2024年5月11更新(2024年5月19日ページ移動)
■5月11日(土) 案外、影響されやすいらしい... ──19年前の餘部橋梁の写真を確認しました──
昨日の続き。
餘部(あまるべ)橋梁と駅を再訪した際の記録ですが、その後、割とあっさりと確認できました。手違いがない限り、残っていることは確実だったのですが、何しろ膨大な枚数なので内心、見つかるかどうか心配だったのです。
以下、その中から何枚かをご紹介しますが、今回は一部にぼかし加工を施しています。悪しからず。なお、本題から外れますが、2002年に購入したフジフィルム社製のデジカメ“F-401”で撮影しているはず。撮影時の画素数は現在と同程度。
しかし画質や色合い、そしてとりわけ鮮明さが大きく異なります。さて、センセイが餘部橋梁の下に降り立ったのは2005年9月、広島大学で開かれた学会からの帰りでした。餘部までの移動経路は不明です。
1枚目の写真は餘部駅のホーム。駅舎──といっても、小さな待合室があるだけ──の写真は残っていません。たぶん電池の消耗と、記録メモリの残量を気にしたのでしょう。(拡大写真(別ウィンドウ、960×720))
ご覧のように、多くの観光客が。通称「餘部鉄橋」、鉄道ファンの間では良く知られていたものの、一般的にはそれほど有名ではありませんでした。ところが1986年12月28日に列車転落事故が発生。
強風下に、回送列車(お座敷列車)を無理に運行した結果、強風で全客車が約40mの高さから地上に転落。真下の工場にいた従業員5名と車掌1名が死亡し、乗務員と工場従業員の計6名が重傷を負ったという大事故です。衝撃的だったので、センセイも良く覚えています。
この事故を契機として架け替えの議論が本格化。2005年3月に架け替えつまり旧鉄橋の廃止、解体撤去が決定されたことから、広く世間の注目を集めるようになりました。センセイはその半年後に再訪。
もともと行ってみたかったのですが、センセイも架け替えの話題に影響されているんでしょうねぇ。拡大写真でないと良くわかりませんが、一部の観光客は線路にまで降りています。非常に危険な行為。事故に至らなかったことを僥倖(ぎょうこう)と理解すべきでしょう。
お伝えしたように、センセイは険しい坂道を下ったのですが、ほとんどの方は駅や鉄橋付近に留まっていました。鉄橋の南側つまり陸地側へ約230m移動して鉄橋を見上げて撮影したのが2枚目の写真。
これで橋の2/3くらいで、全体を収めているわけではありません。しかも餘部駅──写真の左端付近──すら入っていないというお粗末な写真。(拡大写真(別ウィンドウ、960×720))
すみません。それでも写真を良く見ると、計11基ある橋脚の中で左から1番目──良く見えない──と3番目の橋脚には作業用の仮設足場が組まれていることがわかります。
この時の作業内容については知る由もありません。しかし今回の訪問時がまさにそうであったように、餘部鉄橋は常に日本海からの塩分を含んだ風に晒されています。そのため腐食の進行を遅らせるべく、年がら年中塗装などの保守作業を行っていたそうです。
センセイはこの時、2枚目の写真の位置で近くにある余部小学校の運動会を見てから餘部駅へ戻っています。3枚目の写真は、駅へ戻る途中で撮影した餘部鉄橋と、ちょうどやって来た鳥取行の特急「はまかぜ1号」。気動車はキハ181系。(拡大写真(別ウィンドウ、960×720))
餘部駅までの上り坂がいかに急か、おわかり頂けると想います。センセイはこの後、たぶん鳥取側の浜坂駅で「はまかぜ4号」に乗り、播但線経由で姫路、大阪を経由して金沢へ戻っています。
...と、長くなりましたが、これには理由が。この架け替え前の状況を踏まえて初めて、今回訪問した架け替え後の変化がクリアになってくると考えたのです。
というわけで、続く。(明日かどうかは不明です)
