2025年3月15日更新(2025年3月23日ページ移動)

──2025年3月第3週のニュース──

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3月15日(土) 迷うことなく、家具の耐震対策を ──ちょっとの工夫で、安心感が全然違います──

 お伝えし損ねていた話題。

 白状すると体力が低下し、さらに疲労回復までに要する時間が長くなっています。病気等の影響というより、要するに歳を取ったからでしょう。今日は夜中に飛び込んできた(!!)ヘビーな書類作成(公務)と、実家での長時間サービスに従事。
 頑張って無事に終了したのですが、明らかに疲れ果てています。

 毎日ちゃんと10,000歩程度歩くなど、体力維持には気をつけているつもりなのですが...。

 こうなると「何かしよう」と思ったら準備と体力確保が必須。今回はその一例ですが、実際にはそんなに大したことをしているわけではありませんので、悪しからず。何度かお伝えしていますが、拙宅は1996年に新築。
 建ててくださったのは、親戚の宮大工。
(その後、廃業)

 その後、大きなものだけでも2004年の新潟県中越地震、2007年の新潟県中越沖地震そして昨年の能登半島地震に遭遇しています。それらの余震の中には大きなものも多いので、全体では非常に大きな揺れに襲われています。
 拙宅が建っているのは、もともと沼地だった軟弱地盤。

 そこで(本当に地震に遭うとは思っていなかったけれど)棟梁(故人)と相談した結果、耐震性を考えて基礎の下にパイルを打ち込む(6ヶ所×2本)ことに。そのおかげで、地震による壊滅的な被害だけは避けることができました。
 でもさすがに、無被害というわけにはいきません。

 今回は、家具類に注目します。

 1枚目の写真は2階書斎の入口方向を見たもの。書斎は三方が造りつけの書斎になっています──残る南側は窓──が、写真右奥の引き戸部分には固定式の棚を設置できません。
 そこで、学部学生の時から使っている重い木製本棚を配置。

 この本棚については、これまでの地震で一度も倒れたことはありません。でもそれは単なる偶然。2枚目の写真は、本棚の最上部を右側から見たもの。
 黄色い矢印は追ってご説明するとして、まず左側の黄色枠内にご注目を。

 何かの跡が見えますが、これは本棚の外側にある六角ボルトがぶつかった跡。中越沖地震本震では、すべての物体は1枚目の写真の右奥から左手前に力が加わっています。
 写真2枚目をご覧いただくとわかります。

 本棚の場合、本震で揺れた際に固定された本棚とぶつかって移動が遮られ、かろうじて転倒を免れたという次第。つまり倒れなかったのは、まったくの僥倖(ぎょうこう)
 これがいつまでも続くわけではありません。

 同地震後、余っていたネジ式のS字型フックを1枚の写真の赤矢印部分に打ち込みました。これにより、少なくとも前面に倒れる可能性は消えました。
 実際、能登半島地震の際も本棚は無事。
(テレビおよび本棚付近の様子が写っている)

 ただしフックの大きさの関係で可能性は低いものの、たとえば本棚が(1枚目の写真)右方向に移動した場合、制御できずに倒れてしまう可能性が残っています。
 そこで今日とは違ってパワーが残っていた先日、転倒防止機構を改良することにしました。

 といっても大したことをしたわけではなく、未使用のまま残っていた部品収納ケースに残っていた割と大きなL字型フックに交換しただけ。
 ご説明のため、完成一歩手前の状態で撮影したのが右の写真。

 元々のS字型フックを外し、写真中央のL字型フックをねじ込みます。実際にはネジ穴のサイズが違うため、かなり大きな力が必要で、最後は器具を使って回転させました。
 メッキされたフックに残る傷はその痕
(あと)

 立った状態のフックを黄色矢印の方向に倒せば完成。これにより、テコの原理で本棚が一定幅以上右方向に動くことはできなくなりました。もちろん、とんでもなく大きな力が掛かったら別ですが、それは拙宅そのものが崩壊する時。
 人間も無事ではいられない。

 これだけで安心感がまったく違います。

 ただし借家の場合、ちょっと難しい面があります。センセイの場合、金沢でお借りしていたアパートに背の高い本棚──実際にはメディア収納棚──を配置していたのですが、ちょっとしたことで倒れそう。
 そこで本棚と梁をチェーンで連結しました。
(1枚目の写真右上)

