2018年7月21日更新(2018年7月29日ページ移動)
■7月21日(土) 「おいてけ堀」があった場所(かも)... ──錦糸町近辺の史跡(?)を散策しました──
昨日の気を使う出張を終えた西村センセイ、今日は移動日。
具体的には今日のうちに新潟の自宅へ戻っていくつかの用を済ませ、明日、金沢へ移動します。せっかくの機会なので、都内東部に住む娘の家を訪れることにしました。
事情があって数ヶ月前に転居したのですが、新居をまだ訪れていないのです。彼女は総武本線両国駅近くにある会社に勤務しているのですが、新しいアパートは隣の錦糸町駅近く。センセイは都内在住時、多摩地区に住んでいたので、この地域はあまりご縁がありません。
「家を訪れる」といっても、父親は顔を見るだけなので、この機会に周囲を散策してみることにしました。それにしても、暑い...。
錦糸町駅に降り立った時の気温は、気象庁の記録によると33.7℃。でも体感気温はずっと高い。意識して水分を摂取するようにしているのですが、乾いた汗がその場で蒸発してきます。
で、最初の目標はすぐにわかりました。というか、南側駅前のバスロータリーそのものが目的地。明治期の歌人、そして「野菊の墓」で知られる小説家伊藤左千夫(さちお)がここに牧場を拓き、搾乳業を営んでいたのです。
石碑には「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日には 家とよもして 児等が遊ぶも」。「ゆさぶり」はブランコのことで、「家とよもして」は「家の中を大騒ぎしながら」という意味。複数──というより多数──の子供達が、ここで元気に遊び、そして育っていたことがわかります。
正直なところ、目の前に存在する背の高いビルや走り回る自動車、人間に抗(あらが)って、かつてここに存在した牧場を想像するのは難しい。娘の家へ向かいます。元気そうだったのですぐに退散し、往路に確認できなかったものを探します。それは「おいてけ堀」跡。「置いてけぼり」の語源です。
来る時はちょっと急いでいたので、確認し損ねたのですが、目星はつけておきました。帰り道に確認してみると、区立中学校の正面脇に石碑が存在しました。脇に建てられた看板によると、「オイテケ堀」は複数存在したようです。ここは低地。
堤防が整備されていない時代はすぐに水が溢れたはず。解説には、それが徐々に都市化されていく過程と、その意義が述べられていました。
...それにしても、暑い。
■7月20日(金) ...東京も、逃げ場のない暑さ ――西村センセイ、東京電機大学を訪れる――
今日もタイトル通りの話題。ただし皆様にとってはやや唐突だと思いますが。
センセイは1泊2日の予定で都内へ出張し、現在は夜までの用務を終えて秋葉原のホテルに滞在しています。今日訪れたのは、一昨年以降3回目となる東京電機大学。通常、東京出張は北陸新幹線を利用しての往復。
ただし今回は週末の出張なので、昨日の夜、新潟の自宅へひとまず戻りました。講義と会議を終えてから金沢を発つことにしていたのですが、会議はともかく、その後の打ち合わせが長引き、予定を大幅に遅れての出発。一方、家人には帰宅予定時刻を知らせています。
彼女は夜に極端に弱いのです。今回は平日で一般道での帰宅ラッシュとぶつかるため、もともと一部については(好きでない)高速道路を利用することにしていたのです。でも予定が狂ったので、かなりの部分を高速道路で走行。
西村センセイ、高速道路に乗る時はいつも、他の車に迷惑をかけないように気をつけながら、80km/hで走行します。これだとそれなりに周囲の風景を愛(め)でることができます。でも今回は、約束した帰宅時刻に間に合わない。そこで、県境付近の速度制限区間を除いて、100km/hで走行しました。それなのになぜか、軽自動車や商用車に追い抜かれましたが...。
それはともかく、制限速度で走る北陸自動車道はやはり、正直なところあまり楽しくない。上越以西の新潟県内はトンネルばかりだという要因が大きいのですが、でもやはり、最大の問題は単調な運転。どうしても眠くなってしまいます。冗談抜きで、危険性を強く感じます。
夜間の運転だったら、センセイはいつか事故を起こすだろうと思うほど。もちろん無事故で帰宅したのですが、やはりBMWの面白さ――“Freude am Fahren”――は、「走る、曲がる、止まる」に尽きます。ハンドルを握れば、わかります。言い方を変えると、それがわからなかったら、ご縁はないということです。
