2023年8月19日更新(2023年8月27日ページ移動)

──2023年8月第3週のニュース──

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8月19日(土) 明日が、最終日 ──4月末に閉店した鞄店の店頭に、時々掲出されるお知らせ──

 ...暑い。お盆を過ぎたというのに。

 当地は7月21日の梅雨明け以来、雨がほとんど降っていません。最初の数日は曇りがちだったのですが、その後は「梅雨明け10日」どころか、ほぼ1ヶ月間、晴れて暑い日が続いています。しかもこの状況が少なくとも今月中は続きそう。
 農業への影響は深刻です。

 お米の場合、お盆前に収穫が開始され、最近店頭にも出回り始めた極早稲品種は、大事な出穂(しゅっすい)時期にまだ水が残っていたため、ぎりぎりセーフ。ただし中手(なかて)品種は痛手を被(こうむ)っており、場所によっては壊滅状態。
 続く新潟県の代表品種、晩生
(おくて)のコシヒカリが心配されます。

 またこの時季ならではの「黒崎茶豆」など枝豆やピーマン、トウモロコシ、オクラ、ネギといった、ほぼあらゆる野菜類そして果実にも大きな影響が。もちろん水害に遭われた方々は、別な意味で本当に大変な状況なのですが...。
 前振りが長くなったので、本題へ。

 暑さの影響はセンセイにも。身体面──例外はあるものの、センセイは暑さにかなり強い──というより、行動パターン面です。お伝えしたように退職してから、自然と午前と午後の2回、徒歩で外出するようになりました。
 これには長所と短所が。

 身体を動かすことは評価すべきなのですが、目的が本来のものから逸脱して、一人歩きしがち。そこで今月から自転車での移動を中心にしようと考えたところに襲いかかったのがこの高温状態。
 家人と母親のホンネは「外へ出ないで」。

 もちろん騙しだまし、外出。されどお昼前後の1回だけになってしまったし、陽射しが強いため、どうしても移動ルートが限定されがち。
 現在は二つか三つのルートおよびその亜型だけに。

 その一つが駅裏から地下道を通って駅北に抜け、本町へ入るというルート。当地は雪国なので、昔ほどではないものの、商店街のアーケードが残っています。
 つまり日陰を使いながら歩くことができるのです...あれっ?!

 4月末で閉店した鞄店の入口脇、左側の柱に掲示が。実は先日下旬から時々見かけていたのです。でも陽射しの関係で、道路の北側にあるお店まで接近することはしませんでした。
 これではいけないと思い、道路を渡って近づいてみると...おぉ。

 閉店した「マツウラカバン店」は、最近では当地唯一の存在。27年前に新潟市から転入して以降、センセイの鞄はほぼすべてここで購入したはず。
 娘のランドセルも、たぶんこのお店だったと思います。

 ご存じのように顧客が郊外に流出したため近年、駅前商店街あるいは旧市街地商店街の大半は寂れてしまっています。もちろん当地も例外ではありません。当地はかなり無理をして旧市街地商店街を再開発したのですが、結果的には失敗。
 再開発にある程度加わったこのお店も、経営面では相当厳しかったと思う。

 その結果はともかく、お店に関係する方々がきちんと商売をしていらっしゃったこともまた、事実。

 実際、そうでなければ、継続して商品を購入するようなことはしません。このお知らせには、お店の誠意が滲み出ています。もちろんランドセルの手入れで収入を得ようなどとは、まったく意図していないはず。
 頂戴したとしても、実費程度。

 でも、我が身を振り返ると、実は西村センセイ、いまだに一部金沢工大生の面倒を看ています。もう大学から離れたので、彼/彼女から送られてくる原稿に、遠い地から加筆修正し、メールで助言するだけ。
 自慢しているわけではありません。

 この告知を読んでいて、ふと、感じるものがあったのです。ちなみに、縮小しているため写真ではわかりませんが、現物には鉛筆による下書きが...。

 センセイには、無理です。(キッパリ)



