2020年11月7日更新(2020年11月15日ページ移動)
■11月7日(土) CDとカセットを出し入れすることができ... ──ONKYOのハイファイセットが届きました──
...これだけで事態を察することができたのなら、相当の通だと思う。
まず「ハイファイセット」(“Hi-Fi SET”)は、元「赤い鳥」メンバーが結成した3人組コーラスグループ(現在は解散)。そしてこちらが本題なのですが、元の英語はいわゆるステレオセットのこと。
主にLPレコードの時代に用いられた言葉です。先週帰宅したところ、何と、ONKYOのハイファイセットが宅配便で届いていたのです。送り主は知り合いのSさん(深謝、深謝)。梱包の品目欄は「雑誌」。
実際、中身は1冊の特殊な雑誌。怪しい類ものではなく、一般には流通していない業務用書籍です。そして、それ以上に重要なのが近況を伝える手書きの手紙。
そして小箱入りのセット。それを開梱し、組み立てたのが写真。アンプ、CDプレーヤー一体型のハイレゾミニコンポと付属のスピーカー、そしてWカセットデッキ。
いや、もう、びっくり。実は1、2ヶ月前にWeb上のニュースでその存在を承知していたのです。でも、ご縁はないだろうなぁーと思っていました。それが、目の前に。
お分かりだと思いますが実物ではなく、精巧に造られたミニチュア。どのくらい精巧かというと、まず、本体およびリモコンの形状はもとより、塗装と表記が非常に細かい。字体まで可能な限りオリジナルを再現しようとしています。どうやって書いているんだろう。
そして見るものをさらに圧倒するのが、ギミック。ミニコンポのCDトレーは開閉し、トレー上のCDを回したり、取り出したりすることができます。さすがにCD版はかなりの厚みですが。Wカセットデッキは両方のドアが所定の角度まで開き、カセットテープ──こちらも本物そっくり──を取り出すことができます。
2本のスピーカーは、表面とスピーカー本体を保護するサランネットを脱着することが可能。単品オーディーコンポは1970年代から80年代、ミニコンポはずっと時代が下がった2016年の製品。オーディオ歴50年以上のセンセイにとって、それぞれの時代を感じさせる懐かしい製品群。ただし個人的には、これらONKYO製品とはご縁はなかったのですが。
まるでセンセイの慣性と趣味を完全に見透かしているかのよう。でも、良く考えてみるとSさんとのご縁も四半世紀以上に及びます。う〜ん、もしかするとセンセイは〓斗雲(きんとうん)(〓は角(つの)偏に力/筋斗雲/斤斗雲)で駆ける孫悟空のような存在なのかも。
ただし実は、それは仏様の掌(たなごころ)の上でのできごと。Sさん、お礼とお返事が遅れております。お許しを...。
■11月6日(金) で、その「のり弁当」が... ──「マヨしょうゆ」の味は、ちょっと微妙──
昨日の続き。お弁当に関することが残ったままです。
金沢工大に移籍してからのセンセイの昼食に関する状況は、かなり厳しい。そもそも、とにかく忙しい金沢工業大学。先生方も学生諸君も、なかなかゆっくりとお昼を頂く時間がありません。
どこかのレストランで優雅にランチ...なんて、経験したことがありません。論より証拠に、大学近辺の飲食店はどこも、経営が厳しい。加えて、センセイくらいの年齢になると別な問題が発生します。高血圧です。塩分が多い(≒美味しい)もの、あるいはお腹一杯の食事なんて、もはや無縁。
そこにとどめを刺したのが「ほっともっと」突然の閉店。個人的には、ちゃんと何かを食べたいのなら「ほっかほっか亭」以外に選択肢はないという情けない状況。「ほっかほっか亭」の品質、サービスその他に不満を述べているわけではありません。
念のため。でも先週「のり弁当」を買ったら、ちょっと違う...。タルタルソースではなく、普通のソースだったのです。気になって調べてみると、この度、「のり弁当」を改良したとのこと。
