2024年6月15更新(2024年6月23日ページ移動)

──2024年6月第3週のニュース──

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6月15日(土) 地域最大のイベント「えんま市」が開かれています ──「変わらないもの」編──

 先日お伝えした当地域最大のイベント、「えんま市報道例:全文を読むためには登録が必要)が昨14日から始まりました。

 この地域で生まれ育った人間なら必ず、そしていくつになっても参加しなければならない、と、あたかもDNAに書かれている(?)かのような行事。
 この点に関して思い出したことが。

 センセイが小学校低/中学年だった時のことですが、15日の学校は全員がお昼頃で早上がり。お察しの通り、児童だけでなく教職員も保護者として「えんま市」に参加することができるようにするためです。
 なお、センセイの学校だけでなく、地域の全小学校
──中学校以上がどうさったのかは知らない──が同じ扱い。

 ひとまず帰宅し、母親と祖母がセンセイと弟2人を連れて参加することに。ただし当時、自家用車はまだほとんど普及していなかったため、まず路線バスで国鉄の最寄り駅へ。
 そこで柏崎駅行きの越後線に乗車して「えんま市」に参加するという手順。

 ただしその日は、まだ幼児だった下の弟の着替えに手間取り、家を出たら目の前を路線バスが通過。置いていかれたわけですが、あっさりと、「まぁ、いいや」。
 なぜかというと、利用客が多くて1台のバスでは乗り切れないため、バスがもう1往復する...はずが、来ない。

 全然、来ない。

 後で判明したのですが、その日(?)から2往復ではなく1往復に減便。それに乗り遅れたわけですから、「えんま市」参加は不可能になってしまいました。
 記憶の一部に若干混乱があるかもしれませんが、全体としては昨日のことのように覚えています。

 このように、そして去年の父親がそうであったように、地域住民にとっては「とにかく参加して、閻魔様(3枚目の写真)にお参りしなければならない」。
 すぐにご紹介するように、その実体は相当変化しているのですが、この点だけはブレない。

 というわけで、センセイも今日の午後、少しだけ顔を出してみました。

 1枚目の写真は、いつもの東・西本町こちらの1枚目の写真)ではなく、直交する駅前通を撮影したもの。ご覧のように露店が立ち並び、どの通りも大変な人出です。
 この状況は、昔と変わりません。

 地域人口が約8万人なのに「えんま市」の3日間で、昨年は何と、30万人弱が訪れたとのこと。今年は曜日まわりが良く、天気にも恵まれているためそれを上回る人出が期待されます。
 ふだんならこの写真に歩行者1ないし2名、自動車3台くらいしか入らない場所なのに。

 現在、その露店で販売しているものの大半は飲食物。その他には幼児向けのおもちゃなどを売っている程度。2枚目の写真は露店裏を撮影したもの。
 子供たちが表の露店で買ったお菓子の「型抜き」に、夢中で取り組んでいました。

 さらに奥側には地元の飲食店が飲食物を販売するとともに、休憩スペースを提供。何回かご紹介しましたが、昔はもっと実用的な「市」だったのです。
 今朝の地元紙『新潟日報』の電子版
(『新潟日報』紙購読者以外は閲読料金が発生)19面に興味深い記事が。

 市立博物館学芸員の方が記者のインタビューに答えているのですが、実は彼、センセイのクラスメート。高校卒業後も、同級会を含めて何回か話しています。
 彼は旧市街地の出身。つまりセンセイより昔のことを知っています。

 センセイが子供の時も反物などを売っていた──ただし飲食物の販売はあった──のですが、彼によると、その前は古着や生活用品を多く扱っていたとのこと。
 そういえば確かに、今ならホームセンターで取り扱うようなものを売っていた。

 さらに、食べ物の露店はなく、参加者は各家庭で作った自家製の笹団子──実家でも作っていた──を腰に下げ、歩いて「えんま市」を訪れていたそうな。
 「閻魔堂」
(3枚目の写真)にお参りを済ませると、広場のようになったお堂の周囲で笹団子を食べて、歩き疲れた身体を癒していたんだそうです。

