2015年3月14日更新(2015年3月22日ページ移動。2017年7月15日一部写真削除)
■3月14日(土) ちょっと、じんと来るものがあります ――北陸新幹線「かがやき」に乗車しました――
というわけでセンセイは、姪の結婚式に出席するため、午前中の卒業式を終えて東京へ移動中。もちろん今日開業した北陸新幹線「かがやき」に乗ってです。
ただし、乗車するまでが結構大変。今朝の金沢駅は午前5時頃からヘリコプターが数機、上空を舞っていたとのこと。もちろん北陸新幹線の一番列車発車の様子を伝えるためです。それほど石川県内は盛り上がっています。
金沢駅近辺は交通が麻痺すると予測されたので、センセイは大学脇を走る私鉄とJR北陸本線を乗り継いで、25分前に金沢駅に到着する計画。しかしセンセイにしては珍しく、時刻を読み間違え、数分違いで私鉄に乗り遅れてしまいました。急遽タクシーを呼んだのですが、正直なところ「間に合わないだろうなぁー」。
次善策を考えながら金沢駅へ向かったのですが、意外にも道路は空いていて、10分前に駅に到着することができました。ただし駅近辺、構内、そしてホームはものすごい人出。写真は今日から供用が開始された新幹線乗り場。
茶屋街の方々が出迎えてくださっているのですが「立ち止まらないでください!!」。新幹線乗り場はもちろんピカピカですが、他の駅と比べてそれほど特徴があるわけではありません。新幹線も同様。
E/W7系――今回はW7系――に乗車するのは初めてですが、こんなもんかな、という感じ。「かがやき」は定時に発車。乗車率は2〜3割くらいです。むしろそれより、入場券で入った人の方がはるかに多い。
カメラやスマホであちこち写真を撮影しながら、乗客に手を振っています。走り始めてすぐに感じたのですが、北陸新幹線はトンネルが多い。しかも開口部はほとんど、雪を防ぐために屋根で覆われています。
要するに全体がトンネルのようなもので、外が見えない。しかも地上部もかなりの部分が高い防音壁で囲まれており、視界があまり良くありません。他の新幹線は上部が透明なアクリル製なのですが、北陸新幹線では、そのような区間はごく僅か。
それでも高架区間が多いので、富山を過ぎた辺りでは南側に立山連峰を、滑川付近では北側に富山湾と能登半島を高い場所から望むことができます。姫川橋梁の上からはわりと近くに日本海を見ることができます。車窓の外を、今まで電車や車で走っきた光景が流れていきます。これまでは反対側から見ていたので、そのイメージしていたものと大きな違いはありません。
自動車はまだ「向こう側」を走りますが、在来線に乗ることはもうないと思います。だからどうしても、少し、じんと来るものがあります。
■3月13日(金) もう一つのラスト・ラン ──さぬきうどん「こう泉」が移転のため、閉店しました──
昨日、アパートに忘れ物をしたことに気づいて、ひとまず歩いて帰宅。
用件を済ますと、時間はまもなく正午というところ。さてお昼は何にしよう。いつもは大学あるいはその周辺で辻褄を合わせているので、今日は別なお店にしたい。候補は二つ。
つけ麺専門店と、うどん屋さん。両店とも、半年くらい行っていないんじゃないかと思います。後者、つまり讃岐うどん「こう泉」については、チャンスがあれば入ってみようと思うのですが、最近は店内に灯りが点いていない。
ただしアルバイトを募集する張り紙が出ていたりするので、お店を畳んだわけではないらしい。というわけで、お店の前に行ってみると、今日は人の気配があります。20分ほど前、アパートに戻る時には灯りは点いていなかったのです。
しかし、その時にはなかった張り紙が。近寄ってみると、金沢市内の別な場所に移転するため、閉店したとのこと。
このお店、野球の松井選手の従兄弟の方が四国で修行し、金沢工大、そしてセンセイのアパートの近くに店を構えました。
