2006年8月19日更新(2006年8月29日ページ移動)
■8月19日(土) 2004年6月14日(月)10:00頃に撮影した、新潟県柏崎市の衛星写真
最近、以前ご紹介したことのあるGoogleマップを見ていて、解像度の高い衛星写真がどんどん増えていることに気づきました。
衛星写真の画像データを順次更新しているようで、まだ荒い部分もたくさん残っているのですが、その反面、場所によっては歩いている人まで分かる高解像度の写真も提供されています。
センセイの場合、新潟県柏崎市の自宅も、金沢のアパートも、人間を見分けるのはちょっと難しかったですが、車や家ははっきりとわかります。(ちなみに金沢工大はちょうど、センセイらの研究室がある建物の所で低解像度に切り替わっていた。う〜ん、残念!!)柏崎市の自宅付近を見ながら、いつ、何時頃撮影したんだろうかと考えたのですが、建物の影の様子から、夏の10時頃に撮影したんだろうなぁーと思っていたら、他に、いくつかの手がかりがあることに気づきました。
まずJR柏崎駅前は日本石油創業の地で、つい最近(2005年7月)まで石油精製工場が残っていたのですが、それがまだ衛星写真に写っています。
さらに、自宅付近の工場跡地に、新潟県中越地震の被災者のために仮設住宅が建設された(2004年11月)のですが、こちらはまだ写っていません。
この地域の写真がすべて同一日に撮影されたのかどうかはわかりませんが、少なくとも写っている部分は2004年秋以前の撮影、ということになります。さすがにこれ以上はわからないだろうなぁー、と思っていたら......あ"。
市の中心部(右の写真)──「Yahoo!地図情報」((c)Yahoo Japan)ではこちらに相当する部分──を見ていたら、何かが変なことに気づきました。((c)Google)
最初はよくわからなかったのですが、写真下部を左右に走る道路(本町通)の様子が、他の道路と違っています。
この場所は冬季の雪害対策としてアーケードがあるのですが、そのさらに内側の道路部分を、自動車のようなものがびっしりと覆っています。やっと気づいたのですが、これ、自動車ではなく、屋台なのです。通りをすべて埋め尽くして。
何回かお伝えしていますが、柏崎市には土着信仰の焔魔(えんま)堂があって6月14日(宵宮〔よいみや〕=宵祭)および15日、16日に「えんま市」が開かれます。
閻魔堂脇の射的屋もお化け屋敷もはっきりと見分けることができます。ふだんは人通りの少ない中心部ですが、この日ばかりは人口が10倍以上に膨らみます。
したがって、この衛星写真はある年の6月14日〜16日のどこかで撮影されたものなのです。右の写真は縮小してあるのでよくわかりませんが、よく見ると車や屋台は多いのに、人影はまばらです。15日や16日ではあり得ない──道路が繰り出した人々で埋め尽くされる──ので前日の14日ではないかと推測されます。
えんま市が終わった17日の可能性もあるのですが、屋台は早々に片付けてしまうので、その可能性は低いと思います。前年の可能性も検討したのですが、新たに出店した他のお店との関係で、それはあり得ない、という結論に至りました。
ちなみに、西村センセイは前日まで北海道へ出張しており、夜行列車でここを6時間半ほど前に通過して、この時間にはすでに大学に存在していました。
撮影日がここまで特定でき、しかもその前後に自分がどこで何をしていたかがわかるというのは、ちょっと不思議な気分です。
■8月18日(金) イラストが表す、性格の素直さ/お人好しさ ──これが“Happy
Mac”──
以前、インテルマックでは古いMac OS 9が走らなくなることをお伝えした時、Macが涙を流しているイラスト(別ウィンドウ)をご紹介しました。
そのイラストは、従来のMac OS 9起動時の右の画面──ユーザーにとってはお馴染みのもの──を踏まえているのですが、でもどうやって元の画面を撮影したのか分かりませんでした。
MacもWindowsも、OSが立ち上がってからの画面を記録できるようになっていますが、OSが十分に立ち上がっていない状態ではその機能が働かないからです。(Macの場合、特殊なソフトを使うと撮影可能)Virtual PC(例えばこちらやこちら)を使うと、Windowsマシンを再現することができるので、たとえば、懐かしいWindows 95やWindows 98(別ウィンドウ。いずれも原寸)のように、起動時の画面を完璧に撮影することができます。((c)マイクロソフト)
Mac miniを使っている時に気づいたのですが、Mac OS X上で“Classic環境”を起動する時は、Virtual PCと似た状態になります。
それで“Classic環境”しながら撮影したのが、右の写真なのです。(原寸の約75%)
涙のイラストはこの元図を利用しているんですね。
お気づきと思いますが、中央の人の顔は、1人にも、2人が対話しているようにも見えます。ユーザーとの、あるいはユーザー間の対話を重視するMac OS 9の思想をよく表していると思います。
やってみたら案外簡単だったので、Macintoshが無事に起動した時に表示される“Happy Mac”も撮影してみました。
これはずっと昔のMac OS──昔は名前すらなかった──から使われているものです。(原寸。いずれも(c)アップルコンピュータ)ところで、最新号の『Mac Fan』誌中、匿名での対談記事の中に「もうクラシックは必要ない?」との小見出しで、以下の記述があります。
・・・厳しいいい方かもしれませんが、クラシック[=Mac OS 9]ユーザはアップルにとって過去のお客さんであって、今のお客さんじゃないですからね。すでに、アップルがOS Xにシフトしてから5年以上になります。それでもOS 9を使っているユーザというのは、今のアップルには利益をもたらしていない人です。・・・ (『Mac Fan』No.281, 2006年9月号, p.22.)