■5月10日(金) もう降りることはないけれど... ──約20年ぶりに、餘部橋梁の下に立ちました──
お伝えしたように、各駅停車3本(4社)を乗り継いで新潟の自宅へ戻りました。
金沢へ行く時は接続の良い列車があるのですが、帰路はどうしても途中のどこかで1時間程度待ちます。今回は富山県東部の泊駅。駅の外へ出て近くの大阪屋ショップでお弁当を購入しました。
その気になれば、町内の「五叉路 泊店」や国道8号線沿いの「食堂 颯楽」も利用可能なほどの待ち時間なのです。さて、お伝えしたように、今回は講義終了後、西日本を訪れました。
2月の山陰ツアーに引き続いての「暇乞いの旅」です。具体的には山陰本線に乗車して鳥取まで移動し、宿泊。主目的は、通称「餘部(あまるべ)鉄橋」の下に降り立つこと。正直なところ鉄道ファン的には有名すぎるので、「なぜ、今ごろ?」という感じ。
先日もNHKテレビで紹介(ただし再放送)されていたし。西村センセイ実は、餘部橋梁にはとても強い思い出が。センセイが初めて餘部橋梁を通過したのは2000年の11月。この時は、こちらも初となる「サンライズ出雲・瀬戸」の最上級SA1個室に乗って岡山まで移動し、広島大学での学会に参加。
その後、博多まで足を伸ばしてから、大胆にも山陰線全線を2日で一気に完全乗車した際のことです。ちなみにこの時は、夜行寝台急行「きたぐに」に乗車して、翌日、新潟県新発田(しばた)市の大学で朝イチの講義を行っています。若かったなぁー。それはともかく、今回は京都から特急と各駅停車2本を乗り継ぎ、餘部駅へ。
到着したのは18時半近く。すでに薄暗くなっていました。しかも今回は強い風が吹いている上に、時々雨が降るという悪条件。
2両編成の浜坂行キハ47を降りたのはセンセイと、男女高校生1名だけ。二人は先に地上へ降ります。センセイは出発する列車を撮影してから動きます。
なぜ「地上」かというと、餘部駅が地上約40mの高さにあるから。写真は、下車してから約40分後、写真右側の浜坂駅からやって来た各駅停車を撮影したもの。餘部駅は写真右端、やや上部にあります。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
山陰本線は、この余部──漢字が違う──地区を餘部橋梁、通称「餘部鉄橋」で越えているのです。写真は暗くてよくわかりませんが、拡大写真では列車の車内灯や尾灯、田植え前の田圃の水鏡に写った列車が見えます。
このコンクリート製餘部橋梁は2代目。(2010年供用開始)現在は写真中央部の青く光るエレベータで昇降することができます。有名な先代は鉄橋で、そのような設備はなかったため利用者は皆、急な斜面を上り下りしていました。
なぜ断定的な表現を使うかというと、センセイも旧橋時代にそれを経験しているため。2000年に初めて山陰線に乗車(京都付近を除く)して、その魅力に感化された西村センセイ、その後も機会あるごとに山陰線に乗車してきました。その数年後、餘部駅を再訪して「地上」まで実際に降りことに。
曲がりくねった急な坂を降りた先の余部は、静かな地域。近くの小学校で運動会──たぶん地域の運動会──が開かれており、地域の人々の息づかいを強く感じました。それが記憶の鮮明さの理由でしょう。
ただし、申し訳ありませんが、すべての旅をこのサイトで報告しているわけではなく(隠しているわけでもない)、その時の訪問については紹介しませんでした。
約20年前、架け替え工事が始まった2007年以前であることは確実。乗車券類もたぶん残っているはずなのですが、まだ見つかっていません。その時の写真も同様で、現時点では正確な訪問日は不明です。
