2025年9月20日更新(2025年9月28日ページ移動)
■9月20日(土) やや季節外れの怪談話 ──確かにOFFにしたエアコンが、夜中に何度も再起動?!
──
お伝えしているように当地はここ数日、朝晩はかなり涼しくなりました。
他方、たとえば今日の最高気温は29.4℃というように、日中はまだまだ暑い日も。拙宅では気温が30℃を超えるとエアコンを入れるというパターン。厳密に言うと、今日はその条件を満たしていません。
でも午後になると発達した寒冷前線が接近して、強い南南東の風が吹くように。構造上、このような風が強いと書斎の窓を開けることができなくなるので、基準を緩めてエアコンを稼働させました。ちなみに現在、その寒冷前線がまさしく北陸地方を通過中。時折強い風とともに、激しい雨が降っています。
やや無理やり本題に戻ると、問題は就寝時のエアコン。個人的には就寝時のエアコンは苦手。ただし酷暑下での無理な眠りは、誰にとっても失うものばかり。そこで概ね、熱帯夜はエアコンを掛けるように。あるいは寝室内をある程度冷房(&除湿)した後、日付が替わる頃に窓を開けるという場合も。
センセイはそれまで書斎に籠もっている──オタクだ..──ので、そちらのエアコンを切り、歯磨きをしてから寝室へ。ところが先日、割と早く外気温が低下した晩が。早めに寝室のエアコンをOFFにして、窓を開けます。ご存じのように最近のエアコンは、停止ボタンを押したからといって全機能が即座に終了するわけではありません。
冷蔵庫同様、エアコンは熱交換器。動作中は熱交換器で結露が発生します(溜まった水を室外へ流すのが「ドレン」)。そのまま停止、放置すると空気1m3に約1,000個漂っているといわれる真菌──要するに、カビの仲間──が付着、成長してしまいます。
要するに、エアコンの室内機がカビだらけに。そこで現在のエアコンは冷房停止後に送風したり、場合によっては加熱したりして熱交換器を乾燥させます。現在の書斎エアコンは三菱製。一昨年夏に、前のパナソニック製から交換していただきました。
これまで何の問題もなく働いてくれたのです。このモデルの場合、冷房停止後20〜30分かけて熱交換器を乾燥させ、完全にシャットダウンします。
ところがその日に限って、寝室へ移動しようとしたその時、「ピ、ピ、ピ、ピッ!!」という初めて聞く音が。「乾燥作業が終わりましたよぉー」という合図かと思ったのです。
いつもは、そこまで付き合わずに就寝するので。念のために完全終了まで付き合おうと思ったら、何だか室内が冷えてきました。本体のLEDランプも冷房動作中であることを示しています。つまり勝手に動作しているのです。ナシテ?!
この日は「停止」ボタンを押すと、即座に完全終了。ここで数日前に起きたトラブルを思い出しました。似た状況下、センセイは確実にエアコンを停止させたはずだったのです。ところが翌朝、書斎に入るとエアコンはしっかりと冷房稼働中。
オマケに、窓は「開」。(就寝時に網戸にしたので)追い打ちを掛けるように、家人から「朝の4時頃エアコンが動いていたので止めた」との情報。それにもかかわらず朝7時過ぎまでエアコンが動いていたことになります。
まったく無駄な電力を消費しつつ。
どうやらロジックボードかセンサーに不具合が発生したらしい。修理をお願いするしかありません。倖い、メーカー保証に加えて、販売店の延長保証に入っています。
必要な書類とマニュアルを取り出しつつ、「懐は痛まないけど、ややこしいことに...」と思いながらその日は就寝。翌朝、改めて書類を確かめつつ、もう一度現状を振り返ります。故障説には、どうも得心(とくしん)がいかない点があったのです。
一つは今回、エアコン側から無警告だということ。エアコンに内蔵されたコンピュータは本格起動前にまず、各部をチェックするはず。トラブルがあれば「Exx」等のコード番号で不具合を報告するのが普通。
でも今回、そんなメッセージはありません。また、仮に想定外のトラブルが起きた場合、春に発生したBMWのセンサー故障時のように、誰の目にも明らかに異常な状況を呈するはず。(ま、あれはあれで大変でしたが...)