白身フライは15%増量。そしてタルタルソースに代えて「マヨしょうゆ」。会社としては、価格は据え置きの360円なのでお得でしょ、というスタンス。
今週、改めてお店を尋ねると今度は確かに、写真の「マヨしょうゆ」。先週は切り替え時期で、代替品あるいは在庫を使用したようです。で、その「マヨしょうゆ」。
正直なところ、ちょっと微妙。キンエン生活中の西村センセイ、現在は醤油やソース類を極限まで控えています。通常はのり弁当にソース類を使用していないのです。ただし「ほっともっと」がソースだったにもかかわらず、「ほっかほっか亭」はタルタルソース。
日本が貧乏だった時代──学生諸君には想像もつかないと思う──センセイはもったいなくて、ちゃんと使っていたのです。だから、個人的にはほぼまったく影響はありません。お気づきかと思いますが、今回の変更はおそらく、コスト削減が目的と思われます。フライを大きくしても、ソースの変更で増加分を相殺できる。
場合によっては、それ以上かも。新型コロナ渦で売り上げを伸ばしているかのように思えるこの業界ですら、かような厳しさ。財布の紐を、ますます締めてしまいそう。1コインに満たない昼食の話。要するに、完全な衰退期だ、ということなのです。
積極的に認めたい人は皆無でしょうが。
■11月5日(木) 西村センセイ、お弁当を買いながら季節に取り残されつつあることを識る
今日は見たままのお話。
正面衝突寸前という緊急事態や小矢場城の出現で、お伝えし損ねていたものです。
北陸地方はこのところずっと、不安定な天気が続いています。しかも気温が低下しており、昨日は今シーズン初めて、霰(あられ)が降りました。
センセイも月曜日からガスストーブを使い始めました。夏から秋の、あの暑さが嘘のようです。それでも3日に1日くらいの割合で良い天気になる日もあります。好天だった先日、午前中の授業を終えてから、近くの「ほっかほっか亭」へ。
もちろんお弁当を買うため。でもそれと同時に、確かめたいことが二つあったのです。お弁当に関するものと、季節に関すること。後者は、渡り鳥の様子です。
先週「ほっかほっか亭」への途中、隣の高橋川で、こちらも今シーズン初めてとなる鴨を数羽見かけたのです。10日ほど前には、実家へ向かう途中で白鳥の先遣隊も目撃しています。残念ながら写真は撮影できませんでしたが。
予想通り、水の流れの穏やかな場所を、数羽の鴨が悠々と泳いでいました。写真では良くわかりません──すみません──が、まるまると肥えています。
こんなに太っていて本当に空を飛べるんだろうか、と思えたほど。無事お弁当を買って大学へ戻ります。ふと、道路を挟んだ反対側の歩道で高齢の男性がスマートフォンの画面を見ていることに気づきました。
手元の画面を見ているのではなく、スマートフォンを頭上に持ち上げています。写真を撮っているのです。その先にあるのは、大学のテニスコート脇に植えてある広葉樹。すっかり色づいています。男性はその色と、空の青さを対比させたかったようです。
ポケットからデジカメを取り出したのですが、準備をしている間に男性は目的を果たし、スタスタと歩き始めました。というわけで、センセイは紅葉を撮影する男性の撮影に失敗。
それだけでなく、良く考えてみるとどうやら、センセイはこのところの季節の変化に取り残されつつあるようです。気温の変化への対応が不十分で、鼻がグスグスしてきたし。
「先即制人、後則為人所制」(「先んずれば即ち人を制し、遅るれば則ち人の制するところとなる」)(史記項羽本紀)。残念ながら、センセイはタイミングを逃すのが得意らしい。トホホ。
■11月4日(水) 「越後平氏」の地 ──小矢場城の隣、勝山城跡には「お城」があります──
文化の日記念、昨日の続きを。
週末に実家を訪れる際、ちょっと回り道をしました。実家の手前、小矢場城跡から数km離れた場所に「勝山城跡」(刈羽村のサイト)があるのです。こちらの存在は以前から承知していました。それがどうも、越後平氏と関係あるらしい。