コシが強くて、いつ行っても満席。ところが県内の別な場所に移転し、このお店に戻ってきた時には少し味が変わっていました。
コシが少し弱くなったというか、良く言えばオトナになったというか。年に2回くらいは来ていたのですが、客観的に見てお客さんは長期低落傾向。あまり良い場所じゃないし。
というわけで転進することにしたようです。今日はJRダイヤ改正の前日。このページを更新するころには新潟と金沢を結んでいた特急「北越」が、上り・下り列車ともにそれぞれの終着駅に到着します。日付が替わった直後に特急「はくたか」の最終便が金沢駅に到着。
明日はいよいよ北陸新幹線長野−金沢間が開業。そして平行在来線が第三セクターに移管されます。いろいろな想いを乗せながら、あちこちでラスト・ランなのです。
■3月12日(木) 渋さでいえば西の横綱は三江線。そして東は迷うことなく、山田線
昨晩の金沢は大荒れの天気。風雨がうるさくてぐっすり眠ることができませんでした。
窓の外が明るくなってもまだ静かになりません。それでも小学生が登校する時間帯には少しおさまってきたので外を見ると......雪。しかも5cmほど積もっています。
昨晩は雨ではなく雪だったのです。雪で思い出したので、今日は先週月曜日の夜、盛岡から現在の終点である宮古まで乗車した山田線のお話。宮古から先、釜石までの区間は震災で不通なのです。この区間は間違いなく2010年に乗車しているはず。
でも記憶がほとんどありません。東北は非常に広く、2010年は広範囲をかなり無理して乗車しました。眠っていたのかもしれません。だから初めて乗車するようなもの。
東北新幹線から在来線ホームに降りると、10分ほど前に2両編成のディーゼルカーがやって来ました。折り返して宮古へ向かうのです。線路脇の積雪は15cmくらい。
少し走ると列車は山間部に差し掛かります。人家はほとんど見えませんし、やがて道路すらなくなりました。45分ほど走行すると「区界(くざかい)」駅。分水嶺とは少しずれていますが、まさに内陸部と、太平洋側を分ける場所にあるようです。
東北地方はもともと寒いのですが、この辺は高度がかなりあるようで、積雪も増えましたが、それ以上に雪の質が変わります。冷たい地方に降るサラサラの雪です。
この辺りから下り勾配になります。高度が下がっているためでしょう、徐々に積雪は少なくなりました。途中の川内(かわうち)駅では回送列車と連結するため20分ほど停車。
その時間を利用して撮影したのが写真。雪は5cmくらいしかありませんが、キンキンに冷え込んでいます。-5℃くらいじゃないかと思います。
数駅先の茂市では、進行方向左側(=北側)に線路が分岐していきます。かつての岩泉線です。
昨年廃止されたのですが、その表示はすべて消し去られていました徐々に人家が多くなって、宮古到着。実はかなり心配になったのが利用者の数。
山田線は本数が少なく、しかもこの列車は最終列車だというのに、盛岡出発時点で乗客は1両あたり15人くらい。しかも駅に到着するたびに下車。
宮古に到着した時、残っていた乗客はセンセイを含めて4人だけでした。(実話)今回のツアーでは初めて訪れる場所もあったので、単純な比較はできないのですが、前回この地域を訪問した時より人口がかなり減っているという印象を受けます。だいじょうぶだろうか。
ところで山田線、非常に渋い。正直なところ特に見どころがあるというわけではないのですが、魅力に溢れています。島根県の宍道(しんじ)と広島県の備後落合を結ぶ木次(きすき)線も渋いけど、山田線はそれ以上。
これに対抗できるのは三江(さんこう)線だけだと思います。いずれもチャンスがあれば、否、チャンスを作って、また乗ってみたい路線です。人生観が変わるかもしれませんよ。
■3月11日(水) この地の復興は、彼ら彼女らの肩に... ──東日本大震災から4年──
