2023年11月11日更新(2023年11月18日ページ移動)
■11月11日(土) 西村センセイ、詰めの甘さ故に失敗する ──せっかく購入した砂利なのに...──
時系列的には昨日の続き。
「ダックスホンダ」に別れを告げて、砂利を購入すべく外回り資材コーナー(写真奥)へ。正確に言うと、レジ付近に置いてある台車を借りてからです。砂利の重さは約20kg。それが白い丈夫な袋に入っているのです。
そのお店にある砕石のサイズは4種類。割と大きな石から、コンクリートを作る際に使用する小さな石まで並んでいますが、明らかに粒径が違います。迷うことなく──後から考えると、これが痛恨のミスだった──「玉砂利」を2袋台車に。
価格は1袋約400円。レジに運ぶと担当の女性は、一目で「玉砂利ですねぇー」。さすがだ。お店は自宅のすぐ近く。でも、さすがに40kgの物体を徒歩で運ぶわけにはいきません。代金を支払い、重い袋を自動車のトランクに載せ替えます。
車を車庫に入れて、砂利をトランクから目の前の庭へ。袋の口を縛っている紐を解こうとした時、嫌な予感が。
袋は白色不透明で、中の様子が良く見えるわけではありません。でも、目の前の庭の砂利と、購入した玉砂利の粒径がかなり違うような...。
そういえば今まで、お店で一度も実際の玉砂利の様子を確認してない。トホホ。時既に遅し。覚悟を決めて開封すると、考えていたよりずっと小粒。でもお店に近いサイズのものはなかったので、腹を括って2袋とも撒きます。
散布当初の状態は、まるで砂利の中に砂が入り込んだかのよう。まるで異種です。スコップを取り出し、できるだけ玉砂利を分散させるとともに、これまでの砂利と混合するようにします。写真左側はこれまでの砂利(洗浄済)の様子。
写真奥の物体は、西側に植えられた松が、水分を求めて伸ばした太い根です。右側は玉砂利を散布後、ある程度かき混ぜたもの...何だか良くわかりませんねぇ。肉眼だとはっきりわかるし、大きなサイズだと写真でもそれなりに理解できるのです。
でも縮小すると何が何だかわからない。(縮小する場合、しばしば発生する)というわけで右側の写真はかなり寄って(接写)撮影。ピントが合っていることだけは確認したのですが、小型カメラで撮影したため、その場での映像の確認は困難(特に戸外)。たぶん大丈夫だろうと思ったのですが...。
センセイはやはり、詰めが甘い。(再び)トホホ。
今回のように粒径が大きく異なる場合、撹拌作業を続ければ小粒の石の大半は底部に回るはず。土砂が底部に溜まるのと同じ原理です。良かれと思って始めたのですが、今回は仕事を増やしてしまう結果に。
でも、ま、いっかー。昨日、両親の食料を調達すべく実家を訪れたのですが、母親を乗せて移動中に砂利洗浄の件を初めて伝えました。母親はとても素直に「ありがとうねぇ」。やはり自分の庭だと考えているんですねぇ。
続いて、「だって、(お伝えしたような事情で)どうしても造りたかったんだもの」。ちなみに、造園費用はセンセイが聞いていた額の倍(!!)。どうやら、彼女はこれまで本当の金額を内緒にしていたらしい。
ま、いいんですけど。
■11月10日(金) 私は、「コレ」で... ──市内の駐車場で、懐かしいオートバイに出くわしました──
正解は「...これで自動車とオートバイの運転を覚えました」。
「私は『コレ』(=禁煙パイポ)でタバコを止めました」、そして小指を立てながら「...会社を辞めました」を覚えている人が、どれだけいるのだろう。
事の起こりは拙宅庭の砂利洗浄。お伝えしたように、地震で底面の一部(1枚目の写真手前)がひび割れた結果、この部分に関しては雨が降っても比較的短時間で地下に雨水が染み込むように。
他方、奥は割れておらず、また地震で地面が少し低下したのか、水が滞留しやすい。土砂の堆積はほぼ水の流速だけで決定されるので、奥だけ土砂が沈殿しがち。底面のコンクリートを張り替えたり、大規模に工事をして全体に傾斜をつければ状況は改善されるのでしょうが、現実的ではありません。