これはもう、行くしかありません。現場は、センセイが通った中学校のすぐ近く。ただし自治体としては隣の刈羽(かりわ)村になります。現在の児童生徒、学生は安全確保のため、移動手段として貸し切りバスを利用しますが、センセイの頃は、自転車。
合同スポーツ大会などの際は蟻の行列よろしく、何十台もの自転車が車列をなして移動するのです。ちなみに車列の最後尾は、先生が運転する軽自動車。
当時は自転車の部品の質や道路状況が悪かった──舗装されていない区間が大半だった──こともあり、これだけの人数が一斉に自転車に乗ると、必ず誰か自転車がパンクしたのです。だからパンクキット搭載。
最悪の場合は、当該生徒を車に乗せます(自転車は後で回収)。だからお城へ繋がる道路も認識していたのです。でも訪れるのは初めて。
標高20mほどの場所から林道へ入ると、急に上り坂になります。かなり進み、60mほどの高さになった場所に駐車場が。周囲はかなり整備されています。
世界最大の原子力発電所──ただし、全機停止中──があるため、刈羽村は財政的面で余裕があるからかも。そこから山道を登り始めたのですが、かなり急。道は整備され、草刈りも行われています。300m弱歩き、登ったところで写真の開けた場所に出ました。山頂です。標高は102m。
小矢場城より約30m高い。中央に「お城」が見えますが、これは高さ2.5mほどのコンクリート製モニュメント。ここは山城なので、写真のような平城(ひらじろ)ではなかったはず。
周囲には曲輪(/郭(くるわ))、空堀、土累等がかなりはっきり残っています。左奥の説明文によると、勝山城(別名「滝谷城」)は文治年間(1185年〜1190年)、越後平氏城 義資(じょう よしすけ)の部下、野呂 一伯(のろ いっぱく)の居城だったとのこと。昨日お伝えした城 資永とほぼ同時代。
右側の石碑には「勝山城主野呂一伯塔」とあります。周囲は木々が茂っていますが、北西側(写真奥)は急斜面なので、眺望がききます。麓は標高10mくらいしかなく、一気に落ち込んでいるのです。写真ではぼんやりとしていますが、日本海が見えていますし、右奥には佐渡(小佐渡)も確認できます。
木々の間からですが、それ以外の方向も良く見えます。確かに、城を構えるには良い場所。源氏に攻め落とされた後も上杉謙信の頃、つまり戦国時代までは用いられたようです。
まさに、「夏草や、強者どもが...」。ただし今は盛夏ではなく、晩秋ですが。
■11月3日(火:祝日) 「小矢場城」って、何? ──歴女の母親も知らなかったこと──
今日は文化の日。というわけで、それっぽい(?)お話。
最近、びっくりすることがあったのです。自動車の点検のために隣の長岡市へ行く必要が出たのですが、途中にあるのがセンセイの実家。もちろん実家の前を通らないルートもたくさんあります。
ネット上の地図を見ながら、どうのルートにしようか考えていた時、実家のすぐ近くに見慣れない文字と記号が出現していることに気づきました。「小矢場城跡(じょうせき)」。何、これ?
「おやば」/「こやば」などの読み方が考えられますが、後述する理由により「こやば」が正しいようです。
最初は何かの間違いだと思ったのです。何故ならこの場所は、この集落の共同墓地だから。西村一族の場合、2004年の中越地震で被害を受けたため、翌2005年に実家の隣へ一族で移転。
それまでは「袖浦(そでうら)」と呼ばれる場所にある、標高70mの山の頂上付近に一族の墓所を構えていました。でも地図上の小矢場城の位置を良く見ると、墓地と少しずれています。現地は山頂付近から“L”字型状に峰が伸びています。墓地は東方。「大地主(おおちしゅ)神社」側です。
小矢場城はその西側、概ね南北に連なる峰の上に存在したらしい。この件、まったく知らなかった話なので情報を集めてみると、実際にこの地を訪れた方のサイトを見つけました。それによると、ここに城を構えていたのは小矢場入道なる人物で、お城の別名は、おぉ、「袖浦城」!!