ただしおおよその期間はわかっているので、近日中にその時の様子を含めてご紹介できるのではないかと考えて──というより「期待して」──います。2枚目の写真は昨日、鳥取駅を発ち、浜坂で列車を乗り換えて余部橋梁を通過中に撮影した写真。1枚目の写真とはほぼ逆の位置関係で、上の写真は、2枚目の左端中程から撮影しています。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
白波が見えますが、これでも静かな方。前日はこんなものではなく(撮影済)、とんでもない状況──ただし日本海側の海岸部で暮らす人々には理解してもらえる──でした。写真を良く見ると、海に面した中央部の家屋の向きが揃っています。
他方、山の陰などは必ずしもそうではない。これは日本海からの強い風に耐えるための智慧(ちえ)。
この地を再訪して本当にいろいろ感じ、そして考えされられました。強行軍だったため、高齢者のセンセイは本当にヘロヘロですが、訪れた甲斐がありました。やはり山陰本線の魅力は尽きることを知らない。
他方、今回は「暇乞いの旅」。2月の山陰ツアー同様、奥が深すぎるため、「これが最後」と言いながら、また来てしまうことになるかもしれません。でもそれはそもそも、「センセイが物理的に存在していたら」ということが大前提。
それが実現したとしても、その時センセイは、この場所を大阪─鳥取間に1往復だけ残された特急「はまかぜ」の車窓から見るだけ(のはず)。つまり、この余部の地に足を降ろすことは、もう、ない。
その意味ではやはり、暇乞いの旅だったようです。(続く)
■5月9日(木) 繁忙期やハンディを持った方にはチトきついかも... ――北陸新幹線敦賀駅での乗換――
昨日の続き。
懸念されていた敦賀駅での乗り換えですが、少なくとも今回、結果的にはまったく問題なく乗り換えを完了し、先発の特急「しらさぎ」、そしてセンセイが乗車した「サンダーバード」は、それぞれの目的地に向けて敦賀駅を定刻に発車することができました。
今日は、関西方面へ向かう乗客の視点で感じた事柄をいくつか。敦賀駅の少し手前で、北陸自動車道上り線を上から越えます。これが新敦賀駅が高い最大の理由。続いて駅の手前で国道8号線も跨いで、盆地状――ただし北側は海に面している――敦賀に進入。
かなりの勾配で駆け下り、敦賀駅新幹線ホームへ。新幹線駅舎は「3階」と表現されています。上から新幹線ホーム、乗り換え階、そして地上の在来線ホーム。ただし駅舎の高さは8階建てのビルに相当。
当然、とても長い階段やエレベータ、エスカレータが必要になります。今回のように、新幹線が到着した時は多くの乗客が殺到するので、エスカレータはすべて下りに固定。しかも2列に並んで乗り、静止することを求められます。
東京駅の中央線ホームへ向かうエスカレータのような雰囲気。2階に降りると、とにかく中央付近の乗り換え改札口へ。多数の改札機が用意されていますが、今回は乗客が少なかったにもかかわらず、人の流れがここで遮られがち。
今回は特に、勝手のわからない外国人利用客の混乱が目につきました。改札を通過すると「サンダーバード(利用客)は青、しらさぎはオレンジ...」と、床に描かれた色の線に従って進むようアナウンスされます。
なお「サンダーバード」については、車両前方と後方に分かれて行動します。さらにエスカレータ等で降りると、在来線の2面4線のホームに至ります。センセイ個人の場合、乗り換えの所要時間は約5分。つまりそこだけを見ると、問題はありませんでした。ただし、まず気づいたのが移動距離の長さ。
相当歩きます。センセイの場合、「つるぎ」の自由席――東京寄りの1号車――から「サンダーバード」の、騒音と振動が少ない「サハ」車両の8号車――大阪寄り――まで移動したということも関係しています。
ただしそれがなくても、かなりの距離。つまり通常時の健常者にはさほど問題がなかったとしても、心身にハンディのある人々や高齢者、小さい子供連れなどにはかなり厳しい状況。特に、繁忙期にはそれが顕著になる(/なった)はず。