 センセイ個人は郡部の出身なので、その頃の現場は見ていないか、連れられて訪れていても明確な記憶はありません。でもまさにその通りだったんだろうなぁーと容易に想像されます。
 コアとなるのが「閻魔堂」。

 若い人や子供たちの姿もありますが、中年そして高齢者もしっかりと訪れています。これだけは本当に昔と変わりません。露店前の人の流れに戻ります。
 母校新潟県立柏崎高等学校前の道で撮影したのが写真。

 今年も瀬戸物のお店こちらの3枚目の写真)が2店出店していました。昔はもっと多かったのですが、たぶんここ10年くらいはこの2店だと思う。写真はお客さんが少ない時に撮影したもの。
 実際はもっと多くの方が商品の品定めをしていらっしゃしました。

 植木の市こちらの3枚目の写真)とともに僅かに残された実用的な市の名残り...ですが植木に関しては今回、はっきりとは確認できませんでした。(ただし精査したわけではない)

 このように、時代とともに大きく変化してきた「えんま市」ですが、その核心部分についてはしっかりと引き継がれている面も。その是非について議論はあろうかと思いますが、歴史的批判に耐えてきたという事実はやはり、重い。
 その意味を、正当に再評価すべきでしょう。

 明日は目を転じて、地元商店街の(ちょっと)新しい動きをお伝えする予定です。 



6月14日(金) 「夏草や兵どもが夢の跡」 ──旧大河津駅での、珍しい他社鉄道線との平面交差──

 2日ほど間が空いてしまいましたが、日曜日の弥彦線乗車の続きを。

 今回も、例によって目的地(弥彦)訪問だけでなく、県内鉄道路線での「鉄分」補給がお目当て。ただし今回のポイントは「乗車」よりも「確認」。
 それも、すでに廃止されて現在は存在しない鉄道路線の、です。

 お伝えしたようにこの日は少し早い越後線の下り列車に乗車。列車の終着駅かつ乗換駅である吉田駅の4駅手前に、今回の目的地(右の写真)が。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 写真は桐原駅を過ぎて、次の寺泊駅
(4代目。後述)構内に入る地点で撮影したもの。左奥に駅舎と、交換を待つ上り列車が見えます。

 写真手前から中央、そして右奥にかけて放置された叢(くさむら)が広がっていますが、ここに越後交通「長岡線」の「大河津(おおこうづ)」駅が存在していました。
 2枚目の写真は1枚目を撮影した位置
(中央やや右奥)を振り返る格好で撮影。

 2枚目の左側に、黒っぽく背の低い堤防のようなものが見えますが、これが長岡線のホーム。JR(当時は国鉄)の駅と、私鉄の駅が隣接していました。しかも当時は国鉄側の名称も「大河津駅」。
 両駅の名称は、次の「分水駅」
こちらこちらとの間にある「大河津分水」に由来します。

 越後交通長岡線は、現在の長岡市西部(信濃川左岸:廃線当時は越路町)の「来迎寺駅」──JR信越本線越路駅に隣接──から、長岡市市街地近くの西長岡駅へ出て、そこで方向転換。
 信濃川左岸沿いに北上して、この旧大河津駅でJR越後線に接続。

 西に進路を変えて、ここから約5km離れ、日本海に面した場所にある寺泊駅(初代。その後、水害等により移転、廃止)を結んでいました。なお、最後はかなり急な傾斜を下るので、寺泊駅の手前にはスイッチバックが存在。(現在もその跡を確認可能)
 ただし地方私鉄の限られた財力では長大な信濃川を越える
──市街地中心部は右岸にある──ことができず、利用客数は伸び悩み。

 モータリゼーションが決定打となって路線は縮小を重ね、旅客輸送は1975年に、残った貨物輸送も1995年に終了し、廃線となりました。
 センセイがある程度自由に鉄道に乗車できるようになった頃には、すでに越後交通大河津駅は廃止
(1973年)済。

 この場所には写真のホームや線路やだけでなく、信号機や転轍(てんてつ)機などの鉄道施設が放置されて残っていました。なお、来迎寺駅─西長岡駅間の貨物輸送はその後もしばらく残存。
 センセイも良く覚えています。

