2012年6月23日更新(2012年7月1日ページ移動。2015年11月3日一部写真削除)
■6月23日(土) いろいろな情報が交錯する中、新装オープンしたスーパーは...
今日は朝早くから一人で新潟県内を行ったり来たり。いくつかの用を済ませて午後、自宅へ戻ります。次期ご当主様は親戚づきあいなど結構大変なのです。
帰宅してからも家族サービス。市内、ちょっと離れていて、徒歩では行けない場所に昨日スーパーがオープン。家人が行ってみたいというのです。混雑が懸念されたのですが、やはり行ってみることに。
確かめたいこともあったのです。この場所に、新潟県見附市に本拠地があるスーパーマルイがが進出してきたのは1998年。センセイ一家が柏崎市内に自宅を新築し、新潟市から引っ越してきた頃です。
自宅からは市街地を挟んだ反対側にあるため、このお店を利用する機会は少ないのですが、その後、自宅近くにオープンした店舗はかなり利用しています。個人的には新鮮な地元産の農産物、水産物を取り扱っているので、かなり好印象を持っています。されどご存じのようにこの業界は激しい生存競争の真っ最中。
市内にも県北部を拠点とするウオロクが進出し、新潟県中越沖地震で被災し閉店したPLANTが再オープンするなど、まさに乱戦状態。市内に3店舗を展開するマルイも善戦していると思いますが、その中ではこのお店が一番厳しい状況だったのです。
店舗の正確な閉店期日は知りませんが、ライバル会社が敷地と店舗を購入したのでは......などと、未確認の情報が飛び交いました。マルイのホームページからは松波店の情報が消去されているし(ただし地図には残ったまま)。
ここはやはり、自分の目で確かめるしかない。というわけで「パワーフードプラザ アトレ」へ行ってみました。予想通りの大混雑です。
最初は状況が良くわからなかったのですが、値札などをチェックしていくと、「マルイ」の文字。何のことはありません。新しい店舗形態の第1号店として再オープンしたということのようです。
個人的な気がかりは地元産品の取り扱い。でもすぐに安心しました。農産物はもちろん「地元柏崎産」と銘打たれた海産物も取り扱っています。しかも開店記念だからでしょうか、採算度外視じゃないかと思えるほどのお値段。
センセイは地元産の鯛のお刺身の柵を購入。柏崎は鯛茶漬けが「第三回全国ご当地どんぶり選手権」で第2位を獲得するなど、天然物の鯛の産地なのです。
今晩はそれを大野紫との組み合わせで頂戴しているのですが、脂が乗っていていますし、天然物ならではの身の締まりとコリコリ感、そして独特の甘さがあります。
倖せだなぁー。センセイ個人としては、地元との共存共栄を目指すこの会社──いろいろ問題点も感じるけど──には、ぜひがんばって欲しいと思っているのです。
■6月22日(金) 本格的な夏を前に、浜茶屋(海の家)の建設工事が急ピッチで進んでいます
ちょっと急ぎの用ができたので、届を出して今日はお昼に金沢を離れました。ただし新潟へ直行する特急「北越」ではなく、途中で乗り換える必要がある「はくたか」。
しかも途中の糸魚川駅で各駅停車に乗り換えます。直江津からの接続が悪いため、このまま「はくたか」に乗っていても駅でかなり待たされますし、各駅停車で行っても最後は同じ電車に乗車するのです。
「あの日はこのホームにドラマ撮影用の『トワイライトエクスプレス』が止まっていたなぁー」などと思い出しながら、2番ホームへ急ぎます。先行した「はくたか」を追いかけるように、各駅停車も出発。本線だし、駅も少ないので電車は快調に走ります。
西村センセイ、帰宅する時は疲れているので、いつも特急。今日は本当に久しぶりの各駅停車だったので、乗り慣れているはずの路線なのに、いろいろ新しい発見がありました。
たとえば写真の看板。信越本線上下浜駅(無人駅)の駅舎に貼り付けられた「マリンホテル ハマナス」の看板です。
ドラマで使用されたホテルなのですが、第3セクターの経営だったんですね。この地域、もともとは東頸城(くびき)郡柿崎町。現在では上越市に統合されて柿崎区を名乗っているのですが、ご覧のように看板の地名は古いもの。
つまりかなり前から経営されていることになります。ちなみに、この駅で下車した人はいませんでした。
柿崎駅から先、電車は海岸線のすぐ脇を走ります。やはりいつもと違う時間帯の乗車なので、初めて気づくことがあります。
柏崎駅の一つ手前、写真の鯨波駅付近は、この地域では大きな海水浴場になっています。地元はもちろん、群馬県の方が高速道路を使ってたくさんやって来る場所です。中国映画「頭文字 D」のロケも行われています
