2025年5月10日更新(2025年5月18日ページ移動)

──2025年5月第2週のニュース──

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5月10日(土) センセイの身体はビールでできている!? ──血圧は概ね許容値内に戻った模様です──

 今日のタイトルには元ネタが。

 もともとこのサイトは、センセイが見たもの聞いたことをお伝えすると同時に、前任校および金沢工業大学(例外を除き学部のみ)における講義中の、学生諸君とのやり取りを公開するために開設したもの。
 金沢工大退職後は前者だけになってしまいましたが。
(ただし復活の可能性を検討中)

 サイトに載せているのは講義の中の「キーとなる質問と回答」そして「今日の一言」。後者は講義で感じたこと考えたことを中心としつつも、無関係でも良いというスタンス。もちろん苦情や誤りの指摘は大歓迎。
 ずっと小さなミニッツペーパーで提出してもらっていましたが、最後はLMS
Learning Mnagement System)による電子的なやりとりに。

 ある時、金沢工大の男子学生が「俺の身体は牛丼でできている」と書いてきました。リスク管理の回にBSE(いわゆる「狂牛病」)に言及したためだろうと思います。彼は高校時代野球部に所属しており、帰宅の途中で毎日牛丼を食べていたんだそうです。
 なるほどねぇ。

 で、センセイの場合はどうやら「ビールでできている」という表現が相応しいらしい。というのも、約1週間前にお伝えした血圧データに動きがあったからです。ちなみに過去の全データはこちら別ウィンドウ、1280×913)
 一部繰り返しになりますが、4月中旬から血圧が急上昇。

 きっかけは新年度新学期に入り講義が始まったためですが、その後、移動などのストレスが軽減されても血圧は高いまま。ナシテ?

 思い当たることといえば、著しい物価高に対応すべく晩酌の一部をビールからチューハイに切り替えてみたことと、なぜか眠りが浅くなり、十分休めなくなったこと。ご存じの方が多いと思いますが、センセイはビール党。
 飲み会などでは他のお酒を頂くこともありますが、自宅ではビール一筋。

 ところがもともと他の酒類に比べて割高な上に、4月から数%値上げ。さすがに年金生活者としてはかなり痛い。そこで4月上旬から一部をチューハイに切り替えてみたという次第。これにより支出を2/3程度に抑えることができるはず。(摂取するアルコール量はほぼ同量にした場合)
 実はすでに、少し前から金沢工大での講義での宿泊の際などの機会に、一部切り替えてみたのです。

 その時はリズムが少し崩れる程度の影響に留まりました。そこで自宅でも...となったのですが、何だか結果はイマイチ。

 センセイは長年、夜にアルコール濃度の低いビールを飲みながら、その日の出来不出来を振り返り、それをこのサイトで有害度の低い形で昇華させて眠りにつくというパターンを続けてきました。
 チューハイ
──それそのものに責任はない──だと、アルコールを摂取するために飲んでいるような感じ。

 しかも個人的には、チューハイを美味しいとはあまり思えないし。それでも支出削減のため1ヶ月弱続けてみたのですが、今度は睡眠不良が顕在化。何だかゆっくり休めない。
 そこで先月末にチューハイの購入を一時停止して、完全ビール党に復帰。

 右は昨年4月以降の血圧の変化。先日の2枚目のグラフに相当します。注目していただきたいのは右端付近。拡大写真(別ウィンドウ、1280×926)
 コメント入りの突出部分がありますが、これは先週末開催された親族のイベントによるもの。ま、しかたない。

 注目すべきはその後。見事に急降下しています。正確に言うと前任校の講義があった5月1日および8日については、日中の「平均」血圧(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)が基準値をクリアできるかどうかという状況。
 それでも、その影響は翌日までにほぼ解消されています。