 そのおかげで、2004年の能登半島沖地震の揺れにも耐えています。ちなみに退去の際も、何ら問題を指摘されませんでした。むしろ大家さんから感謝されたほど。物件が自己所有なら、迷う必要はありません。
 耐震対策をしましょう。

 大きな地震を経験されていない場合も、ぜひ。



3月14日(金) 歴史を知ると、幹線路線にも見どころが多いことに気づくはず。無理強いはしませんが

 飯田線「暇(いとま)乞いの旅」、最終回。

 個人的には鉄分がもっと多くても平気なのですが、皆が皆そうだというわけではないので、鉄道ネタは今回に集約。観光と重複する部分がありますが、鉄道の面から見ても今回のツアーは見どころ満載。
 以下、行程順に。

 まず「しなの鉄道」では115系から新造SR1系への転換が進んでいます。今回はどうなるのだろうと思ったら、往路は115系標準色。帰りは初めてのSR1系でした。“SR”はおそらく“Shinano Railway”から取ったもの。
 同社初の新造車両だから“SR1”なのでしょう。

 内容的にはJR東日本のE129系そのもの。相違点は座席モケットの色だけでした。ちなみに、どちらもはJR東日本の子会社「総合車両製作所新津事業所」(新潟市)製。
 つまり新潟県産。

 長野県境付近の美しい風景を愛でながら進むと長野駅の手前で、東側に「長野総合車両センター」が見えてきます。ここで解体を待つEF65型電気機関車や205系電車の表情が悲しそうでした。
 長野から先の篠ノ井線といえば、姨捨駅の絶景。

 でも昨日は走行中の車内から撮影した写真をご紹介。これには理由があります。時刻表を読むと、姨捨駅で30分弱の待ち時間が。当然、列車交換が想定されます。それも各駅と特急の2本(!!)
 まさに絶景を撮影する完璧なチャンス。

 ところが篠ノ井駅出発後、旧信越本線(現「しなの鉄道」線)と分岐するとアナウンスが。「しばらくすると列車行き違いのため停車する」というのです。
 姨捨駅で交換するのではなく、去年初めて気づいた「桑ノ原信号場」での交換ということになります。

 今回、長野から松本まで乗車したのは国鉄時代に製造された211系。ロングシートだけだったので、運転席のすぐ後ろに座りました。当然、前方が良く見えます。
 1枚目の写真はスイッチバックして桑ノ原信号場に入り、対向列車を待っている時に撮影したもの。

 右上から左下が本線。配線がよくわかります。今まさに、E127系が通過しようとしています。続いて特急「しなの」が快速で通過していきました。
 2枚目の写真は、信号所停車中に気づいた架空の「駅名標」。

 つまりここに駅を設置して欲しいということなのでしょうが、列車の運行密度や予想される利用者数を考えると正直なところ、無理だろうなぁ。
 「銀河鉄道」も、それを理解しているが故の名称なのだと思います。

 列車交換後に姨捨駅に入ったのですが、ここでもアナウンスが。「停車時間は僅かなので、下車する方以外は(撮影等のために)ホームに降りないよう、お願いします」とのこと。
 センセイも要請に従い、ホームには出ていません。それ故、昨日は車内からの写真になったという次第。

 今回、姨捨駅のさらに南(より高い位置)に信号所跡があることに気づきました。帰宅後に調べてみるとこれは「羽尾(はねお)信号場」。
 1966年つまり比較的近年になってから設置されたものの、短期間で廃止されています。

 篠ノ井線旧線跡を確認すると、電車は松本駅手前の「平瀬信号場」で対向列車と交換。松本でお昼を頂いてから中央本線、飯田線直通の列車に乗り換えます。
 塩尻駅を過ぎたところで、1回だけ乗車したことがある古い中央本線
──現役──と分かれます。(辰野駅の西側で合流)

 飯田線と中央本線(通称「中央西線」)については既にお伝えしているので省略。というわけで突然ですが、最後の写真は何を意図して撮影したものでしょうか。
 もちろん、これだけの情報で正解に至るのは至難。

 これは帰路、塩尻駅到着直前の車内から、東側を見ているところ。左側の白いビルの右側に旧塩尻駅舎があったはず。個人的には記憶がありますが、下車したことはありません。
 そもそも中央本線は新宿と名古屋を塩尻経由で結ぶ内陸幹線路線。