先週火曜日の早朝、センセイは宮古駅始発の三陸鉄道北リアス線に乗車し、北を目指しました。1両編成の車内に、乗客は10人ほど。予想外だったのですが、高校生は少ない。
お伝えしたように列車は、内陸部──というより山間部──を走り始めます。「リアス」、つまりリアス式海岸の名前から浮かぶイメージにはほど遠い。
しかし20分ほど走ってトンネルを抜けるといきなり、列車は入り江に到着。狭い場所に僅かな集落があり、盛り土の上に駅。もちろん海側には小さな漁港。そして列車は再びトンネルへ。これを繰り返します。北リアス線は単線。
だから主要駅では列車交換──行き違いのこと──を行います。写真はその一つ、田老(たろう)駅。ホーム上の乗客は間もなく到着する上り列車を待っています。
ふと彼ら、特に中央の男子高校生と右側の女子高生が微動だにしていないことに気づきました。
彼ら彼女らの視線の先には雑草の生えた更地があり、その先に道路、その向こうに再び更地と防潮堤、そして太平洋が見えます。
ここにはかつて、目の前に駅舎がありました。その向こうにはおそらく小さな商店街や住宅が、そして海岸に面して海産物の工場などがあったんだろうと思います。
しかし今は何もありません。三陸鉄道の盛り土がいわば防潮堤となったようで、ここより山側は何の被害も受けていません。
津波がどこまで来たのか、一目でわかります。彼ら彼女らは4年前の今日、非常に辛い思いをしたはず。いえ、それ以降も。
それでも彼と彼女の後ろ姿にセンセイは、起きたことを逃げずに受け止め──ただしそれに押し潰される必要はない──この地で生きていこうという覚悟を感じました。
センセイの勝手な思いこみでしょうか。
■3月10日(火) 金沢を、ボルボの個人タクシーが走っています
そして今日もまた、見たままのお話。
先週土曜日、お伝えしたようにセンセイは大学で最低限の仕事を済ませて、大学前のバス停から金沢駅行きの路線バスに乗車しました。乗客は少なかったので、最前列の展望が良い席に座りました。
金沢駅の二つ前のバス停で、センセイが乗車するバスの前に、右側の車線から黒いタクシーが入りました。決して割り込みなどではなく、たまたまそうなったのです。でも、何かが違う。すぐにそう感じました。
塗装が目立つから、などというレベルではありません。マッスルな存在感に圧倒されて車をよく見ると、おぉ、ボルボ。それがタクシーとして使用されているのです。
初めて見ました。写真は金沢駅到着直前、東口前のT字路で撮影したもの。営業用の車両なので、ナンバーにぼかし処理を施していません。
車体上部の通称「行灯」には「個人」と書かれています。良く考えてみると、実は運転席から後部座席のドアを開閉するのに必要な部品などが用意されているんだと思います。
センセイのBMW 318iの教習車用右ウィンカーキットみたいなもの。見方を変えると、国内ではそれなりの数の「ボルボタクシー」が運用されていることが推測されます。
金沢のボルボタクシー、チャンスがあれば、ぜひ乗ってみたい。
■3月9日(月) 「ヒピョコッ」 ──寒暖を繰り返しながらも、金沢に春が訪れつつあります──
今日は見たまま、そして聴いたまま(?)のお話。
月曜日はゴミの回収日なので、出勤のついでにゴミ集積所へ。写真は別な場所で撮影したものなのですが、生ゴミは左奥のネットの下。カラスによる被害を避けるためです。
ふと、中央部に薄い茶色のビニール袋に収められた物体があることに気づきました。縄、です。ピンとくる人と、そうでない方に分かれるんじゃないかと思います。実はこれ、庭の木々の冬囲いに使っていた縄なのです。
今回のものは明らかに、「雪吊り」に使われていたもの。雪吊りは兼六園のものが有名ですが、一般家庭でもでもちゃんとした庭をお持ちの方は、この雪吊りで、北陸地方独特の重い雪から木々を守ります。