そこで手前の砂利を一部、奥の方へ移動させることに。実際にやってみたのですが、なかなかうまく行きません。そこで砂利を新規に購入して、奥の方に散布しようと考えました。先日、近くのホームセンターで袋入りの玉砂利を見かけたのです。
お店を訪れると、あ"っ...。ブロック(右奥)などのコーナーの手前に、写真の古いオートバイが止められていました(ちなみにキーは差し込んだまま!!)。懐かしい。
これはホンダが販売していた「ダックスホンダ」という小型バイク。1969年に販売が開始され、大ヒットしたモデルです。何を隠そう、センセイが高校2年の時に通学用に買ってもらったバイク。しかも車体中央部側面には、誇らしげに“White Dax”のシール。
その名の通り白いダックス。つまりまさにセンセイのバイクそのもの...。ただしこのバイクの色はシルバー。綺麗に塗り直した可能性は残りますが、どうやらシールだけを貼り替えたようです。また、センセイが乗っていたのは50ccの原動機付自転車。
こちらは70cc。二人乗りです。当時の記憶が、一気に甦(よみがえ)ります。
改めて良く見ると、車体は相当年季が入っています。それをできるだけメンテナンスして乗り続けていらっしゃるようです。エンジンの吸気口は改造され、エンジンのヘッドやシートなど、あちこちび部品が交換されています。
帰宅後に調べたところ「ダックスホンダ」シリーズの国内販売は2003年頃まで。ただしこのバイクはロータリー式のMT仕様(センセイと同じ)。どうやら1980年頃までに販売を終了したモデルのようです。そうだとしても40年以上も前の話。そして実は、もっと前のマシンの可能性が。
もしかすると50年前後も前のマシンかも...。信じられない!!
現在と違い、当時はオートバイもほぼ完全にMT。MTで多用されるエンジンブレーキのかけ方は、この“White Dax”で覚えました。また、ギヤをできるだけ高速側に切り替え、エンジンの回転を抑えながら走行するという癖をつけたのもこのバイク。
センセイは、「コレ」でエンジン付マシンの運転を覚えたのです。いつまでも、元気でいてね。
センセイも頑張るから。
■11月9日(木) 「慣れてますから...」 ──これだけは、消防士も自衛隊員も敵わない(?)仕事──
朝イチに近所の皮膚科へ。
センセイはオツムだけでなく、皮膚も弱い。ピーク時にはたぶん8種類の薬を頂いていたはず。でも最近は徐々に状態が改善され、難病の「尋常性乾癬(かんせん)」──本質的には自己免疫疾患──も、ほぼ寛解(かんかい)状態。
退職してストレスが軽減されたことが関係しているのかもしれません。隣の薬局で4種類の薬を頂き、帰宅すべく外に出たところで...あ"っ。
何kVかはわからないものの、近くに高圧送電線が設置されているのです。正確には「架空送電線」。また業界内での読み方は伝統的に「がくう」とのこと。
15年くらい前、写真の鉄塔だけが、通常のタイプから鉄柱型に。その最上部で2名の作業員の方が、何かの作業をしていらっしゃいたのです。後で地図から概算したところ、高さは約30m。感覚的にはとんでもない高さ。
センセイには、絶対無理。手持ちのコンパクトデジカメでは詳しいことがわかりません。そこでひとまず自宅へ戻り、望遠レンズを装着した一眼ミラーレスを手にして、現場へ急ぎました。
途中、空き地を通り過ぎようとした時、無線通信の音が。振り向くと、空き地にカラーコーンが置かれ、見慣れぬ軽のワンボックスカーが。ここに車を止めて、送電線の工事に従事されているようです。
鉄塔が見えるようになった場所で、とにかく1枚撮影。「パシャッ!!」と大きな音を立てたカメラを降ろした時、左後ろに人の気配を感じました。振り向くと、おぉ、軽自動車の主。ここから別な現場へ向かう途中のようです。彼もこちらを意識しています。
