2023年12月16日更新(2023年12月24日ページ移動)
■12月16日(土) 中学生の時からご縁があった(?)民宿・和食のお店が、中華料理店に変わっていた
正確に言うと、お世話になっていたのは野球部所属の同級生たちなのですが...。
今日は日帰りで県内に住む義理の叔母宅へ。本当は先週の予定だったのですが、甥の件で1週間以上延期になっていたものです。先週は高速道路ばかり使いましたが、ご存じのようにあまり好きではないので、今回は往復ともに一般道を選択。
途中で撮影したのが写真。「中華料理 多福」と記されています。つい先日気づきました。
申し訳ありませんが、話は50年以上前に遡ります。センセイが生まれ育ったのは新潟県の「西山町(まち)」。(ただし生まれた時は「二田(ふただ)村」)
2005年に柏崎市に編入合併し、消滅しました。最近再び話題になっている田中角榮元総理大臣の出身地としてご存じの方もいらっしゃると思います。
町内に国鉄(現JR東日本)の駅は3駅。現在はすべて無人駅ですが、当時は常に数人の駅員が詰めていました。そしてそれぞれの駅前にはちゃんとした商店街が。
かつては駅前に2館の映画館が存在したほどです。一般家庭へのテレビ普及に伴い、いずれも1965年頃までには閉館していたようですが。センセイの時は町内に中学校が3校存在。センセイが通学していた中学校の野球部を指導していたのが「みやこや」という駅前商店街にある鮮魚店のご主人。
元気の良い方で、「みやこやのオヤジ」と呼ばれていました。ただしその後、モータリゼーションの進行で商店街はほぼ壊滅状態に。その代わり、国道沿いにスーパーやドラッグストアが進出しています。「みやこや」も国道脇へ移転し、民宿──右側の別棟──兼和食のお店(Facebook)へ。
ただし大学進学などで地元を離れていたこともあり、センセイは詳しい様子をほとんど知りませんでした。新潟に戻ってくると、「みやこや」はそれなりに繁盛しているとのこと。特に、地元で水揚げされた鮮魚の料理が評判らしい。近くに適当なお店がないこともあり、いつか訪れようと思っていたのですが、ついつい先送りに...。
それがいつの間にか中華料理店に。同じ経営者とは考えにくい。帰宅後に調べてみると、まず、「みやこやのオヤジ」はその後もお元気で、お嬢さんらとともにこのお店を切り盛りしていらっしゃいました。西山商工会の「商工連ニュース 新潟」22年6月号にも「[まちの元気じるし]株式会社みやこや」として紹介されています。
「(20)22年」つまり昨年の記事かと思ったのですが、何だか変。どうやらこれは、平成22年(2010年)のものらしい。(その後合併を繰り返したらしく、商工会連合会長岡支所のサイトは2015年から無管理状態)
中学校卒業後50年も経過しているので、きっと代替わりしているのだろうと勝手に思い込んでいたのですが、拙速な判断でした。ただし他の情報を合わせると、残念ながらご主人は3年前、鬼籍に入られたようです。
関係者はその後も奮闘されたようですが、昨年3月末に閉店。今年に入ってから、中国人がこのお店を始められたようです。
「みやこやのオヤジ」は野球部で怒鳴ってばかりいたので、センセイ個人は彼について、怖い印象しか持っていません。ただし今になって考えてみるとおそらく、それは彼が持つ一つの面にしか過ぎなかったのでしょう。
後悔先に立たず。もっと早く訪れるべきだった...。
■12月15日(金) お世話にならなかった人はいないはず... ──民家脇の崖に描かれているのは──
「いない」と断定するのは無理なので、「ほぼいない」とすべきでしょうが...。
今日は見たままのお話。身内に不幸があったこともあり、先週と今週は、実家へ割と頻繁に通いました。都合で、いつもとは違った道を走行中に気づき、帰り道に撮影したのが写真。大きな「アンパンマン」です。