 この付近は概ね、旧中山道(/中仙道)に沿っています。

 旧駅舎もそのように設置されていましたが、実際の運用に合わせて1982年、駅舎は松本(写真左奥)側へ移転。かつては文字通り中央本線で東西を結ぶ列車が存在したようですが現在、列車は東西で完全に別運用。
 JR東日本のいわゆる「中央東線」
(写真奥から右奥)と、東海の「中央西線」(手前)です。 

 ただしそれでも現在なお、本来の「中央本線」(写真右奥。土手の手前)が1本だけ残されています。実際に走行する列車はほとんど存在しないのでしょうが電化されており、走行可能。もちろんこれまでもちゃんと視認していたのです。
 ただし撮影できたのは初めて。

 鉄分を補給したセンセイはかなりご満足...ですが、多くの方にとってはやっぱり、鉄分過多なんだろうなぁ。

 すみません。



3月13日(木) 決め手は「良い天気」だったのですが... ──ワイドだと、印象がかなり異なります──

 「(いとま)乞いの旅」再開については、かなり前から検討していたのです。

 4月中旬には新年度の講義が始まるので、週の半分は拘束されます(反面、大学方向への移動を利用することも可能に)。3月〜4月10日までは「青春18きっぷ」利用可能期間。乗り換えが便利な便は限られているので、ライバルが多くなるかも。
 ただし実際には、大幅な制度変更が影響したらしく「18キッパー」をほとんど見かけなくなったのですが...。

 この時季の日本海側は雪のことを考える必要があるので、大雪のピークを越える2月を考えていました。だだし上旬は前任校での最後の集中講義を実施しているので不可能。そこで2月中旬ないしは下旬を想定。
 ところが天気予報が急に変わって、予想外の記録的な大雪に。

 こうなるともう身動きはまったく取れません。雪の影響は中旬まで続きました。というわけで再度予定を変更して、2月下旬に実行することに。せっかくなので、できるだけ良い天気の日に訪れたい。
 “Windy”や気象庁の「2週間気温予報」を利用すれば、確度の問題は残るものの2週間先の天気の傾向がわかります。

 実際にホテルも予約したのですが、今度は自動車に不具合が。想定外のトラブルが起きたのではなく、後輪ブレーキの部品を急いで交換する必要が出てきたのです。
 あらかじめ把握しており、半年くらい先の交換で調整していたのですが予想外に早く警告が。部品は入荷したのですが、この時季は車検が集中しているため作業できない...。

 というわけで現在、愛車は整備点検中。先日ご紹介した乗車券類、最後の1枚(右下)は明日、整備を終えた車を引き取りに行くためのもの。
 つまり車を預けている間に、人間の方は飯田線を訪れようという計画。

 すべては順調に...と思えたのですが、先週に入ってから変化が。予報が悪い方に傾き、出発日は南岸低気圧が通過。太平洋側を中心に雨になるとの予報。ただし大降りではない。
 さて、どうしよう。

 ホテルは直前までキャンセル可能です。また乗車券類は未手配(出発前日の10日に購入)。いろいろ考えたのですが、結果的には予定通り「暇乞いの旅」へ。新潟県内はまだ青空も見えていたのです。
 でも長野県境付近から雨に。

 今回の移動経路には、有名な見どころがいくつも。まずは1枚目の、篠ノ井線姨捨駅付近から見た長野盆地こちら。走行中の車内から撮影しています。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 天気が悪かったので、実際にはもっと暗い。

 晴れていれば遠くまで見通すことができるこちらこちらのですが...でも、ま、しかたない。2枚目は帰路、中央本線の特急「しなの」車内から撮影した「寝覚の床」。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 初めて広角レンズで撮影しています。

 もっと緑に覆われた「寝覚の床」をイメージしていたのですが、実際に訪れてみると程遠いものが。まぁ、季節を考えれば当然なのです。
 その反面、広葉樹の葉が落ちているため、全体像を把握しやすいというメリットも。

 なお今回初めて、岩の受けの祠(ほこら。写真右側)をちゃんと確認することができました。また実は、写真はデータの一部をトリミングしたもの。
 「しなの」車内で設定を変更していた際、誤って縦横比を4:3から16:9に変更してしまったようです。

 ご参考までにオリジナル拡大写真(別ウィンドウ、1280×723))をご紹介しますが、印象が大きく異なります。というわけで撮影という観点からすると、(準備不足+)ちょっと残念という結果に。言い換えると、反省点が多い。
 もちろんその通り。

 でもまぁ、人生はこの繰り返し。(“C'est la vie”「セ・ラ・ヴィ」)

 だから、ま、いっかー。



3月12日(水) 飯田線の電車に乗り遅れても、元気な男子高校生が隣の駅まで自転車で走れば間に合う?!