そりゃそうでしょう、望遠カメラを手に同僚を撮影していたのですから。(お互い)想定外だったので、挨拶もそこそこに「もの凄い(高さ)ですねぇ。怖くないんですかぁ」。まったく洗練されていない質問だ。
トホホ。すると彼は、ニコニコしながら「慣れてますから」。以前、別な場所で、まるで階段を登るかのように鉄塔をスルスルと登っていく姿を目撃したことを思い出しました。
我々のイメージとは全然違います。これだけは消防士も自衛隊員も敵わないのでは。お仕事の邪魔をする気はないので、安全をお祈りしてお別れします。最初の現場に戻って撮影したのが写真。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
いや、もう、言葉もありません。作業の様子をしばらく拝見させていただいたのですが、付近の送電線に沿って仮設(?)のロープを這わせ、それに資材を繋いで等間隔で配置していらっしゃいました。最初は漠然と、架線の交換かなぁーと思ったのです。
鉄柱の上には滑車が、そして実は地上にもウィンチなどが配置されていたし。でも、後から調べたところ鉄柱の寿命は50〜60年程度。そして架線もほぼ同寿命なのだそうです。つまり、今回は架線の張り替えではないらしい。時々、架線のメンテナンス作業の現場に見かけることがあります。
でも素人に、その具体的な内容はわかりません。ご縁のあった作業員の方に、もうちょっと話をお聴きすべきでした。
反省。
■11月8日(水) 最近は、女性ファンも増加中 ──トキ鉄「国鉄型 観光急行」を間近で撮影しました──
筒石・妙高高原ツアーのオマケ。
筒石駅から次の目的地、妙高高原駅への乗換駅の直江津駅に戻った西村センセイ。次の列車の出発時刻まで1時間弱あります。時刻は正午になろうというところ。お昼を頂く必要があります。
直江津と言えば当然、「つかそば」こと「かけそば つかだ」。当地のソウルフード。「つかそば」は信越線の列車内から見えるのですが、いつ訪れても駐車場はほぼ満車。センセイも有名な「かけ中か」はもちろん、「カレーライス」、「天玉うどん」、「天玉中か」を頂いています。
本当に美味しい。ただしセンセイの場合、キンエン生活との兼ね合いが。
記憶に間違いがなければ、その後は去年、1回だけ入ったことがあるだけです。駅を出たばかりのところに「直江津庵」も。立ち食い蕎麦のお店──椅子は用意されている──ですが、地元特産のメギスを使った「大めぎす天そば/うどん」(540円)が美味。
ただしこちらはもっと塩分が多い。というわけで残念ながら、今回は両店ともパスします。目指すは駅から少し離れた場所にあるショッピングセンター「エルマール」。河川改修に伴う地元主導型のショッピングセンターです。当時のキー・テナントはイトーヨーカドー。
ただし同店は2019年に撤退。その後は一時、非常に厳しい経営環境に置かれたのですが、まず、センセイがいつも利用している(/利用していた)スーパーが進出。続いて2020年、「無印良品 直江津」が大面積のお店を構えました。
当地の同種施設とは対照的。旧市街地の活性化に成功した希有(けう)な例です。
徒歩で訪れるのは初めてなので、旧市街地側(海側)をかなり歩いて入店。建物は以前のままですが、雰囲気はかなり違います。まず両親用にお土産の漬け物を購入。
専門店で購入したので地元産だと思った──販売者は地元──のですが、生産者は他県。もっと高い品を買うべきだったかな。時間に余裕がないのでスーパーに入り、列車内で頂くお昼を確保します。店舗は別ですが、いつも利用しているスーパーなのでシステムはほぼ共通。
帰路は南側(山側)の経路を選択。程なく直江津駅の長大なホームが見えてきました。金沢との往復の際、逆の位置関係で見ていた道路です...あ"っ。