配置されたJR職員の数がそれを物語っていました。他方、今日は在来線から北陸新幹線に乗り換えたのですが、こちらはそれほど乗客が集中しませんでした。色のラインのようなガイドも用意されていませんが、それでも大した混乱はなかったようです。
なぜこんなに違うんだろう。それはともかく、無事に金沢へ戻り、本来の目的である研究会に参加。ただし、金沢駅からのバスに乗客が集中して、運行が大幅に遅延したため開始時刻には間に合わず、発表者をはじめ皆さんに失礼をしてしまいましたが。
すみません。新幹線をあまり好まない西村センセイ、明日は在来線を乗り継いで新潟の自宅へ戻ります。
■5月8日(水) 車窓からはっきり見えます、金沢工大が ――北陸新幹線の延伸区間に乗車しました――
「論より証拠」が、右の写真。
お伝えしたように、センセイは今日の講義を終えてから、西日本へ移動しました。夜遅くなってから、今晩の宿泊地に到着しました。本当の目的地(≠宿泊地)については、改めてお伝えします。
まだ仕事が残っているので、今日は手短に。北陸新幹線の延伸区間に乗車することが今回のツアーの目的だったわけではありません。ただし新幹線開業後の現在、北陸から関西へ移動する場面で旧北陸本線に乗車することは、まずない。
特に今回は時間がないし。実は金沢工大からの乗り継ぎがあまり良くなく、金沢駅で40分くらい待ってから「つるぎ」に乗車。全12両編成ですが、自由席はわずか2両でした。
その自由席の乗車率は10%以下。まぁ、連休後ですからねぇ。定刻に金沢駅を発ったのですが、高架ということもあり、車窓の風景がかなり違います。西金沢駅――高架なので、駅舎を見ることはできない――付近で撮影したのが写真。
金沢工大扇が丘キャンパスの建物群です。内輪の話になって申し訳ありませんが、左から順に31号館(高専)、24号館、7号館、21号館そして図書館棟など6号館の一連の建物。
他方、23号館や27号館、8号館、そしてセンセイがいた1号館は、建物の陰になって見えませんねぇ。こんなにはっきり望むことができるとは思ってもいませんでした。逆に言うと、これらの建物からは走行中の北陸新幹線が良く見えるはず。
ただし、新幹線はこの辺りから高速走行に入るので、金沢工大はすぐに遠くへ去ってしまいました。加賀温泉駅を過ぎると今度は、山代温泉の建物が。こちらは在来線からも見えるのですが、新幹線からだとより一層明瞭に迫ってきます。「つるぎ」は各駅停車なので、加速と減速を繰り返して終着の敦賀駅へ。
この間、在来線の特急「サンダーバード」(大阪行)と「しらさぎ」(名古屋行)への乗り換えの案内が繰り返されます。西村センセイ、北陸新幹線そのもにはあまり魅(ひ)かれませんが、お伝えしたように、敦賀駅での乗り換えには強い興味が。
さて、どうなる?!(続く)
■5月7日(火) 31時間、どうしようか... ――西村センセイ、初めて「株主優待割引券」を使ってみる――
というわけで、お約束通り、在来線の列車で金沢へ移動しました。
写真は、今回の移動で最初に使用した最寄り柏崎駅から新潟県内の乗車券。もう、ポイントはおわかりですよね。でも、その前に多少、蘊蓄(うんちく)を。今回、金沢工大での講義は通常通り。
でも翌日の夕方、かつて所属していた研究所主催の研究会が。センセイは退職した身なので、今後どうなるかはわかりませんが、少なくとも今回は参加させていただくことにしました。
それ自体は何の問題もないのですが、移動や宿泊をについては考慮する必要があります。講義は水曜日の朝イチ。そして研究会は翌、木曜日の夕方。
ひとまず自宅に戻って出直すか、そのまま金沢に留まるか。いずれにせよ講義に必要な費用は大学が負担する――当たり前――ものの、それ以外は個人的な私的な支出。お金だけでなく、時間も問題です。