 JRと私鉄の駅が隣り合っているだけなら珍しくないのです。旧「大河津駅」のポイントは、1枚目の写真の位置で鉄道路線が平面交差していたこと。
 線路の平面交差は衝突の可能性があるため、現在ではできるだけ立体交差に置き換えられています。

 ただし同一会社線の場合。現在でも新津駅構内の信越本線と羽越本線との平面交差や、奥羽本線羽前千歳駅─北山形駅間における仙山線との交差(2枚目の写真)などいくつか例が。
 この旧「大河津駅」のように、まったく関係のない会社の鉄道路線が平面で交差するのは、極めて希有
(けう)な例。(センセイは他に例を知らない)

 山形鉄道「フラワー長井線」の場合、今泉駅と隣の萩生駅(JR)・時庭(ときにわ)(山形鉄道)の間で「交差」しますが、実際は線路の共有
 これは旧国鉄長井線を第三セクター化したためです。

 本数が多くない越後線および越後交通長岡線ですが、それでも種々の理由による列車遅延や雪害などが発生したはず。そのような場合は、どうやって交差を制御していたのでしょうか。
 お伝えしたように、弥彦を出発した電車はそのまま東三条駅を目指します。

 その途中、燕駅に到着する寸前に北側を撮影したのが3枚目の写真(熱線吸収ガラス越しの撮影のため、色調がおかしい)。現在は何の変哲もないホーム──ただし赤錆だらけ──と道路、そして住宅地が広がっています。
 でもここはかつて、新潟交通電車線の終着、燕駅のホームと線路、そして待避線があった場所。

 写真のホームはJR東日本と新潟交通の共用で、現在も新潟交通側のホームそのものは残存しているのですが、ご覧のように境界に柵が建てられて立ち入り不可。道路はかつての電車線そのもので、奥の住宅地には待避線が。
 センセイはJR信越本線の来迎寺駅を通過してご帰宅。

 かつて越後交通長岡線の始発駅が存在した場所ですが、こちらはホームや待避線、引き込みも解体されて更地化、宅地化されており、一瞥(いちべつ)しただけでは駅跡だということはわからなくなっています。

 まさに、「夏草(=叢)や兵どもが夢の跡」というわけです。



6月13日(木) これも一つの「復旧」 ──糸魚川市藤崎に漂着した漁船が、能登に還ったようです──

 もう1日だけ、金沢往復時のお話を。

 お伝えしたように今回、往路つまり金沢までの移動は極めて順調。混雑する上越市街地(旧直江津市)も無事に抜け、写真奥から海岸線に沿って糸魚川(いといがわ)筒石地区(写真左奥)の先にある小さな岬(写真中央奥の白っぽい造船所の建物付近)を越えると、え"っ!?
 旧能生町の
藤崎(とうざき)地区が視界に飛び込んでくるのですが...ない。

 写真中央の藤崎海水浴場に漂着した漁船の姿がありません。漁船が置かれていた場所(写真中央)には、漁船の代わりに重機が2台。船がないということは予想通り、能登(?)の拠点に無事に戻ったということなのでしょうが...。
 ただの砂浜に漁船が置かれているのも変ですが、重機というのもなかなかシュール。

 それはともかく金沢到着後は、講義の準備をしてからホテルへ移動。そこで改めて情報を集めると、おおよその状況がわかってきました。
 そもそもですが能登地区
(一部富山県を含む)から、新潟県西部の上越市および糸魚市に漂着した漁船は最終的に、16隻に及んだとのこと。

 その際、一部の船については消波ブロックに衝突するなどして損傷して修復できず、現地で解体、撤去されたものもあるそうです。
 藤崎地区に漂着したのは珠洲漁協所属の「大栄丸
(「TVニュース」)

 持ち主の猟師木下さんは被災直後、息子さんが住んでいる上越市直江津地区に避難。そこで「大栄丸」が藤崎海岸に流れ着いたことを教えてもらったそうです。
 地元の漁師や建設会社の協力を得て、1月10日に船を陸揚げ