1ヶ月くらい前から浜茶屋(海の家)の建設工事が始まっていたのですが、今日、現場を通ると工事は真っ最中。入り口付近で工事の人がこちらを、つまり走り過ぎる電車を見ながら一服しています。
今回の颱風で太平洋側では場所によって、建設中の海の家は壊滅的な被害を受けたようです。ただし日本海側はその進路の左側──颱風自身の風がその進行によってある程度相殺される──だったこともあって、幸いにも目立った被害はありませんでした。
もう1週間ちょっとで7月。曇り空の向こう、本格的な夏はもう、目の前なんですね。
■6月21日(木) 今日の晩ご飯、材料費は273円。(ただしビール代を除く)
どうも疲れが取れないので、今週はとにかく安全運転。センセイにしては珍しくゆっくりと起床し、早めに就寝。それだけではありません。食べ物にも気をつけます。
西村センセイ、いつもの夜は近くのスーパーで値引きされた惣菜を買って帰宅します。でもこのパターン、今週はまだ1回だけ。他の日は野菜を買ってきて、自分で調理しています。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、センセイは8年間の大学学部時代の後半、新潟市内の中華料理店でアルバイトのコックとして働き、生計を立てていました。
だからセンセイ、実は料理が得意。今日のメニューは白菜と豚肉の甘酢炒め。
お店の正規メニューにはなく、従業員の「まかない飯」として時々作っていたものです。でも西村センセイ、金沢では1人暮らしで、誰かに食べて頂くもらうわけではありません。
「本格度」より、調理や後片づけの手軽さの方が重要。というわけで今日、スーパーで購入したのは一番小さな白菜(1/4カット)、人参(1/2個)、石川産和豚もちぶたの細切れ150g(最少量のパック)だけ。
以上、代金は273円。週末は帰宅することもあって、何も残さないように材料は最低限に押さえます。本当はもうちょっと大きな豚肉を購入すべきなのですが、まな板の上でカットする必要がないので、細切れにしました。
衛生管理の問題も考える必要があるのです。まず豚肉のパックを開いて味付けします。こちらは市販の焼き肉のタレで代用。
片栗粉をまぶしてから30分ほど置き、味を馴染ませます。その間に白菜と人参を適当な大きさにカットしておき、フライパンに火を入れて、いよいよ料理に取りかかります。
ここから先は、スピード──というか、要領──が命。本当は先に、豚肉にさっと火を通しておくべきなのです。
でもこれだと仮焼きした肉を取り除き、しかもフライパンを再洗浄する必要があります。そこで今回は手抜きをして、白菜の根の近く、白く厚い部分をさっと炒め、まだフライパンに熱が残っているうちに豚肉を入れて、塊のまま火を通します。
片栗粉をまぶしてあるので、肉をジュージュー焼くのではなく、小さな塊の表面に焦げ跡をつける感じ。ここに残っていた白菜の薄い葉を入れます。後は火力と調味料の使い方。ご存じの方も多いと思いますが、基本的には「さしすせそ」、つまり砂糖(さ)、塩(し)、酢(す)、醤油(せ)、味噌(そ)の順。
ただし今回、味噌は無関係。最初に料理酒を適量振りかけます。フライパンが一気に冷えて、アルコール分が飛ぶのがわかります。砂糖──計量と管理の手間を省くためスティック・シュガーを使用──を満遍なく入れますが、塩は使いません。
料理酒と調味料──センセイは35年、味の素の「中華味」を使い続けています──の中にかなり塩分が入っているのです。現役時代は一升瓶の口を親指で押さえてそのまま振りかけていた酢を、分量に気をつけながらふりかけ、醤油で味付け。最後の最後は水溶きの片栗粉で締めます。
ビールを飲みながら頂いたのですが、自転車の乗り方と同じで、誤差やボケはあるものの、一度獲得した能力は時間が経ってもすぐに蘇ります。
今回はちょっと手が滑って酢が多め。そこだけは反省材料だったのですが、基本的に許容量内。数年ぶりの調理とは思えません。学生時代に、オフの日のセンセイのアパートに、焼きそばその他の料理を求めて同級生──ただし2回目の学部生なので、年齢は数歳下の──が集まってきたことを思い出しました。
考えてみるとあの連中も、もうすぐ50歳の大台なんだよなぁー。
■6月20日(水) 繁盛しているように見えたんだけど... ──大学近くの回転寿司店が閉店してしまいました──
スーパーで食材を仕入れて、「雨が降らないうちに」と自転車で急いでいると......あれ?!