で、辿り着いた新潟の自宅。室内はムッとしていましたが、それでも西日本の、あの、逃げ場のない暑さとは違います。車外温度計を見ていても、経路内では富山県内が最も暑く、新潟県に入ると2、3℃気温が低下していたのです。
で、改めて、今日の上京。大変申し訳ないのですが、お伝えするのは「東京も、逃げ場のない暑さだった」ということだけにさせてください。
ホント、暑いです。
■7月19日(木) 法律上はこちらも「鉄道」なので... ──山陽新幹線の車中から、姫路モノレール跡を確認しました──
今日はタイトル通り、昨日に続いての「鉄道」ネタ。お伝えし損なっていた話題です。
写真は先月、博多へ向かう途中、姫路駅通過直後の山陽新幹線の車内から、南側を撮影したもの。果たしてお目当ての被写体は...ちゃんと写っていました。
それが写真中央、やや斜めに傾きながら左右に走っている、細長く黒い物体です。よぉーく見るとそれは、右側の白い建物の奥を通過して、ほぼ写真の右端まで伸びています。これは、かつて存在した「姫路モノレール」のコンクリート製軌道。
軌道の上に鉄製のレールを1本──だから「モノ」レール──を敷設し、その上に車体が走行するという構造。姫路博覧会会場への輸送機関として1966年に開業しましたが、博覧会の終了に伴って利用客が激減し、1974年休業。1979年に正式に廃止となりました。
センセイがこのモノレールの存在を知ったのは数年前。2016年には、途中にあった大将軍駅(高尾アパート)が耐震性の問題から解体されることになり、全国から注目を集めることになりました。
何しろ、ビルの中にモノレールが吸い込まれるように入っていくという特異な構造だったのです。センセイは列車に乗る時、選択できるのなら必ず窓側に座ります。東海道・山陽新幹線はほぼ東西に走行するので、陽射しの関係──逆光だと景色がよく見えない──で、原則として北側の2列席(の窓側)を指定します。
ただし今回のように、午前中に下りの新幹線に乗る時は南側(海側)のA席を利用することもあるのですが、モノレールの跡には気づきませんでした。大将軍駅が解体されたことは知っているのですが、大きなビルだったのでその跡地くらいは見えるかも......と考えたのですが、これが実に甘かった。帰宅してから調べてみると、駅が入っていた高尾ビルは、写真の南側ではなく、北側に存在したんですね。
思い込みは、真実を見る目を曇らせます。反省。
■7月18日(水) 北海道の「赤い熊」が数両、中京圏に出没中?! ──センセイはいつでも鉄分補給──
「熊」のお話ですが、「頭」ではなく「両」ですから、生物ではありません。ディーゼル機関車です。
お伝えしたようにセンセイは6月末と先週、出張のために同じ特急「しらさぎ」を使って名古屋まで往復しました。米原─名古屋間については新幹線も利用可能。でも敢えて、在来線に乗り続けました。
時間はかかるのですが。最大の理由は新幹線より在来線の方を好むからなのですが、それ以外にも楽しみがあります。米原─関ヶ原間のそれなりに険しい山越えや、古戦場。高架の岐阜駅を発つとすぐ、左側(東側)を下っていく高山本線。
そして長良川や木曽川といった大河。鉄道ファン的には、通称「垂井線」や「美濃赤坂線」など。最近はもう一つ興味の対象が増えました。名古屋の少し手前にあるJR貨物稲沢駅です。以前は印象が薄かったのですが良く観察してみると、貨物に関しては東海道本線の要の一つであることに気づきました。
貨車を牽引する機関車もいろいろ。この近辺は直流電化されているので、多いのはEF210型直流機関車。でも写真左奥には流線型のEF66型が見えます。入れ換えに用いられているのは、写真の左端にちょっとだけ入っているDE10型。
北陸および東北の交流区間を走行するために、EF510型も時々出入りしているはずです。で、右のずんぐりむっくりとした機関車。実は電気機関車ではありません。
老朽化したDD51の置き換えとして、北海道で運用されているDF200型ディーゼル機関車です。北の大地ではよく見かける機関車です。愛称は“RED BEAR”。
特徴は、ディーゼルエンジンで発電し、その電力をモーターに伝えて動力にするという機構。日産ノートe-POWERと同じ原理です。この“DF200”、JR九州の豪華寝台列車「ななつ星」用に製造された7000番台の1両を除くと、生息範囲(?)は北海道に留まっていたのですが、最近、非電化の関西本線で貨物列車を牽引するために、4両がここに転属配置されたのです。
それ自体は知っていたのですが、この目で見たことはない。そこで前々回、目を凝らして観察していたのですが、見当たらなぃ......あ"っ?!