講義終了から研究会の開始まで、31時間。つまり1日と7時間。つまり費用も時間も、宙ぶらりん。...さて、どうしよう。
いろいろな選択肢があると思います。でもお察しの通り、センセイの場合は一択。金沢に来たこの機会に、可能な限り西方へ列車で移動することに。
今年2回目の「暇乞いの旅」です。そしてこの機会に、知り合いから譲って頂いたJR東日本の「株主優待割引券(4割引)」を使用することにしました。券面右下の枠内が、その割引を適用したことを示しています。「4割引」は大きい。
要するに、半額近くなので。ただし、実はいろいろ制約があって、まず有効期限は6月末まで。そしてJR東日本管内のみ。そして適用できるのは片道乗車券だけ。それでも(JR東日本管内の)どこか遠くへ出かけるのなら役に立ちます。
でもセンセイは、すでに各種料金が3割引きとなる「ジパング倶楽部」に入会済で、実際にはこちらの方が安い。このままだと、ご厚意に応える機会がなさそうなので、敢えて今回、最寄り柏崎駅―直江津駅間のみの割引――その先、えちごトキめき鉄道管内は適用外――ではありますが、株主割引を適用させていただきました。
本来の料金は、両社の区間を合わせて1,990円。それが1,710円ですから280円の割引となります。割引券を2枚頂戴したので往復に使用して、計560円。白状すると、ありがたいという気持ち以上に申し訳ないというのが本当のところですが、ご説明したような事情で、まぁ、今回は仕方ない。
何しろ、譲って頂いた先方の方は西日本在住で、優待券をまったく使えないのですから。さて、センセイは「西」のどこを目指しているのか...。(続く)
■5月6日(月:休日) よく働いたご褒美と理解することに... ── 一部のフジの花の色が濃くなりました──
連休最終日。
センセイも水曜日の大学院講義のために、明日は金沢へ移動します。また今朝は講義の準備。前回の講義から約2週間が経過するというのに、直前にならないと次回の準備に取りかかることができない。
記憶にある限りでは、小学校中学年からの悪い癖です。トホホ。1時間半ほどで準備を終えると、車で実家へ。つまりこの連休は、最後の最後まで実家通い。
まず向かったのは菩提寺。昨年末に急逝(きゅうせい)した甥を、実家の墓に分骨することになり、和尚──曹洞宗では「方丈(ほうじょう)さん」と呼ぶ──と日程や段取りを調整する必要があるのです。
駐車場で一番下の弟夫婦と合流し、方丈さんとご相談。ご挨拶をしてお寺を後にし、実家へ。他方、すぐ下の弟も筍掘りのために今日は実家へ。彼の手によって筍はすでに収穫され尽くしていたのですが、その数、何と30本以上。凄い。
久しぶりに兄弟3人揃って、お昼を頂きました。帰宅時に撮影したのが、写真。お伝えした「藤色のトンネル」の一部です。フジの花の色が、急に濃くなったのです。実家への走行中に気づきました。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
ただし、一部のフジだけ。同級生の実家裏には本当に立派なフジがあるのですが、残念ながら、そちらはまだ乾いたような淡泊な色のまま。両者の違いの原因や、色が濃くなった理由ははっきりとしません。
当地は明日からは下り坂の天気。その後の様子で、母親が主張するように、原因が水分なのかどうか、ある程度判断できるかもしれません。
なお、右の縮小した写真よりも、拡大写真の方が少しは実物に近い感じがします。しかしそれでも、やはり本物の、魅了されるあの高貴な色を再現できません。そしてご紹介したお宅のフジの色の足元にも及ばない。
別に、競争しているわけではないのですが...。それでも、まぁ、ごく短期間とはいえ、こんなに美しいものを愛(め)でることができることを言祝(ことほ)ぐべきでしょう。個人的には、割とよく働いたこの「連休」のご褒美、と解することにします。