それより何より、そこに到る前で絶対に警告される。もう一つ、「変だな」と思っていたことが。右の写真(左)は当該エアコンのリモコン。最上部に液晶表示部があります。1週間くらい前からそこに、見慣れぬ棒状アルコール温度計の表示が出ていたのです。
何だろうと思いつつも問題なく稼働していたため、そのまま放置していました。でも完全に、アヤシイ。
ここから先は、皆様、お察しの通り。
今回は異常や故障ではなく、エアコン設置場所に残した高齢者や子供、あるいは動物などを高温障害から守るための「高温みまもり」機能が設定されていたためと判明。室温28℃以上になると自動で冷房運転を開始するとのこと。
つまり「あの夜」はまだ、室温が28℃以上だったことになります。良くわからないのが、ここに至った理由。この機能を設定するボタン(写真右下)は、リモコン下部のスライドドアを開けた場所、それも最下部に設置されています。もちろん誤操作をできるだけ回避するため。(写真はスライドドアを押し下げて撮影)
他方、この機能が設定されていたことは、まぎれもない事実。リモコン内のコンピュータ暴走他の可能性がないわけではない──その場合はたぶん、本当に暴走しているはず──のですが、その可能性は極めて低く、何かのはずみでセンセイがボタンに触ってしまったんだろうと推測されます。
「泰山鳴動」して出てきたのは、老いた鼠一匹だったというオチ。偉そうなことを言っていても、これが現実です。トホホ。
なお三菱製のエアコン、不祥事を起こしたことは事実ですが完全国産品ということもあり、相対的な品質は高いと感じています。
同社の名誉のために申し添えるとともに、決して誤解なきよう。
■9月19日(金) そりゃ、血圧が上がるわけだ... ──今日の北陸地方は、絵に描いたような秋の空──
もちろん来週以降も良い天気の日はあるはずなのです。この週末と月曜日は荒れそうなので。
当地の今朝の最低気温は17.8℃。最近、20度を下回る日が2日あったのですが、格段に涼しく感じます。だからぐっすり眠れるはず...だったのですが、なぜか昨晩は眠りが浅かった。翌日つまり今日は金曜日。
センセイにとっては実家で両親の面倒を看る日という意識があったからかも。朝の「平均血圧」(「収縮期血圧」の3回移動平均の最低)は121mmHgと、問題なく正常値の範囲内だったのです。でも感覚的にはいつもより高いし、何より寝不足感が否めません。来週から講義が始まることもあり、インスタントコーヒーを飲んで机に向かいます。
実家へ向かうのは正午過ぎ。
それまでにお昼を含めて雑事を済ませておく必要が。そこでいつもよりかなり早めに徒歩で外出。最初に感じたのは空気の心地よさ。
気温は25.0℃くらいあるので、本格的に歩くと汗をかきます。でも当地には珍しく湿度が低い──最低42%──ので、清々(すがすが)しい感じ。当然、青空。実際には雲が多少かかっていますが、秋特有の「空の高さ」があります。
数本の飛行機雲に気づきました。九州・関西地方と北海道を結ぶ空路。それが佐渡島か新潟市あたりの上空で微妙にカーブして...あ"っ。まさに北海道へ向けて飛行中の大型双発ジェット旅客機を見つけました。
「梅」望遠レンズの望遠端で撮影したのが写真。(原寸切り出し。未加工)残念ながら216mmだとこれが限界です。かといって1kg近い「松」480mmレンズをいつも持ち歩くわけにはいきません。(「梅」セットでも相当重い)
最初のスーパーで用を済ませたついでに、お店の屋上駐車場へ。
そこで北東方向を撮影したのが写真。上層には巻雲(/絹雲:けんうん)、低層は安定した積雲。いかにも「秋の空」という感じ。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
よぉーく見ると縦方向に4条の、ややはっきりしない雲が。先ほどの飛行機雲のなれの果てです。「寄り道」をしたので、行動は遅れ気味。予定した一部を省略して自宅へ戻り、自動車で実家へ。最低限の打合せを済ませた後、母親を乗せて近くのスーパーへ。
途中、地元の酒屋さんの前の椅子で喫煙休憩中の同級生に手を振ります。(恒例行事)買い物を済ませて実家へ。1週間分の食料を実家に運び込み、母親が育てた野菜をもらって帰宅の途に...のはずだったのです。ところが数km走行したところで、携帯電話に着信が。
車を道路脇の安全な場所に止めてから発信元を確かめると、実家。何事かと思って電話に出ると、「おじいちゃんが...」。当然、転倒した等の非常事態を想定。ところが母親曰(いわ)く、「何か、頼みたいことがあるんだって...」。
オイオイ、さっきは何も言っていなかったぞぉ...。実家へ引き返します。
食料は降ろした時のまま。それを台所に運びます。肝心の父親はというと意外にも、切羽詰まった感じではない。何を言い出すかと思ったら、カードを2枚。「あげるっやっ」。1枚は残高20円くらいのテレフォンカード。(死語か...)