ご覧のように0番線にトキ鉄の「観光急行」が入線済。この日のヘッドマークは急行「立山」。かつて北陸と大阪を結んでいた急行列車です。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960、220KB))
個人的には、センセイの当時の行動範囲外だったので「立山」に乗車したことはありません。ホームにはすでに搭乗を待つお客さんの列が。先頭は女性客です。撮り鉄を含めてですが、10年くらい前から女性の鉄道ファンが増えているという印象を持っています。この「観光特急」、元々はJR東日本のお古を譲り受けたもの。
でも現在はかなりの人気者。(たとえばこちら)個人的には金沢移動の際にしばしば乗った車両──この車両は七尾線で使用されていた──なので、それほどの興味はありません。北陸新幹線の開業に伴い、移動が自動車に切り替わったため、「観光急行」も時々見かける程度。
「あ"、今日も走っているな」という感じ。でも、考えてみると「観光急行」をちゃんと撮影したことがない。というわけで、初めてパチリ。
大規模な点検──自動車の「車検」に相当──を受けるため、「観光急行」は年明けから3ヶ月ほど運休します。今回はオーバーホールに相当する「全般検査」なので、もしかすると塗装が一新されるかも。
資金不足のトキ鉄なので、どうなるかわかりませんが。塗装はともかく検査終了後は、再び元気な雄姿を見せてもらいたいものです。
■11月7日(火) 先人の智慧と努力、そして苦労に敬意を ──筒石駅は文字通り、「奥」が深かった──
お伝えしたように筒石駅の地下通路は、大きく見ると“L”字型。
上り・下り列車ともに、下車してホーム前の待合室を抜けると、とにかくトンネル部の「その上」に出るため、かなり急な階段を上って高度を稼ぎます。そこから先が、“L”字の短辺。
昨日ご紹介したように、この短辺区間は階段ではなく斜面。距離は約40m。その中程で下りホームからの通路が合流しています。(今日の3枚目の写真)
傾斜は緩やかで、15°くらい。短辺の斜面を上り切った場所にある踊り場が“L”字型通路の角。ここをほぼ直角に右折するのですが、(短辺から見て)左側には鉄の扉で塞がれた穴が。(今日の2枚目の写真)
ここから先は、長い階段。正直なところ、ちょっと気が失せそうになります。ただし客観的に観察すると、傾斜は同じく15°程度。地図から概算したところ約13.0°でした。
長さは約120m。傾斜はきつくないし、制限時間も刻一刻と迫ってくるので、階段を一つ飛ばしで上ります。決して走ったわけではないのですが、さほど苦ではありませんでした。
まぁ、帰りの列車のことが頭にあり、アドレナリンが出まくっていたからかもしれませんが。昨日ご紹介した3枚目の写真は、“L”字通路の角で前方(=上方)を見て撮影しています。奥の明かりの場所が駅舎...だと思ったのです。
でも、ちょっと甘かった。地上に出た場所にあるのは風除け室。温暖な地域で目にする機会はありませんが、風雪が強い日本海側では、玄関を覆うような格好でしばしば設置されるものです。
簡易な造りの駅舎はその先。裏に、ホームへ通じる地下通路があります。中央が駅舎の待合室、右側がトイレなので宿泊施設を含めた業務スペースは左側と考えられます。(エアコンが2基設置されていることがわかる)
駅舎は標高66m。(Wikipedeiaの記載内容と相違する)センセイより先に駅舎の外に出た若者と、祖父・小学生コンビ──小学生が希望した──はさらに先へ進みました。でも、センセイは周囲を確認した後、下りホームへ向かいます。
実はこの先、見るべきものはほとんどないのです。ちなみに、ほぼ同じ高度を走っている北陸自動車道上り線からだと、一瞬ですが、左手に筒石駅の方向を示す看板を目にすることができます。
ただし駅舎そのものは、山の陰で見えません。
ここから先は、一種の復習。
長い階段を降りると、正面に2枚目の写真の壁が。実はここまでの地下通路(“L”字通路の縦方向長辺)がトンネル建設のための斜坑(「筒石斜坑」)本体なのです。