......まぁ、基本的にはその通り。センセイの場合、OS X登場以降、公費私費あわせてMacintoshを5台買った(/買ってもらった)けど。
起動画面も、“Happy Mac”もMac OS 9の性格の素直さを表していると思うのだけど、その反面、お人好しと受け取られてもしょうがないのかもしれない。
■8月17日(木) 暑すぎて、全然眠れない!! ──新潟県内で最高気温38.6℃を記録しました──
全国ニュースではほとんど報道されていませんが、新潟はここ数日、猛烈な暑さが続いています。
毎日晴れているのと、九州付近にある颱風の影響で、本州上空の空気が大きく反時計回りに動いており──気象庁の「ウィンドプロファイラ」で観ることができる──、 太平洋側の、高温で湿った空気が本州の山を越えて、新潟県内でフェーン現象を起こしているためです。
右の写真は今日の柏崎地方(南西方向を見たもの、中央は地域のシンボル「米山」)ですが、いつも以上に空が青く、高く、ちょっと恐いくらいです。
当地では経験的に、こういう日は気温が相当上昇することが知られています。実際、風が南東方向からの山越えの気流に変わると、気温はあれよあれよという間に上昇し始め、13時に中条(新潟県北部)で38.6℃(!!)を、新潟市、長岡市でも38℃以上を記録しました。
センセイが住む柏崎市は海に面しているので、なかなか気温が上がらない場所なのですが、それでも11時53分に38.0℃を記録しました。今日は暑すぎて、基本的にずっと家の中にいたのですが、所用で外出した時の318iの外気温計も、右下の写真のように38.0℃(0.5℃刻み)を示していました。
直射日光下ではなく、日陰で風通しのよい車庫内での気温です。(外も同温でした。)日中暑いだけならまだしも、海に近い柏崎市は、夜になっても気温はなかなか下がりません。
昨日も熱帯夜だったのですが、夜、眠ろうと思ってウトウトすると体温が上昇して汗をかき、気持ち悪くなって目が覚めてしまいます。クーラーをつけるともちろん室温は下がりますが、最も弱く調整しても、あるいはタイマーを使っても調子が悪くなってきます。
冷気が当たりがちな右半分、特に腕と肩が痛くなってくるのと、そもそも何だか体が重くなってしまって、調子が出ない。というわけで、浅い眠り+睡眠不足+重い体で絶不調の西村センセイなのでした。
■8月16日(水) 「戸田家の兄妹」と「東京物語」 ──DVDを作りながら考えたこと──
西村センセイ、今年のお盆の新潟がとにかく暑い──今日は新潟市と長岡市で最高気温36℃(!!)を記録してしまいました──のと、家族サービス、それも正確には他の家族のサービスに追われて、たいしたことができないうちに終わってしまいました。
次期ご当主様のところにはいろいろな仕事がまわってくるのです。それでも、金沢でMpegデータを作成しておいたものが一つだけあったので、お盆に入る前にDVD化しました。
小津安二郎監督(1903-1963)の「戸田家の兄妹」(1941年)です。
以前お伝えしたことがあるのですが、小津安二郎監督生誕100周年にあわせて、NHKが2003年から2004年にかけて、再発見されたものを含めて残存する全作品を衛星放送(BS2)で放送ししました。
また著作権を持つ松竹も「小津安二郎DVD-BOX」を販売しました。もちろんセンセイもこのDVD-BOXを買ったのですが、全巻揃えると10万円位してしまうので、さすがに全部は買えませんでした。
そこで、比較的最近の画質が良いもの──といっても1950年代。つまりセンセイが生まれた頃──のものだけDVDで買って、短編が多く画質も悪いそれ以前のものはNHKのBSで収録することにしたのです。
もうほとんど整理は終えているのですが、一部だけまだDVD化していないものがあったのです。DVD化の過程で、改めてこの「戸田家の兄妹」をじっくりと観たのですが、いろいろ考えさせられることがありました。((c)松竹株式会社。写真はNHKの放送より)
細かいことはともかく、何より大切なのはこの作品が戦後の傑作「東京物語」(1953年。現在は単品で販売中)に直接繋がっているということです。
