2017年6月17日更新(2017年6月25日ページ移動。2019年5月1日一部写真削除)
■6月17日(土) ここでしか手に入らないもの ──道の駅R290とちおで「あぶらげ」を買いました──
今日のセンセイは、終日家族サービス。
広島と島根のお土産を車に積んで、まずは伯母(父方)宅へ。先月末で72歳になった伯母は、3月に亡くなった姉の納骨式に健康上の理由で出席できなかったのです。
しばらく懇談した後、別な伯母(故人)宅へ。義理の伯父にご挨拶してから仏壇にお参り。長女、つまりセンセイの従姉妹が納骨式の連絡調整を務めてくれたので、改めてお礼の気持ちを伝えます。続いて実家へ。
今日はここからがメイン。母親が育てた大量の葱と野菜──センセイの母親はお米や野菜を育てるのが本当に上手──を車に積み、両親を乗せて長岡市(旧栃尾市)へ。退院した叔父(母方)を見舞うためです。
8人姉弟だった父方同様、母方も7人姉弟と人数が多い。でも昔の田舎ではこれが普通だったのです。母親が生まれ育った旧栃尾市(長岡市)に到着すると、まず母方の伯母(長姉)宅へ。姉弟の中で彼女が一番しっかりしているかも。そして今度こそ母親の実家へ。
叔父と大病から回復したばかりの義理の叔母との昔話に話が弾みます。お二人の夫婦仲の良さは羨ましいほど。帰路は近くの複合施設「道の駅R290とちお・栃尾産業交流センター『おりなす』」へ立ち寄りました。
ずっと昔にご紹介したことがありますが、ここで名物の油揚げを売っているのです。良質な豆を使用し、低温と高温で二度揚げする極厚の油揚げ、地元では「あぶらげ」と発音します。
地元出身の母親によると、佐藤豆腐店のものが一番美味しいとのこと。ここ道の駅R290には、「揚げ処さとう」という分店があり、4人兄弟の末っ子とお母様が店を仕切っているのです。
いつ行っても列を作っており、マスコミで何度も取り上げられています。なぜそこまで事情を知っているかというと、母親が出身地の事情に詳しいことに加えて、センセイとご主人は割と良く知った仲。
相当忙しそうだったので、ごく簡単に挨拶してお店を出ました。帰宅してから「あぶらげ」を頂いたのですが、やはり、美味しい。
佐藤豆腐店はオンラインショップも運営しています。でも、それでもやはりここでしか味わえないものが確実に存在します。人間関係も同様。いろいろ失敗しながらも、実際に会ってみないとわからないことばかり。
それにしても今日は、何だか1週間分くらい働いた疲れ方。もちろん、かなり心地良い疲れ方なのですが、疲れたことには違いない。
■6月16日(金) 柏崎地域で最も重要な年中行事「えんま市」を夜に訪れました。たぶん初めてです
広島・島根ツアーの話題はまだ続きます。オチはたぶん、皆さんの想定外。
でも、同じようなネタだとちょっと飽きてしまうので、少なくとも今回は今日起きたことを。週末なので、2週間ぶりに自宅へ戻ったのです。明日、私事があるというのが主たる理由。
う〜ん、でももしかすると、それは口実かも。柏崎市地域では6月14日夕方から16日にかけて、地域で最も重要なイベント「えんま市」が開かれるのです。仕事に区切りをつけて、久しぶりにハンドルを握ります。
西村センセイ、雨の降らない日は自転車で通勤しているのです。高速道路を使い、暗くなってから自宅到着。天気は不安定で時々細い雨が降ります。でもセンセイは傘を持たずに市街地へ。
車は使用不可。実際、中心部周辺は車の流れをコントロールしているにもかかわらず、市内方向へ向かう車は動いていません。
娘が乗っていた自転車──整備済──を使うという方法もあったのです。その方が早い。でも中心部までたいした距離じゃないし、ハレの場に近づくプロセスも味わいたかったので、徒歩で出発。
写真は閻魔堂近くで撮影したもの。よく考えてみるとそもそも、センセイは夜の「えんま市」をちゃんと見たことがないんじゃないだろうか。
子供の時から高校生までは10kmくらい離れた実家に済んでいたので、夕方に見ることはあっても夜は、ない。市内に住むようになっても、同級会など特別な用がない限り、夜に外出はしません。だから夜の「えんま市」に参加するのは初めてじゃないだろうか。
最初に気づいた変化は、照明。屋台は昼でも照明を使います。もちろん以前は白熱電球。夕方になるとそれが哀調を覚える暖色に変わるのですが、ご覧のように今日は真っ白。
いつの間にか、省エネルギーのLEDが主力。閻魔堂は写真の中央奥にあるのですが、ご覧のように参拝者が長い列を作っています。もちろん主たるお客さんは親子連れや若者。
しかし客層は幅広い。老夫婦はもちろん、老女2人連れなどもかなり見かけます。新潟中越沖地震で大きな被害を受けたこの地区の再開発に伴う周辺工事(こちらやこちら、そしてこちら)も終わり、落ち着きました。
