいたら、あれ?!
彼女の詰めの甘さは、40年経ってもあまり変わっていないようです。もっとも、実際に会ったら、「ヒデオだって......」と言われるに決まっているのですが。
ちなみにセンセイはこの期間、学会で広島に出張しているので、残念ながら今回は出席できません。トホホ。