ごく初期の、トキの写真を用いた超貴重カードですが、使用済なので金銭的価値はほぼ0円。もう1枚は、何年も前に廃止された残高僅かな県内高速バス網のカード。もちろん、こちらも希少価値はありません。察するに、父親としては送迎等に恩義を感じているらしい。もちろん、その気持ちはありがたい。
でも彼のことですから当然、「次」があるはず。予想通り、「頼み事」が。
ところが、その説明がまったく要領を得ません。最初に出してきたのは通帳とキャッシュカード。どうやら両者が対応しているかどうかがわからないらしい。口座番号を確認すると予想通り、完全に一致。
その旨を説明しても、十分には納得していない雰囲気。「カードの暗証番号は..」と尋ねたので「xxxx」と即答すると、「何だ、それも問題ないのかぁ...」という表情。ちなみに当該口座は正式に代理人手続をしており、カードがなくてもセンセイの書類記入と押印で正規に引き出すことができます。(この仕組みは知らなかった)
実際に行使したことはありませんが。続いて取り出してきたのは、「マイナンバーカード」。
実は、父親は実家内でカードを紛失しています。だからてっきり、それが発掘されたんだろうと思ったのです(割とありそうなパターン)。それならそれで返却手続をどうしようかと思案していたら、何だか変。
どうやら「マイナンバーカード」だということは理解できても、それをどうしていいのかわからないらしい。正確に言うと、「彼にとって何が問題なのか」すら把握できていない様子。
カード入れその他をチェックして、マイナンバーカードがそれだけ(らしい)ということを確認。どうやら「当面、何も問題ない」ということについては、彼もひとまず異議なさそう。ただし決して得心(とくしん)している表情ではない。
やがて、どうでもよい理由で息子を呼び返したことに想いが及んだらしく、「お前もいつか、こうなるんだっやっ」。(ただし今回は、どちらかというと自らを恥じ入るニュアンス)確かに、そうかも。
ここで反論したり、過度に説明したりすることは避けたいところ。以前もお伝えしましたが一般的に、高齢者はプライドが高いことが多い。もちろん、それはこれまでの血の滲むような努力の裏返しですから、基本的には敬意を表すべき。
また現実的にも、それを尊重した上での対応が効果的。さすがに、ニコニコと「何も問題がなくて良かったね」とは言えませんでした──センセイもそこまで人間ができていない──が、「じゃ、帰るからね」。
ところが今日の日中の血圧は「平均」144mmHgと、正常値の範囲を完全に逸脱。最近は割と高めが続いています。でも昨日の日中は「平均」119mmHgで、個別最低は106mmHg。前々日は「平均」104mmHgで、個別最低95mmHg(!!)。
しかも今日は、いつもなら60mmHg〜70mmHgの「弛緩期血圧」が80mmHgと、センセイにしては相当高い。そりゃ、ま、そうだろうなぁ...。
(2日連続で)ま、いいんですけど。
■9月18日(木) そういう理由だったのね... ──記憶の中の、鶏のトサカに似た真紅の扁平な花──
発達した秋雨前線の南下に伴い、北陸地方は本日未明から大荒れの天気。
報道(例)でご承知かもしれませんが新潟県では全県的に激しい雨が続き、県北部の村上市内の観測地点では9月の24時間あたりの降水量記録を更新。「下越」地方を中心に、住宅の浸水被害が発生しています。
交通機関にも大幅な乱れが。たとえばJR羽越本線および白新線は、雨が多かった地域で朝から運転見合わせ。
当然、通勤通学客にも大きな影響を与えたはず。前任校では明日から後期授業が開始されるのですが、それに先立ち今日は「履修指導」が。ところがJR線が止まっているので登校手段が途絶(とぜつ)。
まぁ、それでも午前中には運転が再開されましたが。曜日まわりの関係でセンセイの講義は来週木曜日から。前期同様、基本的には自動車(こちらおよびこちら)で移動するつもり。それもあって今朝は、Googleマップで通勤時間帯の混雑状況を注視。
同時に「新潟県ICT推進協議会」が提供する「にいがたLIVEカメラ」で現場の映像も確認。昨日までは「まぁ、こんなものだろうなぁ...」という混雑具合だったのです。でも今朝の「新新(しんしん)バイパス」は絶望的な状況。いつになっても渋滞が解消されません。う〜ん、来週は混雑状況を早めかつ適切に把握し、必要に応じて高速に乗るなどの方法を考えなくては。
当地の場合、日付が替わるころに一雨。その後は割と平穏だったのですが、朝6時頃に15分ほど、急に吹いた強い風とともに猛烈な雨が。その後も割としっかり雨が降り続きました。それでも11時頃になると小降りに。ある程度の対策を施して、徒歩で外出。
もちろん雨雲レーダーを見ての判断。
ところが約1時間後に天気が急変。撥水加工は施してあるものの防水ではない靴が濡れてしまいました(トホホ)。というわけで写真は昨日撮影したもの。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
その前日に気づいたのですが、道路脇に立派な「ケイトウ(「鶏頭」)」が。惚れ惚れするような咲き具合。西村センセイ実は、ケイトウに割と強い想い出が。子供のころ実家の進入路の脇に、ケイトウが植えられていたのです。色はやや紫がかった濃い赤色。今風の表現では「クリムゾンレッド」。