田圃の耕起から田植えまでの、農民の労苦への労(ねぎら)いの意味を持つこの「えんま市」。全国を行脚(あんぎゃ)していると、様態や程度の差異こそあれ、この「えんま市」のようなハレの存在がそれぞれの地に必ず存在することを思い知らされます。
例えば今回の広島県北部から島根にかけては、神楽(かぐら)。昔は往来が困難な離れた場所に地域に住む人々であるにもかかわらず、ハレ関する情報が、同じようにDNAレベル(?)で書き込まれていることを思い知らされます。
人間が潜在的に持っている能力の一つの表出形態だと思うのですが......どうでしょう。
■6月15日(木) 一見しただけだと、傷痕は... ──可部線に乗車する時に忘れてはいけないこと──
可部駅で途中下車で西村センセイは次の目的地へ向けて移動開始。
でもこの地域に来たからには必ず触れておかなければならないことがあります。2014年8月20日未明に発生し、災害関連死3名を含む77名もの犠牲者を出した土砂災害です。
センセイはその前年に当時の可部線に乗車しています。その時、この地の地形にとても強い印象を受けました。太田川が山の間を流れているのですが、その山々と平地の関係──断面図をイメージしてみてください──が“U”字形をしているのです。
日本、特に木曽地方など険しい山を抜ける川が造る地形は“V”字形の「峡谷(きょうこく)」。“U”字形の谷は、山岳氷河の侵食によって地表が削り取られた「U字谷」として知られています。氷河は氷の塊ですが、実はゆっくりと滑り落ちており、その際に周囲を削るのです。
でもそれが存在するのは寒冷地に限られます。富山の立山に存在する氷河はその最南端。でもここは広島。氷河なんて存在しません。
不思議に思ってよく見ると山の中腹から、場合によっては頂上付近から土砂崩れを繰り返しています。
崩れ落ちた土砂が扇状地を形成して、全体としてU字谷のように見えるのです。土砂崩れが起きやすく危険な地形なだなぁと感じました。でもその時の記憶と、今回、現地を再訪した時とでは、記憶に差異ががあることも事実。
前回は山々が可部線や住宅地に迫ってるような印象を受けたのですが、実際にはそれなりに距離があります。写真は梅林(ばいりん)駅に停車中の列車から、北西方向の安佐南区八木3丁目を見たもの。大きな被害が発生した地区の一つです。
一見しただけではわかりにくいのですが、写真右上、あるいは中央上部から幾筋かの土砂流出跡を確認できます。写真中央部をよく見ると、大型クレーンのアームが見えます。現在も復旧作業が継続しているのです。被災現場に家屋、特に集合住宅が建てられていることも確認しました。
あたかも、まるで何事もなかったかのよう。そしてそれは、人々の生命力を意味しています。それらは喜ばしいことなのですが、センセイには少し気がかりなことが。実はこの地形、広島付近にはいくらでも見られるものなのです。今回乗車した芸備線車中からも複数確認しています。
そしてこの場所と同様、頂上付近からの土砂崩れ跡も。帰ってから調べてみると、この地域は花崗岩が風化して形成される「真砂土(まさど/まさつち/マサ土)」が主体。斜面の傾斜角度など状況にもよりますが、やはり土砂崩れは発生しやすい。
当日の危険が迫っていた状況を含めて、情報を住民に適切に周知しなかった国や自治体の責任は免れないでしょう。しかし一方で、大変申し訳ないのですが、住民の方々も自分が住む場所の弱点を含めた特性に、もっと関心を持つべきだったのではないかと思います。
今回の場合なら、高校で学ぶ地学──英語なら“earth science”──のレベルで十分。偉そうなことを言っていますが、センセイが正式に学校で学んだのは高校の地学が最後。残念ながら近年、地学はその存続を含めて風前の灯火(ともしび)状態。
この点については国レベルの行政責任を認めざるを得ないと考えます。センセイは災害発生の約1週間後──以前「約1ヶ月後」と述べたのは記憶違い──に、広島市および東広島市を訪れています。でもその時は災害発生後の混乱した状態。
現地は気がかりでしたが、その状況下で訪れても何もできなかったはず。今回、復興の様子を見ていただいてそれなりに安心し、かつ、得られた教訓についていろいろ考える機会に恵まれたセンセイなのでした。
■6月14日(水) 路線廃止の一方で、部分的ながら復活した鉄路も ──延伸された可部線に乗車しました──
今日はタイトル通りの話題。
お察しの通り、先週末の広島・島根ツアーは仕事と鉄分補給が目的。決してバス派に転向したわけではありません。