 センセイが飯田線に関心を持つようになったのは40年ちょっと前。

 学部学生の時はテレビを持っていなかったのです。ICUの大学院へ進学する時、入れ換わるような格好で下の弟が県内企業に就職するため首都圏から新潟県へ引っ越し。彼が使っていた小型テレビを譲り受けました。
 長男のセンセイが一番最後まで学生だったのです。トホホ。

 たまたま見たクイズ番組の中で、タイトルの問題が出題されました。○×を解答させる番組だったと思うのですが当然、出演者は皆が半信半疑。解答後に実証ビデオが。列車の発車と同時にスタートした高校生は次の駅で、本当に電車に追いつきます。
 どの駅が舞台だったのかは覚えていません。

 飯田線を走る電車は、ご説明するような事情があるため一部区間では本当に鈍足。なお高校生が間に合った理由はもう一つ。駅間の勾配です。下り坂ならば当然、自転車はスピードを出しやすい。
 安全性その他の問題がありますから、現在ではこのようなビデオは放送されないでしょう。

 それに高校生にとっても、帰りは一つ遠い駅から上り坂ばかりの道を走ることになるので、実際にはあまり賢明な方法ではありません。それはともかく、センセイは飯田線に強い印象を受けました。
 飯田線は、概ね天竜川に沿っています。
(南側1/3くらいを除く)

 川のすぐ脇に線路を敷設すれば比較的平坦で...と思えるのですが、場所によっては事情が相当異なる場合も。写真は長野県上伊那郡飯島町内で撮影したもの。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 電車は右方向(=東)に進行しており、センセイは北を見ています。

 写真中央を左から右(=西から東)に「与田切川」が流れており、写真右側にある天竜川に注いでいます。お気づきと思いますが電車と対岸奥は高い位置にあり、比較的平坦。(東に向かって緩やかに傾斜している)
 他方中央部、つまり与田切川の近くはかなり傾斜が急。

 手前および奥(平面部)とはかなりの段差があり、両者の間には崖(「河岸段丘崖(がい)」)が形成されています。つまりここは典型的な河岸段丘。(奥平面部は「河岸段丘面」)
 ここでの崖上下の高低差は約50〜70m。

 地学の講義をするつもりはありません。写真左やや上部にある横に長い白い物体は太陽光発電パネル。そのすぐ後ろを、大きな“U”字型を描いて飯田線が走っているのです。
 つまりセンセイは、走ってきたばかりの飯田線を対岸から見ている。

 飯田線の一部区間はかように、天竜川脇の地形に沿って、しかもできるだけ高低差が生じないように丁寧に走っています。これは古い時代の建設方法。急カーブが連続するし、実は高低差もさほど解消されません。
 当然、走行速度は遅くなります。

 しかも飯田線は私鉄4社をまとめて国鉄にしたという歴史が。旧集落ごとに駅を設置したため、駅間距離が非常に短いことが多い。これが鈍足に輪をかける理由。
 でも発想を転換すると、どの要素も「飯田線ならでは」の味。

 実際、一度経験すると病みつきになりそうな飯田線の魅力です。もっとも、これはセンセイのような一見の客にとっての身勝手な理屈にしか過ぎません。
 鉄道を運営する側、そして何より通勤通学客にとっては好ましいものではない要素が多いはず。

 また飯田線は地域によって印象が大きく異なります。長野─静岡県境付近では高山本線あるいは大糸線(新潟─富山県境付近)のような山岳鉄道に一変。
 行程の後半は特急「伊那路」に乗車。

 通過する駅が多いこともあって秘境駅として知られる「小和田駅」については、駅名標と駅舎の一部をかろうじて撮影できただけ。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 もちろん、この目には焼き付けていますが。

 ご紹介していないものを含めて、飯田線は魅力に溢れています。去年こちらもやこちらも痛感させられたのですが、こんな調子で果たして「暇乞い」なんてできるんだろうか...。