 写真を見る限り、重機2台を使って相当ワイルドな方法で砂浜まで移動させたらしい...。なお写真は昨日、自宅に戻る際に撮影したもの。重機の姿は見当たりませんでした。

 それはともかく、倖いなことに少なくとも「大栄丸」についてはやはり、大きな損傷はなかった模様。その姿がないということはやはり、陸揚げ時と同様の方法で海へ戻したことはほぼ確実。
 なお現時点で、この件に関する報道には接していません。

 ただし残念ながら、誰もが願う母港に還ることができたかどうかは、別。能登地区の港湾施設の被害は甚大。ご存じのように日本海に面している北側は最大4mも隆起したため、港としての機能を完全に停止したまま。
 富山湾に面した珠洲市の飯田港については隆起こそなかったものの、まだ使用できない模様。

 そのため、報道──ただし被災直後の情報──にある通り、今回は西隣の能生(のう)漁港などに留置させていただいているのかもしれません。しかしその場合であっても、「大栄丸」が概ね無事であったことは確実。
 漁師さんにとっては要となる仕事道具。

 ここはやはり、藤崎海岸からその姿がなくなったことを言祝(ことほ)ぐべきでしょう。



6月12日(水) さすがは国土交通省。能登半島地震で大規模に崩壊した国道359号線が通行可能に

 予定を変更してお伝えします。

 今日は水曜日。つまり朝イチに大学院の講義があります。昨朝、いつものように自宅を発って、お昼過ぎに大学キャンパスに到着しました。お伝えしたように、元日に発生した能登半島地震で、富山と石川県を結ぶ国道359号線は通行止めに。
 具体的には内山峠を挟んで、富山県側
(小矢部(おやべ)市内山:この写真を撮影した、まさにその場所)と石川県側(金沢市今泉町)の両方で大規模な道路崩落が発生したのです。

 国道8号線の早期復旧(こちらおよびこちら)違って現場は山間部。条件が悪いため、完全復旧までに年単位の時間を要することは明らかです。仮復旧はもっと早いはずですが、来月末までの講義期間内に通行可能になるとは思えません。
 そこで昨日は、ずっと南側の
南砺(なんと)(旧福光町)経由のルートで移動。

 こちらの方が約4.5km短いので、5分ほど早く到着。ただし走り慣れていないため、運転する側としてはチト辛い。燃費も悪いし。

 制度上は今日から別の講義──ただし実質的には学期を通しての科目──となるので、今回はそれなりの配布資料が。それらを印刷してからホテルへ移動します。本当はすべて歩きたかったのですが、とても暑かった(最高気温30.8℃)ため、途中から路線バスを利用。
 近江町市場の「ダイヤモンド」で野菜の総菜を購入してからチェックイン。

 サイトを更新してから再度外出。いつものスーパーでビールと総菜を少々購入してホテルへ戻ります。入浴後は当然、ぼっち大宴会。改めてニュースを確認していると、え"っ?!

 何と、内山峠前後の両県の道路崩落現場に仮設迂回路を設けて、まさに昨日から通行可能になったというのです。知らなかったし、こんなに早いとは...。さすがは潤沢な予算に恵まれた国土交通省。
 これはもう、仮復旧した国道359号線を走るしかありません。

 というわけで、ここから先は、石川県から富山県に移動しながらの現場ご紹介。写真はいずれもドライブレコーダーの映像で、それぞれの拡大写真は原寸切り出しです。

 講義を終えると金沢市北部まで走行して、内山峠を目指します。1枚目の写真が今泉町の崩落現場。右側のパイプが本来の道路中央線付近。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 写真ではわかりませんが、(本来の)道路右側は約20m下の谷底に沈んでいます。

 (本来の)道路左側、民家ぎりぎりの場所を整備して仮設の道路に転用しています。ただし国道359号線の石川県側で大きな被害が確認できるのはこの場所のみ。
 内山峠を越えると、様子が一変。

 2枚目の写真は、1枚目から直線距離で約2km離れた富山県小矢部市内山の道路崩落現場。写真ではわかりづらいのですが、ここは左側から下ってきた沢。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 本来の道路は写真右側の部分がそのまま続いています...が、見事に崩落。