8月18日(金) 「言うは易く行なうは難し」 ──北国街道「金澤町屋」の魅力発信と継承──

 旧暦お盆独特の、狂乱の田舎の人の動きもほぼ元通りに。

 気温はまだ高い状態が続き体力も回復していないのですが、いつまでも放っておくわけには行かないので、金沢市泉の旧「北国街道」のお話を。というわけで、1枚目の写真。実に立派なお宅です。
 写真右隣には「國造神社」鳥居。神社本殿は写真の左奥にあります。

 写真は縮小しているのでわかりませんが、玄関引き戸の上には「金澤町屋 金澤町屋再生活用事業認定 金沢市」と、凝ったフォントで記された金属プレート(右上枠内)が。軽トラック付近には、「管理物件」と書かれた大きな掲示。
 このお宅は現在、直接には利用されていないようです。

 「Google マップ」でこの場所を選択して過去のストリートビューを遡ると、掲示板の場所には「寶味噌株式会社」という看板が下げられていることがわかります。
 さらに小路を挟んだ左手前(現在は更地)には、2012年頃まで「北陸味噌販売株式会社」が存在。

 先日ご紹介した『旧北国街道商売屋地図』と重ねてみると、写真の建物には「北中 商店」。そして解体撤去された建物には「北中 宝味噌工場」と記されています。
 味噌工場本体は、解体前に残された建物より、ずっとずっと大きなものだったようです。

 調べたところ、写真の建物は「北中家住宅主屋(しゅおく)」。外側だけでなく、内部も非常に立派な造りらしい。そして、これだけの財産なのに、その魅力があまり知られていないように思われます。
 おそらくは個人所有でしょうが同時に、広くは地域、市民、県民、そして国民の財産。

 当地区の旧北国街道の街並みは、すぐ近く──「森紙店」から約150m、「泉1丁目交差点」から約600m──にある西茶屋街に劣らない魅力を有しています。
 西茶屋街は観光地として良く知られます。

 しかし街並みの渋い魅力は当地、泉地区の方が格段に上。

 お気づきと思いますが、この「北中家住宅主屋」を含めた当地域の魅力をどう発信し、対象物を活用、保存していくかが難しいのでしょう。
 「泉1丁目交差点」で現在の国道157号線とひとまず分岐し、「有松」交差点付近で再び合流するまで約1km区間。

 これまでお伝えしてきたように、良く見ると地域内でも特徴が違うなどの実に魅力を有しているのですが、西茶屋街のような、観光客へのコンパクトな訴え方は難しい。
 それに何より、地域住民の生活があります。

 それ故、地域にお住まいの方々、そして当地域に関心をお持ちの方々、さらには金沢市や県なども、問題意識を持ちながらも、なかなか最適解を得られなかったのではないでしょうか。
 詳細を確認したわけではありませんが「森紙店」ですら、今後の活用方法を探っている段階のようです。

 他方、時間はどんどん経過し、建物によっては解体せざるを得なくなる。う〜ん...と考えながら南進すると、左手(東側)に出現するのが写真のお宅。
 金澤町屋に分類されるのでしょうが、おそらく一般住宅。

 右側に今風の便利な居住部分を増築する──たぶん──などして、古い建物をできるだけ活用しながら保存するように努めていらっしゃるようです。実はこれ、ヨーロッパでは割と良く見る活用方法。(オランダの例
 ヨーロッパの家は石造りなので、建物そのものは100年以上使用し、内部は居住者の好みに応じて徹底的に造り替えるというパターン。

 日本は木造なので、それを完全に真似ることは不可能。しかし現在の効率的な生活は尊重しつつ、過去の遺産もできるだけ残そうという発想と態度は高く評価すべきだと思います。

 さて国道157号線に合流した旧北国街道は、金沢市─野々市市境界付近で再び国道から離れて、北陸鉄道旧「松金(しょうきん)」(1904年〜1955年)沿いに進み、野々市市本町(ほんまち)通へ。