 講義当日を除けば朝夕ともに「平均」104mmHg〜118mmHg。まだクラスの「優等生」ではありませんが、それでも十分許容できる範囲内。
 主観的にも変化が。

 チューハイに切り替えていた期間に比べれば休むことができていると思う。センセイは高齢者で運動量が不足しているため、なかなか「ぐっすり」とはいきませんが。

 というわけで長年の飲酒生活──実はセンセイが飲酒するようになったのは非常に遅い──の結果、「センセイの身体はビールでできている」という結果...おっと、正確には「サッポロビールでできている」でしたね。
 我が家には「家訓」が。

 93歳で亡くなった父方の祖母が生前、父親が飲んでいたコップのビールを不意に手にして一口飲み、「やっぱ、サッポロ(ビールが)一番だの」(実話)。他の全員は、呆気にとられて見ていました。
 もっとも、弟二人はスーパードライ派ですが。

 なお継続的な飲酒、特に睡眠のための飲酒癖は健康上、決して好ましいことではありませんので、念のため。センセイは悪い見本、というわけです。

 当然ですが血圧の変化については、もう少し様子を見ることにします。



5月9日(金) 文字通り「雨後の筍」 ──西村センセイ、家族サービスの日にJ. ジョイスを思い出す──

 朝早くに階下から電話の音が。普通の時間ではありません。

 2階の書斎にも電話機が2台──1台は仕事用の書斎直通電話(FAX兼用)──があるのですが戸を閉めているため、寝室からだと呼び出し音が聞こえないのです。

 高齢の両親に緊急事態発生か...と思い、慌てて飛び起きると相手は母親。それはわかるとして、何事かと思ったら今日の予定の確認。金曜日なので、お昼過ぎに実家へ行くことになっていたのです。
 だから何が懸案なのか、さっぱりわからない。

 徐々に全貌が明らかになってきました。どうやら最近、父親がマイナンバーカードを紛失したらしい。もう単独で遠くへ行くことはできないので戸外で落とした可能性は極めて低い。つまりほぼ確実に、実家の中。
 それも行動範囲は限られている。

 されど「探したけれど見つからない」とのこと。他の用もあったので、ちょっと早めに実家へ移動。事情聴取(?)の後、まず「家宅捜索」。実は最近、同じようなことが。彼がキャッシュカードを紛失したのです。
 仕方がないので金融機関まで本人を同行。

 事情を説明して相談したところ、センセイが代理人として預金を引き出せるよう手続を取ることになりました(そんな仕組みがあることは知らなかった)。実は先週末のイベントの準備のため、あちこちを清掃。
 ふだん父親がいる炬燵の下敷きを外したところ、そのキャッシュカードが...。

 今回もそのパターンが想定されるため、ひとまず探してみたのですが見つからず。というわけで両親を車に乗せて、まず食料調達のためスーパーへ。
 続いて市役所の支所へ向かいます。

 父親はすべてにおいてボケているわけではありません。実家で事情を聞いていると、「(マイナンバーカードなんて)結局、全然使うことないんだよなぁー」。実にその通り。
 特に高齢者は。

 続いて、「1回(マイナンバーカードという仕組みを)作ってしまったから、止められないんだろうなぁ...」。こちらもその通り。キャリア組ではありませんが、彼は新潟県職員だったのです。(最後は管理職)
 他方、母親はというと、この辺の理解が弱い。

 「作らなくてもいい」と散々言ったのに、どうしても我慢できなくなったらしく、センセイが知らない間にマイナンバーカードを発行。その後、嬉しそうに見せびらかしていました。
 倅
(せがれ:長男のこと)の言っていることが信じられなかったのね。

 白状すると、そうするだろうなぁと予想していた──残念ながらセンセイのマザコン度は非常に低い──ので、まったく驚きませんでしたが。困ったことに、両親はマイナンバーカードと健康保険証を紐づけています。
 だからマイナンバーカードどして使用しなくても、少なくとも今回は健康保険証機能のために再発行する必要が。

 市役所支所でその旨を申し出ると、本人であることを確認した後、割と淡々と再発行作業が進みます。どうやら同じような事例が一定数存在するようです。そりゃそうでしょう。高齢者が多い郡部なので。
 2名の女性職員にお礼を述べ、実家に戻ります。