現在は閉鎖されていますが、この斜坑、実は下り線ホーム西側約50mのところまで延びています。トンネル内なので相当注意しないとわかりませんが、列車内からも確認できます。また、センセイの約600回の通過の中で、1度だけ筒石斜坑に照明が灯っていたことがあります。
ただし、斜坑のままでは駅として利用できません。そこで、新規かどうかはわかりませんが“L”字通路の短辺を掘削するとともに、トンネルの一部を拡幅してホームおよび待合室を設置。右の写真は短辺中央付近にある上り/下りホームへの分岐点です。
センセイはここで右折して下りホーム(直江津方面)へ向かいますが、ご覧のように急傾斜。上り(昨日の写真2枚目)と同構造の待合室を撮影し始めた時、列車接近の警報音が。比較的短時間ではあるものの、割と充実した「旅」に終わりが見えてきました。
直江津駅に戻り、妙高高原駅を目指します。ただし乗り換えに、ちょっと待ち時間が...。(続くかも)
■11月6日(月) 制限時間、わずか14分 ──西村センセイ、「モグラ駅」筒石駅に初めて降り立つ──
というわけで、「クイズ」の正解は筒石駅。大半の方が正解されたはず。
本当は、ほとんど誰も当たらないと思われる駅もある──いつか昼食のために訪れたい──のですが、今回は極めてオーソドックスな選択。同駅については何度かご紹介(こちらやこちら)しています。
でも改めて、少しだけ蘊蓄(うんちく)を。かつての北国街道あるいは北前船ルートに相当する日本海側の鉄道として、1913年(大正2)年に北陸本線(米原─直江津)が全線開通。新潟県内は全区間、国道8号線と並行して海沿いに敷設されました。
筒石駅付近は、ほぼ最後に開通した区間。日本海に面したごく狭い場所を地形に沿って曲がりくねりながら、民家のすぐ裏に線路が敷設されました。。急な崖が連続する地形のため、崖や急カーブのみ、短いトンネルで抜けるという方法。
旧筒石駅も、筒石集落に隣接する藤崎地区の、少し高い場所に設置。実際に訪れるとわかりますが確かに、ある程度の広さを確保できています。
ただし問題がいくつか。まず、当地が地滑りの多発地帯であること(地域全体が地滑りでできた)。主要幹線であるにもかかわらず、何度か不通になっています。しかも当時は単線だったため、輸送能力は低い。
そのため、列車交換のための信号所が多数設置されました。問題を抜本的に解決すべく、昭和30年代に当駅を含む直江津─浦本間を全面的に変更して、地下トンネルを主体とした新線を山側に建設することに。完成は1969年(昭和44年)です。当地は長大な頸城トンネルで通過。
筒石駅は直江津─谷浜間に存在した旧郷津(こうづ)駅同様、廃止予定だったのです。ところが廃止に反対運動が。筒石地区は漁師町なので、早朝に水揚げされた鮮魚を、近くの直江津市および高田市(現在は合併して上越市)で販売するため、多数の行商が駅を利用。
当地ではありませんが、センセイも実家近くの出雲崎の行商の姿をよく覚えています。結論からすると、頸城トンネル建設のための「斜抗」を利用して、駅を地下に移転させることに。前振りが長くなりましたが、「モグラ駅」誕生に至る経緯です。
センセイ個人は、昔から関西への移動に当地を何度か特急列車で通過。地下駅なので、当時の印象はほぼ皆無。金沢工大移籍後、最初の2/3はほぼ毎週、北陸新幹線開業後も時々ここを通っていました。ざっと計算すると600回くらいは通過しているはず。
でも西村センセイ、筒石駅に一度も降りたことがない。皮肉なことに、新筒石駅開業後、地域内の物流は自動車へ急速に移行。当地で行商の姿を見たことは一度もありません。最初の頃は通学客を1、2名見かけましたが、その後は皆無。
というわけで仁義を切るべく(?)今回、筒石駅を訪れたという次第。もちろん降りるだけなら誰でもできるのです。問題は帰り方。ローカル線なので朝晩を除き、列車の運行は1時間に1本程度。つまり帰路、相当待つ必要が。