 次の宿場は、野々市です。 



8月17日(木) 今度、試食してみようかな... ──父親のために「かんずり」を購入しました──

 もう1日だけ須坂市訪問時のお話を。ただし舞台は今日も新潟県内です。

 お伝えしたように、初日(7月20日)の往路は自動車で長野県入り。多くの方は全区間高速道路(北陸自動車道および上信越自動車道)を利用するのでしょうが、センセイは高速道路の走行を好みません。
 それに今は年金生活者だし。

 他方、約束の時間もあるので、新潟─長野県境付近の妙高高原I.C.から自動車店最寄りの小布施(おぶせ)スマートI.C.までの区間は、上信越自動車道を利用することに。自分で運転してここを走るのは約24年ぶり。
 その時は、お客さんを乗せていました。

 問題は、妙高高原I.C.までの経路。常識的な選択は幹線国道の8号線と18号線乗り継ぎ。でも、これだと上越市(旧直江津市)付近で通勤ラッシュとぶつかります。そこで上越市柿崎区で左折。
 ショートカットとなる県道30号線に入り、上越市南隣の妙高市を目指しました。

 このルートの存在は子供の頃から知っていましたし、途中まで利用したこともあるのです。でも全区間を通して走行するのは初めて。現在の上越市には旧頸城地域の多くの町村が吸収合併されており、柿崎区(旧柿崎町)のように、現在は「区」として残っています。
 馴染みのある旧町村名の区をいくつも通り抜けます。

 安全運転を続け、もう少しで妙高市(旧新井市)中心部というところで突然、右側(=西側)に、見たことのある文字が書かれた大きな看板が。
 そこに記されていたのは「香辛 かんずり」。

 もちろん、多くの方はご存じないはず。「かんずり(農林水産省「うちの郷土料理」)は新潟県妙高市の特産品。要するに唐辛子の発酵食品です。
 武将上杉謙信が当地にもたらしたとか。

 元々は郷土食品だったのですが、現在では「(有)かんずり」の商品として知られています。そしてこの「かんずり」は、父親の好物。
 子供の頃から「うんめから(=おいしいから)」と何度も勧められましたが、センセイにとっては辛いだけ。

 しかも実家では父親以外は口にしません。実家近くのスーパーで取り扱っているので、手持ちがなくなるたびにお店で探して購入するという具合。
 「ここだったんだぁ...」。

 初日は飯山線経由で自宅に戻り、翌21日(金)は昨日お伝えしたように旧信越本線経由で長野へ。帰路は高速道路を利用せず、旧国道18号線と県道30号線を走りました。当然、「(有)かんずり」前を通ります。
 せっかくなので、父親のために「かんずり」を購入。

 どこかへ行くたびに実家および伯母、従姉妹用にお土産を購入するのですが、父親専用は初めて(母親専用もない)。広い駐車場には写真の営業車のみ。玄関前には、黄色い唐辛子のオブジェが二つ。
 それが何故か布製。(実話)

 その間を通ってお店に入ります。予想以上にたくさんの種類の商品が並んでいたのですが、何が何だかわからないし、そもそもセンセイが食べるものではないので、お店のお嬢さんに教えていただき、代表的な「かんずり」の大瓶を購入しました。
 その週末、両親の食料買い出しのために実家へ。

 父親に「新井(現妙高市)のお店で『かんずり』を買ってきたよ」と差し出すと、何故か反応はイマイチ。そして「冷蔵庫に入れておいてくれ」とのこと。何故だろうと訝(いぶか)ったら、手元には「かんずり」の小瓶が。
 「もったいないので、それを少しずつ食べている」とのこと。

 実際、「かんずり」はかなり割高な商品なので、その発想はわからないではない。でも正直なところ血の繋がった我が親ながら、彼の思考にはよくわからない部分が残ります。ま、いいんですけど。
 ただしその後、認識を少し改めたことが。