 細かい頼まれごとが複数あるのですが、まずは着替えて裏山へ。筍を掘るためです。お伝えしたように弟が月曜日に何本も掘っているのですが、当地ではその後、雨に。今は筍が出るピークなので、文字通り「雨後の筍」が予想されます。
 で、結果はというと、まず写真の12本。
拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))

 下部に写っているのが、以前お伝えした「唐鍬(とうが/とうぐわ)」です。通常の鍬と刃の厚さが大きく異なり、重さもかなり違います。

 大き過ぎるもの数本は見捨て、まだ小さな十数本は掘らずに目印を付けて残しておきました。ちなみに竹林をある程度整備したので、猪が出現した気配はなし。やれやれ。続いて別な場所で、大小の筍3本を掘りました。
 こちらでも、生長しすぎた3本の収穫を見送りました。
(崖なので、崩れないように竹の根を残しておきたいという事情がある)

 どんな状況になってもこの時季には筍がちゃんと出てきます。まるで自然が持つ溢れんがばかりの生命力が、具体的な形として結実したかのよう。他方、センセイがお世話しているのは──残念ながら──遠くない将来、静かに消えようとしている生命力。
 そのどちらもが真実です。

 J. ジョイスの『ダブリン市民』Doublinnersの中で、主人公ガブリエル・コンロイ──名前は大天使「ガブリエル」に由来──は叔母三人が主催パーティーに参加し、実は叔母達がすでに半ば鬼籍に入りつつあることを悟ります。(“The Dead”)
 まるでその時の主人公のような心境。

 もちろんセンセイは決して、神の言葉を使える役目を与えられた大天使ではありません。

 ま、為さねばならないことを粛々と為すしかない。



5月8日(木) 開花のピークはいつだった? ──母校に植樹したりんごの木はイマイチ動きが... ──

 あらかじめお断りしておきますが、今日の結論は曖昧です。悪しからず。

 またサブタイトルについても、正確には「センセイが植樹した」わけではありません。特別講義をきっかけとして母校、新潟県立柏崎高校の一角に「ニュートンのりんごの木」を植えたのは2002年12月。
 その時の様子からわかるように西村センセイ、植樹作業には直接タッチしていません。

 この種の儀式は、偉い人が行うものなのです。

 大切なのはもっと別な点。母校に植樹したのは、前任校の「りんごの木」を接ぎ木で育てたもの。つまり元々の所有者は前任校(というより学校法人敬和学園)で、それが母校に接ぎ木を寄贈するという形。
 この間、センセイ個人が出る幕はありません。

 1枚目の写真母校の「ニュートンのりんごの木」。天気が良かった昨日撮影しました拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))。左脇にある標識には寄贈者としてセンセイの名前が書かれています。(拡大写真では判別可能)
 また同窓会名簿でもそのように紹介されているので、やはりここは「センセイが植樹した」ことにしましょう。

 今日は木曜日なので、朝5時に起床して前任校で講義。

 お願いしていた配布資料の原版出力ができていないなどの問題がありバタバタしたのですが、それでも講義が始まってしまえばこちらのもの。
 小さなミスはあったものの、大きな問題なく終えることができました。

 昨日お伝えしたように、今日もお昼をいただくことができなかったので、後片づけを済ませてから「りんごの木」があるロータリーへ。
 やっぱり、違う...。

 舞台があちこち移動して本当に申し訳ありません──講義だったら、絶対に受講生が混乱する──が、1枚目の写真つまり柏崎高等学校の「りんごの木」に戻ると、葉が青々と生い茂っています。
 他方、前任校はというと、葉はこれから生長するところ。

 最初は単純に、「母校の方が前任校より暖かく、その分生長が早いから...」と考えたのです。でも改めて母校のりんごの木を観察すると、開花は葉が生い茂った今がピーク。
 金沢工大も前任校も、開花と競争するような格好で葉が生長。