「戸田家の兄妹」では、経済界の重鎮が急死し、手形保証のために長年住み慣れた我が家を失った年老いた妻と末娘(写真右、若き日の高峰三枝子)が、長男夫婦、長女らの家をたらい回しにさせられます。
子供も妻も、自分たちのことばかり考えていて、どこにも二人の居場所がないからです。亡父の一周忌に、中国に渡っていた次男(写真左、こちらも若い佐分利信!!)が日本に戻り、兄、兄嫁達の不義理を責めて、母と妹(+お手伝いさん)を連れて中国へ渡るところで映画は終わります。
「東京物語」では、子供たちを育て上げた尾道在住の老夫婦が、久しぶりに子供や孫に会うために上京するのですが、その子供たちは仕事や毎日の生活に忙しく、なかなか年老いた両親の相手ができません。
そんな中、8年前に戦死した次男の妻(原節子)がかいがいしく世話をしてくれ、老夫婦は実子ではなく他人に繋がりを感じます。(その後、老妻は急死。)
一見すると、上流階級/庶民(元教師)、大黒柱の急死/老妻の死...というように、あまり関係ないように見えますが、中心となるテーマは家族の崩壊と再生(あるいは表面的な崩壊と、その裏での継続)で、まったく変わっていません。
「戸田家」の次男がその後戦死し、その(まだ見ぬ)妻の視点から家族の再生を描いたのが「東京物語」なのです。
ちなみに、物語の語り部は、両作品とも未婚の末娘です。
けれど両作品には、あるいは両作品が製作された12年間の間には決定的に大きな違いがあります。(あぁ、やっと本題にたどり着いた!!)
「戸田家」の次男は一周忌の席で兄や兄嫁達をきつく糾弾します。観客はその姿を観て、喝采することはあっても、「やりすぎだ」と感じることはほとんどなかったのではないかと思います。
だって、そうされてもしかたないほど、兄や姉、その嫁達は老母と妹を邪険に扱ったのです。(映画の中ではそう描かれている。)けれど「東京物語」で同様のシーン(最後の、葬儀後の兄妹のやりとり)を観ても、観客が喝采することはありません。
確かに「自己主張の強い長女だ」──杉村春子が名演しており、毎日映画コンクールの女優助演賞を獲得しています──と思っても、彼ら彼女らにもそれなりの事情があることを知っているからです。
開業医である長男(山村聡)が両親の東京案内を諦めるのは急患の往診だし、個人理容院を経営する長女が忙しいのは後進の指導のためだし。けれど観客は、そのはっきりしない状況の中でこそ「家族って何なんだろうね」と考えるのです。血の繋がっていない次女の嫁(原節子)のけなげな姿に心を打たれながら。
もう一つ。
「戸田家」の次男は世の中の形式にとらわれないという良さはあるものの、相当脳天気で、「舞台設定に問題があるのなら当時の新天地である中国(当時、日本が影響力を強めつつあった)に行こう」と提案し、母も、妹も、長年お世話になっているお手伝いさんも賛成します。(あまりに安直な設定だ。)
彼女らの顔には何の屈託もありません。(実際、笑顔に何の陰影もなく、かなり作為的で無理な印象を受ける。)要するに、舞台から逃げ出して物語を終えるのです。
一方、「東京物語」はそのような「逃げ」はありません。
長男、長女、次男の嫁は東京での生活を淡々と続け、父と末娘は尾道で、今までと同じように暮らします。誰もその舞台から逃げません。端役の三男〔大坂志郎=テレビ「大岡越前」の同心役で有名〕も、大阪で国鉄職員のままです。
「逃げないから問題が解決した」ということにはならないのですが、程度の差こそあれ、自分たちの問題を各自なりに受けとめて生きるというところで映画が終わります。観客はここでも、誰も逃げないからこそ「じゃぁ、自分はどうなんだろうね」って考えざるを得なくなるのです。
結局、基本的にはほぼ同じテーマを扱っていながら、「戸田家の兄妹」では輪郭が明確で、正邪もはっきりした描き方──実はアニメチックで子供っぽい描き方──をしているのに対し、「東京物語」では「それはそうなんだけどさぁー、でも相手にだって立場が...」という大人の視点で作品を描き、その差が、決定的な奥行きの浅さ/深さの差を決めています。