 まず店舗前の唐辛子モニュメント2体ですが、これは唐辛子の生長に応じて衣を替えているそうです。本日現在のお店の“Facebook”によると、8月5日に「モニュメントも最終形態に変身」とのことで、写真の黄色から真っ赤に「変身」しています。
 そしてもう一つ。

 「かんずり」、実はあまり辛くないらしい。

 決して「お土産を返せ」というわけではないのですが、実家にある「かんずり」を試食する日が近いかも。



8月16日(水) 金沢は、やはり遠いので... ──トキ鉄二本木駅での、スイッチバック運転──

 今日も予定を変更してお伝えします。悪しからず。

 「金澤町屋」シリーズ最終回(予定)を考えていたのですが、まだ体力と体力が十分回復していません。やはり金沢は遠い。というわけで先月、長野県須坂市を訪れた際のお話を。ちなみに距離的には金沢の半分以下です。
 センセイは7月20日(木)午前中に、一部高速道路を利用して須坂市の専門店を訪れました。

 車をお預けして、その日は長野電鉄、しなの鉄道、飯山線、上越線および信越本線を乗り継いで帰宅。お伝えしたように点検の結果は無罪放免。そのため車を受け取るべく、翌21日(金)に移動したのですが、往路は前日とは別なルートを選択。
 「鉄道ファンは実に贅沢なヤツだ」と思われるかもしれません。

 でも、これには理由が。

 「えちごツーデーパス」という企画乗車券を使用すると、新潟県内の各社鉄道路線が連続2日間、ほぼ乗り放題になるのです。前日の飯山線、そしてこの日乗車した旧信越本線(現トキ鉄「妙高はねうまライン」およびしなの鉄道)は歴史が長く、見どころが実に多い。
 写真はその一つ、二本木駅での一場面。

 ご存じの方もいらっしゃると思いますが二本木駅は現在、県内唯一のスイッチバック設備を有する駅。(かつては南隣の関山駅他にもスイッチバックが存在した)
 二本木駅の場合、勾配が急であることと、引き込み線の先に日本曹達二本木工場があるためです。

 直江津駅での乗り継ぎ時間の関係で、センセイは最初、6両編成という田舎では長大なET127系(元JR東127系)電車の後部に乗っていたのですが、高田駅で最前部へ移動。
 列車前方とともに、脇を走る旧国道18号線の様子を確かめます。そう、昔はこの道だったよね。

 列車は二本木駅の脇──というより「下」──を通過して引上線に進入。かつては特急電車も走っていたので、相当な長さを持つ引上線です。
 西村センセイ、実は二本木駅でのスイッチバックを車両最前部で見るのは初めて。

 山岳部にある鉄道では、運転士が車両後部に移動します(つまり前後を入れ替える)。でも二本木駅では運転士は席を離れず、立ち上がって前後の信号を確認した上で、片手だけで列車をバックさせ始めました。
 右下の枠内は、その時の運転席内の様子。

 運転士は「片手ワンハンドルマスコン」(「主管制御器」。「マスコン」は「マスターコントローラー」の略)だけを操作。ワンハンドル型は、自動車のアクセルとブレーキを兼ねたようなもの。とても安定した運転でした。
 北陸新幹線開業(金沢延伸)の関係で、旧信越本線のこの区間に乗車したのはたぶん、8年ぶり。

 新幹線は長大トンネルで一気に駆け抜けますが、在来線での新潟─長野県境付近は実に風光明媚。お勧めは特に、冬期。何回訪れても厭きません。

 でもセンセイの場合、果たして「次」はあるんだろうか...。



8月15日(火) お帰りは自分の足(?)でね... ──方丈さんに読経していただき、お盆を終えました──

 今日は予定を変更して、お盆最終日の様子を。

 颱風7号の接近、通過に伴い、日本海側ではフェーン現象が発生。当地は昨日、最高気温38.8℃と、これまでの観測記録を更新しました。さすがにそこまでではないものの、今日もあっさりと猛暑日に。(最高気温37.3℃)
 その暑さの中、午前中のうちに自分の用を済ませます。

