2017年4月22日更新(2017年4月30日ページ移動。2019年5月1日写真削除)
■4月22日(土) 移動の楽しみが一つ増えたのは良いけど、チト高い ──滑川の割烹がラーメン店に変身!! ──
今日は見たままのお話。
ご存じのようにセンセイは毎週末、新潟の自宅へ戻っています。かつては原則として電車で移動していましたが、北陸新幹線開業後は自動車がメイン。
というか、ここ数ヶ月は帰宅のために電車を使っていません。当然、途中での関心事や楽しみも変化します。その一つがお昼の食事。お伝えしたように黒部市(旧宇奈月町)の「うなづき 五叉路」に寄ることが多いのですが、先日のように通過してしまうことも。
そこに最近、変化が。滑川市内、道路沿いに割烹があるのです。もちろん入ったことはありませんでした。ところが先月からお店の周りに幟旗(のぼりばた)が立つようになったのです。何とそこには「ラーメン」、「自家製麺」。
割烹が、ですよ。しかも駐車場の様子を見るとかなり繁盛しているらしい。そして割烹の看板の文字が消されていることに気づきました。
これはもう、入るしかない。先日お店の前を通りかかると、遅い時間だったこともあって駐車場に空きが。車を止めて外観を確認すると、どう見ても割烹のまま。
お店の階段にパイプ椅子が数脚。順番を待つお客さんのためでしょう。手動の横引き扉を開けると、玄関。それは当たり前なのですが、靴を脱ぐ必要があります。廊下の両脇には個室。
要するに、何もかもが割烹のままなのです。店内は混雑しています。1人であることを告げると、カウンター席へ通されました。カウンターの向こうは調理場。
ご主人ともう一人が声を掛け合って、真剣な表情で作業中。何がお勧めか分からなかったので、つけ麺をお願いしました。メニューを改めて確認すると、基本的には他に、「濃厚和風らーめん」と「マー油らーめん」のみ。
調理場奥の壁に保健所が発行した営業許可証が掲げられており、そこにはご主人のお名前が記されていました。かつての割烹(こちらに紹介記事あり)はご主人の名、そしてこのラーメン店「自家製麺処 森屋」は姓を、それぞれ使っていらっしゃるんですね。
届いたのが写真のつけ麺(1,000円)。一番驚いたのが麺の色。うどんと見紛(まが/まご)うばかりの白色なのです。スープをほんの一口だけ頂きます。
普通ならインパクトを狙って、「これでもか」というほど魚粉で味付けするところ。でもこのお店はとても淡泊。それでいて奥が深い。塩分も控え目です。表面に粒子状のものが見えますが、これは柚子。
スープの中にはメンマと味付け卵。刻み海苔と鰹節、そして巨大なチャーシューの下から太い麺を取り出していただきます。変な癖はなく、コシもしっかりしています。
チャーシューは良い肉を使っているのですが、センセイには生っぽくて無理でした。つけ麺やラーメンは「深層水仕込み」が特徴とのこと。滑川は富山湾の深層水で知られているのです。味の細かい部分まで気を使っているのがわかります。
美味しく頂きました。
■4月21日(金) このマーチの持ち主は現在、どうしていらっしゃるんだろう... ──訃報を受け取った日──
先日アパートの近くを歩いていた時のこと。
センセイのアパートは、あちこちに田圃が残るものの、基本的には新興住宅街。道路は碁盤の目状態なので、昨日ご紹介したお宅の1本隣の道を歩いてみました。
以前も通ったことがあるはずなのですが、驚かされることばかり。その一つが、あるお宅の車庫に納められた日産マーチ。
フロントグリルの形状から2000年前後に販売されていた2代目K11系の後期型であることがわかります。センセイは以前、同系統デザインの日産プリメーラ(P11)に乗っていたのです。
で、このマーチ、ご覧のように長期間動かされた気配がありません。前輪の空気もかなり抜けています。もしかするとセンセイはナンバープレートをつけたまま放置された車(こちらやこちら)フェチかもしれない。
でも他の車と、このマーチには違いがあります。他の車はアパートあるいは貸駐車場に放置されているのに対して、この車はご自宅──たぶん──の車庫の中。