改めて周囲を見渡すと、冬囲いは皆取り外されていました。季節は替わっているんだぁーと思いながらキャンパスに入ると、「ピ、ヒピョコ」。鶯が鳴いているのです。今年初めて聴きました。
まだ鳴き慣れていないので、長い音をうまく出すことができないのですが、それでもずいぶん逞しい鳴き方。やれやれ順調に...と思ったら、午後から天気が急変しました。天気予報によると明日は「暴風雪」(!!)とのこと。
「そう易々と季節は渡さないぞ」と冬が言っているかのようです。センセイらが開くイベントの講師が、明日、都内から飛行機でお越しになります。無事に、そして予定通りに到着することを願うばかりです。
■3月8日(日) 主要な名列車に別れを告げながら、特急「北越」を乗り納めました
仕事が溜まっているし、来週、学内でイベントを開催することになっているので、休みは取らずに金沢へ電車で戻りました。しかし今日は特別な日。センセイが利用するJR旧ダイヤ最後の日なのです。
要するに、完全な乗り納め。ダイヤ改正が迫ると一般的に、廃止される列車を撮影したり(「撮り鉄」)、記念に乗車する(「乗り鉄」)ファンが激増します。両者を合わせて、通称「葬式鉄」。
今回も実際、予想通り。どこかへ遊びに行くのならともかく、今日は確実に──かつ前後の都合により電車で──金沢へ移動する必要があります。要するにこれは、一種の通勤なのです。
そこで今回のみ、1ヶ月前に金沢までの特急「北越」を予約しました。いつもは各駅停車を乗り継いで金沢へ移動します。候補となる特急「北越」はその前後に1本ずつ。どちらにするか迷ったのですが、夕方の列車にしました。親不知付近で日没を迎えるからです。
車両についてはよく知っているので、指定席の中で一番良い席、本当に1席しかない場所を予約しました。いつもより遅く自宅を発ち、柏崎駅へ。構内には撮り鉄が数人、乗り鉄が2人。定刻に入線してきたのは昨日と同じタイプのリニューアル車両(カード内、右の車両)でした。
直江津駅に到着すると、やはり撮り鉄があっちへ行ったり、こっちへ向かったり。まるで全体が一つの生き物のよう。彼らの流れが急に変わったので、その先を見ると、おぉ、国鉄色のT-18編成(左の車両)が臨時特急「懐かしの特急みのり」として到着したところ。本当はこちらに乗りたかったのです。
でも、しかたない。もう乗ることはないだろうと別れを告げると、糸魚川駅では夜行寝台特急「トワイライトエクスプレス」とすれ違いました。さらには金沢駅到着直前の暗闇の中、すれ違った「北越」の最終便は国鉄色。K-1編成です。
実は一つ早い「北越」にはこの編成が充当されたのです。K-1は去年10月の乗車が最後となりました。ところで写真は、直江津駅出発後に車掌さんが配布していた「乗車カード」。((c)JR東日本・西日本・北越急行)
中央のものはすでに全編成が廃車になり、秋田のJR東日本土崎工場で解体中です。実は今週火曜日に工場脇を通過し、その様子を確認しました。
今回乗車したR-25編成、グリーン席もある1号車の自動ドアが壊れていました。他の編成でも故障して閉鎖されたトイレが目立ちます。
たぶん、修理するつもりがない。前例から、修理をしなくなった車両は間もなく廃車になると推測されます。
考えてみれば、「北越」乗り納めの日に、この地区を代表する名列車をすべて見ることができたことになります。
恵まれていたと考えるようにしています。特急「北越」は1969年デビュー。センセイが中学生になる時です。その頃は大阪にいる親戚を訪れる時などにしか利用しませんでした。転機が訪れたのは社会人になってから。
特に柏崎市に自宅を新築してからは、新潟県北部の前任校への通勤に毎日のように利用しました。金沢工大に移籍してからも同じ。ざっと計算してみたのですが、1,100回から1,200回ほど乗車しているものと推定されます。
鉄分が濃くなるわけです。