 ラジオのニュースを聞きながら、正午に実家へ。午後、菩提寺の方丈(ほうじょう)さん──曹洞宗では僧侶のことを、敬意を込めてこう呼ぶ──が実家にお越しになるのです。
 ふだん実家で暮らすのは高齢の両親のみ。

 お察しの通り、お迎えの準備どころか、毎日の清掃すらままなりません。というわけで、実家到着後は食料の買い出しに続いて、仏壇前その他を清掃。
 実家にはエアコンないので扇風機や冷風機を整備、清掃します。

 事前に届いていた連絡によると、方丈さんがお越しになるのは午後2時半〜3時半を予定しているとのこと。それまで両親は休息。センセイは汗だらけになって作業...あれっ?!
 玄関の方で男の人の声が。

 慌てて駆けつけると、おぉ、方丈さんです。まだ2時前ですが...ま、いっかぁ。両親も身支度を整え、読経していただく準備を整えます。仏壇の左右と上を飾る竹は、一昨日用意したもの。
 デカい西瓜は、母親が育てました。

 読経を終えると御布施をお納めします。方丈さんは麦茶を一杯飲まれた後、次の檀家へ。檀家が多いため現在は副住職(息子さん)と分担して回られるそうです。お宅を覚えるのに、数年かかるとか。
 お盆の行事は、これで一区切り。

 「お精霊(しょうれい)さん」は次期ご当主(予定)のセンセイがお迎えに行きましたが、帰りについては何も用意されていません。昔からこうなのです。五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願う各地の春祭りは豪華ですが、収穫を祝う秋祭りは相対的に簡素。
 それに似ているのかも。

 今回のお盆は、新潟に戻ったセンセイにとっては初めてのお盆。もちろん断片的には承知しているのですが、例えば今日の読経については「方丈さんが回っているのだろうなぁ...」くらいにしか考えていませんでした。
 立場上、今後粗相
(そそう)がないように、この種の行事をちゃんと覚えなければなりません。

 今回は米寿の祝いと重なったので、この1週間くらいは出ずっぱり。余裕のある計画を立て、十分注意して行動したつもりですが、それでも運転中にヒヤッとさせられる場面も。おそらく自分で考えている以上に、体力と気力が低下しているのでしょう。
 やはりこの春の退職は正解でした。

 明日からは気持ちを切り替えて、平常運転に戻ります。「宿題」も溜まっているので。

 それにしても、この酷暑はいつまで続くのだろう...。



8月14日(月) やはり、相当厳しい環境なんだろう ──自動車の直前を野生の猪が横切りました──

 今日は、予定を変更してお伝えします。

 お伝えしたように一昨日のイベントを終えると、センセイは実家に戻りました。次期ご当主様(予定)として昨日、お盆本番を迎えるためです。昨日は早朝に起床。朝食を済ませると、足腰の弱った母親を乗せて車を走らせます。
 目的地は実家の山林

 お盆の仏壇を飾る3本の細い竹を確保しようというのです。センセイが用意すれば自動車を使う必要はないのですが、母親が張り切って自分で刈り取ると主張するので、彼女の意向を尊重。
 母親を途中で降ろし、センセイは奥で車をUターンさせます。

 後部座席の一部を倒して、トランク側から約2mの竹を搭載し、母親を乗せて車を出発させます。少し走った時、左前方の草むらで不自然な動きが。あ"っと思った直後、黒っぽい物体が車の直前を横断。
 写真はドライブレコーダーの映像を切り出したもの。(原寸)

 野生の猪です。母親から農作物や竹林をを荒らす動物について聞かされていたのですが、この目で猪を見るのは初めて。猪は臆病な動物。
 肉眼で視た時も、動画を見返した時も必死で走っていることがわかります。

 文字通り、猪突(ちょとつ)猛進(ホントに)。彼/彼女の辞書に、草むらに隠れて自動車をやり過ごすという言葉は載っていなかったらしい。視認時、もう一つ気づいたことが。
 ひどく痩せています。

