2024年5月18更新(2024年5月26日ページ移動)
■5月18日(土) 最低でも一つの点だけはしっかりと改善しよう ──庭に枝豆の種を蒔きました──
今日はタイトル通りのお話。
水曜日の夕方に新潟へ戻った途端、センセイは在宅モードへ。ただし若い時と違って、身体のリズムが切り替わるまで少なくとも一晩──実際は丸1日──かかりますが...。基本的に、モード変換後は「晴耕雨読」生活。
今週の場合だと、まず木曜日に庭木の手入れ。といっても現状、センセイ単独では無理。近所の方が電動の生け垣バリカンで剪定(せんてい)してくださいました。センセイらはその補助や片付け。
45Lのビニール袋で6袋もの剪定枝(せんていし)が発生しました。翌金曜日、つまり昨日は自動車で実家へ行き、両親の1週間分の食料を買い出した後、裏山で筍掘り。もうシーズン最終盤ですが、それでも6本ほど収穫しました。
ただし生長しすぎて廃棄したものも多数発生。今日は炎天下、まず2時間ほど一人で庭の草取り。2週間前、剪定枝の回収日に合わせてかなり大規模に草取りをしたのですが、庭が広い──田舎なので──ため、取り切れていない部分があったのです。
かなり頑張ったのですが、残念ながら今日も未完。お昼が迫ってきて、今日中に完了できないことがはっきりしたので、作業を切り替えます。草取りを終えている部分に、枝豆の種を蒔く(「播種(はしゅ)」)ことに。
昨年とほぼ同じ時季です。去年は初めてだったのでどうなるかと心配したのですが、無事に芽が出て可憐な花を咲かせ、やがて実(鞘(さや))をつけました。収穫は7月中旬から月末にかけて。2回目となる今回は、割と慣れたもの。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
ただし1カ所に2個ずつ種を蒔いていたところ、種の余剰が確実に。そこで1カ所あたりの種を3個にし、かつ、予定していたエリアの外側にも種を蒔きました。なお連作障害防止のため、昨年とは違った場所に種を蒔いています。
拙宅の敷地はもともと湿地だった場所。それがやがて田圃として用いられるようになり、宅地化のために土砂が投入されています。土砂の質は砂が主ですが、場所によってはシルトや泥っぽい部分も。
陽当たりの関係もあるのでしょうが、雑草の生え方もずいぶん違います。「放置主義」が去年のテーマでしたが、お伝えしたように、明らかな問題点も。栄養不足の可能性と、水分不足。特に昨年は酷暑だったこともあり、後者は確実。ただし前者についてはセンセイの知識および経験不足のため断言できません。
そこで今年は、最低でも水分についてはきちんと供給するつもりです。さて今年の枝豆育成計画は、どのような結末に?!
申し訳ありませんが、今後の展開はまったく不明です。
■5月17日(金) 「辛旨豚汁ラーメン 麺辛屋 二代目 美國」(「えいしん」跡)が、唐突に営業を終了していた
昨日の続き。ただし舞台は新潟県。
初回の講義のため、その前日に自動車で金沢へ移動した時はやはり、かなり緊張しました。そもそも1年ぶりに走る道だったし、能登半島地震の影響が道路や施設にどの程度残っているのかもわからなかったので。
もちろん無事に往復できたのですが。往路、上越市頸城区(旧頸城村)の国道8号線を走行している時、ふと、沿道に違和感を覚えました。ただし当然のことながら前方を注視して運転しているので、その原因について、はっきりと認識する余裕はありませんでした。
帰路、その地点に戻ってくると...あ"っ。写真の建物から、ここに入っていた「辛旨豚汁ラーメン 麺辛屋 二代目 美國(みくに)」の看板類がすべて消えていたのです。最初は見間違いかと思ったほど。でも、駐車場には車がまったくありません。
かつてはたいてい満車だったのです。どうやら移転したか、最悪の場合、閉店してしまったらしい。
ここはもともと、有名な「ラーメン えいしん」だった建物。それが2020年の夏に突然閉店し、同年の秋に「呑み喰い処 えがぴょん」としてオープン。
「えいしん」との関係、つまり店舗を貸し出しているのか同じ経営者なのかは不明です。それが2年ほど続いたのですが、2022年の初夏に閉店。ただしこの時は、上越市内の別な場所でお店を開いていた方がこちらに移転しています。
最初はともかく、すぐに繁盛店に。だから西村センセイは「美國」を安泰と考え、このような事態をまったく想定していなかったのです。
