2017年2月4日更新(2017年2月12日ページ移動。2019年1月4日写真削除)
■2月4日(土) 蕾が膨らんでいるような、いないような... ──暦の上では今日から春──
日付が替わるちょっと前に、帰宅しました。
写真は昨日、業務の主要部分を終えて、所用でキャンパスの外へ出た時に川向こうから撮影したもの。
奥に見えるのは図書館棟(LC)です。大学脇を流れる高橋川に架かっている橋を渡り終えて、あることに気づきました。川沿いには桜が植樹されています。
その芽が膨らんでいるような、いないような...。もちろん大半の芽は堅く締まったまま。でも中にはご覧のように、微かに春を感じてしまう木も...。
昨日は節分。季節を分ける日です。つまり今日から暦の上では春。もちろんまだ寒いに決まっているのです(この冬の金沢はあまり雪が少なかったけど)。
でも寒さの底は過ぎた、ということです。この4日間、いろいろ大変でした。15年所属する組織なのに、初めて識るディープな一面があったり。
でも、春は確実に近づいています。
■2月3日(金) デッキの内装が、かなり違う... ──北海道新幹線を初めて間近で見ました──
本当はもっと前にご紹介するつもりだった話題。猿の突然の出現や飛びこんできた訃報で遅くなってしまいました。
お伝えしたように先週の東京出張の際、往路の新幹線は訳あって左側(北側)の席を確保しました。でも、鉄道ファン的には、左側の席にはもう一つ見どころが。それが写真。
北陸新幹線が長野駅に到着する寸前、進行後方左側に広がる光景です。ここは北長野駅に隣接した「長野総合車両センター」。長野地区の車両基地と、JRの車両工場を兼ねています。
電車が4編成写っていますが、左側の3編成は新潟から回送されてきた115系、右端の銀色の列車は、埼京線を走っていた205系です。
これらがなぜここに存在するかというと、ここで廃車、解体するためです。電車の屋根をよく見ると、雪が積もっていません。つまりしばらく使用していないのです。
さらによぉーく観察すると、パンタグラフや付帯設備がないことがわかります。古くて天井の低いトンネルが残っている中央線を使って列車を回送するため、障害となるパンタグラフを撤去しているのです。
これは新潟地区から回送した115系も同じ。かつては信越本線を使って回送していたのですが、北陸新幹線の開業に伴って直江津─豊野間が第三セクター化。
他社への線路使用料の支払を回避するため、遠回りでも自社線を使ったのです。緑とオレンジのいわゆる「湘南色」とそれに挟まれた「新潟色」の115系はいずれも、長い間新潟地区で活躍してきた車両。センセイはまず間違いなく、これらに何度も乗車。
現在もまだ新潟地区では115系が運用されています。しかし実は、これらのほとんどが長野地区からの転属。両者は内装が違うのですぐにわかります。
自動車の「車検」に相当する検査の都合など、運用面の問題のようですが、生粋の新潟の車両が先に廃車になってしまいました。
もちろん長野からの車両を差別するつもりはないのですが、ずっと乗っていた列車が廃車になるのは、痛い。最後の姿を何とかカメラに収めて、本来の任務に戻ります。
仕事を終えて、最寄り上野駅で北陸新幹線を待っていたら、隣のホームに新函館北斗駅行きの北海道新幹線が入線しました。
北海道へ行きたいなぁ......え"っ。色が、違うのです。最初に気づいたのは、JR東日本所属のE5系とは違う車両側面の帯。数編成しか存在していないはずのJR北海道所属、虎の子のH5系です。
都内に入線するのは1日2往復のはず。初めて間近で見ました。全体の印象はJR東日本とほぼ同じですが、少なくとも気づいた限りでは通路デッキのカラーリングがかなり違います。
いかにもJR北海道。改めて、北海道へ行きたいなぁ......。
写真は先日、昼食で外へ出た時に撮影したもの。
歩道を歩いていると作業服姿の方とすれ違いました。ふと気づくとご覧のように新「夢考房41」がその姿を現しています。