特徴をよく捉えていらっしゃると思います。場所は柏崎市内の「矢田」地区。道路脇に割と最近建てられた平屋建てのお宅があり、その奥に「アンパンマン」がいました。屋根の最頂部は3〜3.5mくらいですから、頭のてっぺんも、同程度の高さがあると思われます。
間違いなく、以前はいなかったのです。おそらく写真のお宅を新築する際に、丘の斜面を一部削り、その露頭(ろとう)に黒い防草シートを敷設。ちなみにその際、崖の上部を含めて、周囲の木々をかなり切り倒しています。
普通ならそれで終わりにされるのでしょう。でもこの土地の所有者は何らかの意図があって、色つきのシートやロープ(顔の輪郭など)を使って、こんなに大きな「アンパンマン」を制作されたようです。
ちなみに、11月に撮影されたというGogleマップでも見ることが可能。(航空写真でも確認できる)ただしその時の映像では、ほっぺたの部分も真っ赤(口の部分は視認できず)。つまり、ごく最近張り替えられたようです。
ここ30〜40年くらいの間に子育てをした方なら、ほぼ必ず「アンパンマン」らにお世話になっているはず。このお宅にも、小さなお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
いろいろ大変だったけど、振り返ると子育てはあっという間の短い期間。親子関係はその後もずっと続くので、なかなか完全な卒業とはいかないのですが、それでも子供が大人になれば一区切り。
残念ながら今回は、そこにまったく予期せぬ不意打ちを食らったわけです。
■12月14日(木) ぞっこん、なんだろうなぁ... ──田圃脇田圃脇の道路で、貴重な車に出くわしました──
写真は一昨日撮影したもの。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
拡大写真だとわかりますが、雨が降っています。センセイは少し離れた場所にあるスーパーで晩酌の刺身を買おうとして、奥の方から歩いてきたのです。角を曲がってこの道に入ろうとした時、どこからか重いエンジン音が。
角を曲がると、おぉ、音を発しているのは写真の車...ではなく、真っ黒な塗装の車両運搬車。車の搭載作業中です。問題はこの車。
繰り返しになりますが、センセイは左奥から、この車の後部を見るような格好で歩いてきました。初めて見る車、どう見ても国産車ではありません。
後部が不自然で、まるで小型トラックの後部に幌を掛けたような格好に見えます。実際には金属製なのですが。作業中ですぐ近くに立ち寄ることは憚られたため、そのまま脇を通り過ぎました。
帰宅後に調べてみるとこれは英ロータス社が1966年から1975年にかけて製造、販売していた「ヨーロッパ」(Europa)という車らしい。
この車は、その中でも最終型「スペシャル」というモデル。(1972年〜)今から50年以上も前の車ですよ。センセイは中学生(!!)。それがまだ現役──ただし、おそらく何らかのトラブルが発生し搬送中──だなんて。
それも、こんな田舎で。車両運搬車に記されたのは新潟市東区、新潟空港のすぐ近くにある専門店。ロータスの後部にもお店のシールが貼られています。一般の自動車とともに、クラシックモデルを取り扱っていらっしゃるようです。
たぶんこのお店が販売した車。この「ヨーロッパ」は、軽量スポーツカーという位置づけ。中古車を検索するとそれなりの台数がヒットします。いずれも相当高価な買い物。また今回もそうであるように、維持は大変だろうと思われます。
それでも購入し、維持したい、と感じさせる魅力を持った車なんでしょうねぇ。
■12月13日(水) ここぞ、という場面で超貴重なプリンタが... ──西村センセイ、印刷店に走る──
タイトルから容易に想像できる内容です。悪しからず。
甥の急逝──むしろ「頓(とん)死」と表現すべき──は、家族や関係者には大ダメージ。もちろんセンセイを含めてです。現実的な話で(特に故人に対して)申し訳ないのですが、さて、印刷済の年賀状をどうしよう。