 倖い、今のところ身体面に大きな問題は確認されていません。

 (お金はないけれど)比較的融通を効かせることができるうちに、できるだけあちこちを訪れてみたいと考えています。



3月11日(火) 14年前の「あの日」と同じように... ──西村センセイ、「暇乞いの旅」を再開する──

 「あの日」から14年。

 センセイなりに大変だったので、あの日のことを忘れたことはありません。もっとも、直接被災した方々に比べればセンセイの苦労なんて比較にもならない。昨日最後にお伝えしたような事情で、今日のセンセイはあの時と同じように旅の空。
 地震発生時刻には、JR東海の飯田線車内に存在しました。

 必ずしも正確な時刻ではなかったかもしれませんが、センセイも車内で震災の犠牲者を想いました。と同時に、少し気がかりなことが。14年は、やはり長い。加齢もあるのでしょう、客観的には記憶が少しずつ薄れています。
 しかもまだらに。

 個人的にもっと怖いのが、センセイの意識の立ち位置の変化。センセイは震災翌日、米原経由で帰宅しました。読み返してみると、記述していなかったことが。
 大阪からのサンダーバードには、北陸の温泉へ向かうグループ客がたくさん乗車していらっしゃったのです。

 そこに居合わせた(ほぼ)全員が、前日に東日本で大きな地震が起きたことを知っています。ただし情報網が各所で途切れているので、被害の全貌は定かではない。
 
(センセイを含めた何人かの客は)何が起きてしまったのかを概ね把握しています。

 ただし温泉地を目指す方々にとってそれは、国内の出来事ではあるものの、どこか遠いお話。もちろんその後、程度はともかく、東日本の悲惨な状況を知ることになったはずですが。
 責めているのではありません。

 阪神淡路大震災の時のセンセイはこの温泉客の立場だったのだろうし、昨年元日の能登半島地震についてすら、実際に被害を受けた人間でありながら、同時に、被災者が現在なお強いられている状況については、どこか、ちょっと遠い...。
 近い知り合いに被災者
──現在も身内が加賀地方に避難中──がいるにもかかわらず、です。(実話)

 冷たい人間だと思われるかもしれませんが冷静に考えると、忘却にはプラスの面も。おそらく誰もが程度や様態の差こそあれ、過去の辛い出来事を少しずつ軽減していく。
 場合によっては、フロイトが主張しているように昇華
(「しょうか」。誤字にあらず)する可能性すら存在。

 でもやはり、個人的にはあの時の認識と、それにもとづいた判断と行動── 一部不適切だったものを含む──は大切にしたいと考えています。
 この観点からすると、忘却は辛い。

 完全に脱線したままなので、無理やり本題(?)に戻ります。「(いとま)乞いの旅」、1年ぶりの再開にあたってセンセイが選択したのは、飯田線全線に再乗車すること。
 愛知県の豊橋から静岡県浜名市を経て、長野県の辰野に至るルートです。

 センセイは東京近辺のJR線一部区間および西九州新幹線を除き、JR全線に乗車しています。飯田線については都内での会合の際、豊橋→辰野、岡谷経由で乗車。
 ご紹介していないようですが、高齢の車掌さんがセンセイの乗車券を見て「ほう、こりゃ凄いなぁ」と仰ったことを覚えています。

 1枚目の写真は昨日確保した乗車券類。1月の南小谷往復の際にも担当された方が、頑張って連続乗車券(2枚目の写真)として発券してくださりました。
 本当は2月中旬から下旬に訪れるつもりだったのです。

 3月以降でもかまわないのですがダイヤ改正もある──結果的には無関係──し、4月中旬以降は金沢と新潟県北部の新発田市で講義があるし。ところが2月上旬は大雪。続いて消耗品であるブレーキパッド交換などの事情が発生。
 車検シーズンということもあって、やっと「暇乞いの旅
」に漕ぎ着けたという次第。

 ちなみに1枚目の写真中、最後のもの(右下)は整備完了後の車を受け取りに行くためのもの。本来は無関係ですが、写真のバランスの関係で入れさせていただきました。それに、同時に発券していただいたものですし。
 というわけでセンセイは現在、無事に名古屋駅近くの安ホテルに滞在中。

 もちろん得たもの、得られなかったものを含めていろいろあったのですが、それについては明日以降。少なくとも今晩は、関係者の賛同が得られるかどうかは別にして、東日本大震災、能登半島地震...の被災者に連帯の気持ちを表したいと思います。