 ご存じのように豚は猪を家畜化したもの。50年以上前、実家の近くのお宅が豚を10匹くらい飼育しており、豚を間近で見ることができました。
 その肌は、色も感じも人間に似て繊細。実際、化粧品の安全試験などに使用されると聞いたことがあります。

 ご覧のように、野生の猪は全面毛むくじゃら。そして豚がかなり太っていた──それが目的なので──のとは対照的に、酷く痩せています。
 もちろん豚の記憶も無意識のうちに加工されているのでしょうが、それにしても、この猪は痩せている。

 いくら人間の住む領域に近く──実家から約150m──食料を得やすいといっても、猪一族が生存していくためにはやはり、相当厳しい環境なのでしょう。

 もう一つだけ付け加えるとすれば、かつて当地では猪その他の動物が出没するなんて、滅多になかったのです(父親らが狸を捕まえたことはある)。実家の山林まで約1kmの道の両側を、たぶん30軒くらいの方が田圃あるいは畑として耕作。
 そんな山里に、動物は出現できなかったのです。

 でも丁寧に耕作していらっしゃった方のほとんどは鬼籍に入り、現在は、知り合いが実家の田圃跡を借りて鯉の養殖をしているだけ。他の元田圃や畑はすべて、杉林や雑木林に還っています。

 う〜ん、でも考えようによっては「本来の姿に戻った」ということなのかも。



8月13日(日) 田舎で「お盆」という言葉が持つ絶対的な力 ──両親の長寿を祝う会を開きました──

 今日は金沢を離れて、タイトル通りのお話。

 田舎の人間にとって、「(旧暦の)お盆」と「正月」は絶対的な存在。この言葉が付いたら、よほどのことがない限り、指示に従うしかありません。そこでお盆で関係者が戻ってくる機会を捉えて、両親の長寿を祝う会を開きました。
 「作戦」を練り始めたのは1年弱前。

 センセイらの母親は今年1月、87歳(数え年で88歳)に。どこかのタイミングで米寿のお祝いを...と考えたのですが、現役世代は仕事や家庭を持っています。
 いつ集まるか、それが問題。

 それに93歳(数え94歳)になる父親のことも考える必要があります。6年前に彼の米寿を祝っているのですが、プライドを考えると母親だけ...というわけにはいかない。
 そこで「長寿のお祝い」という名の良くわからない、しかし誰も反論できない会を開くことに。

 正月あるいは年度末も検討したのですが、やはりお盆に。本来は今日がお盆ですが、曜日まわりの関係で昨12日のお昼にお祝いすることにしました。
 記念写真を確認していて気づいたのですが。父親の時も同日だったんですね。

 2週間くらい前から準備が本格化し、料理や内祝いなどを手配。本番が近づいてくると、センセイはあっちへ行ったりこっちを確認したり。
 というわけで、いよいよ本番当日。

 子供や孫(およびそれぞれの連れ合い)、そして曾孫(ひまご)1名、計14名が集合。本当はもっと多いのですが、仕事があったり出産直後だったり。まぁ、こんなものでしょう。例によって、まずは記念写真撮影。
 そして届いたご馳走をいただきました。

 繰り返しになりますが、お盆そのものは今日が本番。それぞれの関係先があるので参加者は三々五々帰宅し、家族を送り届けた後、責任を取る(?)べくセンセイのみ実家へ戻って1泊しました。
 今朝は早起きして仏壇をお盆用に整備した後、約200km運転。(結構キツかった)

 再度実家に戻り、午後、先日清掃したお墓から「お精霊(しょうれい)さん」をお迎えします。う〜ん、10代目ご当主様(予定)は辛いぜ。

 白状するとアクシデントも複数発生しましたが、そこはプッツンすることなく、オトナの対応を。参加者もそれぞれの立場で良く働いてくれました。最後の最後は高齢者2名に任せて、センセイはご帰宅。

 お察しの通り、センセイはほぼ燃え尽きてしまったので、今日はこれくらいで。

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