これまで叔父伯母逝去の際は、原則として年賀状を出していたのです。特に仕事関係の方に私事は関係ないし。最初は「同じ3親等だから...」と考えようとしたのですが、とてもそんな心境になれそうにありません。というわけで急遽、年賀欠礼つまり「喪中はがき」を出すことに。
官公庁がお休みの週末は段取りを考え、11日(月)の朝から行動開始。1枚5円の手数料を支払い、作成済の年賀状はがきを最寄りの郵便局で胡蝶蘭のデザインの官製はがきに交換してもらおうと考えたのです。
なお、胡蝶蘭のはがきは喪中はがき専用というわけではありません。郵便局で事情を説明したところ何と、このような場合、手数料なしで官製はがきに交換していただけるとのこと(ただし申請書への記入が必要)。初めて知りました。次なるポイントは、はがき裏面と宛名をどうやって印刷するか。
今回、最重要視すべきは喪中はがきの投函日、つまり一種の納期。15日(金)から年賀状の特別取り扱い期間に入ります。品質よりも発送日を優先すべき。できれば13日──つまり今日──中には投函したい。
2021年10月以降、土日に郵便物は配達されないのです。(速達やゆうパック等は配達)諸条件を総合的に考慮した結果、はがき裏面、宛名──シールを使用──ともに、最近感光体を交換したばかりのプリンタで印刷することにしました。
されど、これまでの経験からして、今後の印刷トラブルが懸念されます。(実際、その通りになった)そこで、はがき裏面は、アレンジが自由で精密な制御ができる“PageMaker”ではなく、汎用性の高い“Word”で印刷することにします。
バタバタしていたため、11日(月)は全体の準備をほぼ整えたところで就寝。翌12日(火)の朝から本格的に作業を開始しました。最初は順調だったのです。“Word”の柔軟性のなさに起因するストレスを除けば。
夕方、はがき裏面の印刷を開始。やれやれと思いながら印刷の進行を見守っていたところ、全体の1/4くらいを刷り終えたところでトラブル発生。紙詰まりです。ここまでは想定の範囲内。はがきの印刷はもともと、トラブルが発生しやすいのです。
しかし徐々にトラブルは深刻化。センセイのプリンタの場合、はがきや厚紙──シールを含む──はMPトレイ(差し込み印刷用トレイ)を使うように指定されているのですが、そのMPトレイからの給紙ができなくなってしまいました。
お伝えしたように、プリンタの寿命が近づいているのです。(というより健気(けなげ)にも、設計寿命を大幅に越えて稼働してくれている)もはや、残念ながらはがき裏面に関しては手書きで対応するか、印刷業者にお願いするしかありません。こうなると、せめてラベルシートの印刷は...ということになるのですが、やはりMPトレイは給紙不可。
無理を承知の上で、普通紙用の通常トレイで印刷開始。順調に印刷を開始したのですが...こちらも途中で深刻なトラブルに(中略)。ホントに大変だったのですが騙しだまし、深夜、何とかラベル印刷に成功。
今日は起床後、気持ちを切り替えてはがき裏面の原稿──今のところ、普通紙は問題なく印刷可能──つまり「清刷(きよずり)」その他必要なものを揃えて、最寄りの印刷店へ。事情を説明して印刷をお願いします。
その後、何度か製版の方とのやり取りがありましたが、相手はプロ。無事、夕方に印刷を終えたとのご連絡を頂きました。これで明朝、年賀欠礼のはがきを投函することができます。大半の方には週明けの到着となってしまいますが。印刷店の皆様、急な依頼だったにもかかわらず、お世話になりました。
さて、導入後15年を経過したプリンタ。満身創痍(そうい)ではあるものの、旧Mac OS(Mac OS 9.2.2)でも使用可能という、現在では超貴重なマシン。来年以降も非常勤の仕事が続きそうなので、新しいレーザープリンタを導入せざるを得ないと思います。
されど最後の最後の日まで、このプリンタを使用するつもり。それがセンセイの流儀なので。
■12月12日(火) 旧越後鉄道(現「越後線」)の始発だった比角駅が、棒線化されてしまった...