 その先には新潟県中越沖地震中越地震が控えているため、自分で自分を励ますことになってしまうのですが...。

 でも、ま、しかたない。



3月10日(月) 「ここは直江の浦である」 ──「安寿姫と厨子王丸の供養塔」を再訪しました──

 本当に時間を約1時間勘違いしたセンセイ。(1本遅い列車のつもりで行動していた)

 直江津滞在中にスーパー2軒に立ち寄る予定だったのですが、こちらはいずれもプリメーラ確認後に済ませています。ただし良さそうなお刺身はありませんでしたが。旧信越本線で南高田駅まで行こうかと思ったのですが、接続がうまくありません。
 直江津で1時間弱待たざるを得ない。

 ただし柏崎方面の折り返し電車が到着するまで40分くらいあります。そこで以前からちょっと気になっていた場所を再訪することに。当地を流れる関川の河口に「安寿姫と厨子王丸の供養塔」があるのです。
 以前、直江津駅前のホテルで開かれた保護者会で当地に宿泊した際、自由時間を利用して訪れています。

 ある程度知っている場所なのでスタスタ歩き始めた時、駅前の観光案内図が目に入りました。もちろん供養塔が掲載されています。ところが、その西側に「人魚像」があるというのです。初めて知りました。
 初めての方は、なぜ直江津に人魚像なのかと、疑問に思われるはず。

 以前もご紹介しましたが「赤い蝋燭(ろうそく)と人魚」を書いた小川未明が市内で生まれたからでしょう。ただし準地元民としてはやや違和感が。上越市は旧高田市と旧直江津市が合併してできたもの。
 前者は城下町で後者は商業の街。

 雰囲気と地域住民の考え方がかなり異なります。客観的には相互補完関係なのですが、当事者同士はライバル意識が前面に出がち。
 金沢市と富山県
(特に富山市から東)の関係に似ています。(全国的各地で割とよく見られるパターン)

 当地に戻ると、小川未明は旧高田市の出身。直江津の人からしたら「う〜ん...」という感じだろうと思う。それはともかく、駅からまっすぐ北上します。
 最後の海岸砂丘は予想外の高さだったのですが、そこを抜けると「船見公園」。

 確かに人魚像が海を向いています。正午過ぎだったので逆光になってしまい、彼女のご尊顔(そんがん)が陰になっているのが残念。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 日没時はこの方向から夕日が差すので、その時は彼女の現代的な顔立ちが際立つのでしょう。

 お気づきかと思いますが、彼女は白いものを両手で持っています。一見すると超ロングサイズの紙製コーヒーカップのように見えます──ホントに──がもちろん、これこそ蝋燭(ろうそく)
 全体が赤いものと信じ込んでいましたが、少なくともこの蝋燭は白色で、そこに赤色で何か描かれていました。

 なお帰宅後に調べたところ、上越市内には人魚像が9体(!!)あるんだそうです。こちらも初めて知りました。

 東へ向かって砂だらけの道を300mちょっと歩きます。途中の海岸に上越市の雪捨て場が。ご存じのように今季の上越地方は大雪だったので、とんでもない量の雪山ができており、それが日本海に突き出してます。
 角を曲がると「安寿姫と厨子王丸の供養塔」。
拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))

 当然ご存じと思いますが、「安寿(姫)と厨子王(丸)」は童話や鴎外の『山椒大夫』──映画化された──や元になった伝説。ただし姉弟と母の拉致現場はここ直江津とされています。
 ちなみに「直江津」という名前は、写真の右隣を流れる関川が直角に日本海にそそぐからとのこと。
(「津」は港の意)

 タイトルの「ここは直江の浦である」は『山椒大夫』の一節(段落の最初)ですが、それを踏まえるとやはり現在の直江津ということになります。
 実際、この後には「
(東に位置する)米山から日が昇る前」(=日の出前)という意味の文章が続きます。

 右側の解説には「鴎外森林太郎」の名入りで、ご紹介した部分を含む『山椒大夫』が紹介されています。こちらもご承知のように、悪徳業者によって母親が流されたのは佐渡。
 後に、監禁から脱走して出世し、父親の名誉を回復した厨子王と再会します。

 他方、姉弟が拉致、拘束されたのは現在の京都府宮津市由良。現地には「山椒太夫屋敷跡」──とされている城ヶ腰遺跡(宮津市石浦)──を含めて、由良川左岸および海岸部には関連する史跡が多数存在します。
 個人的には由良川右岸を走り、最後に由良川橋梁で川を渡る京都丹後鉄道宮舞線に乗車。