なお、これまで2回の講義については自動車を使いましたが、少なくとも明日は在来線、つまり列車で金沢へ移動する予定です。その理由については、明日。(たぶん)
■5月5日(日:祝日) 西村センセイ、人生最後(?)の自転車用「虫ゴム」を100円ショップで購入する
何度もお伝えしているように、この連休は毎日のように実家へ。
先週月曜日、乾燥中のワカメを拝見してから実家へ向かったのですが、自転車に乗ろうとして、何だか変。後輪の空気がかなり抜けています。最近、入れていなかったので、パンパンになるまでポンプで空気を入れました。
空気入れを外すと、はっきりと「シュー」という音が。前輪は交換していただいたばかりですが、後輪はずっとメンテナンスしていません。「もしかすると空気の圧力を高めすぎたために、タイヤあるいはチューブが...」と思ったのですが、そうではないらしい。
音は、空気を注入するバルブ付近から。たぶん虫ゴムの劣化だろうと目星をつけてバルブを外すと予想通り、黒い虫ゴムが上下に分裂してしまっていました。先ほどの注入で一気に裂けてしまったようです。
さて、どうしよう。金沢でも自転車に乗っていたので、かつては虫ゴムの予備を持っていたのです。それを廃棄したかどうかは覚えていませんが、自宅では見ていない。
自転車での移動を諦めて、車で実家へ向かうという選択肢も。ふと思いついて、虫ゴムの根元部分(写真左側)を残したまま、長い部分を根元の方まで差し込むと、あら、根元付近まで簡単にスッポリと入ってしまいました。
バルブを装着して空気を入れてみると、何とかなりそう。お察しの通り、そのまま自転車を走らせて実家へ向かったのですが、途中で深く反省することに。虫ゴムの残った部分もかなり劣化しているはず。
奥まで簡単に差し込めたのは、そのため。冗談抜きでヒヤヒヤしながら、ご帰宅。
翌日の火曜日にホームセンターの自転車コーナーその他をまわり、100円ショップで40cm×3本の虫ゴム(写真奥)を購入しました。このまま新品に交換しようかと思ったのですが、やや勢いが足りずにこの日は断念。
白状すると今日も、古い虫ゴムのまま実家へ往復。さすがに、いつまでもこのまま...というわけにもいかないので帰宅後、書斎で虫ゴムを交換しました。改めてよく見ると、ゴム全体が劣化していますねぇ。ネット上の情報によると、少なくとも年に1回は交換すべしとのこと。
もちろん、作業は問題なく完了。バルブを元に戻して空気を注入し、現在は様子を見ているところ。
センセイは子供の頃からこの「英式」と呼ばれるバルブの自転車しか乗っていませんが、現在、このタイプのバルブ(こちらの上部)は軽快車などで用いられており、マウンテンバイクやロードバイクでは別な米式/仏式が用いられているとのこと。
知らなかった。その英式についても、今回のように虫ゴムの劣化が発生しやすいため、虫ゴムを使わないタイプのものも販売中。国産品(例:ブリジストン社製バルブ(p.4の「バルブ」))でも約600円(2個セット)ですし、評判も悪くありません。
年金生活者のセンセイも問題なく購入できます。...が、センセイは虫ゴムを買ったばかり。仮に、1年に前後輪で4cm、家人のものを考えて8cm使用したとしても消費し尽くすまで15年を要します。もちろんその頃には、自動車以上に自転車には乗れなくなっているはず。
というわけで今回、センセイは人生最後(?)の自転車用虫ゴムを購入してしまったらしいのです。それも、100円ショップで。(100円ショップを蔑視(べっし)しているわけではないので、誤解なきよう)
「トホホ」と結ぶべきか、「自転車の天寿を全うした[予定]ので、言祝(ことほ)ぐべき」とすべきか、「100円ショップで終わるのはセンセイに似合っている」で終わらせるべきなのか...。
さて。