 その様子については、ご紹介した報道の中で、谷底に転落したアルト──乗員は無事に脱出──を含めて、地震直後の現場の様子が紹介されています。
 仮設迂回路はご覧のように、山側(左側)の田圃を利用して造られています。

 他に目立った被害が少ない石川県側とは対照的に、この先も数カ所で対面通行。いずれも沢を埋め立てて道路にした場所が損傷していました。

 いつもならスイスイ走ることができて、ギヤとエンジンブレーキ、そしてハンドルワークで楽しく走行できる内山峠。でも現在はまったくそんな状況ではありません。
 それにそもそも、ニュースの中でドライバーの方も仰っているように、センセイを含めて道路の利用者にとって、とにかく走行できることだけで、ありがたい。

 昨日の往路は非常に順調でストレスも少なく──夕方の血圧(「収縮期血圧」の「平均」)──は、長距離運転後にもかかわらず114mmHgと、低い。
 燃費は20.1km/Lと、僅かながらレコード更新。

 ただし今日の帰路は国道359号線の片側交互通行だけでなく、ノロノロ運転の車などで燃費は大幅に低下。小矢部市の平地に出たところで、燃費は16.5km/L。
 往路の南砺市ルートと同程度。

 例によって新潟県に入ると燃費は向上。最終的な燃費は19.0km/Lでした。内山峠経由の燃費についてはまだ情報が不足しています。また、今後どちらのルートを選択するかについても、要検討。
 それはともかくセンセイを含めた一般庶民、とりわけ地域の方々にとって、とても重要な道路。

 不便が残るとはいえ、仮復旧しただけでも本当にありがたい、というのが素直な感想です。 



6月11日(火) センセイは珍しく、電車で観光地めぐり ――10年ぶりに弥彦神社を訪れました――

 写真はこの日曜日に撮影したもの。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))

 新潟県内では最も有名な弥彦神社を訪れたのです。写真は拝殿。神社内に入るのは、たぶん10年ぶり。弥彦神社を訪れたのには理由が。
 例によって日曜日のみ
有効な企画乗車券(センセイらはさらに割引をもらったのです。

 自宅の位置と列車ダイヤの関係で普通の時間に出発すると、日帰りでは新潟県中越および上越地方(県西部)しか利用することができません。
 
新潟市など、下越地方はなかなか行きにくい。

 今回も「サンレパス ルート8」経由で糸魚川まで行き、駅に隣接する「糸魚川観光物産センター」で漬物――後日ご紹介するかも――を買って戻ろうかと思ったのです。
 でも今年度前半は金沢まで車で往復しているので、漬物はその途中で購入可能。

 たまには...というわけで時刻表と睨めっこした結果、いつもより1時間早く起床して越後線の列車に乗車し、吉田で弥彦(やひこ)線に乗り換えることに。
 
前回は吉田から東三条に出たのですが、今回は逆方向の弥彦へ。

 弥彦線のこの区間は、もうずいぶん乗車していないはず。越後線はガラガラで、弥彦線も最初は同様だったのですが、接続する列車が到着すると、それなりの乗車率に。
 乗客は観光客と、弥彦山の登山――というよりハイキングか――客。

 列車は定刻に出発。久しぶりの車窓です。次の「矢作(やはぎ)」駅を出ると、間もなく終着の弥彦駅。実は折り返しの列車に乗るためには、時間がない。
 でもせっかくここまで来たので...というわけで、近道を通り弥彦神社へ。

 一の鳥居を抜けて表参道に入ると、右側には弓道場や鹿苑などの施設が。小さかった娘に駄々をこねられてドラえもんの「カメラ」を買った場所です。
 二の鳥居、そして門を抜けたところで撮影したのが上の写真。
「茅の輪」が設けられています。

 時間がないので来た道を折り返し、写真の弥彦駅へ。ご覧のように弥彦神社本殿を模した、とても立派な作りです。ただし現在は、事実上未使用の空間が多いのですが。
 国鉄時代からと思われるベテランの駅員さん――もちろん現在は嘱託のはず――がてきぱきと対応。