ただし最大の特徴は、花の形状。多くの場合、花は円形(あるいは全体として球形)。でも記憶にある刺激的な色のケイトウ──当時はその名称すら知らない──は、扇を開いたかのような扁平。
最上部には深い襞が入り込んでいました。まるでニワトリの「鶏冠」(とさか)のよう。実際、「ケイトウ(「鶏頭」)」という名称も、その形状に由来するらしい。ずっと後になってから、母親に「ケイトウを育てていたよね」と尋ねたのですが、想定外の返答が。
「育てていない」と、きっぱり。それ以来、記憶と知識の混乱状態が続いていたのですが今回、久しぶりにケイトウ──ただしこちらは完全に円形──を目の前にするとやはり、記憶の中のものもケイトウだったのではと考えるように。
他方、新たな混乱要因も。それは、色。形状の件は措(お)くとして、記憶の中のケイトウは写真中央のように鮮やかではなく、左上隅の花をもっと濃くしたような色(色に関してはjpegフォーマットの限界が関係している)。それだけでなく、向日葵のような黄色やピンクのケイトウも。
帰宅後に調べてみると、記憶の中のものも含めていずれもケイトウ。記憶の「鶏冠」状のケイトウは変種のようですが、一般的には観賞用としてこちらの方が広く栽培されているそうな。色については品種改良によるとのことです。これで概ね納得できたつもりなのですが、一つだけ疑問が残ります。
母親は、なぜあそこまで拒絶したのだろう...。いろいろ考えた末、一つ可能性を。
記憶のケイトウは母親が育てたわけではなく、センセイの祖母つまり母親にとっての姑(しゅうとめ)が植えたものなのではないだろうか。核家族化が進んだ現在ではそれほどはっきりしませんが、それでも嫁姑の問題は永遠に続くアポリア。
ましてや60年以上前、現在の常識が通用しない時代のお話。もしかすると単純に母親が覚えていないというだけなのかもしれません。でも極端な場合、「事実を認めたくない」と、無意識のうちに記憶から消し去る場合すら存在します(「乖離(かいり)性健忘(けんぼう)」)。
職業柄、何例か目の当たりにしています。う〜ん、その辺もセンセイの代で整理しなくては。10代目(予定)ご当主様は辛いぜ。
ま、いいんですけど。
■9月17日(水) 人々の想いが込められた二つの記念碑 ──西村センセイ、越後広田駅に降り立つ──
「鉄分補給の旅」も最終回。今日は鉄道ネタです。
お伝えしたように今回は柏崎駅を起点にして、まず上り列車で笠島駅へ。周囲をグルッと一周して駅に戻り、やや後ろ髪を引かれつつも今度は下り列車に乗車。乗客の下車はなく乗車も、センセイのみ。
そもそもここ10年くらいの間、利用客を見たのは一昨年、「ぎおん柏崎まつり 海の大花火大会」のために乗車してきた男性高齢者だけだと思う。ただし次の「青海(おうみ)川」駅(こちら、こちら、こちらやこちら)では僅かに乗降が。青海川駅は「日本一海に近い駅」(の一つ。候補は数駅存在する)として有名。そもそも景色が良く、観光列車「シュクラ」も長時間停車します。
なお鉄道ファン以外は、主に自動車で訪れます。
いつもなら柏崎駅に戻ったら下車するのですが、今回は座ったまま。4駅先の「越後広田駅」(写真)を訪れようというのです。もちろん数え切れないほど通過しています。
でも降りるのは初めて。当地域は古い歴史を有する、かなりの規模の拠点でした。それなり当然、通勤通学等で駅を利用する人も多かったのです。でも過疎化および少子化と、モータリゼーションの同時進行で利用客は激減。
もちろん朝晩は高校生他が利用しますが、今回はセンセイが降りただけ。駅前に出ると、おぉ、目の前に「越後廣田駅開設記念碑」(2枚目の写真)が。他の駅ではあまり目にすることがありません。てっきり当地の信越本線開通(1898年)時のものだろうと思い込んでいたのです。
ところが帰宅後に調べてみると、越後広田駅の開業は1921年。かつて鉄道を新規敷設する際に問題になったのは、当時の蒸気機関車が吐き出した火の粉──火災の可能性がある──と、同業である先行運輸業の反対活動。
前者については当時の鉄道が勾配に弱いこともあり、たいてい「町の外れ」に線路と駅を開設。これは割と世界共通で、ロンドン市が典型。
後者については、信濃川(「飯山線」)や磐越西線(「阿賀野川」)に見られるように、それまで主力だった水上輸送会社からの反対が強かったとされています。
当地域の信越本線は概ね、「鯖石(さばいし)川」に沿って敷設。当然、ある程度の水上輸送はあったのでしょうが大河川ではないので、反対運動はそれほどでもなかったと想像されます。たぶん地域全体としては「様子見」。
ところが、いざ信越本線が動き始める──この時点で、越後広田駅は未開設──と人と物の流れは一変。劇的な変化を目の当たりにした地域住民は駅の設置を...ということなのでは、と推測しています。その想いと駅開業の歓びの結実が、この記念碑。(たぶん)
記念碑は望外(ぼうがい)の収穫でした。ただし今回、そのために越後広田駅を訪れたわけではありません。駅に戻り、上り1番線のホームへ。そこで撮影したのが3枚目の写真。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
「複線五千粁(キロ)」記念碑です。