 2枚目の写真は、昨日撮影した母校のりんごの花拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))。個体差が大きく、左後方にはこれから咲こうとする蕾(?)が控えています。
 ただしセンセイは両大学と異なり、母校のりんごの木を定期的に観察しているわけではありません。

 しかも今年は天気──悪天候だと母校を訪れにくい──や行事などの関係で、他の木で花が咲き始めた頃の、母校のりんごの木の様子をほとんど見ていない...。
 だから今度は、「センセイが開花のピークを見逃したのだろう」と考えました。

 でもやはり、ちょっと違うらしい。(再び舞台が移動してすみませんが、)それを再確認することになったのが今日、帰りの学バスを待っている時に見た前任校のりんごの木。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 開花中の花とともに、受粉後の「めしべ」
──今後、果実になる──の様子がわかります。

 ところが母校のりんごの木を見る限り、そのような跡を見つけることができない...。もちろん限られた時間内、それも何より植物に弱いセンセイの観察ですから、見落としている点だらけのはずなのです。

 でもやっぱり、良くわからない...。



5月7日(水) ごく普通の、そしてちゃんとした内容です ──「ラ・ムー 燕吉田店」の198円弁当──

 時間的には先日の「プチ同級会」に参加する途中で訪れた場所。ただし内容は同級会とまったく無関係です。

 お伝えしたようにこの時は新潟市まで電車で往復。学部学生時代前半に住んでいた場所などを訪れたとしても、正午過ぎに発車する越後線の電車に乗れば十分間に合うのです。しかもこの便は珍しく、新潟駅まで直通なので便利。
 ほとんどの列車は、途中の「吉田駅」
(燕市)で乗り換える必要があるのです。

 直通させない理由は明白。吉田以北以南で利用客数がまったく異なるからです。柏崎からは約2時間に1本ですが、吉田から先は、概ね1時間に1本の運行。同じ理由で新潟市内の内野駅から先は運行本数がさらに3倍になり、20分に1本。
 個人的には不便ですが、ま、しかたない。

 ただし今回は、それとは別の理由で吉田で下車し、10分弱歩いて写真のディスカウントストア「ラ・ムー燕吉田店」を訪れてみました。同店は国道116号線沿い、それも交差点に面した場所にあります。
 かつてはここに「ファッション市場サンキ 吉田店」が。

 隣(写真左のツルハドラッグの場所)にはスーパーがあったはず。前任校時代に1回だけ入っています。ただし販売不振から閉店。しばらく空き店舗になっていたのですが、10年くらい前に建物は解体されて更地に。
 7年くらい前、そこに新規オープンしたのがこのお店。

 複数の身内が新潟市内に住んでいるため、国道116号線は割とよく通ります。「ラ・ムー」がディスカウントストアだということは知っていましたが、それ以上のご縁は...。
 この近くで買い物をするなら、約250m離れた場所に慣れ親しんだ「原信 吉田店」があるし。

 実は、前任校2回目の講義では食堂が混雑していたため、お昼を頂くことができませんでした。(白状すると、今年度はまったく食堂を利用できていない)
 その時は自動車だったので帰路、原信で遅い軽食を頂きました。

 ところがその頃、まったく関心がなかった「ラ・ムー燕吉田店」に関るる気になる情報に接しました。そこで...となるわけですが、まず情報の整理から。
 「ラ・ムー」は大黒天物産が西日本を中心に展開するディスカウントストア。

 新潟県内(燕吉田店を含めて6店舗)および長野県内(9店舗)については、(株)西源(にしげん)が運営しています。消費者の側からすると、その特徴はお弁当や総菜の価格。
 どうやら、とても安いらしい。

 稀にハズレがあるようですが、概して評判は悪くありません。というわけでこの機会に初めて同店を訪れてみたという次第。店内に入るとちょっと殺風景ですが「業務スーパー」ほどではありません。
 一般の商品は確かに少し安いと思いましたが、言い換えればその程度。

 でも自社ブランド製品、特にお弁当と総菜はまったく違います。意外に思われるかもしれませんが、最初に気づいたのは商品の種類──数量ではない──が限られているということ。もちろん価格を下げるためでしょう。
 次に気づいたのが「山賊焼き」。

 ...って、何?