 急いだのには理由が。土曜と日曜日は平日とダイヤが一部異なり、乗ってきた列車が比較的短時間で折り返すのです。しかも吉田止まりではなく、東三条駅まで直通。そこから先の乗り換えも割と良い。
 予定通り晩酌のつまみを購入の上で、お昼過ぎに帰宅。

 ただし鉄道ファン的には、これだけだとあまり面白くありません。もちろん久しぶりの弥彦線は味わい深かったのですが、それでも全体としては単に「乗った」という感じ。

 お察しの通り、実は別な目的が...。(続く)



6月10日(月) エンジンが始動しない。重い... ──西村センセイ、草刈り機ホロ苦デビュー ──

 明日は金沢への移動日。というわけでもう1日、田舎暮らしのお話を。

 今朝は9時きっかりに、1ヶ月後の両親の通院を予約。定期的な受診なのですが、田舎で高齢者が多いのに窓口での次回予約や電話での事前申込は不可。年金生活者のセンセイはともかく、他のお宅ではどうしているんだろう。
 ネットでの予約も結構ライバルがいて、1回だけですが希望日時を確保できなかったことがあります。

 まぁ、今回は無事に予約できたため、自動車で実家へ。本当は自転車にしたかったのですが、医院の予約で1時間遅くなってしまったので。主目的は草刈り。しかも今回は、センセイがエンジン式の草刈り機に初挑戦。
 センセイの世代にとって草刈りは当然、鎌を用いて行うもの。

 一口に「鎌」といっても、草刈り用に限定しただけで小鎌から柄の長い鎌までざっと5種類くらい。それを使い分けて敷地内や農地の草刈り。でも田舎を離れている間に、地方では急激な高齢化と過疎化が進行。
 同時に、農作業もどんどん機械に置き換えられていきました。

 草刈りに関していえば、庭などを除けばほぼすべてエンジン式の草刈り機に。最近は電池式(あるいは有線式)のものもありますが、要するに動力で歯を高速で回転させます。鎌の怖さが身に染みているので、とても怖くて手を出す気にはなれませんでした。
 されど10年くらい前に高齢の母親がエンジン式の草刈り機を導入。

 正直なところ息子としては止めて欲しかったのですが、除草のおかげで畑作ができているわけですから、なかなか口を出しにくい。さすがに母親もそろそろ...と思ったらしく今回、背の低い彼女の手が手が届かない畑脇の土手(写真)を除草して欲しいとのこと。
 実家に着いて作業着に着替えると、母親が「エンジンがかかるかどうか...」。

 どうやら草刈り機が不調で、去年は使っていない(!!)らしい。それでも数回始動させると、おぉ、エンジンがかかり...が、すぐに止まってしまいました。

 しかも先端の回転歯はまったく回転しません。母親は「回らないんだよね」と言いながら、回転歯をクルクル動かし(!!)ます。止めてくれぇーっ!!
 まぁ、電源を切っておいた──強く意識していた──ので、事故発生の可能性は低かったのですが。

 そもそも草刈り機はベルトで肩から下げて使うもの。それを外しているので理由を尋ねると「(ベルトが)重いし、いざとなったら(草刈り機を)放り出すことができるから」。
 違う違う。

 ベルトは手持ち時の負担を減らすためでなく、万一の際に先端部の回転歯から使用者を護るためのもの(たぶん)。ベルトがあれば、回転歯からある程度距離を保つことができるはずなのです。
 状況にもよるので、完璧な防護策ではありませんが。

 再び何十回も試すと再び起動。少し安定してきたのでスロットルを開くと、不意に先端の歯が回転し始めました。何だ、おそらくスクーターなどに用いられている遠心クラッチ。
 (名称や機構はともかく)彼女はクラッチのことも知らずに使っていたのね。

 しかも保護眼鏡なし。金沢工大で、然るべき実験の際に保護眼鏡を使っていなかったら、一発で単位不認定となるはず。要するに、実家で今まで事故が起きなかったのは、まさに僥倖(ぎょうこう)
 やや気落ちしながら写真の畑へ移動。
拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))