帰宅後に少し調べてみたのですが、どうも様子がおかしい。インスタグラムおよびFacebookを読む限り、今年の2月、ほぼ唐突に閉店してしまったようです。
「不本意ではございますが・・・(中略)・・・予告なしで閉店...」などと、かなり切迫した状況だったようです。閉店に至った理由は不明です。
いろいろな可能性が考えられますが前述したSNSには、今年に入ってから「臨時休業」など不安を感じるような記述が並んでいます。中には「・・・店主の体調も良くない為・・・」などと、ハラハラしてしまう言葉も。
このページを書くために確認して初めて気づいたのですが、少なくとも最近は週に3日程度しか営業していなかったようです。どうやら基本的にはお一人でお店を回していらっしゃったようで、それも関係していたのでしょうか...。
繰り返しになりますが、本当のところはわかりません。でも、あれだけ繁盛していたお店。つまり店主の実力はかなりのものなのだろうと推測されます。ご主人の今後のご活躍を願っています。
もしかすると「次」は、ラーメン店の経営ではないかもしれませんが。
■5月16日(木) カニバリゼーションのリスクを恐れず... ──「クスリのアオキ」のドミナント戦略──
初回の講義を終えて戻った際、「沿道に大きな変化はなかった」とお伝えしました。(打ち上げられた能登の漁船や「ふうらい」閉店などを除く)
それ自体は決して間違いではないのですが、一部久しぶりの経路に慣れてくると、やはり気づいたことが。その中から二つに絞ってご紹介を。今回は金沢市内。
お伝えしたように自動車で移動する場合、少なくとも身体的には楽チンをするので、どうしても運動不足になります。そこで時間や天気などの条件が良ければ、前日はホテルまで歩くようにしています。
6kmほどあるので「常に...」とはいかないでしょうが、それでもできるだけ歩くつもり。金沢工業大学を出発して30分くらいは、かつての通勤経路内を歩きます。つまり「庭」のようなもの。4月に歩いた時、幹線道路の脇で建設中の平屋建ての建物に気づいたのです。
ここは敷地の奥にセブン・イレブンがあった場所。骨格まで組み上がっていた建物、形状からして衣料品量販店かドラッグストア、あるいはスーパーになるんだろうなと思っていたのですが今週火曜日に歩くと、写真中央に看板が。
ドラッグストア「クスリのアオキ」従業員募集とのこと。アオキだったのね。予想は外れていなかったわけですが、個人的にはちょっとびっくり。
アオキは地元(白山市)が創業の地。話が少し逸れますが先週、その創業者であり全国チェーンドラッグストア協会の会長も務めた青木桂生氏が逝去されました。(全国紙で知った)
ご冥福をお祈りいたします。ご存じのように、ドラッグストア業界は生き馬の目を抜くような激しい競争下にあります。現在の主たるライバルは、同業他社よりむしろスーパーマーケット。ドラッグストアの強みは、大量仕入れによる低価格の実現。
スーパーからすると、海産物以外の生鮮食品の顧客をどんどんドラッグストアに奪われている状況です。「アオキ」はセンセイが金沢にいた時にお世話になり、そして現在も割と利用するお店。たとえば北陸で創業した「ゲンキー」は生鮮食品類が安いため、顧客の注目を集めやすい。
ただし、本来取り扱う(?)べきはずの、医薬品類や生活用品は結構高い。その点、「アオキ」は品揃えも価格も割とバランスが取れています。それなら、地域住民としては近くにドラッグストアが新規オープンすることを喜ぶべき...となるところ。
まぁ、現在のセンセイは地域の人間ではありませんが。でも実は「クスリのアオキ」、金沢市と野々市市の両市に多くの店舗を集中的に展開しているのです。Googleマップで検索したのが右の写真(コントラスト強調)。(拡大写真(別ウィンドウ、1080×831))((c)google)
中央部付近に金沢工大(下線部)。建設中の店舗はその右上(赤丸部分)。大学の東にある三馬(みんま。ただし「みうま」との表記も)店から僅か1.1km弱、最寄りと思われる泉が丘店からだと何と、900m弱しか離れていません。
このような集中的出店は、いわゆる「ドミナント戦略」。(「ドミナント出店」とも)地域の顧客を囲い込むことができる一方で、カニバリゼーション(共食い)──この場合は「共倒れ」──のリスクも抱えることに。この地域では対スーパー以上に、ドラッグストア業界内部での競争が厳しいという事情を考慮しての判断でしょう。