道路側(写真奥)から見た完成予想図とは異なり、こちらの写真と同じような位置から撮影しています。先日までは工事用のフェンスで覆われていたのですが、少なくともこちら側に視界を遮るものはありません。
去年5月の着工から骨格となる鉄骨の構築くらいまでは工事の様子がよく見えたのですが、その後は様子が良くわからなくなっていました。
現在、一部を除き外側の工事は終了したようで、照明が灯る中、室内で何かの作業をしています。
完成は今月末を予定しているとのこと。今回は単純に、そして素直に、完成と供用開始が楽しみです。
■2月1日(水) 【訃報】...そして、本当に誰もいなくなってしまう!! ──ジョン・ウエットン氏が逝去──
今日は予定を変更してお伝えします。昨1月31日、ベーシストのジョン・ウェットン氏が亡くなられたのです。写真は訃報を伝える彼の公式サイト。((c)2010 John Wetton )
ジョン・ウェットンと言っても知らない人ばかりだと思います。商業的に成功したのは1980年代に「エイジア」というバンド。ベース兼ボーカルでした。
でもセンセイ個人としては、「エイジア」にほとんど興味はありません(デビューアルバムは買ったけど)。それよりも1970年代に、プログレッシブ・ロックバンド“KING CIMSON”(キング・クリムゾン)のベーシストとしてよく知られていました。
センセイはその演奏をNHK FM放送で初めて聴きました。当時は今とは異なり、情報も音源も限られていたし、高校生や大学生にとってLPレコードはとても高価な存在。
だからラジオが情報源だったのです。中期キング・クリムゾンのライブ演奏──現在はCDで聴くことができる──だったのですが、今でも演奏の凄まじさと受けた衝撃を覚えています。
バンドはメンバーチェンジを繰り返して、現在も存続しているらしいのですが、センセイにとっては1970年代まで。正確に言うと、初期キング・クリムゾンのベースは先昨年亡くなったグレッグ・レイク。後を継いだジョン・ウェットンは、キングクリムゾンを離れてから、元EL&Pのドラムス、カール・パーマーらとともに先ほどご紹介した「エイジア」を結成します。
この辺の事情はかなりややこしい。狭い業界なので、限られた人がバンドを結成したり壊したりしていたのです。それはともかく、ジョン・ウェットンは数年前にガンを患い、闘病中だったとのこと。享年67歳。
グレッグ・レイクは69歳で亡くなっています。ざっとセンセイより10歳年長。もちろんセンセイが影響を受けた方の大半は現在も健在なのです。でも、さすがにこうも訃報が続くと、残された時間とその間に為さねばならないことを考えてしまいます。
ジョン・ウェットン氏の冥福をお祈りいたします。
■1月31日(火) ...そして、誰もいなくなってしまった ──センセイは再びお留守番──
早いもので、今日で1月もお終い。
今年度の金沢工大は、曜日まわりの関係で昨日までにすべての講義が終了しました。もちろん4年生や大学院生は卒業研究その他が控えていますが、3年生までは今日から春休み。
実際、校舎内で学生の姿をほとんど見かけない。写真は以前お伝えした、センセイらの研究室が入る建物の床暖房工事。その時の写真の右上から見ています。
暖房用の配管工事が始まったのですが、しばらくそのままになっています。いつもなら今日は、朝からスーツ姿の教職員が数名ずつこの場所に集合するはずなのです。
明日から始まる入学試験を、全国各地の地方会場で担当する方々です。でもご覧のような状況なので、担当者は別な場所に集合し、それぞれの任務地へ散っていきました。
入試部長という立場上、彼ら彼女らに挨拶して見送ります。センセイはというと、再びお留守番。立場上、入学試験業務に従事していることは公知の事柄ですが、守秘義務があります。
したがって何が起きようが起きまいが、その内容については一切お話しできません。明日から数日、ちょっととぼけたネタが続くことになりますが、悪しからず。
■1月30日(月) 「かがやき」乗客の大半にとって、この糸魚川とあの糸魚川は、結びつかないんだろうなぁ...