左隣の自転車はバリバリの現役です。とても気になってしまう。残念ながら、考えられる一番ありそうなパターンは、このマーチを運転していた方が高齢になり、病を得て運転が難しくなったという状況。
前任校の、癌でこの世を去った同僚の場合、奥様は車をそのまま車庫に残していらっしゃいました。繰り返しになりますが、ここは新興住宅街。同じような時期に、似たような世代の人々がこの地に居を構えました。
昨日のお宅も、アパートの向かいの豪邸も、隣の大家さんも同じような世代。恐らくこのお宅を含めて、その世代が一つの大きな節目に差し掛かっているのですこのマーチの件は決して他人事ではありません。実は昨日、師匠の奥様の訃報が届いたのです。今月3日に逝去されたとのこと。
1年以上連絡が取れず、心配していたのです。ご主人、つまり師匠は2005年5月に逝去されました。それ以後の12年間、奥様は東京都小金井市のお宅で一人で住んでいらっしゃいました。師匠とセンセイの関係は、徒弟制度のようなもの。
若い方に理解していただくのは難しいと思います。結婚したばかりのセンセイ夫婦が、住み込み──実際は敷地内の師匠が所有するアパート住まい──のような形で、朝から夜まで薫陶(くんとう)を受けました。
でも、いつか子は親を、そして弟子は師匠を追い越す瞬間を迎えます。(言い換えれば、それができない子や弟子の行く末は悲惨そのもの)。浅学非才のセンセイが、文博かつ理博でNature誌に寄稿し、多くの弟子──センセイはその最後の末成(うらな)り──を育てた東大名誉教授の師匠を凌いだなどと主張するつもりはありません。
その、師匠亡き後をずっと導いてくださったのが、奥様。ご冥福をお祈りいたします。
■4月20日(木) 咲き始めた芝桜と、動いているところを見なくなった自動車
今日は夜に金沢工大学園(大学+高専)全体の教職員総会が金沢市内で開かれます。
新入会員の歓迎と新年(度)会を兼ねたようなものなので、最後はアルコール入りで会員相互の親睦を深めます。というわけで、センセイは徒歩でご出勤。
大学から会場まで直通バスが運行されるのです。西村センセイ、雨が降っていなければ自転車で通勤するし、雨の日や荷物がある時は自動車を使います。つまりこの季節、今日のように晴れた日に徒歩で出勤するのはとても珍しいこと。
自転車や自動車だったら前方を注視しているので、徒歩だとやはり目に入るものが微妙に違います。
今日はアパート近くにあるお宅の芝桜が目に飛びこんできました。咲き始めだし、このところ寒かったので、恐る恐る咲いてみた、という感じで、まだ小さく、しかも萎み気味。
近くではツツジも咲き始めました。実家は小さな用水路に面しているのですが、石垣に沿って芝桜が植えられています。93歳で亡くなった祖母が植えたもの。
お伝えしたように3月、その娘である伯母が、祖母の年齢を越えてから亡くなりました。このお宅に関して、個人的には敷地内に駐車したままのセダン型乗用車(奥)が気になっています。
ドアミラー型ではなく、フロントフェンダーにサイドミラーが付けられた古いタイプ。車そのものに関心があるのではなく、車が走行していない状態が長く続いていることが気になるのです。
ナンバープレートは装着されているので、車はちゃんと公道を走行できる状態に保たれているおに、ここ数年動いているところを見たことがないような...。
もちろん四六時中観察しているわけではないので、断定はできないのですが。
センセイがなぜ気にするのかというと...。(明日へ続く)
■4月19日(水) “0 ZERO CAFE”金沢大学前店の情報を観ようとしたら、いきなり...
例によって、水曜日のセンセイはホントに忙しい。
午後にはセンセイでないとできない、つまりよほどのことでないと代講措置を取れない講義が続きます。その後は学生との面談。それでも今日は、会議が1つしかないのが救い。
早朝から出勤して講義を準備してから、午前中の会議に臨みます。ところが、意外にも30分ちょっとで終了。ラッキー!!