昨日お伝えした柏崎駅西方区間を含めて国鉄は1960年代、増加する輸送量対応すべく、幹線区間の複線化を進めていました。1972年、西隣の「北条(きたじょう)」駅と当駅の間が複線化。
これに伴い、国鉄の複線区間が5,000kmを達成した、その記念碑です。これだけを見ると、2017年に訪れた「国鉄2万キロ記念碑」と同じようなもの。ただし、少なくとも個人的には「ちょっと違う」と考えています。
以下、個人的あるいは地域的な事情が入り込んでおり、完全には客観的になることができません。悪しからず。それを踏まえた上での、しかも「現在を基準に考える」という歴史学的には掟(おきて)破りでの評価です(講義では絶対に用いない)。路線延伸および複線化に励んでいた当時の国鉄は満身創痍(そうい)。
仮に地方選出の国会議員による「我田引鉄(がでんいんてつ)」の鉄道延伸要請に応えたとしても、採算面は絶望的。他方、(実は旅客ではなく、貨物を中心とする)輸送量も増大中。政治的には第二次世界大戦の引き揚げ者対策としての鉄道マン採用は財政を破綻寸前に。
この点は、労働組合(国労・動労)潰しという面も。他方、すでに東海道新幹線は大成功し、山陽新幹線も間もなく...という時代。そこで選択されたのが国鉄分割民営化と、赤字路線の廃止。個人的にはいろいろ意見がありますが、同時に、ここに到る事情をわからないではない。
以上の個人的な事情を抜きにして、センセイが問題だと考えているのは、「長期的な展望の欠落」。前日の笠島も、この日の越後広田も利用客は僅少。でも同時に、実はこの区間を含む信越本線は物流の大動脈。お伝えしたように、直江津以西は第三セクターの運営。(かなり無理やり)話を簡略化すると、「地域の鉄道なんだから、そっちでどうにかしてよ」という発想。
問題の本質を見誤るように設定されています。お気づきの方がいらっしゃると思いますが、「複線五千粁」記念碑をご紹介するのは2回目(結果的に、撮影アングルも似ていた。トホホ)。変化があった場合等を除き、同じ話題を避けるようにしています。
実はこの記念碑、意識さえすれば信越本線を走行する列車内から良く見えるのです。前回は普通列車内から、窓を開けての撮影。でも「それでいいのか...」と、ずっと心残りだったのです。そこで今回、本当に駅に初めて降り立ち撮影したという次第。ただし「越後廣田駅開設記念碑」は完全に想定外。
実際に現場を訪れただけの甲斐がありました。「自己満足」と言われれば、それまでですが。
■9月16日(火) このトンネルの向こうに... ──西村センセイ、52年ぶりに笠島駅を訪れる(2)──
笠島駅を訪れた理由は、主に二つ。
まず、ご紹介した「もく」を確かめること。続いて写真の鉄道トンネルに接近すること。他にも笠島地域の変化や、海水浴場および漁港の様子を見る目的もありますが...。
トンネルへのアクセスには手順が。笠島駅の階段を降りると右折(=西側)。すぐに「もく」前に到るのですが、ここはもう少し歩きます。歩行者専用の細い通路で線路の下を通り抜けると、目の前に笠島海水浴場が。
右手(東側)には笠島漁港。海水浴シーズンではありませんが、「海の家」──新潟ではしばしば「浜茶屋」と呼ぶ──の一つで10名弱のオトナがパーティーの真っ最中。その他には、観光に訪れたアベックが数名。年齢的には高齢者が多かった。
他方、センセイは海岸を左折。(=西方向)約100m歩いたところで撮影したのが写真。コンパクトデジカメでの撮影なので画の力がイマイチですが、悪しからず。海岸に近く波飛沫(なみしぶき)が舞っているため、ミラーレスのレンズを交換できないのです。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
左側は現行の「米山第二トンネル」。複線です。今回のお目当ては右側の、旧「米山第五トンネル」。信越本線「米山(旧「鉢崎(はっさき)」─「柏崎」間は、増大する輸送力強化のため1960年代後半に順次複線化。当地域は1968年9月、新線に切り替えられました。
本来の用途を失った旧線、米山─笠島間はトンネルを含めて歩道として整備。
昨日少しだけ触れましたが1973年7月下旬、高校1年生だったセンセイは、ここを2回歩いています。観光等ではなく、必修科目「地学」の地質実習。
しかも任意ではなく全員参加。(どうしてそんなことが可能だったのだろう...)担当教員の引率で米山駅を起点に、まず「聖(ひじり)が鼻」で大きな露頭(ろとう≒崖)を観察。その後は、主に旧線跡のトンネル等を抜けて、1日がかりで笠島駅へ。
直線距離は4km弱ですから、簡単な行事に思われるかもしれません。でも途中で山を登って柱状節理を観察したかと思えば、今度はほぼ崖のような場所を下るという次第。実際の歩行距離はたぶん8km程度。
その「崖のような場所」を下った先にあるのが地質実習の最終目的地、「牛が首層内褶曲(しゅうきょく)」。この旧「米山第五トンネル」を約150m歩いた、その先にあります。柏崎市や「にいがた観光ナビ」(一部誤字がある)のサイトをご覧いただければある程度イメージできるかと思います。
実際のイメージに最も近いのは、ドローンで撮影された写真。基本的には単なる露頭なのです。でも、よぉーく観察すると、実に不可思議。
上下は、ありふれた「砂泥互層(さでいごそう)」が主。ところが中間部分だけが異様に褶曲しています。もちろんこの地層だけが褶曲するわけがありません。これが形成されたのは陸地から一定程度離れた、割と静かな海。