「比角」と書いて「ひすみ」と読みます。
当地は鎌倉時代の『吾妻鏡』に、「比角の庄」と記された地域。旧市街地付近を指すものと考えられます。拙宅のある地区を含めて砂丘の内側は沼地。一部の高台以外、人間が住める場所ではなかったのです。
時代はずっと下ります。当地域にも鉄道敷設の機運が高まり、まず1987年(明治30年)に北越鉄道鉄道(現「信越本線」)の旧「鉢崎(はっさき)駅」(現「米山」駅)─「柏崎」駅間が開通。
他方、柏崎駅から約1.5km離れた砂丘の上に、越後鉄道の始発駅「比角」駅が設置され、1912年(大正元年)に開業しました。現在の越後線の前身です。その後越後鉄道は砂丘下の沼地まで延伸され、柏崎駅と接続。
この関係で柏崎駅の越後線は、0番線を割り振られた「頭端式」ホームとなっています。(ただし列車が1番線に入ることもある)始発駅だったため、かつての比角駅の構内は非常に広く、いくつもの貨物線が存在していました。旅客用に関しても、相対式2面2線のホームと中線が。
高校生の時、登校の際はこの比角駅で降りて、帰りは始発の柏崎駅から乗車していました。近くに高校が3校あるだけでなく、駅近くの理研ピストンリングに通勤する人も多かったので、朝夕の比角駅はとても混雑していました。待合室には売店も。
そもそも列車は今と異なり、数両編成。それだけ利用客が多かったのです。一昨日の小旅行は、自宅付近と小島谷駅の間を往復しただけ。行きは始発の柏崎から乗車したのですが、帰路、ふと思いついて、この比角駅で降りることにしました。
実は比角駅の方が自宅に近いのです。列車──写真奥──から降り、ホームから広い駅舎(写真右側)に入ります。あれっ?!
最初に気づいたのは見慣れない人物。決して不審人物ではないのですが、JR職員でもない。何かの作業を確認していらっしゃるようです。ふと、彼の方向を向くと、駅舎内にトイレが。
ここはかつて駅事務室だった場所。そこにトイレが新設されています。駅舎の外へで出てみると、別棟のトイレが解体されています。明らかにごく最近の工事。列車に乗るのは久しぶりですが、比角駅そのものは時々訪れるのです。そして、その向こうに見えるのは、撤去された枕木の山。
...えっ"?!慌ててホームに戻り、撮影したのが写真。左側にあった2番線の線路が撤去され、列車の交換ができなくなっています。ただし信号機はすでに撤去されており、列車の交換機能は失われていました。鉄道用語の「棒線化」。
要するに、ホーム(と駅舎)があるだけ。高校生の時、いつもより1本早い列車に乗ると、向こうから貨車を引いた蒸気機関車がやって来て、この比角駅で交換していました。(実話)
もう半世紀近くも前のことです。
■12月11日(月) 幻のご縁(?)、の場所 ──かつて通学に利用していた越後線に乗車しました──
残念ながら、お疲れ気味であることは隠しようのない事実。
そもそも事柄のヘビーさが根底にあり、その上に、両親その他を乗せての長距離運転。特に、初めての道──最近開通したばかりなので、カーナビにも載っていない──の夜間走行は辛かった。
白状すると、その晩、ちゃんと眠ることができたのは2時間だけ。また行事その他の際は、与えられた役割が。もちろんセンセイだけが働くわけではありません。センセイは全体の進行を俯瞰して、気づかれることなしに補佐するお役目。倖いにも、一連の行事は無事に終了。
でもそこから先が、もう一仕事。葬儀に出席した娘──故人と従兄妹にあたる──のマンションに立ち寄り、彼女を降ろしてから両親を実家へ送り届ける必要があります。飛ばしても良かったのですが安全を優先して、高速道路は80km/hで走行。
暗くなってから実家に到着しました。当然、血圧はこの間ずっと、正常値の範囲外。翌日はゆっくりしたかったのですが、ツアー終了後に片付けようと思っていた期限付の仕事があったため、午前中はそれに従事。土曜日は結局、それだけで終わったようなもの。
夜、所用で終日外出していた家人から、年内最後だと思っていた企画乗車券を譲り受けました。さて、どうしよう。もちろんありがたいのですが、それを活用するだけの気力、体力は復活していません。そして企画乗車券譲渡は想定外。
あらかじめわかっていれば、有効利用する計画を立てられたのですが...。他方、もったいないし、列車に乗ってみたいという気持ちも。
翌日曜日、つまり昨日も朝のうちはまだ疲れが。それでも休んでいると少しずつ身体が動くようになってきたので、正午過ぎの越後線に乗車しました。