 後から調べたところ、鶏肉の醤油漬けに片栗粉をまぶして揚げたもので、西源本社がある松本、塩尻地区の料理だそうです(初めてだったので、今回は購入せず)。そしていよいよ、お弁当と総菜の価格。
 伝え聞いていた通り、お弁当は198円。
(以下、税別)

 ただし皆様がイメージするであろう内容と相違して、ホントにごくごく普通のお弁当。ドンキホーテで398円(平日は350円)で販売しているものとほぼ同等。以前、ドラッグストア「ゲンキー」の198円弁当をご紹介したことがあります。
 そちらはセントラルキッチンで調理したものを保冷車で各店舗まで運んできたもの。

 ただしこちらは明らかに、店内で調理したもの。店内に飲食スペースはないので、吉田駅まで戻ってから頂きました当たり前ですが、ごく普通のお弁当です。ホントに。でもやっぱり、どうやったらこの価格を実現できるんだろう...。
 もちろん誘客手段だということは承知の上で、です、

 偶然ですが本日、西源および原信に関する『信濃毎日新聞』の記事を知りました。食料品を中心に物価高騰が続く現在、センセイ自身を含めて総菜(および弁当)の需要が伸びていると実感しています。
 それがやはり、年金生活者であるセンセイの問題だけじゃないんだということを確認させられました。

 で、ラ・ムー燕吉田店のお弁当およびお総菜。

 個人的にはとても興味があるのですが、残念ながら電車での移動時は購入不可。可能性があるとしたら、前任校への自動車出勤時に購入して講義後に頂くパターンか。でもこれからはどんどん暑くなります。
 保管に気を使う必要が...。

 「ラ・ムー」の198円弁当、果たしてご縁はあるのか。



5月6日(火:休日) 他方、実際の越後線は0.0723km短かった ──センセイはどこでも鉄分補給(3)──

 3日続いた鉄道ネタも、最終回。

 昨日お伝えしたのは新潟駅の「終点」と「路線距離」。となると当然、「起点」側の状況を確認する必要があります。実は、以前から気づいていたことが。
 そこで今回、新潟への移動前に改めて柏崎駅側の様子を撮影しました。

 一部繰り返しになりますがまず、柏崎駅について事実関係の整理を。同駅は1897年(明治30年)、「北越鉄道線」(現在の信越本線)延伸に合わせて開業。
 1907年
(明治40年)には北越鉄道が国有化されたため、国鉄の駅になります。

 その5年後、先日お伝えした「越後鉄道」(現在の越後線柏崎駅が開業。従ってこの頃は、国鉄の駅に私鉄が乗り入れていたことになります。(その後、越後鉄道は1927年(昭和2年)に国有化)
 駅ホームの構造にはその名残が。

 柏崎駅には駅舎前に単式ホーム(1番線:写真左側)と、跨線橋を渡った先の島式ホーム──1面2線。2、3番線。写真左奥に微かに見える──がありますが、これは北越鉄道線時代からのはず。
 実は1〜3番線の他に、北東側に「0番線」が。

 1枚目の写真はその0番線に立ち、ほぼ真西を見ているところ。越後線のE129系電車が停車しています。左上に跨線橋の階段が見えますが、その奥が駅舎。
 ご覧のように、0番線は行き止まり。

 お察しの通り、これが越後鉄道のホーム。国鉄と私鉄が共存していた時代は、この辺りに越後鉄道側の改札口が存在したのかもしれません。
 駅の外へ出る時はともかく、改札がないとそのまま信越本線に乗車可能なので。

 されど越後線国有化以降は完全一体運用。車両運用についても越後線は現在も0番線の発着が主ですが、日に何本かは1番線で客扱いをします。
 それどころか、かつては信越本線に乗り入れる列車もあったほど。