元々の出典は鳴海忠夫、「刈羽郡西山町の古城跡」、長岡郷土史研究会編、『長岡郷土史』、No.25)のようですが、西村センセイ、現物はまだ見ていません。西村家の菩提寺「東福院」は上杉謙信の家臣とご縁があります。近くにあったのが赤田(あかだ)城(訪れたことはありません)。だから漠然と、その頃のお城かなぁと思ったのです。
でもこれが、大外れ。時代はさらに数百年遡った平安時代末期。現在の新潟県は、平家傍流で「越後平氏」が支配していたとのこと。現在の新潟県は東日本なので、てっきり源氏側だと思い込んでいたのです。
西村センセイ、再びの大外れ。越後平氏の当主は、城 資永(じょう すけなが)。小矢場入道はその家臣です。資永は平清盛没後の治承5年(1181年)、に木曾義仲と闘うことになったものの、何と、出陣前日に脳卒中を起こし、翌日死去。
資永没後の城氏は佐々木盛綱率によって制圧され、この小矢場城も源氏の残党狩りによって落城したそうです。し、知らなかった...。
日曜日に実家を訪れた際、ちょっと回り道して西北西から現場を見上げたのが写真。一番高いところにお城があったことになります。共同墓地はその裏側。
写真右奥に、3代目南慶字隧道がちょっとだけ見えています。田中角榮元総理大臣による扁額(へんがく)は、こちら側の出口脇にあります。小矢場城の存在は先々週、母親に伝えていたのです。でも、正直なところ「それって、何?」という反応。何故か知りませんが、センセイの母親は歴史(日本史)に興味を持っています。
今だったら「歴女」と呼ばれるに違いない(この点は、遺伝したかも...)。でも小矢場城は、その母親すら知らなかったこと。で、彼女はボロッと、「(集落内に)『こやば』っていう屋号の家があるんだよね」。
いや、もう、本当にびっくりしました。
■11月2日(月) あの女の子は、どうなったんだろう... ──閉店したラーメン店は何と、居酒屋へ業態変更──
昨日の「おばた食堂」とは飲食店繋がり。
一昨日に帰宅する際、糸魚川市内を走行中、東の空の低い場所に月が昇りました。月の出から1時間弱が経過しているのですがこの間、山の陰で見えなかったのです非常に低い位置にあるため大気の影響を強く受けています。
要するに、黄色い。「兎」つまり月の海の部分が良く見えます。それが、あれよあれよという間に南へ回り、高度も上昇。それにつれて、月の色が黄色から冷たい白色に変わります。今月2回目の満月。いわゆる「ブルームーン」。
月の公転周期(「朔望月」)が29.55日と、太陽暦の1ヶ月より短い(2月を除く)ために時々起こる現象です。上越市市街(旧直江津市)に入る頃には、完全な夜間走行。事故を起こしやすい時間帯なので細心の注意を払い、市街地を抜けます。やれやれ。
さて、どうしよう...。そもそも土曜日の仕事が長引いたのと、金沢市内および富山市内の混雑で、予定よりも30分程度遅れて走行しています。家人にはその旨を連絡済。えーい、この際だ。
気になっていた場所へ立ち寄ることにします。繁盛しているように見えたにもかかわらず、夏に突然閉店した「ラーメン えいしん」の、その後です。実は2ヶ月くらいに前に「呑み喰い処 えがぴょん」として開店したのです。
「えがぴょん」って、何?通常、センセイが現地を通過するのは営業時間外。居酒屋として流行っているかどうかはわからなかったのです。現場に接近すると、駐車場にはそれなりの台数の自動車。土地柄、地元の方々ばかりなんだろうと思います。
それはそれで言祝(ことほ)ぐべきことなんだけど、お客さん達、帰る時はどうするんだろう...。運転中なのでお店に入るわけにはいきませんが、駐車場内に一時停車させていただきました。ご覧のように、窓には女性の顔が大きく描かれています。お店の名前と関係するのでしょうか。
営業時間が、ちょっと独特。「AM11:29〜13:29、PM16:59〜20:59」とのこと。居酒屋としては夜の閉店が相当早いと思います。察するに「えいしん」の時の営業時間そのものじゃないんだろうか。ただし、そもそも「えいしん」との関係も不明。
例えば、経営者がまったく変わって店舗を引き継ぐとともに業態変更をしたなどの可能性があるのです。正直なところこの点については、「えいしん」の時のご家族がそのまま経営していらっしゃるんだろうと思います。カーポート内の自家用車がそのままなので。でもそうなると、ラーメン店時代に一生懸命餃子を作っていた女の子は現在、どうしているんだろう。
もう高校を卒業するかしないかという、非常に微妙なお年頃。もちろんご家族、そして関係者のご繁栄を願っているのです。
■11月1日(日) 津沢駅前「おばた食堂」、地域の人々に愛され、しかもとても美味しいお店です
昨日お伝えした正面衝突寸前の事態。
今日改めてドライブレコーダーの動画を確認したのですが、センセイが赤色(見直したら、濃いオレンジ色だった)のAQUAを視認してから3台の自動車が並ぶまで、4.04秒。ムービーには詳細なデータまで記録されているのです。