陸地の隆起/沈降に伴い、それぞれ砂/泥が堆積して砂泥互層を形成します。ところが稀に、能登半島地震のような異変をきっかけとして、海底地滑りが発生することが。中間部分はその名残なのです。それが落ち着くと再び、上部に砂泥互層が形成されます。能登半島地震では極めて良く似た事態が発生し、白海老やズワイガニの不漁が続きました。
言い換えると、今後富山湾でも「層内褶曲」が形成される可能性があります。もちろん何千、何万年も先のことですから、センセイがそれを目にすることはありませんが。
それはともかく高校入学後、地学に興味を持った西村センセイ、実習には積極的に参加しました。そこで出くわした「牛が首層内褶曲」。強い印象を受けたので担当教員の了解を得た上で、他クラスの実習にも参加。
この勢いは何と、大学入学後まで続きます。断片的にご紹介したことがあるのですが、教養部──現在は死語──所属1年生の時に自然科学分野──こちらも同様──の科目として、地質学を選択。たぶん高校でのこの経験が影響しているんだろうと思います。
だたし正確に言うと、こちらは古生物学。それでも非常に興味深かったので、担当教授に誘われて理学部地質学科の「順検(じゅんけん)」こと地質調査に何度も参加。研究の面白さに目覚めた瞬間です。(他方、その厳しさについては、まだまったく考えが及んでいない。トホホ)
残念ながらその後、センセイの興味関心は別な分野へ移りますが。数年後、新潟大学第一食堂でたまたまその教授と再会。
開口一番、「君は研究者になると思っていた」(実話)。誤解なきように申しますが、決して嫌味な口調ではありませんでした。申し訳ないと心の中で詫びつつも、その後はセンセイなりに努力したつもり。
結果的に、ちゃんと(他分野の)研究者になりましたので、ご寛恕(かんじょ)のほどを...。高校の地質実習は層内褶曲を観察後、旧「米山第五トンネル」を手前に抜け、笠島駅で完了。いわば、このトンネルの向こうにセンセイの「原点」の一つが存在しているのです。残された時間が少なくなってきた身としては当然、訪れてみたい。
でも無情にも、「関係者以外立ち入り禁止」。海が荒れているからではありません。2005年の豪雨で旧線区間で地滑りが発生。追い打ちをかけるように、2007年の新潟県中越沖地震他で崩落箇所が続出。旧「米山第五トンネル」もその影響で現在、通行止めに。
「牛が首層内褶曲」付近も接近が難しくなっています。でも、(センセイの体力面を含めて)現場に接近できなくなっていても、「原点」がちゃんとそこに存在することには十分意味があります。母校をはじめとして、その後、節々でお世話になった人々や場所、そして事柄など。
...と、ここまでは「学ぶ(/学んだ)側」の視点。(引退気味の)職業人つまり「若い世代の学びを提供する」側に立つと、本件は負の面を含めて、次の世代にこれほどまでに影響を与える可能性があるということを再認識する必要があることを示唆しています。
あまりに長すぎた酷暑も、ようやく先が見えてきました。明日の午前中はまだ暑そうですが、午後からは大陸育ちの乾いた移動性高気圧に置換される見込み。
教訓を肝に銘じつつ、来週から再開される前任校での講義に臨みます。
■9月15日(月:祝日) 神戸から訪れるだけの価値があるお店 ──西村センセイ、52年ぶりに笠島駅を訪れる(1)──
写真はいずれも撮影撮影したもの。
久しぶりにほぼ新潟県内の普通列車が乗り放題になるJRの企画乗車券を譲り受けました。昨年まで期間限定ながら、JR東日本カード会員用の格安バージョンも発売されていたのですが、今年はアナウンスなし。
JR東日本は現在、フリーきっぷ類を大幅整理中。おそらくその一環として、高齢者用バージョンはアナウンスなしで静かに廃止されたのだろうと考えています。もちろん利益を優先するため。公共性を有しながらも、一民間企業ですから理解できなくはない。
されど個人的には、要望したい点が。今日交通機関としての役割──特に、「鉄道ファンなど、次の世代の能動的、積極的鉄道利用者をどう育成するか」──という認識が弱い。未来の鉄道事業のあるべき姿への、理念的な先行投資が不足しています。
またご存じのように近年、同社では事故やトラブルが多発。
何よりも最優先すべき安全にも疑問が投げかけられています。とても「積極的に...」あ、すでに述べたか(ペコリ)。本題へ戻ります。
企画乗車券の有効期限は1日。拙宅の位置の関係で利用できるのは主に、新潟県中部(「中越」)から西部(「上越」)。早起きすればかなりの場所まで移動しても、「門限」の夕方までに帰宅可能。
ただし今回は暑さ疲れが抜けていないので、遠くへ行く気にはなれない。(だから前回も割と近くへ)加えて一昨日は雨がちの天気。路面が濡れ、一部に水たまりがあるのはそのためです。そこで昨日は、他の用に目途をつけてから近隣を行ったり来たりすることに。
以前から地域内の駅への配慮が不足していると気になっていたのです。11時前の上り列車で最初に訪れたのは、以前ご紹介したことがあるJR信越本線「笠島」駅(1枚目)。柏崎駅から西に3駅目、2枚目の写真のように海に面した駅です。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