いつものように1時間半を要したら、売店かほっともっとへ駆け込んで、とにかくその時点で棚に並んでいる弁当の中から1つを選ぶところ。
売り切れていたら、それも運命だと諦めるしかない。でも今日は講義の準備も終えているので、少し離れたほっかほっか亭へ向かいます。お弁当の中で塩分が一番少ない焼肉弁当を買うつもり。
......あれっ?大学脇を流れる高橋川を越えたところにある、「0 ZERO CAFE(ゼロカフェ) 大学生限定応援カフェ」が妙に気になりました。
1年半前、「びっくりラーメン」跡に「工大前店」がオープンしたお店。その後、工大前店そのものに目立った動きはないのです。気になったのは、工大前店以前から存在してた金沢大学前店。
ゼロ・カフェ初のお店のはず。北陸新幹線開業後、自動車で移動するようになって、道路脇にある金沢大学前店を確認することができました。
先日、信号待ちで停車している時に撮影したのが上の写真。活動状況を確かめようと金沢大学前店にアクセスしようとしたところ、一瞬、本来の画面が映った直後に右の画面に切り替わりました。
何と、フィッシングサイトの警告。もしかすると......と思ったのですが、冷静になって別なブラウザに切り替えると、問題なくアクセスできました。どうやらセンセイの早とちりらしい。
関係者の皆様、ゴメンナサイ。
■4月18日(火) “Do You Love Me?” ──40年ぶり(!!)に、しかもこんなところで再会するとは...──
昨年度後半、NHK BSが深夜にアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のTVシリーズ全26話と、通称「旧劇場版」を放送しました。
西村センセイ、この機会に全放送を録画し、エヴァを初めて観てみました。一時は社会現象にまでなったエヴァですが、ちゃんと見たことはなかったのです。
最初は大型ロボット──正確には人造人間──の戦記物のような印象。ただしすぐに、キリスト教(+ユダヤ教、イスラム教)の要素を設定に取り込んでいることに気づきました。例えば「使徒」はユダヤキリスト教の天使(第7使徒のみイスラムの天使)。
そもそもエヴァは「福音」そして「イブ」だし、アダムはアダム。つまりアダムとイブ。ネルフ“NERV”(ラテン語起源のドイツ語で「神経」の意)に設置されているマギ(“MAGI”)・有機スーパーコンピュータは、イエスが生誕した際に東方から訪れた3賢人(3博士)。3台の名称は3賢人の氏名そのもの。
何から何までこのような調子なのです。「ふ〜ん、そうなのかぁ」と思いながらぼんやりと観ていたら、シリーズ後半から主人公シンジと3人の女性の心理描写が主体に。有名な話ですが、TVシリーズ最終2話は、ほぼ心理描写だけ。
彼らのやりとりは、どこかで感じた/考えた/読んだ話......あ"っ。自宅書斎で本棚から取り出したのが、写真の本。R.D.Laing(「レイン」と読むことが多い)のDo You Love Me?という本です。
写真は村上光彦氏が訳した日本語版の初版(1978年)。当時は非常に高価だった原著も持っていたのですが、何度も引っ越しをするうちに、それを収めた箱ごと紛失してしまいました。
レインはイギリスの精神医学者。彼は現場での治療経験を踏まえて、1960年代の半ばから統合失調症に関する新しい知見を次々と世に問いました。1971年以降、日本語版も次々と出版。
邦訳のないもの、世の中にあまり知られていないものを含めて、センセイは彼の著作のほとんどを読んでいます。センセイがレインを読み始めたのは19歳。つまりセンセイが日々面接を続けている「困っている学生」と同じ年齢。当時のセンセイは、今と真逆の立場だったのです。
え? エヴァとの関係を証明しろって?例えばTVシリーズ第弐拾伍話の日本語タイトルは「EPISODE:25 終わる世界」ですが、英語は“Do you love me?”。それだけではありません。
要するに読めば分かるのです。センセイとほぼ同世代の庵野秀明氏──正確には庵野氏が3歳年下──がこの本を読んでいたのはほぼ確実。ただしセンセイはその後、この場所を出発点にして、あちこちを放浪します。
あれから40年が経過して、元の場所に戻ってきたということなのかも。庵野氏は張りめぐらした伏線の回収を途中で放棄しています。出発点に戻ったセンセイからすると、氏はこの本の世界から抜けられなかったんじゃないかと思える節があります。
センセイのそのような思考が庵野氏の意図した通りだとすればもちろん、術中に陥ったのはセンセイだということになりますが。さて、どうでしょう?