両作品の12年間に、小津監督に何があったのか。
この間、小津監督は召集されましたし、それよりも何よりも、第二次世界大戦がありました。(「戸田家の兄妹」の頃には事実上の戦争「支那事変」が泥沼化しつつあった。)
しかし時代の制約を考慮しても、「戸田家の兄妹」と「東京物語」の間には。回復不能で決定的な差があります。
子供と大人の差、なのです。
実年齢とは無関係に。
(実年齢とは無関係に)「お子ちゃま」が、自分が理解し得た狭い世界に拘泥して、大人の世界を否定してみせる姿は、滑稽を通り越してその姿に悲痛さすら感じることすらあります。
信じがたいことに、当の「お子ちゃま」は、実年齢にかかわらず、ホントに何も感じていない/考えていないらしいのです。本人は「お子ちゃま」だから、最後の日まで自分が何をしてしまったのかを理解できず、その意味ではとても幸せ──白状すると、そうなれたらいいなぁーと思うことはある──なのでしょうが、場合によっては滑稽では済まないこともあります。
「お子ちゃま」を上司に迎えてしまったり、その人が教育する立場に立ってしまったりしたら......。(個人的に、そういう機会があまりに多かったので。)「お子ちゃま」は基本的に、「お子ちゃま」しか再生産(≠教育)できないからです。
その意味で西村センセイ、昔はイヤだなぁーと思っていた「歳を取る」ってことが、意外にも「いい面もあるかな」って思えるようになってきました。
今まで分からなかったことが分かるようになるからです。でも、これって実は、「戸田家の兄妹」で急死する父親の言葉でもあるのです。(老妻にそう述べた途端に具合が悪くなる。)
う〜ん。これも運命か。
■8月15日(火) いやぁ、もぉー、とにかく暑い!! ──新潟で最高気温35℃以上(!!)を観測しました──
いやぁ、もぉー、とにかく暑い!!
小泉首相の靖国参拝の話──それはそれで大切だけど──ではなく、新潟県内はホント、物理的に暑いのです。
今日は所用で、318iを運転して新潟県北部(下越地方)まで行きました。
迎えの仕事だったので、行きは好きな経路を適当に選ぶことができます。そこで、久しぶりに来迎寺(らいこうじ)──新潟県中越地震の崖崩れ現場近く──へ出て、国道8号線を使って北上しました。
318iの外気温計によると、自宅の気温は30℃。日陰(車庫内)での測定です。
外へ出て一般道を走り始めると、外気温がどんどん上がります。32℃...33℃......。
だいたい33℃〜34℃くらいで安定していたのですが、三条市付近で再び外気温が上昇して、何と36.5℃を記録してしまいました!!(318iの外気温計は0.5℃刻み)
自宅に戻ってから気象庁の記録を確かめると、三条市の観測地点では35.6℃(!!)の最高気温を記録していました。
要するに体温と同じくらいなわけで、新潟県でこんなに高い気温を記録するのは颱風などの影響でフェーン現象が起きる時くらいで、とても珍しい高温です。さて、このところ金沢との移動や前任校での集中講義、自宅近辺での下駄代わりと、主に長距離走行で活躍中の318i。
右の写真は起動時の機器類の表示で、上部左が速度計、右がエンジン回転数、その下部が瞬間燃費計です。起動直後はアナログメーターの下部に、“OILSERVICE”の表示に続いて“1000km”と表示されます。
以前にもご紹介した、エンジンオイルの交換時期──まだの方はぜひご一読を──で、あと1000kmで交換するよう指示が出ています。程なく表示は下の写真のように変わります。
お分かりでしょうが、三つの数字は上段左がこれまでの走行距離、右がトリップメーター、下段が走行可能距離です。結局、最初のエンジンオイル交換は約28,600kmで、ということになりますから、とんでもなく、長い。(信じられない人も多いだろうなぁー。)
走行可能距離は予備燃料──予備タンクはなく、残8lで警告ランプが点灯する──との関係があるのでややこしいのですが、前回の燃料補給(トリップメーターリセット)後、渋滞を含めて市内でのストップ・アンド・ゴーの繰り返しで燃費は11.2kmでした。