道路沿いの見慣れたお店が解体されています。その日の作業は終えたらしく、店の跡地には2台の重機。
幹線道路に面した表側に出てみると、看板とコンクリート製の門が残っているだけです。
ここのあったのは回転寿司「すし食いねぇ!」久安店。回転寿司だからといって侮ってはいけません。石川県や富山県の回転寿司はとてもレベルが高いのです。
新潟も美味しいけれど、それよりずっと上です。特にこのお店は氷見港(富山県)や橋立港(石川県)で水揚げされたネタを使っていたので、価格からは予想できない美味しさ。
残念ながら大学からちょっと離れていることもあって、センセイは数回しか利用しませんでしたが。東京から大学関係者がお越しになった際にこのお店を使ったのですが、お客さんは本当にびっくりしていました。
しかも安い。食べ盛りの学生さんは当てはまらないでしょうが、センセイなんかだと数百円のセットで十分満腹になります。実際、ビジネスマンや中年女性のグループなどで繁盛していたのです。
ホームページからはすでにこの店舗の情報は削除されています。今晩再び通ってみたら、看板も、門も撤去されていました。個人的には閉店の理由を思いつきません。ホントに、なぜなんだろう。
■6月19日(火) 金沢駅とその周辺でも、北陸新幹線の工事が進んでいます
写真が暗いのは、颱風4号が迫っているから──実際、迫っているんだけど──ではありません。日が暮れて本当に暗くなってきたからです。ネオンサインの輝きでわかりますが、真っ暗に近い状態を補正しています。
写真はこの日曜日、柏崎の自宅からに電車で金沢駅に移動する際に、金沢駅の手前で撮影したもの。
中央は金沢駅前のビル群で、奥に一番高い日航ホテルが見えています。新潟・富山方面から電車で金沢駅に近づく時、車両基地に出入りする列車との関係で、電車は高架橋を2回渡ります。
この時、東側(山側)に別な「線路」を見ることができます。数年後に開業が迫った北陸新幹線の線路です。
もっとも、「線路」といってもコンクリート製の床があるだけだったのですが先日、いよいよ線路の敷設工事が始まりました。
2ヶ月前に富山県内で見たものです。ここはまだですが、富山県内では架線を張るために線路脇に建てる電柱の工事がかなり進んでいます。
金沢駅構内でも、東口にあった旅行センターやコンビニが撤去されて、新幹線の改札口を設けるための工事が開始されています。北陸新幹線の工事が、いよいよ最終段階に近づいているんですね。
■6月18日(月) 新潟県柏崎市。立派な「寮」の駐車場にある車は皆、なぜか関東ナンバー
もう一晩だけ週末の柏崎市のお話を。
えんま市の会場から自宅へ戻る途中に、りっぱな「寮」(写真後方)がいくつかあります。門柱には会社名は記載されておらず、地名から作られた寮の名前──もし金沢工大の近くにあったら「扇が丘寮」──だけが記されています。
寮内には集会所や公園もあり、数人の母親が子供たちを遊ばせています。その表情は、まるで何ごともなかったかのよう。いずれも別棟の立派な車庫がある(!!)のですが、不思議なことに車のナンバーは関東圏のものか「いわき」ナンバー(福島県東部)。写真はたまたま小型車ですが、大きな車もあります。
ただし外車は皆無。これらの寮は、東京電力の社員寮(家族寮)なのです。
新潟県内はほとんど東北電力管内ですが、柏崎市内には、ここから300kmも離れた首都圏で電力を供給している柏崎刈羽原子力発電所──現在は全機停止中──があります。