■4月17日(月) “HAKUSAI”って、こんなに背が高かったっけ? ──“KIT
Community Garden”のその後──
金沢は天気予報通り、昼過ぎから雨になりました。時々強く降ります。
というわけでその前に撮影した写真。以前ご紹介した“KIT Community Garden”の最近の様子です。
冬の間は収穫されなかった野菜がそのまま放置されていました。写真奥の鉄製柵までが金沢工大の校地なのですが、その向こう側には弁当店「ほっともっと」がお店を構えています。
だからセンセイは最低でも2日に1回位の割合で、この場所を通るのです。1ヶ月くらい前に動きがあったのですが、ちょっと見ていなかったら左側の畝(うね)の最前列“HAKUSAI”に変化が。
看板通り白菜が育つのかと思ったら、妙に背が高くなり、ご覧のように黄色い花が。菜の花です。もちろん間違えている訳じゃないんだろうけど......。大学と高専の英語の先生方が面倒を見ているはずなのですが、「面倒を見ていない」と改めるべきかも。
昨年の腐った野菜が残っているし、何より土が建設工事の時のまま。普通の畑のように、野菜をきちんと育てられる肥沃(ひよく)な土地ではありません。雑草すらやっと育っているという、グラウンドのような非常に厳しい環境。
う〜ん、本当に野菜を育てるというセンス、あるいは気概がホントにあるのかなぁ。
■4月16日(日) 人知れず、登場人物は交替していく ──センセイが通った小学校跡地の桜はもうすぐ見頃です──
昨日は新入生歓迎会を終えてから半分くらい高速道路を使って、夜遅くに帰宅。
書斎には一昨年、北陸新幹線が開業したまさにその日に結婚式を挙げた姪夫婦から届いた葉書が置かれていました。自宅を新築し、引っ越しを終えたというのです。めでたい。
何かお祝いをしなくては。今朝は洗車してからまず実家へ。先月末、自身の誕生日に転んで腰の骨(腸骨)を折り、現在柏崎市内の病院に入院している高齢の父に、必要なものを運ぶためです。もちろん母も時々は見舞っているのですが、彼女は車を運転できない。
まぁ、こちらも高齢の彼女が車を運転したら、別な意味で心配ですが。預かったのは新聞とボールペン、雑誌、書類、そして着替え。障害が残ることは確実なので、退院後の対応について相談。春野菜を少しもらって、病院へ向かいます。途中、センセイが通った小学校(現在は統合、廃校)跡地を通ります。
樹にもよりますが、桜が5分咲きくらいだったので、車を道路脇に止めて記念撮影。終戦後の子供の数が多かった時代は、午前と午後に分けて授業をしたとか。
オトナになってからその話を思い出すと、ホントかなぁーと思えてしまうのですが、それでも運動会の時は、全教室を開放して家族でお弁当を食べていました。
それくらいの人数がいたことは確か。また体育館を会場に、大人向けと子供向けの映画を上演した際は、とんでもない人数の人が集まったことを覚えています。
でもオトナになってみると、敷地はずいぶん狭い。廃校後跡地には地域のコミュニティーセンターが建築されました。甥や姪が小さかった頃は中央の建物でよく遊びました。
というより、実態は子守ですが。このコミュニティーセンターは10年前の新潟県中越沖地震の際には避難所(こちらやこちら)になりました。
建物の奥には地震で全壊(その後解体)した伯母宅があります。彼女とその一家も地震の時は一時ここに避難。父の姉である彼女は、その避難時を含めて何度か大病を病(や)みました。それでも現在は歩行器を使って室内を歩ける程まで回復しています。何故だか混雑する道路を運転して、病院へ。
預かってきたものを渡し、要望を聴きます。すると、3月上旬に逝去した伯母(父の姉)の納骨に関する相談。伯母夫婦は大阪に出て会社を経営していたのですが、一家のお墓は大阪にはなく、当地にあります。数年前に亡くなった義理の伯父同様、5月に納骨とのこと。
「だから、あそこのあれをこうして欲しい...」。材木問屋を経営していた伯父は、20年前にセンセイが自宅を新築することを知ると、中央部分の階段をプレゼントしてくれました。お金ではなく、現物支給(!!)です。
宮大工だった親戚が拙宅を建築してくれたために実現しました。(ホント、どうやったんだろう......。)父方は成人した兄弟だけで8人。他に、幼いころに亡くなってカウントされない人──その名前はその後生まれが子供が引き継ぐ──が数人います。現在では信じられないと思います。でも一世代前の田舎は、これが普通だったのです。
それがポツリポツリと欠け、最後に残ったのは伯母と父。写真の平らな場所は、ほぼ元小学校のグラウンドに相当します。写真左側には道路があり、桜の樹が餓えられていました。50年以上前の入学式の日、大きな御影石の校門の脇で記念写真を撮ってもらったことを覚えています。
写真中央の建物の場所には、とても背の高いポプラが5本そびえていました。かつて教員には宿直業務があったのですが、教頭先生が宿直していた日に、ポプラに落雷が。見回り中の教頭先生は気絶してしまいました。しかも強力な電気はそばの電線を経由して校舎内に入り、当時まだ高価だったレコードプレーヤーを焼損......。
登場人物はごく一部を除き、鬼籍(きせき)に入ってしまいました。