 ポイントは1枚目の写真中央部。接近して行き止まり部分を撮影したのが2枚目の写真。まず目に入るのが、木製の簡易な車止め。
 その左上に目を向けると、何やら数字が...。

 一部薄くなっていますが、ここには「0K070M」と書かれています。アヤシイ...。

 しかもレールの繋ぎ目部分を良く見ると、ここにも文字が。拡大写真拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))でも判然としないと思いますが、奥のレールには「0K0723始(L)」。
 手前のレールには逆向きで「0
K0723(R)」と記されています。

 もうお分かりですよね。これは越後線の起点からの距離でしょう。「始」は「始点」(=起点)のを意味するはず。つまり、越後線の本当の起点はここではなく、約70m先。
 ちなみにL/Rは、起点から見た左右。

 文字の向きもレール中心から見た時に正常に読めるようになっています。正直なところ、ここまで拘るのかぁ...という感じ。それはともかく指示通り(?)70m先へ進みます。
 ほぼ、この場所

 ここから離れた2、3番線ホームおよびその奥を撮影したのが3枚目の写真。2番線ホームの前面には、垂直に描かれた白線と、「駅中(心)」の字。
 つまり越後線の「路線距離」は柏崎駅の駅中心を基準にしたものと考えられます。

 今となっては確かめようもありませんが、越後鉄道時代は違ったのかもしれません。ただし越後線国有化後は国鉄側の事情に合わせて基準点を変更したものと推測されます。今回、もう一つ気づいたことが。
 昨日ご紹介した新潟駅終点の路線距離はcm単位。

 最後の数値は22cmでした。ただし始点側の表記は10cm刻みと、精度が1桁違っています。0番線車止め先の「0K070M」に至っては精度不明。もちろん、そんなに違ってはいないのでしょうが...。
 つまり、かなり神経質な数値と、けっこうアバウトなノリが共存しています。

 ま、いいんですけど。



5月5日(月:祝日) JR越後線の路線距離は86.84992kmだった ──センセイはどこでも鉄分補給(2)──

 予報された「快晴」とまではいかなかったものの、今日の当地は比較的良い天気。

 現在、天気は西から崩れつつあり、連休最終日の明日は当地を含めて全国的に雨。そこで今日の午前中、竹林を整備すべく一昨日に続き実家へ。自宅出発時はほぼ無風だったため、今日は自転車を選択。
 「彼岸会
(ひがんえ)」の際は菩提寺を自転車で訪れましたが、天気その他の関係で実家は今年初めて。

 実家近くで、県内に住む弟が運転する車に追い抜かれました。到着はほぼ同時。仕事を分担して、弟は筍掘りと畑の耕起。センセイの方は1日で終わらないことが確実だったため、お昼前に帰宅。
 この頃になると、さらに強い向かい風に。

 もちろん無事に帰宅したのですが両脚はもう、ガタガタ。お昼を頂き水分を補給したにもかかわらず、体重は1kg弱低下していました。逆にいうと、センセイの身体はふだん、水っぽくなっているということかも。
 それはともかく、昨日の続きを。

 4月中旬から始まった前任校の講義については、センセイも加齢が進んで交通量が多い新潟市中心部の「新新バイパス」の運転に自信がなくなっているため、初回と先週は電車で移動。
 初回講義の帰路、乗り換えのためにJR新潟駅のホームで列車を待っている時に気づいたことが。

 この時は鞄の中にコンパクトデジカメしか入れていなかった──当たり前ですが、講義が最優先──ため、それで全体の状況をメモ代わりに撮影。
 「プチ同級会」の翌日、改めて「」望遠レンズで撮影したのが2枚の写真。
(いずれも、たまたま列車が入線していなかった)

 1枚目の写真は新潟駅3番線プラットホームから、北隣の2番線を見ています。写真左上方に新潟駅の駅名標。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 奥の1番線に止まっているのは回送列車。

 講義初日、センセイはホームのもっと左側にいたのです。2番線ホームを見ていた時、その前面──縁の部分──「83k800m」と書かれていることに気づきました。
 ...え"っ?!