一番焦ったのはもちろん、あのオバさんでしょう。通常ならば心臓バクバク状態。ただし実際の彼女がどうであったのか、もはや知る術(すべ)もありませんが。前後の車も状況を把握しているので、相当ハラハラしたはず。
で、センセイはというと意外にも終始、冷静沈着。写真を確認していただくとわかりますが、たまたまその区間だけ何故かガードレールがないことをすぐに認識していたからだと思われます。ただし今回は僥倖(ぎょうこう)。
約30分遅れながら当初予定に戻ったセンセイは、当面の目的地を目指します。初めて訪れるその場所は、富山県小矢部市岩武にある「おばた食堂」。
ここで遅い昼食を頂こうというのです。自宅─金沢間の移動には5時間10分程度かかります。高齢者なので、現在は夜間走行はせず、日中の走行のみ。ただし、今回のように途中で日が暮れてしまう時はありますが。
要するに、どこかでお昼、タンパク質と野菜が十分に入り、塩分が極力少ない食事を頂きたい。沿道にラーメン店はたくさんあるのですが、現在はすべてパス。
チェーン店を含めて、めぼしいお店はほとんど入ってみたのですが、センセイのチョイスが不適切だったのか、いずれもイマイチ。残念ながら現在では、途中のスーパーで総菜あるいはお弁当を購入するという情けない事態も。
唯一残っているのは、新潟県糸魚川市(旧能生町)の「サンレパス ルート8」。早い時期から候補に入っていながら、未だに訪れていなかったのが、この「おばた食堂」。理由は簡単で、センセイにとって微妙な場所に位置するから。
通常の帰宅時は、金沢に近過ぎるのです。金沢への移動時はちょうど昼食時間帯に通過するのですが、何と、日曜日は定休日。今回、お昼の営業を終える寸前に到着できそうだったのです。間に合わなかったら、朝から午後5時頃まで何も口にしないことになります。
カーナビの画面を見ながら、2時過ぎに到着。左側が普通の意味での食堂ですが、どうやら右側にある鉄筋コンクリート製の建物も、宴席用として用いられているらしい。とにかく店内へ。
店内は左側にテーブルが3卓。右側が小上がりになっていて、座卓が2卓。右奥が“L”字型、つまり写真右側の建物1階まで続いており、調理場になっています。右側の建物は、お店が繁盛したため、増築したらしい。
先客は3組。若い男性1名はセンセイと入れ替わるように退出。小上がりには男女2名、前のテーブルには若いお母さんと幼稚園児。本当に美味しそうに食事しています。高齢のご主人が、会話を楽しみながら相手をしていらっしゃいます。
先客の会計を終えてから、そのご主人が注文の確認に見えられました。麺類を含めたセットメニューが有名なようなのですが、センセイは食べられないので、「とんカツ定食」(1,000円)をお願いします。一つ気づいたことが。
母子はまだ食事中なのですが、それ以外の2組はいずれも、会計の際に何かチケットのような紙を出しています。その処理にちょっと時間がかかっています。
改めて店内を見渡して、店内の掲示物からそれが「小矢部市プレミアム付飲食券」であろうことを理解しました。他にも惹かれる掲示物が数点。新聞記事のコピーです。その一つに2012年2月26日付『北日本新聞』地域ワイド内の「加越線の思い出回顧 砺波でシンポ」が。
「加越線」は石動(いするぎ)と庄川の間を1915年から1972年(昭和47年)まで走っていた私鉄。鉄分が多いセンセイですから、もちろん承知しています。あちこちにその痕跡が残っています。で、ご主人の年齢は71/72歳。何故それがわかるかというと、ご主人はパネリストとしてシンポジウムに参加していらっしゃったからです。
お店の看板には、「昭和37年創業」と記されています。その前には公園があるのですが、その名は「津沢駅児童公園」。つまり当時存在した津沢駅前に、若いご主人と奥様がこのお店を開いたのです。
記事によると当時は相当繁盛したらしい。ただし鉄道の廃止とともに、客足は減少の一途。ここでご主人一人が調理した「とんカツ定食」が届きました。ホントに気遣いを感じます。届けられたままを記念撮影した後、みそ汁を一口。とても美味しいのですが、味はかなり濃い(≒塩分が多い)。
順に頂いたのですが、きちんと管理された上品な味。常連客の評価に得心(とくしん)します。美味しく頂戴して会計を済ませるためレジのある調理場前へ向かった時、奥の薄暗い場所で奥様が黙々と作業していらっしゃることに気づきました。ご夫婦の仲の良さがひしひしと伝わってきます。
忙しさのピークを過ぎた現在、センセイ1人の調理のために、奥様がわざわざ参加する必要はないのです。つくづく、地域の方々に愛されているお店だということがわかります。またご主人がこの地域を愛していることがひしひしと伝わってきます。でも諸般の理由により、そして大変申し訳ないのですが、個人的にはあまりご縁はなさそう。
それでも訪れるだけの価値はありました。何より、とても美味しかったし。ただし、みそ汁はほぼ手つかずで残しましたが。ご夫妻のご健康とご長寿をお祈りしています。