お伝えしたように、先週後半の都内出張の往路、センセイは左側(北側)のA席を予約しました。理由はいくつか。まず日本海が綺麗だし、右側の席ほど日射しが入り込まないから。
でも今回は特別。昨年末に発生した糸魚川大火の現場を、高架橋を走る新幹線から見ることができるはずなのです。ただし確実なのは停車駅が多く、糸魚川駅にも確実に停まる「はくたか」。
200km/h以上の高速で通過する速達型の「かがやき」は現場を一瞬で通過してしまいます。特に、現場は糸魚川駅のすぐ近く。地図では糸魚川駅舎が小さく描かれているのですが、実際には屋根に覆われたホームに進入する直前でのみ撮影可能。カメラの準備を整えます。
その結果、写真を2枚撮影することができました。下のものは、被災現場全体が入るようにトリミングしたもの。
左から1/3位のところに道路が見えます。手前の交差点に角にある割と背の高い建物の奥が火元の中華料理店。道路に面した被災家屋がまだ撤去されておらず崩落の危険があるため、道路を半分に区切ってその右側には入れないようになっています。
中華料理店から扇状に飛び火した結果、大火災になりました。中央奥のフェンスに覆われた建物は、真っ黒になりながらも焼け残った北越銀行。その左奥に加賀の井酒造が、銀行の奥に割烹鶴来家(つるぎや)がありました。海岸沿いの道路を走行すると、まだ瓦礫の撤去が進んでいないという感じを受けます。
でも新幹線、特に高速で走行する「かがやき」から見る現場は別。意識して見ると瓦礫だらけであることに気づくのですが、雪で覆われていることもあって、ちょっと見ただけではわからない。通過の際、周囲の人々の様子に注意していたのですが、窓の外に気を使う人はいませんでした。
多くの人にとってたぶん、あの大火の糸魚川と、この糸魚川は別。結びついていないんだろうと思います。虐(いじ)められたり、差別された側はそのことをずっと記憶しています。心に刻み込まれてしまっているのです。今回は虐めとはまったく異なりますが、地震や火災などの被災者の生活がすぐに変わるものではありません。
被災者の中で新生活に向かって努力する方々などは比較的注目を集めやすい。でも高齢でエネルギーがなかったり、資金面で問題があったり、健康に恵まれていなかったり、いろいろな理由で周囲に被災したことを隠し続けているような弱者のことは、強い人の頭の中から消えがち。
それを「自己責任」という言葉で片づけようとする人たちこそ、反理性的な存在なんだと思います。どこにいても、新潟からあるいは金沢から見守っていますよ。
■1月29日(日) センセイの車が向かう先を横断するのは... ──ドライブレコーダーは、その姿を捉えた!!
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新潟のセンセイの自宅と金沢のアパートの距離(実際の走行距離)は230kmから245kmほど。経路によりかなり異なります。
その中間は富山県東部を南から北へ流れる黒部川付近。黒部川手間の交差点はいつも赤信号にかかります。昨日は軽自動車に続く形で停止して信号待ち。
前の車は後部にもみじマーク(高齢運転者標識)と身体障害者標識を掲示しています。漠然と安全運転をするんだろうなぁーと思っていたら、信号が青に変わった途端、速度制限50km/hの道路を80kmくらいで遠ざかっていきました。
後を追いかけるようなことはしません。黒部川を越えると入善町に入ります。この辺りの黒部川右岸は河岸段丘(だんきゅう)の見本のような場所。
平坦な段丘面(写真左端。かなり傾いている)がしばらく続くと急に、写真中央から右側の高い場所にぶつかります。センセイの車は現在、「段丘崖(だんきゅがい)」と呼ばれる崖を斜めに登坂しています.....あれっ?!
お察しの通り、これらの写真はいずれもドライブレコーダーが記録した動画を切り出したもの。ご注目いただきたいのは、写真中央、坂を登りきったところ。道路脇(右側)から、何かが周囲を見渡した後で出てきました。
最初は人間だと思ったのですが、小さい。犬、あるいは狸...。跳ねるような特徴のある駆け方。猿です。
泰然自若(たいぜんじじゃく)と振る舞っていた前回や前々回と異なり、今回はかなり怯えています。
経験の少ない若い猿なのでしょう。技術的には動画を掲載することも可能なのですが、容量の関係でパラパラマンガ風に写真を繋げてみました。
右の写真はすべて縮小せずに書き出しています。移動手段が変わって自動車に乗る機会が増加したことを差し引いても、ここ1、2年、明らかに富山県内で野生動物を見かける機会が増えています。
レコーダーに記録されていなかったのでお伝えしませんでしたが、先日も道路脇で猿を2匹見かけました。もしかすると、センセイはとんでもない山間部を走行しているのでは、と思われるかもしれません。
でも1枚目左端に見える点のようなものは民家。ここは北陸新幹線「黒部宇奈月温泉駅」の近く。人々が普通に暮らす場所...などと考えていたら、坂を登り切った場所にある信号で、例の軽自動車に追いついてしまいました。
もちろん、その直後にびゅーんと遠ざかってしまいましたが。