 しかも京都丹後鉄道は全体が“M”字型なので、宮舞線は両方向から2回利用している可能性が高い。いずれにせよ電車の車窓から由良川対岸を見ながら、「ここが、あの...」と感じたことを良く覚えています。
 なお宮津市の方々に妙な気持ちは抱いておりませんので、決して誤解なきよう。

 それにしても、意義深い京都丹後鉄道線だった。

 西村センセイ、お伝えしたように4月から半年間、金沢工大で大学院の講義を担当します。自宅を基準にすると金沢は約240km西。現在のところ自動車での通勤を主にするつもりですが時々は、電車にしたい。
 それならば1、2日早く自宅を発ち、中部あるいは西日本を経由して金沢入りすることも可能。
(余分な費用はすべて私費負担)

 すでに、いくつかの案を検討済。今回の「安寿と厨子王」に影響されて...というわけではないのですが実は、京都丹後鉄道を利用して由良を電車で訪れてから金沢へ向かうことも考えています。(基本計画は策定済)
 有名な天橋立も、駅は確実に通過しているものの、天橋立そのものは見ていないし。

 そもそも昨春の前回以降、やむを得ぬ事情で「(いとま)乞いの旅」は中断したまま。というわけでかなり唐突ですが、明日から2025年版「暇乞いの旅」に出掛けます。

 すぐに戻ります──高齢者に長旅は無理──ので、ご心配なきよう。



3月9日(日) 残されたのは、粒の小さな砂利だけ ──「存在して当然」が、不意にいなくなった──

 家人から、何回かお伝えした企画乗車券会員用)を貰いました。行事の関係で、概ね毎月1回譲り受けているのです。

 いつもならどこへ行こうか...と、かなり考えるのですが、今回は迷わず浦本駅を選択。もちろんそこから歩いてサンレパス ルート8」で「鶏の唐揚げ定食」を頂くためです。つまり食欲が最大の動因。(トホホ)
 他方、鉄道ファン的には単純な往復なので、さほど面白みはありません。

 でも今回は食欲を満たすとともに、どうしても訪れたい場所が。それは直江津駅近くの線路沿いにあるアパート。正確にはその駐車場です。
 直江津駅で乗り換えるので、その時間を利用して訪ねてみることにしました。

 実は、少なくとも15年以上こちらこちらもそこに放置されていた──と考えるしかない──ニッサンプリメーラP10が先日、姿を消したのです。先月妙高高原駅を訪れた際に気づきました。
 間違いなく1月には「いつものように」存在したのですが。

 北陸新幹線開業前の電車通勤時代は、ほぼ毎週2回見ていたプリメーラ。もともと一度は間近で見てみたかったのです。でも移動経路の途中なので、なかなかその機会がない。
 「その気になれば、いつでも...」という慢心があったことも事実。

 往路で状況を再確認し、帰路、直江津駅から10分ちょっと歩きました。かつて存在したJR東日本と西日本の境界標(現在は撤去)を過ぎたばかりの場所写真の左端付近)が現場。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 アパートは写真の左と、左奥。

 ご覧のように駐車場の一区画だけ、白線が薄くなっています。プリメーラが放置されてから数年後、アパートの外壁メンテナンス(再塗装)とともに駐車場の白線も引き直されました。でも車が邪魔なので、そこだけ作業できなかったためです。
 ホイールの跡
── 一部のタイヤの空気は完全に抜けていた──くらいは残されているかも...と思ったのです。

 されどそのような痕跡はなく、本当に「何もない」状態。ただし他の区画と違って粒径の小さな砂利がかなり積もっていました。除雪の際、雪とともに周囲から少しずつ運び込まれた砂利が積み重なったのでしょう。
 それにしても「存在して当然」が、不意に非存在になる...。

 観客としては違和感の塊ですが当事者、特にオーナーや管理担当の方/会社は本当に困っていたはず。ここに至るまでに、相当な手間ひまと努力(と支出)があったんだろうなぁと拝察いたします。
 これまでご紹介した放置自動車の中で移動/撤去が確認されたのは拙宅近くの1台と、こにあったプリメーラだけ。

 これ以上の事情その他はわからないので、直江津駅に戻ります。あ"...。

 珍しく、列車の発車時刻を勘違いしていました(実話)。次の電車まで1時間以上あります。

 さて、どうしよう。(たぶん、続く)

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