実際、慣れないバスはかなり疲れました。JR線乗車目的の一つは、三江線再乗車すること。そして以前お伝えしたように、部分的ながら復活延伸された可部線乗車。
センセイは4年前に今回同様、広島大学での学会に出席するため当地を訪れた際、当時の終点である可部まで乗車しています。
それがこの春のダイヤ改正で、僅か2駅ながら延伸されたのですこれはもう、乗るしかない。早めに広島へ移動した西村センセイ、乗り換えと手荷物をコインロッカーに預ける関係で広島駅西側の横川駅へ移動。
可部線のホームに入線してきたのは、この地域の主力車両だった黄色の115系を、山陽本線との共通運用で置き換えつつある227系。
車両前面上部に「あき(安芸)亀山」と表示されています。言うまでもなく可部線の終点。4両編成の列車は太田川の右岸を快調に進み、左から山が迫ってくると鉄橋で左岸に渡ります。
程なく、以前の終着駅可部駅到着。一つ気づいたことがあって、三江線では以前乗車した時の記憶がかなり正確だと確認することができたのですが、可部線はちょっと違います。
この点については日を改めて。ここからが新線。しかし駅の近くは近くの国道の跨線橋との関係もあって、古い路線をそのまま使っています。
すぐに「河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅」到着。周囲は新興住宅街です。横川から各駅ごとに乗客が下車。特に可部駅で残っていたお客の大半が下車したので、センセイが乗車した車両に残っているのは、センセイともう一人。
この状態で終点「あき亀山駅」到着。無人駅でした。春のダイヤ改正後、センセイのJR西日本線完全乗車の記録は未達成状態に戻っていたのですが、これでタイトル奪還(?)です。でも、センセイの本当の目的は別な所に。
その証拠(?)に、折り返し列車に乗り込んだセンセイは何故か、途中の可部駅で下車。果たしてセンセイはどこへ向かうのか......。
■6月13日(火) 江の川とともに生きる ──西村センセイ、頭上のプレートに我が目を疑う──
最近出張していなかったためか、今回の広島ツアーは思い出深いものとなりました。
話題はまだまだ続くのですが、長いネタが続いてしまっているので、今日は短めに、しかしとても驚いたことを。
お伝えしたようにセンセイは昨日の9時半前に、三江線を乗り終えて三次に到着しました。次の列車の発車時刻は10時30分。時間があるので駅(写真右奥)周辺を歩いてみます。
駅前は道路工事中。そこを避けて歩いていると、あれっ?!ちょっと古い4階建ての、その3階にのみお客が入っているビルを通り過ぎようとして、頭上のプレートに目が止まりました。
書かれている内容を読んだ時、センセイは我が目が信じられませんでした。帰ってから調べてみると、確かにこの地域は昭和47年に大規模な水害に襲われていました。
でも被害がここまでだったとは......。
現在の行政区分での三次は、山陽の広島県所属。しかし実は、江の川の上流に位置するので、地形的には山陰地方。
山陽山陰の分水嶺は、三次の南側にあります。いずれにせよ三次はかなり高い場所に位置するので、正直なところ洪水とは無縁という印象を持っていました。
ただし良く考えると、芸備線および三江線のすぐ脇を、穏やかな江の川が流れています。つまり、三次は盆地の底のような場所にあるのです。江の川は中流での力強く、時として制御不能な川という印象が強いし、実際、流域の人々はその江の川と生きてきました。でも実は、上流域も同様だったんですね。
知らなかった......。それでも人々は、この地でしっかりと生きています。
■6月12日(月) 今年度末で廃止される三江線に、お別れを告げてきました
今日はタイトル通り、そして見たままのお話。
昨夕センセイが乗車したバスの目的地は、島根県浜田市。正直なところ、予想外だったのではないでしょうか。タイトルにある通り、今回は三江(さんこう)線乗車が目的だったのです。
実は三江線、今年度末での廃止が決定しています。センセイは5年前、江の川に沿って走る三江線に、三次(みよし)から江津(ごうつ)へ乗車しています。
「陸閘門(りくこうもん)」に代表されるように、江(ごう)の川とともに生きる人々の姿や石見(いわみ)川本駅前の様子などに、強い印象を覚えています。また前任校のゼミ生のお母様(故人)が、この沿線のご出身。
だからまたいつか乗ってみたいと思っていたのです。しかし三江線、とにかく乗るのが難しい。運行本数が極端に少ないのです。いろいろ検討した結果、今回は前回とは逆に、江津から始発列車に乗車することにしました。