おそらく最大のライバルは、ご紹介した「ゲンキー」と今や全国展開の「スギ薬局」。以下「V・Drug」と「ウエルシア」と続きますが...もしかすると地元資本の「コメヤ薬局」はもはや、眼中にないかも。
リスクを認識した上で、敢えてこの地に進出するという「アオキ」の判断。どうなるか興味はあるのです。たとえば、移動経路にある「クスリのアオキ宮野店」(こちらの写真左奥)は今年3月末で閉店してしまいました。
現在、解体工事の真っ最中。(ちょっと驚いた)
でも残念ながら、センセイはこの地から去った身。結末を見届けることはないだろうなぁ。
■5月15日(水) 実は講義って、とにかく体力勝負なのです ──遠すぎた「サンレパス ルート8」──
...少なくともセンセイの場合は。
今日はその大学院講義の日。昨日のうちに自動車で移動して講義の準備(この部分はサービス出勤)。ただし今回の作業量は僅少。すぐに終了したので、大学から金沢市中心部のホテルまで約5.2kmを歩きました。
自動車を使うと、どうしても運動不足になるので。昨晩はちょっと特別で、お世話になった人と市内某所でお食事(もちろんセンセイはビール入り)。有意義で楽しい3時間だったのですが、センセイのことですからホテルに戻ると再度、「ぼっち宴会」。
就寝は1:00。でも講義のある日は、前夜どんなに飲んでいても6時前──今朝は5時──にはちゃんと目覚めてしまうところが(元)サラリーマン。チェックアウトを済ませて、7時に朝食会場へ。冒頭にご紹介したように講義は、知的および身体的な「体力」を使います。
要するに真剣勝負なので、1時間(100分)の講義を終えるともう、ヘロヘロ。だから講義のある水曜日の朝は、ホテルでしっかりと食事。倖い、大学が指定した私立大学系のホテルは朝食が美味しい。正確に言うとコスト削減のためでしょう、去年より高タンパク質系のおかずが減っていますが。
ちゃんと食べて、今日の講義をきちんと乗り切ります。問題はここから。
講義を終えていろいろ片づけると10:40前後になります。本来ならば休息を兼ねて、どこかで低塩分高タンパク質のお昼を早めに頂くところ。普通に考えれば大学食堂。
でも食事後は眠くなってしまい、事故のリスクが高まります。どこかで休息──可能ならば午睡(ごすい)──できれば問題はないのですが、今度は、高速道路をある程度使わない限り、我が家の「門限」である17:00に間に合いません。
というわけで休憩なしで車を走らせます。不思議なものでBMWのハンドルを握ると、疲れなんて吹っ飛んでしまいます(実話)。ごく稀にそうでない場合があるのですが、それはこちらの身体が不調の時。
機械が人間の不調を知らせているんですよ。ホントに。ただし昼食の問題は残ったまま。
自宅までの距離と移動時間を考えると、候補は事実上、富山県朝日町の「食堂 颯楽」と新潟県糸魚川市の「サンレパス ルート8」だけ。昨日お伝えしたように、今日は後者を訪れて「鶏の唐揚げ定食」──このご時世に、600円据置!!──を頂くつもり...だったのです。
でも今日は、何となく胃もたれが。朝食を食べ過ぎたということはないので、昨晩、美味しいものを美味しくいただき過ぎたということかも。この状態で唐揚げ定食──油脂分は多め──は、チトきつい。車を走らせながら代替策を考えます。
結論は、糸魚川市の「マリンドリーム能生(のう)」へ立ち寄ることに。ただしそこで食事をするのではありません。「サンレパス ルート8」を経営する「味千汐路」も出店しているのですが、観光客向けなのでかなり値が張ります。お昼については建物内のコンビニでいなり寿司を購入するつもり。
「マリンドリーム能生」を訪れた直接の理由は、糸魚川駅に隣接する物産センターでした見たことがない漬け物があるかも、と考えたのです。その漬け物は糸魚川市内、それも旧能生町で製造されているのです。というわけで「サンレパス ルート8」を横目で見ながら写真のマリンドリームへ。写真左奥は「鮮魚センター」と「かにや横丁」。
いつも観光客で混雑しています。ただしお土産コーナーに肝心の漬け物はなし。
お土産の品揃えは豊富なのです。ただしこちらも観光客をターゲットとして絞り込んでいるようで、センセイのような準地元民(?)の「あそこに行かないと、お気に入りのあの商品が...」というようなものは少ない。