駅を過ぎようとした時、車庫の中に1両が収納されていることを確認しました。撮影はできなかったので、先週は最初からカメラを構えました。
往路は見当たらなかったのですが、帰途、写真の車両を含めて2両を確認することができました。センセイの気分はすでに、大好きな北海道の空へワープしています。で、稲沢駅の外れには写真の2両編成の列車が。
当たり前ですが、運転席は存在する。でも客室に当たる部分が見事なまでに欠けています。よぉーく見ると、その手前には山積みされたレール。
お察しの通り、これはレール運搬専用のJR東海キヤ97系気動車です。旧国鉄系鉄道会社の中でもJR東海は、比較的狭い意味での経済性を重視します。その一つが機関車をできるだけ使用しないという大方針。電車と機関車で異なる運転資格や車両点検にかかる費用の問題のようです。
だから同社区間を走行する夜行寝台特急は、電車形式の「サンライズ瀬戸・出雲」を除き、全廃。寝台特急の衰退は、これが真の原因だったんですね。
事業用の車両についても同様。他社はレールを積んだ専用貨物列車を機関車で運搬することが多いのですが、それすら気動車にしてしまいました。さすがにここまで来ると、JR東海の徹底ぶりに驚かされます。
ただしJR東日本も、東北本線のメンテナンス用にほぼ同等の車両を導入。う〜ん、機関車は今後、どうなるのだろう。
今日は見たままのお話。
写真は先々週、富山市内東部の太田地区で撮影したもの。新潟の自宅に戻るためにいつもの道を走行していたら、ガソリンスタンドに面した交差点の信号機が赤信号に変わりました。
もちろん停車。何げなく道路脇を見たら、背の高い草むらの中に看板があることに気づきました。そこには「富山県のヘソ」。
一瞬、意味が理解できずに我が目を疑ったのですが、間違いなくそう記されています。メモ用に、フロントガラス越しに撮影したのが1枚目の写真。
改めて、「富山県のヘソ」って、何?翌日は同じ経路を逆に辿って金沢へ移動したのですが、ちょっと急いでいたのでその時はパス。昨日、改めて矢印の先にある「現場」を訪れてみました。
それが2枚目の写真。数百m進んだ道路脇、一坪ほどの土地が埋め立てられて、看板がポツンと建っています。左隣には、何故か小さな松の木が植樹されています。
看板には「富山県の重心(ヘソ)」。もう理解していただけたと思いますが、富山県の平面地図を考えた時、その重心(=へそ)に来る場所がこの地点なんだそうです。右の坊やが、富山県をぶら下げています。
当たり前ですが、逆に下から支えても、釣り合うはず。看板の右下には、地元自治組織だけでなく、社団法人日本測量協会他の名前も見えます。おそらく後者が地元に話を持ちかけたんじゃないだろうか。
実際の富山県は平面ではなく疑似球体上の3次元だとか、立山連峰などの北アルプスや富山湾、領海の取り扱いなど、突っ込みどころ満載。
でも、いわば話題になることそのものが地域振興。ま、いっかー。
■7月16日(月) 西村センセイ、気温35.0℃の中を帰宅する ──先日の集中豪雨で、富山県内でも大きな被害が発生していました──
......世の中、夏休み前の3連休だったのね。
ふと、気づきました。センセイはオープンキャンパス全部のプログラムにつき合う必要はありません。そこで昨日は、入試関係の説明会の様子を確認して帰宅することにしました。説明そのものは担当課長が行います。
彼に任せておけば何の問題もありません。石川県内はさほどでもなかったのですが、富山県内に入ると気温はどんどん上昇。車外気温計(0.5℃刻み)はピーク時に、35.0℃を記録しました。帰宅してから確認したところ、アメダスの記録による富山市の最高気温は、36.8℃(13時前)とのこと。
いずれにせよ、猛烈な暑さです。エアコンはフル稼働に近い状態を継続しています。初めて気づいたのですが、現在のBMW車は気温35.0℃以上ではアイドリングストップ機能がキャンセルされる設定になっているようです。それでも走行は、午後から夕方にかけて、しかも全体としては北東方向への移動。
太陽光線を背面で受ける格好になるので、まぁ、何とかなりました。富山県東部の上市町内、信号で停止した時に異変に気づいて撮影したのが写真。土砂崩れです。
ここは初めて見ましたし、崩れている部分の様子からして極めて新しい。もちろん先日の集中豪雨によるものでしょう。実は富山、そして隣の岐阜県でも記録的な大雨が降ったのです。
山の形を確認してもらうとわかりますが、背後に薄く見えているのは立山連峰。剣岳は雲の中に隠れています。一方、手前はというと、最寄りの民家を確認できます。鉄塔は黒部ダムに蓄えられた大量の水で発電された電力を関西へ運ぶためのもの。