2枚目の写真は駅舎から100m弱離れた場所から、西南西方向を撮影しています。
写真左端に銀色の駅舎屋根。相対式2面2線の非常に狭いホームを挟んで、右側奥には日本海が広がります。その手前、写真中央部分が笠島海水浴場。
埠(ふ)頭を挟んで、さらに右手前は笠島漁港。金沢工大時代はほぼ毎週のように通過していた笠島駅。ただし駅に降りるのは52年ぶり。高校1年生の夏、「地学」の実習で訪れ、た時以来です。
今回の訪問目的は二つ。一つは「地学」実習に関することですが、もう一つは付近の現在の街並みをこの目で確認すること。センセイが最初に笠島地区──「笠島駅」ではない──を訪れたのは小学校低学年の時。
詳細な経緯は不明ですが父親の仕事の関係で、数家族でこの地の民宿を訪れたです。周辺の他地域もそうですが、1965年(昭和40年)頃の海岸部には「浜茶屋」と称する海の家(仮設建築)や民宿が多数存在し、皆が列車で訪れてました。
その時は自動車だっただろうと思うのですが、関係者は当地の民宿で大宴会。(黄色いジュースを飲んだことを覚えている)
民宿の目の前、すぐ下を列車が走る様子が目に焼き付いています。当地を通過するたびにその場所を確認するのですが、何十年前から民宿は廃業。
しかもやがて更地に。今回改めて笠島を訪れると認識していた通りですが、半数以上の家屋が無人。その中で唯一、異彩を放っていたのが、写真の「海辺のキッチン倶楽部 もく」。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960)。右端に駅のホームが見える)
妻面(建物の右側)上部をご覧いただくとわかりますが実は、築118年(!!)の土蔵。柏崎市および柏崎観光協会のサイトなどで紹介されているだけでなく、しばしばメディアで紹介されているお店です(紹介記事例)。だからずっと気になっていたのです。
何より、列車からその後ろ姿は丸見えだし。笠島駅からは記憶だけを頼りに歩いたのですが15歳という若さ故か、概ね記憶通り。30秒も歩かずに「もく」到着。右脇はお店の駐車場ですが、おぉ、神戸ナンバー。
「もく」だけが目的ではないのでしょうが、少なくとも意識してお店を訪れたらしい。お店のインスタグラムをご覧いただくとわかりますが、お店が物理的に狭いこともあり、繁忙期は予約した方が良いようです。実際、昨日は3組のカップルと写真の男性1名が出入りしていました。
いずれも決して、「フラッと...」という感じではない。おそらく、ビビッと来た方には「神戸からでも訪れるだけの価値があるお店」。個人的には共感できる部分が多いのですが、センセイは予約していません。
それより何より、次の列車の時刻が迫っています。
ここは心を鬼にして、その先にある線路下の通路──これも概ね記憶通りだった──を抜け、次の目的地を目指します。(続く)
■9月14日(日) ここはひとまず「負けるが勝ち」 ──予想通り、実家のエアコン導入は見送りに──
1日遅れで、実家初となるエアコン導入の件を。
結果はサブタイトルにあるように(そしておそらく皆さんの予想通り)、今回は最終段階で却下。
一昨日は実家へ12:30に集合することに。お昼時なのでお店の方には申し訳ないのですが、全体の円滑な進行を考えると選択の余地なし。この点、お店には繰り返しお詫びをしてあります。
もちろん詫びさえすれば何でも許されるというわけではないのですが。センセイとしては前回同様、早めに実家へ移動して最低限の片づけや整理を済ませておくつもりだったのです。でも「寄り道」の影響で現地到着は12:20頃に。というか、実家から少し離れた駐車場にはすでに電器店の車が。
今回お願いしたのは、通称「共栄電器」こと「でんきと住まいのキョウエイ」。いわゆる「町の電器屋さん」です。車を並べて止め、お店の方にご挨拶。かつては旧西山町(まち)内に何店かあった電器店も、現在、柏崎市西山町(ちょう)内には共栄さんと、もう1店しかないとのこと。
ある意味、寡占(かせん)状態。ただしマーケット全体は確実に縮小傾向。並んで歩きながら「経営路線の見極めが難しいのでは...」などとやり取りします。続いて「お話の仕方を含めて、年寄りの相手がお上手ですねぇ」。これはホンネ。
同級生の甥御(おいご)さんだからと、ゴマを擂(す)っているわけではありません。
さて彼の返答は...の前に実家到着。受け入れ態勢がまったくできていなかったので、電源の延長コードを含めて扇風機を用意。座布団も敷きます。
ただし、この段階で父親の反応は鈍い。こちらから声を掛け、お店の方からも「できればご一緒にご説明を...」と力添えを頂いたところで、父親がゆっくりと移動開始。父親はプライドが高く、外見を気にするのです。
まず母親が希望するガステーブルおよびレンジフードから見積内容の説明を受けます。。母親の過多かつ暴走気味の説明をセンセイがしばしば遮りながらも、こちらはあっさりと終了。
続いて3ヶ月前から父親が訴えていた一部BS放送局の受信不具合の件へ。この件については前回の訪問で新たに確認できた事実を基に、センセイがトラブルの原因をほぼ同定済。
見積説明の前に少し追加の確認をしたのですが、完全に予想通り。必要な機器の発注をお願いして、こちらもすぐに完了。最後に、鬼門のエアコン導入。ここまではある程度合理的──歴史的に見ると、「合理」の概念は相当変化している──に進んできたのです。