他方、コンビニにまわると適当なものがない。というわけで結局、今日は上越市(旧直江津市)の「つかそば」へ。「キンエン令」違反かと思われるかもしれませんが、ルールは遵守(じゅんしゅ)。「中か」などではなく、「カレーライス」を頂きました。
実際にはこちらも塩分と油脂分が多いのですが、ここは気持ちの問題ということでお許しを。来週こそ、(朝食をしっかり取りつつ)体調を整えて「サンレパス ルート8」を訪れるつもりです。
■5月14日(火) 目標については一勝一敗。ただし予想外の収穫も... ──長野県に立ち入りました──
わざわざ「立ち入った」と奇妙な表現を使うくらいですから、実際にはごく僅か。具体的には2mくらいです。
申し訳ありませんが、今日も旅──というよりエクスカーション(小旅行)──のお話。列車も登場しますが、基本的には鉄道ネタではありません。実は、この日曜日のみ有効な企画乗車券(センセイらはさらに割引)をもらったのです。
第三セクターを含め、ほぼ新潟県内の鉄道が乗り放題になるという乗車券。ただし実際に利用するとなると地理的な制約──新潟県は広い──や、列車ダイヤ上の問題が。
そのためこれまではたいてい旧北陸本線に乗車(こちらやこちら)。最多は、糸魚川(いといがわ)市(旧能生(のう)町)の「サンレパス ルート8」までの往復。その他には大河津(おおこうづ)分水の桜を観たり、新潟市まで往復したり。
珍しいところでは、別に乗車券を購入して群馬県の水上まで足を伸ばしたり。基本的な目的は鉄分補給。でも可能ならば新しい場所を訪れて少しでも現地を歩いてみたい。これで実家その他向けのお土産でも購入できたら申し分ありません。忘れてました、低塩分のお昼も大切。
ただし、美味しい「サンレパス ルート8」は今週の講義の帰路に立ち寄るつもり。朝早く発てば選択肢も広がるのですが、遠すぎて帰りが遅くなるのも困る。いろいろ考えた末、昨秋に訪れた妙高高原駅を訪れることに。
今回の目標は割と明確。駅前の「やおとく食堂」を頂くことと、ちょっとだけでも長野県に足を踏み入れること。駅がある妙高市は長野県との県境。駅の裏を流れる関川の対岸は、概ね長野県なのです。
まず先週も乗車した各駅停車で乗換の直江津駅まで出て、妙高高原行の電車に乗り換えます。退職後は割と利用している旧信越本線(「妙高はねうまライン」)ですが、やはり新しい発見があります。スイッチバックで有名な二本木駅では上りと下りの列車が同時に到着。
こんな場所で2本の列車が並行して走る光景は、ちょっと不思議な感じ。今回はその一つ先、関山駅の様子を意識して見ました。
新潟県側の旧信越本線が直江津から開通した際、この関山駅が終点だったのです。勾配がきついので二本木駅同様、スイッチバック式の駅だったのですが1985年に廃止され、駅舎は移転。
見慣れた旧駅舎は撤去され、保守用車両が入線する線路とホームだけが残っています。11時前に妙高高原駅に到着。20名くらいの乗客は長野方面へ向かう「しなの鉄道」に乗り換え。妙高高原駅で降りたのは、何と、センセイだけでした。
それも驚きだったのですが、肝心の「やおとく食堂」に接近すると、いやに静か。...というか、店内に照明が灯っていません。玄関には、「日曜定休日」。ドッカーン。事前に確認した情報と相違していました。第1回戦は見事に敗退。
付近に飲食店はないので、長野県境を目指します。数百m歩き、橋を渡りきったった所で撮影したのが写真。(右端が妙高高原駅)
恥ずかしながら、やっとここで左奥の妙高山の存在に気づきました。もちろん新潟県上越地方(県の西部)から見える山なのです。でも天気が悪いと見えないことも多い。
そして何より、上越地方の平野部から観る妙高山とは印象がまったく異なり、非常に立派。新潟県民ですから、小学生の頃の長野への家族旅行だけでなく、高校生になってからも妙高山は良く見ています。でもこんなに堂々とした妙高山は初めて。ご参考までにズームアップ写真(別ウィンドウ、1280×960)もご紹介します。
橋の向こう側は新潟県。手前は長野県かというと、そう簡単ではなく、地図によると橋の中心部手前側延長線上の、左側のみ長野県で右側は新潟県とのこと。めでたく第二の目標つまり長野県に立ち入りはしましたが、その距離は僅か1〜2mという情けなさ。
トホホ。というわけで、駅前の土産物店で長野名物の野沢菜漬けを買って帰りました。