高速道路でいろいろ試したのですが、センセイ一人を乗せて他に重い荷物がない時、80km/hでの燃費が19.0km/l、100km/hでは17.5km/lでした。
要するに、軽自動車並みのとんでもない低燃費ということになります。(絶対、信じてもらえないだろうなぁー。)車の利用の仕方(走行距離、通勤での利用の有無、急加速の有無など)はほとんど変わらないのに、今まで乗っていた日産プリメーラより明らかに低燃費です。
車重はちょっとあるけど、運転しやすいし、(乗員乗客は相対的に)安全だし、路面の状況はハンドルや座面から良くわかるし、いったん購入すれば維持費はかからないし......というわけで、ホントにすごい車だと思います。
ちなみに、専門家から聞いた話では、ドイツ車は120km/h以上になっても燃費があまり低下しないんだそうです。
もっとも西村センセイ、このごろは100km/h以上出さない──ホントに──ので、こればかりは確かめようがないのですが。
■8月14日(月) 蛍が全然いなくなってしまった。 ──今年の西村家は、静かなお盆を迎えています──
昨日はお盆だったので、サイトを更新してから午後に実家へ移動しました。
西村一族の墓地はもともと、小高い丘の上にあったのですが、昨年実家そばに移転させたので、墓参はとても楽。
以前は墓参に必要な花立て、線香立て、蝋燭立てなどの道具一切を、自宅裏に自生している竹を材料に鉈(なた)だけで作り、しかも仏壇の飾りなども作りました。
だから13日は朝から忙しかったのですが、このごろは両親がそんな手のかかる仕事を言わなくなったので、その意味でも楽です。蝋燭、線香と水、花を持っていくだけだもん。両親も年老いてきて、そんなことに気が回らなくなってしまったのですね。
かつては、一族が集まるので「スーパーで出来合いのオードブルを買っても同じだけど、自分たちで作ろうよね」と言って、嫁達を指揮してご馳走を作っていた母も、今では「スーパーでオードブル買っても同じだよね」と、自己弁護。
字面(じづら)だけ見ていると、同じような単語が並んでいるんだけど。夕方には婿に行った弟夫婦も合流。ふだんは2人だけの実家が、一挙に5倍以上に膨らみました。
これはセンセイの実家だけでなく、親戚でもある前の家も、隣の家も同じような状況で、付近の道路は県外ナンバーだらけです。
団塊の世代が都会に定着し、一時は帰省する人が少なくなったのですが、少なくともセンセイの周囲では同じか、やや増加傾向にあります。
彼らが退職に差し掛かっているのと、その子達が孫を連れて来るからかもしれません。暗くなるとお決まりの花火大会。
センセイの実家の前は用水路になっていて、昔は蛍が乱舞していたのですが、U字コンクリート管でふさがれてからは、パッタリと蛍を見なくなりました。
だからセンセイの娘も、甥っ子も姪っ子も、蛍を自分の目で見たことがないのです。
エアコン室外機の修理に立ち会っていて、ふと蝉の抜け殻に気づきました。
自宅庭には松の木が植えてあるのですが、その枝に付いていたのです。
それも3個。他にも右の写真中、左上隅に、抜け殻こそないものの、それを支えていた糸が見えます。(わかるかな?)
センセイは柏崎市に自宅を新築して、10年前の8月8日に新潟市内の借家から引っ越してきました。
その時に庭も整備して、松の木を植えたのです。蝉は地中、木の根本で数年生きた後、地上に出て数日間生きます。
ということは、数年前にはこの松の木はそれなりにこの地に根付いたということになります。子供の頃からよく見て、よく遊んだ抜け殻なので、特別な感慨はないのですが、10年間という月日を感じました。
この10年間に、外壁の一部を修理して塗装し直し、新潟県中越地震があって基礎の一部にひびが入り、高価な床材にしたのにやはりきしむ部分が出て、それよりも何よりも大人も子供も成長/歳を取りました。
センセイの勤め先も変わって、平日は主が住まないようになってしまったし。日々のことに追われてあまり気づかないけど、こうやってみるとつくづく、10年なんてあっという間だと感じます。