無骨な、そして相当な高さの鉄塔です。冷静に考えてみるとこれは、土砂崩れ、あるいは崖崩れなどというレベルではなく、大規模な山崩れであることがわかります。崩れた高さは数100m。
ただし現在のところ、直接の報道は確認できていません。安全運転を心掛けながら、周囲の様子をチェックすると、富山県東部の山岳地帯のあちこちで土砂崩れが発生していることに気づきました。特に林道は、あちこちで被災しています。
センセイは大きな地震(こちらやこちら、そしてこちら)だけでなく、ホームページ開設以前に水害も経験しているので、痛みが皮膚感覚で伝わってくるのです。気持ちの上では傷だらけになりながら、しかもグループでツーリング中のバイクの事故や、上越市(長浜)地区での長野県北部からの海水浴客の帰宅、さらには上越市北部(直江津)地区での買い物客との帰宅ラッシュに耐えながら、西村センセイ、やっとのことで自宅に戻りました。
エアコンと渋滞で燃費は悪化し、19.8km/L。今日は移動日。気持ちを切り替えます。起床後はまず洗車して、飛び石による傷を2箇所補修。続いて実家へ移動し、高齢の両親の安否確認(?)の後、食料の買い出しに出かけます。ついでに、県内に住む弟宅で栽培した昨年のお米の精米。
ご褒美は、見事なトマトと胡瓜と茄子と南瓜(かぼちゃ)と大きな瓜。母親のその才能を(少なくとも直接には)引き継がなかったセンセイは、1泊しただけで金沢へ移動します。外気温は昨日とは比較にならないレベルで急上昇。昨日より通過時間が早かったこともあり、車外気温計は富山市内で最高36.5℃を記録しました。
公式記録は37.0℃(!!)とのこと。
そんな富山市内でセンセイが出くわしたのは...。(たぶん、続く)
■7月15日(日) 校舎そのものが生きた教材だ... ──建築学部建築学科が入る建物を、初めてちゃんと訪れました──
オープンキャンパス2日目。ただし、今日お越しになるお客様にとっては、初日。
昨日、各学部学科の教室を回っていて不思議な場面に出くわしました。建築学部建築学科の説明会場に、誰もいないのです。でも机の上には説明資料の入った手提げ袋など、参加者の荷物がそのまま残されています。
留守番の先生に尋ねると、建築学科が入っている「2号館」を見学中とのこと。そう言えば西村センセイ、その建物をきちんと訪れたことがない。もちろん玄関(写真右下)から入館したことはあります。でもその時はリサイクル用に大量に出る書類の一時収納場所として指定された、館内の一部屋を訪れただけ。
建物全体を見学させていただいたことはないのです。というわけで今日は、建築学科が入る2号館の見学ツアーに同伴させていただきました。参加者が多いので全体説明の後、4グループに分かれていただき、いよいよ館内へ。
写真はその一部。建物全体の雰囲気は、センセイらの研究室が入る1号館(本館)にとてもよく似ています。それもそのはず、これらの建物は高名な建築家大谷幸夫(おおたにさちお)氏の手によるもの。
白状すると西村センセイ、今日までその詳細を承知していませんでした。関係者の皆様、申し訳ありません。HP「大谷研究室」作品の中に確かに、金沢工大の校舎群が紹介されています。大谷氏はこれら1983(昭和58)年に日本建築学会作品賞を受賞されているのだそうです。
2号館は特別に、個性的。参加者は現在、中2階にいて、中央奥の教員の説明を聴いています。それによると、右下の階段は段差が比較的荒く、左上、2階に近い階段は段差が小さいとのこと。
2階に近づいた時に「足取りが軽い」と感じるための配慮なのだそうです。説明者の右奥にご注目ください。階段の手すりなどが一切ありません。同席した事務職員も「初めて見た時はびっくりした」とのこと。階段の右側にあるのは機器室。特別な人しか入りませんし、一般の人には近づけたくない場所。
だからこそ、手すりは、ない。2階の奥は大学院生の部屋。以前は別な建物(現在は解体)の中にあったのですが、その時とは異なり、一言で表現すれば「雑多」。言い換えるとラビリンス。案内してくださった先生が「既に学生の居住空間と化していいます」と表現するほど。
安全委員会の方々が見たら卒倒するんじゃないかしら。でも彼ら彼女らはその刺激的な空間の中で自らを育てます。
センセイらにできるのは、刺激やきっかけを与えて、その成長を促進することだけ。発想を変えた時、鬼籍に入っている(2013年)設計者のメッセージを理解しました。この建物そのものが生きた教材。
......負けた。センセイが敗れたのは、問題設定。別に競争しているわけではないのですが。