でも、まぁ、妙高山を初めて「正面」──いろいろ議論はあるはず──から観ることができたし、ま、いっかー。
■5月13日(月) 再訪したい場所 ──新旧の餘部橋梁が、地域のコミュニティ機能を中から支える──
今回、下りの各駅停車に乗って餘部駅に降り立ったのは18時23分。
各種照明を良く見るとわかるのですが、ご紹介してきた写真はいずれも、明るさをかなり調整しています。特に駅付近を撮影後、「余部クリスタルタワー」で地上に降りた頃には「真っ暗」と言いたくなるほど。
それほど暗かったのです。2005年の初回訪問時は比較的短時間しか「地上」にいなかったようですが、今回は次の列車まで約1時間半あります。そこで遺構付近を撮影後、まず山側(南側)へ。国道沿い、「空の駅」駐車場に隣接して「道の駅あまるべ」が。
2012年にオープンしました。できればお土産を購入したかったのですが、営業は18時まで。それでも自動車で通りかかった人が数名、施設内のトイレを利用していました。その隣には私設と思われる鉄橋資料館(無人)「一滴亭」とたこ焼き店、さらに進むとやはり私設と思われるギャラリーが。
当然のことながら、いずれも人気はない。餘部橋梁の全景を撮影して、今度は海側(北側)へ。非常に寒かったのですが、それ以上にキツかったのが海から吹き付ける強風。ご紹介した写真を良く見るとわかる──特に海岸部──のですが、何となく白っぽい。
防波堤に打ちつける波が砕けて、白い霧のようになり、それが風に乗って陸地側に押し寄せているのです。「霧」は大量の塩分を含んでいるのでそれを避けつつ、北西側から餘部橋梁を一望できる場所まで移動します。
橋と餘部駅19:01発の各駅停車を撮影(1枚目の写真)し、今度は余部地域のど真ん中を通って「余部クリスタルタワー」、そして駅へ戻ることに。
蟹が美味しいと評判の旅館の前を通ったのですが、この日はお客さんがいらっしゃらないようでした。国道178号線以外の道路は非常に狭く、民家が肩を寄せ合うような格好で「北風に耐えている」という感じ。今日の写真はその際に撮影したもの。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
お気づきかと思いますが、真っ暗なのに灯りの点いている家は少ない。もちろん、状況から明らかに現住で、たまたまご不在というお宅も多いのですが、空き家と考えざるを得ない家屋も多数存在しました。
そもそも「地上」に下りてから、前述したトイレ利用客以外の人間を見ていません。田舎だと「人影は見なくても、多数の車が...」ということが多いのですが、国道178号線の先(西側)が災害により不通になっているそうで、走っているのは余部地域に出入りする人だけ。
それも、ごくごく僅か。白状すると、周囲が暗いということもあり「大丈夫かなぁ...」と感じてしまう状況ですが、細い道の角を曲がると、ご覧のように淡く光る「余部クリスタルタワー」が。昨日お伝えしたように、兵庫県および地域としては観光でこの地を活性化したいらしい。
もちろんその意図は理解できますが、「それだけではちょっと...」というのがセンセイの感想。もちろん「道の駅あまるべ」を見ていないので、偉そうなことは言えないのですが...。
ただしセンセイが余部地区に関して感じたのは、ちょっと違う肯定的な点。確かに過疎化は進行しているものの、地域のコミュニティ機能はかなり高いレベルで保たれています。実際に現地を歩いて初めてわかることです。
そしてもう一つ。余部地域の人々は、実際に駅を利用する/しない──利用者の大半は高校生──にかかわらず、やはり新旧の餘部橋梁とともに生きています。この点は、初めて訪問した時も実感したことです。
意識のどこかに、それも周辺部ではない場所に餘部橋梁があります。もちろんこの二つの点は、決して無縁ではないはず。そこへ新たに、観光資源としての価値が加わった、と理解しています。
う〜ん、前回の「暇乞いの旅」同様、また訪れたくなってしまった。しかも、今日は何も考えずに書き始めたら、全然短くない...。
すみません。
■5月12日(日) 地域活性化のための観光資源として、餘部橋梁を活用したいという強い意志を感じます
というわけけで、かつての餘部(あまるべ)橋梁と餘部駅の様子を踏まえた上で、現在の様子を。