センセイは昨日18時過ぎまで広島駅前で仕事をしていました。鉄道でその日のうちに江津へ移動することは不可能。そこでまずバスで浜田まで移動し、そこからは山陰本線に乗車することにしたのです。バスは浜田駅前に定刻の21時45分ころ到着。本当は実家や伯母用にお土産を買いたかったのですが、その種のお店はすべて閉店。
まぁ、予想通りだったのですが。予想外だったのは駅員もいないこと。窓口はすべて閉じられています。もちろん列車の運転手はいるのですが。山陰地方のJR路線では、徹底した人員合理化が進められているようです。
接続は良く、最終の1本前の列車で江津へ。乗客はごく僅か。予定通り江津に到着し、運転手に乗車券を提示して下車します。江津駅もこの時間帯は無人なのです。ホテルは駅前にあるのですが、センセイはわざと反対方向へ。
ホテルから離れた場所に1軒だけコンビニがあるのです。そこで食料とビールを調達し、駅前のホテルへ。サイトを更新し、届いていた仕事のメールへの対応を終えたのは1時過ぎ。だいじょうぶかなぁと思ったのですが、5時15分ころ目覚めました。身支度を整えて、江津駅へ。
駅員はいませんがホームにはすでに、陰本線の2両編成ディーゼルカーが停車中。前回の乗客の中で鉄道ファンはセンセイともう一人の青年──彼は石見川本駅で下車──だけだったのですが、さすがに今日は10名くらいの同業者が。
JR東日本のチケットを持っている人や、俄(にわか)鉄道ファンと思われる夫婦連れも。程なく新潟トランシス製のキハ120型ディーゼルカーが入線してきました。写真、特に背景が赤みを帯びているのは、早朝に撮影しているためです。
1両だと思っていたら、何と2両編成。2両目は岩見神楽ラッピング車両でした。接続列車からの乗り換えを含む十数名の乗客を乗せて、列車は定刻の5時53分に江津を出発。
5年ぶりの乗車ですが意外にも、加齢が進むセンセイの脳みそにしては、要所要所の記憶はあの時のまま。前回は激しい降雨の中の運行だったのですが、陸閘門(写真)や途中の「新線」区間でのスピードなど、押さえるべきポイントは記憶にある通り。
何だ、やればできるじゃん。今回乗車した始発列車は、各駅に長時間停車することがありません。だから効率は良い。その代わり、気になっていたや石見川本駅前の様子などはわかりませんでした。
もちろん駅そのものはちゃんと確認したのですが。乗車時間約3時間半をかけて終点の三次到着。バス案内所でお土産に荏胡麻(えごま)のふりかけを購入。荏胡麻は三江線沿線の特産物。
テレビなどでも紹介されて、一時は品薄になったそうです。三次で1時間10分ほど待って芸備線の快速に乗り換え、広島到着。乗り換え時間を無視すると、JR線での江津−広島間の所要時間は約5時間。
走行距離も移動場所も異なりますが、昨晩のバスによる広島ー浜田間の移動は約2時間25分。個人的には昨日のバスはとても疲れたけれど客観的には、さすがにこれでは勝負が難しい......。
そしてもう一つ。幸いなことに、5年前のことを比較的良く記憶していたと判断しています。で、その判断──と、前提となる記憶──が正しければ、沿線の無人の家や廃屋が格段に増えています。
特に人口の少ない地域では、それが顕著。仕方ない部分もあるのですが、国の政策が、明確に地方を切り捨てる方向にあるということを再確認させられます。
■6月11日(日) 鉄道ファンだったはずの西村センセイ、何と、バス旅行派に転向か!?
というわけでセンセイは、昨晩遅くに提示資料を完成させ、今日の発表を乗り切りました。やれば、できるじゃん。
現在は全ての予定を終えて、広島駅前から次の目的地に移動したところ。明日はオープンキャンパスの代休を頂戴しているのです。
でも、センセイが乗車したのは列車ではなく、写真のバス。(実話)西日本ジェイアールバス(JR西日本系)の高速バスに乗車したのです。繰り返しますが、鉄道ファンのセンセイが、ですよ。
実は今回のツアーの隠されたテーマは何と、「バス旅行」。はい、バスに乗りました。学会期間中はホテルと広島大学の間をバスで往復したのですが、もちろんこれはカウント外。
広島入りの際も、早めの列車で移動して、長い距離を走る路線バス3本に乗車。得るもの、そして考えされられることが多く、「路線バスの旅もなかなかのものだなぁ」と思ったのですが、世の中そんなに甘くない。
広島に戻る途中で自動車と自転車の人身事故に遭遇し、バスはまったく動かなくなってしまいました。その脇を、広島の地域色である黄色に塗られたJR西日本の115系が、何事もなかったかのように走り抜けます。結果的に、1時間以上遅れてホテルに到着。
気力と体力を相当消耗してしまいました。果たしてセンセイはバス旅行派に転向したのか。そして高速バスに乗車した目的は?!
......でも最近の学生諸君は「転向」なんて言葉、耳にしたことがないと思う。(続く)