そこで働いている人たちのための施設です。原発を動かすためにはたくさんの下請け、孫請け企業が必要なのですが、そこで働く人たちはもっと安い民間のアパートに居住しています。
ここ柏崎市は原子力発電所の城下町なのです。お伝えしたようにセンセイは先週末、山形、仙台、そして秋田へ旅してきました。
そこで見た光景や、遇った人たちが語る福島第一原子力発電所事故の被害は言葉に尽くすことができません。
痛みが皮膚感覚で伝わってきます。でも柏崎市では地域住民の多くが皮膚のその緊張感を共有しているのに、人々がそれを口にすることは滅多にありません。
東京電力の社員、特に高卒レベルの社員は、交替で福島での危険な復旧作業に従事しているのです。それぞれに事情があって、いろいろな思いを抱えながらも、なかなか口にできないないのです。
でもまさにその状況を利用して事を進めていく人たちには、実はみんなが違和感、あるいは嫌悪感を密かに覚えているんだと思います。だって悩んでいる人たちの話を聴く気なんて、彼らにはこれっぽっちもないのですから。
■6月17日(日) えんま市の裏側で ──大きな地震から5年、8年、そして48年──
えんま市をのぞいては見たものの、小さな子供がいるわけでもないので、坂を下って自宅へ戻ります。柏崎市の旧市街地は、海岸に沿って形成された砂丘の上にあるのです。
ふと思い立って、砂丘を降りたばかりのところにある細い道で撮影したのが写真。中央左側、砂丘の上の、紅白の幕が見えるところで左右に広がっているのがえんま市の会場です。ご覧のように、砂丘といってもかなりの高さがあることがわかります。
ここから手前──つまり内陸側──は、かつて川沿いの湿地帯だった場所。粒の粗い砂からなる砂丘と、もともとは肌理の細かい泥だった場所が接しています。経験的に、地震が起きるとこのような場所ではとても被害が大きいことが知られています。
2007年4月16日に発生した新潟県中越沖地震では、鉄筋3階建てのビルを含めて、この付近にあった建物はほぼ全て全壊してしまいました。良く考えてみると西村センセイ、中越沖地震後にこの場所を訪れるのは初めて。
砂丘の上はそれなりに復興していますが、それ以外の場所は瓦礫こそ撤去されたものの、そのまま取り残されています。
地盤の様子からすると、工事はセンセイが生まれた1950年代ではないでしょうか。残念ながらその当時の工事の水準では、大きな地震に耐えられなかったというわけです。
市内には、このような更地があちこちに存在します。そこに建物が存在して、普通の人々が普通の生活を送っていたことがだんだんわからなくなっていきます。
おそらく東北地方でも、同じようなことが起きているんでしょう。復興すらかなっていないのに。この地は48年前の昨日(1964年6月16日)、つまりえんま市の2日目に新潟地震に襲われました。
小学1年生だったセンセイは学校から集団下校する途中。今でもその時の様子を鮮明に覚えています。もっとも当地の被害はたいしたことはなかったのですが。
そしてこの地は2004年10月23日の新潟県中越地震、中越沖地震と大きな地震に見舞われます。確かにセンセイは被災体験が多い方なのでしょうが、それだって程度問題。
地震国であり、颱風や大雨などの可能性を考えれば、もっと自然の力に畏敬の念を持ち、普通の生活を送ることができることに感謝すべきだと思うのですが......。
どうでしょう。