ただし前学期に乗車していた列車は例外。乗ってきた上り列車は、西隣の能生(のう)駅で下り列車と行き違います。そのため、上り列車を下車してから下り列車が到着するまで、わずか14分。
ホームから地上の駅舎まで高低差約46m、距離は約200m(のはず)。14分に賭けることにします。
最初の写真は上り列車を降りたところ。ふだんは誰も乗り降りしないのですが、連休だからでしょう、この日はセンセイを含めて3組4名。明らかに、全員が鉄道ファン。
1組は祖父と小学校中学年の男子児童。上方の「出口」看板の左側にドアがあります。その奥は待合室(2枚目)。同駅は現在無人駅ですが、2019年(平成29年)までは駅員が配置されていました。宿直用のお風呂の映像を、テレビで見た記憶があります。
人員配置の目的は、このドアの管理。通過列車(特急列車および貨物列車)が、紙鉄砲の原理で猛烈な風をもたらすため、乗客の安全を確保すべく、ドアを厳密に管理する必要があったのです。
なお現在、ドアは自重で自動的に閉まります。駅舎への通路は全体として、ほぼ“L”字型。上り列車(大阪方面)を下車した場合、とにかくまず階段を上ります。その後、下り線と合流。(この区間は階段ではなく、斜面)
“L”字の「角」──後日ご紹介予定──を曲がり3枚目の写真、長い階段を上ります。奥に見える明かりは駅舎...のはず。
ちなみに左側は斜面。本来は工事用の斜抗なので、土砂や物資を上り下りさせていた名残と思われます。現在は一般客が立ち入ることができないように、柵が設けられています。
14分あれば楽勝...のはずだったのです。でも、まったく初めての場所。暗所でのカメラ設定ミスなどもあって、時間がどんどん過ぎていきます。
果たして、センセイは無事、予定していた下り列車に乗車できるのか。そして、駅舎の様子は...。(続く)
■11月5日(日) これでやっと一区切り。次は... ──約10日かけて庭の砂利洗浄を終えました──
訪問駅の「正解」は後回しにして、今日はタイトルのお話を。
先月から始めた庭の砂利洗浄を終えました。
右の写真は、実質的な作業最終日の夕方に撮影した写真。先日の写真と同じような位置関係ですが、少し離れた位置から見ています。
中央付近と、左奥2箇所に洗浄済の砂利の山。コンクリート(モルタル)張りの底面が見えています。お伝えしたように、亀甲(きっこう)状に割れており、その部分だけ乾燥が遅くなっていることがわかります。
作業は左奥の東側から開始。最後となった手前の部分は幅が広く面積があるため、洗浄作業は遅れ気味。最終日の午後は、いつもより長い2時間半かけて、やっとで終わらせたというのがホントのところ。
全体としては概ね予想通りだったのですが、毎日の作業に換算して10日弱かかりました。で庭の草木に関する限り、これで冬は無事に迎えられそう。
その日はそのままにして、翌日の朝に砂利を敷設。山積みの砂利はかなり濡れており、しかもその日は寒かったためしばらく放置しました。
夕方に撮影したのが右の写真。晩秋なので太陽高度が低いため、日中は日陰となる部分が多く、コントラストが強すぎるため、庭に日が直接当たらなくなってから撮影しています。
ご参考までに、拡大写真も。(別ウィンドウ、1280×960、292KB)同じような角度で申し訳ありません。庭の手入れをしていただいてからの撮影なので、割とすっきりしてます。ふだんはもっとボサボサなのです。
されど、まぁ、やっと一区切り。次に取り組むべきは、遅れている書斎の書籍再配置。お伝えしたように、ある程度作業したのですが、少し問題点が。もちろん現在も修正作業中。
実は、階下のダイニング──というよりほぼリビング──にも書斎同様、造りつけ書棚が。そちらとの入れ替えを含めて、しばらく集中的に作業したいと考えています。