でもエアコンの件はほぼ、イデオロギー闘争。(死語か...)もちろんそんな言葉は使いませんが、あらかじめお店の方には十分お断りを入れています。
実家1階でエアコン導入の可能性があるのは4室。夏場は2階がはるかに高温になるのですが、高齢の両親はもう2階に上ることができないので、カウント外。ちなみに構造上、2階へのエアコン導入は比較的容易。
でも現実問題として2階へのエアコン導入可能性は低いので現在、センセイはお盆の一晩を除き、夏場は実家に泊まりません。(つまり、両親はここでチャンスを逃している)1階の4室の中で、寝室2室は父母ともに「いらない」とのこと。母親が希望した「茶の間」こと客間への導入は父親が絶対に認めない(物理的にも難しい)。設置可能性が残るのは、実質的な居間。
...って、完全に最初の想定通りじゃん。この見通しはあらかじめ、お店の方にも十分説明しています。一昨日頂戴したエアコンの見積も、この部屋だけ。お店の方はかなり賢明な方なので、説明が必ずしも十分でない状況下、こちらの意図をほぼ完全に理解していただけたようです。
見積金額は他のものも含めてやや高めながらも、十分納得がいくもの。で、その内容を父親に説明すると、「俺は、いらん」。
名残惜しそうな母親とは対照的です。ただし意外に思われるかもしれませんが、徒労感──それを他者であるお店の方に強いたことは申し訳ない──と同時に、実は明るい材料も。
ひとまず結論が出たので冷たい麦茶を注ぎ直し、水ようかんを皆でいただきます。お店の方は父親と母親に話題を振ります。その途端、両親ともに急に表情が明るくなり「俺は..」あるいは「私が...」と、滔々(とうとう)と語り始めます。
夫婦のはずなのに、「この件を相手から見たら..」という視点は、見事なまでに欠如。当然、その周囲にいる方々への配慮なんて言葉は、彼と彼女の辞書に載っていません。父親に限定すると、この点は昨年末、皆に惜しまれながら99歳6ヶ月の天寿を全うした逝去した姉(センセイにとって伯母)とは対照的。
客観的には姉弟の中で伯母は、最も優秀な方だったんだろうと思います。倖せもありましたが、それ以上に辛く悲しすぎることが多すぎた彼女の人生。
実の娘(=センセイの従姉)にも弱音を吐かない。でも実家の「跡取り」だったからか、弟(=センセイの父親)以上に父親(=センセイの父方の祖父)似だったからか、そんな伯母もセンセイには時々愚痴を。
もちろん内容は伏せますが、中には衝撃的な内容が。父方は伯母が6人──それまでに8名生まれたものの、女児2名が生後間もなく死去──続き、7人目で父親が誕生。当時の社会ではもちろん、めでたいこと。姉たち(=センセイの伯母)は適齢期になると次々と近所に嫁入りします。
その後、2名夫婦は都会へ出て経済的に大成功。他方、残された田畑を何とかする必要が。祖父は日露戦争で受傷したので働くことができない。父親の弟を含む男児2名も幼く、労働力にはなりません。そこで伯母は、本当に暗いうちから暗くなるまで農作業に従事させられたのだそうです。
尋常小学校から帰宅すると、「山(=田圃)へ来ヒ」と書かれた母親の紙が。その後、男児2名つまり父親と弟も成長し、伯母も近くに嫁ぎます。(お相手は非常に良い人物)
後になり、残念ながら姉弟が次々と鬼籍(きせき)に入ると、父親は頻繁に姉宅を訪問するように。父親にしてみれば「お姉ちゃんの家」なので。そこで伯母はたいてい、求めに応じて父親が好きな日本酒を振る舞ったとのこと。
日中にもかかわらず。そんなある時、まず間違いなく酔っぱらっていたのでしょう、父親は学歴を自慢し始めたのだそうです。伯母の尋常高等小学校卒をけなし、自身の新制高等学校卒を自慢した上で、「おれは優等生だったんだぜ」。
その場面を思い出した伯母は、「さすがに嫌だったの...」。視点を変えると残念ながら、センセイ以外に愚痴ることができる相手がいなかったことを示唆しています。
で、中長期的に見た今後の展開。ここは潔く、負け戦を認めるしかありません。
ただし今回は、完全に想定内。その母親を含めた近い血縁にある人物を考えると父親は、今後在宅看護に至る可能性が高い。(これはセンセイを含めてなのですが)下半身の筋肉が弱く、最近は崩れるように転ぶことが多い。
ベッドあるいは布団の上で在宅介護となると当然、ヘルパーさんその他の助けが必要。そうなるとさすがに、冷暖房が必要。
口実はもちろん、「爺さんは何にも感じていない──実際、その通り──だろうけれど、看護師やヘルパーさんが困るでしょ」。今までの経緯からして、(居間ではなく)彼の寝室へのエアコン導入を受け入れる可能性は高い。
ただしこの件、問題の本質は別なところに。父親(および母親)は、「ヘルパーさんその他が困る」ことそのものは理解可能かも。ただしこれは、二人のこれまでの人生の縮図。本人の努力と他者への貢献は評価して感謝するものの同時に、他者から助けていただいたことに気づくことができるのかどうか。
個人的な予想は、かなりネガティブ。あれだけ「俺が...」と主張し、「...認めない」と断言するほどなので。もちろん本件、センセイは両親の子供なので、まさに「天に唾(つば)する」内容。
気を取り直して、さて、(実家および)共栄電器さんのためにできることは何なんだろう...。