高校生の時、毎日通学に利用していた路線です。沿線の様子を確かめながら北上します。今日の目的地は小島谷(おじまや)駅(写真)。決して欲張らず、無理なく帰宅できる範囲と列車を選択しました。
ここで上り下りの列車が交換するのです。時刻表を調べていただくとわかりますが、発車時刻はいずれも12:57。つまり同時刻。
小島谷駅は相対2面2線の構造なので、列車を乗り換えるためには跨線橋を渡る必要があります。ある程度の時間がかかるので、普通に考えれば、乗り換えは不可能。
...しかし実は、まず間違いなく問題なし。時刻表をよく読む──辞書と時刻表は調べるのではなく、「読む」もの──とわかりますが、センセイが乗車している下り列車が先に到着。
数分遅れて到着する上り列車を待つはず。この間に駅舎の外へ出て撮影したのが写真。1枚目の右側には、今まで乗ってきた下り列車が見えています。駅前には、現在の越後線(旧「越後鉄道」)の創始者、久須美秀三郎氏の胸像が。
ちなみに小島谷駅は、テレビドラマ化された「夏子の酒」ロケ地の一つ。そもそも「夏子の酒」のモチーフとなり、ドラマ化の際もロケが行われた「久須美酒造」はこの近く(南東側)にあるのです。個人的にもこの小島谷駅にはご縁が。
と言っても、実現しなかったので「幻のご縁」とでも表現するしかないのですが。あの時、センセイがもう少しオトナで、余裕があれば...。センセイの想いを遮るように、上り列車が進入してきました。
乗車後、今度は反対側に席に座ります。
■12月10日(日) 約束(契約)の虹 ──喪中につき、年末年始のご挨拶ご遠慮申し上げます──
5日(火)、身内に不幸がありました。すでにお察しのことと拝察いたします。
新潟市内の実家で家族とともに暮らしていた甥が、病気(心不全)のため、34歳という若さで急逝したのです。検査入院当日の晩(!!)に容態が急変し、そのまま還らぬ人となってしまいました。
このサイトの開設に際して、原則としてこの種の情報は掲載しないという基準を設けました。実際、3親等の叔父伯母の逝去はお伝えしていません。ただし今回は、両親どころか祖父母(母方の祖父は逝去)も健在という「逆さ仏」であることに加えて、北海道ツアー開始後であり、不自然な中断理由を説明せざるを得ないため、本日ご報告させていただく次第です。
なお、すでに通夜、葬儀、そして初七日の供養を執り行っております。つきましてはサブタイトルにある通り、年末年始のご挨拶は遠慮させていただきます。
写真はツアー初日の15時過ぎ、庄内平野沖を航行中のフェリーの船室バルコニーから撮影したもの。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×715))
お伝えしたように当日は不安定な天気で、強い風雨が吹き付ける場面が多かったのです。バルコニーへのドアは完全に閉じて厳重にロック。その代わり突然、部分的ではあるものの青空が見えたり。
そんな時、東の空に大きな虹が架かりました。最初に見えたのは弧の右端。フェリーは北上しているので、南端になります。その時は外側の副虹もこの写真以上に明瞭に見えていました。
非常に強い風がバルコニー内に吹いていたものの、雨は止んでいたので、部屋の外へ出てみました。確認すると、左端(=北)まで虹がしっかりと架かっています。撮影してみるとわかりますが、ほとんどの場合虹は非常に大きく、普通のカメラで虹全体を撮影することは不可能。
そこで今回は、“iPhone SE(2nd)”のパノラマ撮影機能を使っています。風と波でフェリーがかなり揺れていたため、等角速度でパンニングするのは極めて困難。この写真は挑戦した中のベストショットです。(この写真でも歪みが生じている)
なお、水平線が部分的に曲がって見えます。もちろん撮影時の問題もあるでしょうが、実際にこんな感じでかなり凸凹しています。恩を売るつもりはないのですが、いろいろあってかなり世話をした甥が、この虹の向こうへ行ってしまいました。それも、あっけなく。
旧約聖書『創世記』には、大洪水(いわゆる「ノアの洪水」)後にノアが約束の地に到着した際、神は「このような大水害は二度と起こさない」という契約を立てます。契約の「しるし」として、雲の中に初めて出現させたのが虹。(『創世記』9:9-17)
それ以前、虹は存在していなかったのですね。甥はもちろん、弟の婿入り先を含めて関係者全員がノンクリスチャン。具体的には、両家ともに曹洞宗です。それもあって字義通りに受け取るわけではありませんが、少なくとも、こんな酷い不意打ちは勘弁してほしい。
かような事情ですので、皆様におかれましては不義理の段、平にご容赦の程を。