 83.8kmは柏崎─新潟間を結ぶJR越後線の、旧白山駅移転(1951年)と戦中に建設された貨物線(1943年)を利用しての旧新潟駅乗り入れ、そして新潟駅移転(1958年)を経た後の公式路線距離。(なお「換算キロ」は別の数値)
 もしや...と思って右側まで歩き、1枚目の現場で予想通りの表示を見つけました。
拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))

 1枚目の写真、右下隅付近です。2枚目はそれを正面から撮影したもの。線路脇にはキロポスト(「距離標」)が。何と、「越後 83k849.22」と書かれています。
 つまりこれが越後線の正確な路線距離。

 そしてホーム前面には、まず「新潟ST」。当然、新潟駅のことでしょう。右側には上から越後線の路線距離、そして「136k320.00m」。
 明らかにこれは信越本線、直江津─現新潟間の路線距離。

 歴史的な経緯から新潟県内の信越本線の起点である「0キロポスト」は、直江津駅──現在はえちごトキめき鉄道管理──構内に存在するのです。
 ちなみに、その下の「D」
(たぶん“Dinstance”)および続く数値は「軌道中心」(2本のレールの中心)からプラットホーム前面までの距離。

 同様に「H」(同、“Height”)はレール頂点からの高さ。こちらは都市部の駅では段差を少なくすべく、もう少し高い1,110mmが普通。

 それはともかく1枚目の写真、右下隅にあるキロポストをよぉーく見ると、側面には「停車場(=駅)中心」という表記が。もちろん駅の中心、ここを基準に距離を測定して、運賃その他を規定しますよ、という意味。
 なるほど。

 ちなみに新潟駅の場合、信越本線、越後線ともに新潟駅が終点。新旧新潟駅は基本的に、ヨーロッパで多く見られる「頭端(とうたん)式」。1枚目左上の駅名標でもわかるように、後で越後線が反対方向から乗り入れてきたという歴史があります。
 正直なところ現新潟駅
(先代駅舎および現駅舎)の駅中心は、信越本線に合わせたんじゃないだろうか。

 それに伴い、越後線の路線距離に端数が出た...。でも、ひとまずcm単位で管理しているとは思いませんでした。路線の改良やメンテナンスで実際の距離はどんどん変わっているはずなので。
 繰り返しになりますが、ここは両線の終点。

 信越本線の起点は明確ですが、良く考えると越後線の始点はどうなんだろう。しかも昨日お伝えしたように、越後線は私鉄を買収したという事情が...。

 連休最終日の、明日へ続く。(キッパリ)



5月4日(日:祝日) 交差か、合流&分岐か、それが問題だ ──センセイはどこでも鉄分補給(1)──

 連休も昨日から後半戦に。

 来週からは金沢工大大学院の講義が再開されるので、かなり忙しくなります。そこでこの機会に1週間前の新潟ツアーの際のお話を。ただし鉄道ネタです。実は今回、気になっていたことを確かめるべく計画的に行動。
 今日は、その初回。

 お伝えしたように今回は2日間有効の企画乗車券を購入して、往路は越後線──別な目的のため、途中の吉田駅で途中下車──で新潟市の白山駅へ。帰路は信越本線で長岡乗り換え。越後線の運転本数が少ないことが理由です。
 本当にお伝えしたいのは、2枚目の写真の現場。

 ただしその説明のために、まず1枚目をご覧下さい。これは月曜日、新潟からの帰りに新津駅(写真右奥)手前で、列車最前部から撮影したもの。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 センセイが乗車しているのは信越本線の上り列車。写真右端に下り線をかろうじて見ることができます。

 写真中央部で、信越本線のレールと横方向に走る羽越線(新津─秋田間)のレールが平面で交差しています。現在、このような鉄道の交差は珍しい。
 以前は高崎駅
(信越本線と上越線)などにも存在したのです。