1枚目の写真は、餘部駅到着直後に撮影したもの。さっそくここで解説が必要になります。まず、中央に見えながら手前で切れている線路が旧線。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
その右側に見えるのが現在のプラットホーム。新線はそのさらに右側にあるため、この位置からレールを直接見ることはできません。昨日の1枚目の写真と比較するとわかりますが、右の山を削り、駅舎を壊して新線を敷設しています。
手前中央のコンクリート部分は、新プラットホームから(旧線を跨いで)左側のコンクリート通路に繋がっています。これが餘部駅から地上にある余部地区へ繋がる道路。西村センセイ、現在の餘部駅の概要は承知していたつもりだったのですが、確認が不十分だった点が多々存在しました。
これからご紹介する施設は、新餘部橋梁と新駅舎の教養が開始された後に建設されたのです。(知らなかった)兵庫県が作成した資料(「余部鉄橋『空の駅』パンフレット」)に、その様子がかなり詳しく記されています。2代目となるコンクリート製餘部橋梁の供用が開始されたのは2010年。
その時点で存在したのは基本的に、プラットホームと駅舎だけ。新しくなった餘部駅の利用客は今まで同様、(旧線を跨いで)左の道から余部地区へ下りていたのです。
旧鉄橋の大部分は以前のまま残されていた──ただし写真奥の東側(=京都側)は、線路付け替えのため一部が撤去済──のです。
そもそも地域住民にとって、旧餘部橋梁にはマイナス面も。巨大な鉄製の構造物の上を重い列車が走行しているため、地上には緩んだボルトや鉄粉(錆)など橋の一部、氷、列車から投棄されたものなどが落下するなど、地域住民には苦労が。
そのため旧橋の大部分は解体、撤去することに。他方、昨日の1枚目の写真でもわかるように、餘部橋梁は観光資源としての価値を有していることから、兵庫県は手前側(西側=鳥取側)の橋脚3本と桁を完全な形で、残り3本半の基部(3枚目の写真)を残すことに決定。
そして前者を活用して、旧橋の上に新たな展望施設を建設することに。それが1枚目の碑に記された「空の駅」、2013年にオープンしました。(1枚目の写真奥、そして2枚目の写真(左側のエレベータ部分を除く)。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
1枚目の写真、手前からしばらくは旧線路がそのまま残されています。砕石が敷かれているのでハイヒールでは難しいですが、歩行も可能。
現在のホームの端からは、スロープで旧線路に下りることができるようになっています。旧線の手前部分とは対照的に、そこから先は2枚目の写真の奥まで、旧線路を残したまま舗装されています。線路内に3カ所、光っている部分が。
これは地上を見ることができるガラス製の窓。ただし今回は非常に暗く、風雨など条件が悪かったためほとんど見えませんでした。また、「線路」脇には、旧橋の桁を使ったベンチ──写真左下に見えるものとは異なる──も設置されています。注目していただきたいのは、最奥部分。
この先には何と、旧線路と枕木がそのまま残されています。当然、立ち入ることはできません。ところで、今回餘部橋梁を訪れた際、一緒に下りた男女の高校生は、1枚目の写真の坂ではなく、奥に向かってスタスタと歩き始めました。二人が目指したのは、2枚目の写真左側のエレベータ。
これは「空の駅」より4年遅れて建設された「余部クリスタルタワー」。センセイは「空の駅」と同時に建設されたものと思い込んでいました。関係者の皆様、申し訳ありません。
お伝えしたように初訪問時はすべて歩きましたが、荷物もあったので今回はすべてエレベータを利用。ガラス張りなので周囲の状況が良くわかります。また地上階は餘部橋梁を紹介する施設になっています。
その隣のあるのが、3本半の橋脚基礎部。(拡大写真(別ウィンドウ、960×720))国道178号線を挟んだ場所に、「余部橋りょう」──名称も「橋梁」も表記が揺れている──と記された旧橋の主桁中央部分が保存されています。周囲は幼児・児童向けの遊具を備えた公園になっています。
また国道に面して広い駐車場も。観光地としての餘部橋梁を訪れる方の大半が、実は、自動車等を使ってお越しになるのです。
長くなりました。今日はタイトルを除き、ほぼ、餘部橋梁に関する事実関係に限定。
最終回の次回は、今回の再訪でセンセイが感じ、考えさせられたことを短く──そのつもり──お伝えする予定です。