 前回の写真右上、川を背にして写真の左側を見ています。土手の上には、川下の集落への用水路が。斜面の雑草に手が届かないので刈り取って欲しいということらしい。というわけで作業を開始したのですが、エンジンの回転数が高くなると、歯が不意にもの凄い勢いで回転。
 しかもスロットルの調子が悪ため、出力を上手くコントロールできません。

 それでも歯が当たった部分は綺麗に刈り取られていきます。歯の位置の調整が難しく、少し不要なものまで切断してしまい...と、ここでまたエンジンストップ。何度起動しようとしてもエンジンが掛かりません。
 仕方ないので、1km弱山道を登って、詳しい人の所で調整していただくことに。

 ただしその前に、実家から長い鎌を持ってきて、写真左側の雑草をざっと刈り取りました。つまり左側は人力による除草。不揃いな部分が多いのはそのため。途中は省略しますが、調整の後、再び草取り。
 何とかエンジンが起動したので今度は写真右側、細い竹の藪を刈り取ります。

 微調整ができない分、スロットルを開き気味しているので、何でもかんでも切れます。草や細い竹は当然として、状況によっては灌木(かんぼく)も切断可能。冗談抜きで、本当に怖い。これを高齢の母親が...。
 と、突然、エンジン停止。

 残念ながら今度は、どうやってもエンジンが掛かりません。機械での作業を諦めて、再び長い鎌で刈り取り(写真はその前に撮影)。ここで母親のストップコールが掛かったので、今日の作業は終了。
 一つ予想外だったことが。

 調整のために草刈り機を運んでいた時に気づいたのですが、意外に重い。たぶん10kg近くあるはず。母親によると、「軽い女性用のものを選んでもらった」とのことですが、それをベルトなしで長時間使用。
 まぁ、このマシンを使い続けるかどうかは別にして今後、畑の除草はセンセイがするしかないか...。

 というわけで、自らの不明も含めて西村センセイ、ホロ苦い草刈り機デビューとなったのでした。

 トホホ。



6月9日(日) 縁石に書かれた3桁の数字 ──地域最大のイベント「えんま市」が迫ってきました──

 昨日お伝えするつもりだった話題。

 写真は先週、柏崎市旧市街地を歩いている時に気づいて撮影したもの。坂を上りきった場所にある交差点──旧市街地中心部は海岸沿いの砂丘の上──を渡ろうとしていたので、通常より少し低い位置から道路を見る格好に。
 交差点脇、車道と歩道の境界部分に水性ペンキで3桁の数字...あ"っ。

 センセイは現地の人間なので、もちろん即座にその意味を理解しました。念のため、道路(柏崎市東本町)を西に向かって歩きます。
 実測はしていませんが、約1.8mごとに白い線
(写真左手前)で区切られて、連続した数字が振られています。

 ただし東本町交差点から60mほど歩いた場所のみ、「×」(写真右手前)が書かれています。ここは通路。そしてその奥にあるのは「閻魔(えんま)(2枚目の写真)
 お察しの通り、何度もお伝えした地域最大のイベント「えんま市」が、次の週末に迫っているのです。

 ちなみに、左側の掲示板に掲出されているのは、今年の「えんま市」のポスター。

 「えんま市」の日は、柏崎市東本町(および西本町の一部他)を通行止めにして歩行者専用とし、たくさんの露店が立ち並びます。3桁の数字は各露店に割り当てられた場所を示しています。
 もちろん「×」は「閻魔堂」への通路を確保するためのもの。

 当地で生まれ育った人々にとっては本当に大切な行事。特に、去年の父親の行動──血の繋がった息子であっても理解しがたい部分がある──もそうなのですが、高齢者の情熱には驚かされるものがあります。
 当地に嫁いだり、仕事で転入してきた方々などには、この皮膚感覚を理解していただくのが難しい。(そりゃそうでしょう)

 明日からは「えんま市」の準備も本格化するはず。コロナ禍をひとまず抜けた昨年は、これまでで最高の人出だったとのこと。それからさらに1年が経過。しかも太平洋高気圧の張り出しが弱く、偏西風も南に偏っています。
 結果的に東日本は梅雨入りが遅れており、当地の来週の天気もさほど悪化しない見込み。

 果たして、今年の「えんま市」はどうなる?!

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