 されど安全確保のため列車が交差付近を走行する時は周囲の列車を一定時間停止させる必要があり、輸送力のネックになります。そのため次々と立体交差化。
 平面交差が残っているのは運転本数の少ない路線だけです。
(新津─新発田(しばた)間の旅客列車は少なく、大半が貨物列車)

 これを踏まえて、いよいよ2枚目の写真。これは前日、越後線に乗車中、寺泊駅(旧「大河津」駅)──右奥の建物が駅舎──手前で撮影したもの。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 奥で線路が1番線
(直進)と、2、3番線(右方向)へ分岐しています。

 ポイントは分岐のさらに手前。昨年ご紹介しているのですが、右側のススキが生えている場所の先(右側=JR寺泊駅の南東)に、越後交通長岡線の「大河津駅」が存在したのです。
 同線は来迎寺駅から西長岡駅、当駅、そしてさらに西
(写真左側)の、日本海に面した寺泊駅を結んでいました。

 つまり長岡線は越後線を「跨いで」いたのです。個人的な関心事は、新津駅構内の信越本線・羽越線のように平面交差していたのか、写真上部のように合流後に分岐していたのか。
 個人的には「跨いでいた」ことは覚えているのですが、どのような形態だったのかについては記憶がありません。

 長岡線はセンセイが高校生だった1975年に廃止。残念ながら長岡線を利用する機会はありませんでした。そもそも越後線のこの区間についても乗車したのはたぶん十数回。
 個人的には、越後交通が運営していたもう一つの栃尾線については子供の時から時々乗車。

 「栃鉄(とってつ)」と呼ばれた同線は、軌間762mmの軽便鉄道路線。「マッチ箱」と呼ばれた車両はホントに小型で、ロングシートに大人が座ると向かい合うお客さんと膝がくっつきそうになるほど。
 もし長岡線も狭軌なら合流、分岐つまり乗り入れは不可能ですから平面交差するしかない。

 なお長岡線は電化されていましたが、当時の越後線は非電化。従って「跨ぐ」形態がどのようなものであったにせよ、電力線に関する問題はありません。今回改めて現場を確認して、ほぼ実態が明らかになりました。
 長岡線「大河津」駅
(右側)から手前方向に進んできた電車は写真ほぼ中央部、バラスト(砂利)が右側にはみ出た場所で越後線に合流。

 左下(手前)の線路間に白い物体が見えますが、これはATSAutomatic Train Stop:自動列車停止装置)の地上子(ちじょうし)。その辺りから越後線は僅かにカーブし始めます。長岡線は、ATS地上子の少し奥で左側に分岐。
 つまり平面交差ではなく、部分的に越後線に乗り入れていたのです。

 写真中央(やや下部)に小さなコンクリート製の構造物が見えますが、この下を小さな用水路が走っています。その区間を避けるような格好で、越後線に乗り入れていました。この場所での越後線のレールは25mの「定尺」。
 それと同じくらいの区間を共用していたはず。

 国鉄および現在のJRでは考えられない乗り入れですが、越後線そのものが私鉄として設立、開業されたため可能になったのでしょう。帰宅後に調べてみましたが、基本的にはセンセイの観察通り。
 そもそも長岡線の軌間は1,067mm。

 せめてこれくらいは事前に調べておくべきでした。

 なお、こちらこちらなどの記事も参考になりましたが後者の、最後の写真に写っている車両は長岡鉄道ではなく越後線のディーゼルカー(長編成であることに留意)。高校生の時、毎日この(通称)キハ10系あるいはキハ35系に乗って通学していました。
 また写真中央のホームは国鉄越後線のもので、越後交通長岡線のホームは写真の左端に僅かに見えているだけ。

 でも今回、最も役に立ったのはグーグルマップ。衛星写真ならATS地上子やレールの繋ぎ目までわかります(ただし状況による)。そもそも長岡線の、放置されたまま残されたレールまで確認することが可能。
 
(再び)事前に...。

 でもそれなら、わざわざ現場に赴く必要がなくなるかも。

 だから、ま、いっかー。

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